小沢元民主党代表出演の自由報道協会(仮)主催記者会見から、その発言の「日本人の自立」について考える

2011-02-13 10:58:36 | Weblog


 
 小沢一郎元民主党代表がインターネット動画で記者会見を行うと言うので、多分放送しているだろうと思って、《プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局》にアクセス、動画のアイコンをクリックしたら《videonews.com on USTREAM.》のページが開いて、そこで視聴した。小沢氏が自発的離党要請を受けた菅首相との会談直後の記者会見であった。

 フリーランスジャーナリストの岩上安身氏のツイッター《iwakamiyasumi》がその動画を文字化した《テキスト版》を紹介していたので、動画で小沢氏が発言していた「日本人の自立」という問題は小沢一郎政治塾での発言として新聞記事が以前触れていたことを思い出し、ブログにすることを思い立った。

 菅・小沢会談で小沢氏は当然のこととして予想していたことだが、離党要請を断っている。テキスト版で次のように述べている。

 小沢氏「(笑)私は総理にも申し上げましたが、私一個人の問題ではないと、やはりいま言ったように、日本の民主主義というのが、よりよい形で我々の社会の中に定着させるということが、一番の私の政治家としての使命であり希望でありますから、そういう意味において、いまの自分のさっきから言っている検察審査会の仕組みの中での、いま法廷で争うということになりましたけれども、そのことで私が党を離れるとか、あるいは党が何らかの形で処分をするというような、仮にそれが多数の皆様のご意見であるとすればしかたないですけれども、これは健全な政党政治と民主主義の発展にとって、私は妥当ではない、よろしくないというふうに思っておりまして、その意味で私は現状のままで活動しようという結論に達しているということです」

 菅首相にしても拒絶は、それが穏やかな態度で行われたとしても、当然のこととして予想していたことだと思うが、わざわざ会談して断られると分かっていることを求めたということは党の決定という形で強制的に離党を求めるための手続きを踏むことを目的とした一種の儀式だったのだろう。

 だが、離党強制は小沢氏一人の問題ではない。小沢氏を支えようとしている小沢グループが存在している。どこでどういった形の造反が起こらない保証は一切ない。ほんのちょっとした造反が菅首相の足をすくったり、最悪、窮地に追い込まない保証もない。

 ブログやツイッターに書いてきたことだが、検察の強制捜査を受けて不起訴となった、例え検察審査会による強制起訴を受けたとしても、判決を見るまでは推定無罪であること、無罪であることを信じていることとして野党の政倫審出席要求であろうと証人喚問出席要求であろうと突っぱねたなら、政権運営も小沢グループの協力を得ることができ、その分求心力を維持できたはずだが、その逆を行ったために小沢グループの協力を失い政権運営に困難を来たしたばかりか、小沢氏追及の野党攻勢を却って執拗に招き入れることになり、そのことも政権運営の障害となって立ちはだかることになっている。

 確かに突っぱねることによって支持率は多少は失うかもしれないが、小沢排除によっても結果的には支持率を失い、昨日報道の共同通信社の菅内閣支持率は内閣改造で少しは回復したご祝儀相場もその効果を失って20%を切り、菅内閣発足後最低の19・9%を記録することとなっている。小沢排除で政権運営に何か恩恵を受けていることがあるかと言うと、何も見当たらない。

 要するに菅首相には元々合理的判断能力を欠いていることに関連して政権運営の満足な戦略を身につけていなかった。参院選前の不用意な上、与党としての主体性を放棄した自民党10%増税案相乗りの消費税発言も参議院選挙の勝利が政権運営に如何に重要であるかを前提とすることができなかった戦略の稚拙さが招いたものであろう。

 与党としての主体性を放棄した自民党10%増税案相乗りの具体的証拠を鳩山前首相が証言している。

《鳩山氏「首相は反省示して」 内幕暴露しつつ代表選支持》asahi.com/2010年7月23日4時0分)

 鳩山由紀夫前首相は22日のBS11の番組収録で、参院選で敗北した菅直人首相について、「消費税の議論を生煮えで出した反省を示し、党内をまとめるべきだ」などと批判した。ただ、9月の代表選では首相を支持するとした。
 鳩山氏は菅首相が財務相当時から「消費税で自民党と一緒の主張をすれば争点から消えるから大丈夫」と主張していたことを暴露。小沢一郎前幹事長らとこぞって反対した経緯を明かした。

 首相が打ち出した鳩山氏肝いりの国家戦略局構想の縮小方針にも「(首相は)私に『法案がなかなか通らないから』と説明したが、最初からあきらめてもらいたくない」と不快感をあらわにした。

 また、菅政権の人事には「幅広く取り込む人事をしたら良かった」と述べ、「脱小沢」路線を進めた首相の姿勢を批判。一方で、9月の民主党代表選の話題になると「代わったばかりで(首相を)降ろすという話にはならない」と述べた。
 
 結果は参院選惨敗、菅首相を指示するとした鳩山前首相も代表選では菅支持から転向、小沢支持に回っている。支持するに値しないと見たからだろう。

 菅首相の「消費税で自民党と一緒の主張をすれば争点から消えるから大丈夫」は政権担当の与党としてすべての政策をリードすべき使命・責任を忘れた主体性喪失の発言以外の何ものでもない。

 議席、あるいは頭数は政策の優位性を訴えて獲得する政権獲得のための重要要素であり、政権を獲得した場合、それを維持し運営を良好な状態に置く肝要な要素であるはずだが、そのことの意識を欠いていた。

 記者会見では今回名古屋市長選で当選した河村たかし氏と愛知県知事選に当選した大村秀章氏が小沢氏を訪れ、当選の挨拶等の話をしたことに触れているが、この訪問は民主党が推した候補が敗れていることと併せて菅内閣に対する見事な一大皮肉を示す光景であろう。

 上杉隆司会者「あとですね、これ一昨日になると思うんですが、名古屋の愛知県知事選で共に当選したさん、そして河村たかし市長が、小沢さんの方に表敬訪問というか挨拶に来たということなんですが、ずっと長い間、地方からの改革というか、地方に権限を委譲するというような形での政策を持たれている小沢さんと河村さんたちが会ったということは、何らかの政策的な、そういう話し合いがあったんではないかと思うんですが、その辺りの話というのはされたんでしょうか」

 小沢氏「河村君、河村市長は、ずっと前からよく知ってる仲です。大村新知事は直接は存じ上げなかったですけども、二人とも面白いキャラの持ち主でして、なんかとにかく挨拶に、話に来たいということで、これはもう、県と名古屋市を代表する方が挨拶に来るというのですから、それを断る理由もありませんし、また年来の面白い友人でもありますから、お会いして、なんかもう、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ1時間ぐらい喋ってましたね」

 上杉氏「半ば、尾張の乱のような感じも受けたんですが、ただ、民主党は、愛知県連含めて、両者共に推薦ということで、選挙で応援はしなかったんですが、その辺り、選挙上の観点からどうなんでしょうか、その民主党の対応というのは」

 小沢氏「民主党の対応云々よりもね、メインは河村君だったんだと思うけれども、彼は一つはね、非常に日常活動を、まさに一般の皆さんの中に入って一所懸命やってます。ですから、一般市民との会話、意思疎通が、相当できてるんじゃないかというふうに思います。

 それから、もう一つは政策面ですけれども、やっぱり自分の、減税という話で一口には言ってますが、自分の主張を頑ななまでに曲げずに推し進めてるということが非常に県民、市民の共感を得たんじゃないでしょうかね。そういう意味で、彼と、あの二人の県民、市民との認識、理解の度合いが、はるかに政党云々よりも強かったということでしょうね」

 「政治は結果責任」である。結果がどう出るかは現在のところ不明である。だが、「政治は結果責任」を出すためには自らが決めた信念を曲げたのでは結果がは限りなく覚束なくなる。勿論信念を曲げないとは小沢氏が言っていた「自分の主張を頑ななまでに曲げずに推し進め」るの発言に相当する。

 自己の主張・信念を頑なまでに曲げずに推し進めて結果を得ることができなかった場合は「政治は結果責任」の鉄則を守って責任を取ればいい。潔い態度と言うのは主張・信念を曲げないことと結果に対する責任を取ることと両方を併せた態度を言うはずである。

 また、国民も、あるいは市県民も、政治家の結果に対して選挙を機会に審判を下す。政治家の結果の責任に対する頬被りは許さないはずである。

 マニフェストに対する態度から見ても、参院選敗北の責任の取り方から見ても、菅首相には両方とも欠けた態度となっている。

 さて、「日本人の自立」についての遣り取りを見てみる。

 伊田「週刊金曜日編集部の伊田と申します。よろしくお願いいたします。前回、グランドキャニオンの話をうかがいました。

 小沢さんが、実は、相当政策通であることは、記者会見でいわゆる『政治とカネ』の問題しか聞かれないので知られていないと思うんですけど、今の日本を立て直す為に、どのような政策が一番大事と思われているのか、漠然とした質問ですけれどもそこをお聞かせください。マニフェストの見直しの話が出なかったというのが冒頭にありましたけども、どういう政策を取っていくのが、いまの大変な世界状況の中で日本の為になるのか。大きな質問ですけどよろしくお願いします」

 小沢氏「個別政策うんぬんというよりも、更にその背景にある、どうしたら良いかということだと思いますが、基本的にはやっぱり自立した日本人、日本人自身がやはり自ら自立した個人にならないと、この問題は解決しないだろうと思っております。

 国家や社会は、自立した個人のその意思によっていろいろ活動する、それが出来る限り自由に、出来る限り個人の活動をエンカレッジする、サポートする、そういう仕組みを基本的に作ってやるというのが、社会や国家の仕事だろうと思っております。

 ただ、あくまでも自立した個人というのが前提にないと、それは成り立たない。そして民主主義が成熟しない、という結果になってしまう」 

 テキスト版は「エンカレッジ」といった言葉に対して注釈をつけている。(*(英:encourage):発達などを促進すること。助成すること、後押しすること。)

 先ず以前触れていた記事を取上げてみる。《【小沢氏講演要旨】「日本のあらゆる分野で精神の荒廃、劣化が急速に進む」》MSN産経/2010.8.25 12:11)

 小沢氏「政治塾」は、下世話な政局話をする場ではない。

 今後のことを考えると、外需に頼りきりの日本経済は大きな打撃を受ける。中国は経済的崩壊が政治的動乱につながる恐れがある。政治経済は不安定な状況になりつつある。本来の日本人の精神力と知恵と力さえ持っていれば、このくらいの困難を克服するのは容易に可能だ。しかし、今日の日本社会を見るとあらゆる分野で、政界、官界、財界、一般社会においても、精神の荒廃、劣化が急速に進んでいる。規律、モラルという美徳がかけらもみられなくなった。

 絶対にあり得ないと思っていたアメリカ社会で、黒人大統領が誕生した。危機にあって変革を訴えた(オバマ)大統領を選択した。私は決してアメリカ人を利口だと思っていないが、自分の意志による選択を実行していることを高く評価している。

 政治経済ともに困難な時にあたって、日本人自身が自立した人間(になって)、自分で判断し、行動し、責任を持ち、きちんとしたモラルを身につけることが大事だ。今こそ急がば回れ、教育に思いを馳せなければならない」――

 「私は決してアメリカ人を利口だと思っていないが」の発言は問題発言となったが、「自分の意志による選択を実行」する能力、アメリカ人の自立心を「高く評価している」。

 自立的行動とは他の支配を受けずに、小沢氏が「自分で判断し、行動し、責任を持ち、きちんとしたモラルを身につける」と言っているように自分自身の意志・判断・責任を持って行動することを言う。

 この自立的行動は「自分の意志・判断によって自ら責任を持って行動する態度」(『大辞林』)を指す「主体性」と同義語を成す。いわば小沢氏が「自分の意志による選択を実行」と言っていることからも理解できるように自立的行動であっても主体的行動であっても、他者の支配を受けない自らの選択による行動であるのか、他者の支配を受けた行動であるかが分岐点となる。

 他者の支配を受けた場合、“支配と被支配”の関係に縛られることになり、自身の判断の機会を失う。

 しかし小沢氏は日本人は自立した国民とはなっていないと言っている。このことを証明する象徴的現象が国の姿となる中央集権体制であろう。小沢氏も常々日本の国が中央集権国家となっているということを言っている。

 中央集権体制とは断るまでもなく中央が地方を支配し、地方が中央に支配される、“支配と被支配”を力学とした上下関係を言う。

 勿論対等の動機付けによるものではない、こういった“支配と被支配”に動機付けられた中央と地方の上下関係は国民性に根づいている“支配と被支配”の性状の相互反映としてある行動性としてある。

 いわば“支配と被支配”の関係は中央と地方の関係ばかりではなく、個人間にも存在する関係性であり、だから小沢氏は上記記者会見では、日本を建て直すためには基本的には「日本人自身がやはり自ら自立した個人にならない」と言い、「自立した個人というのが前提にないと」国家・社会は「成り立たない」と言わなければならない。

 「MSN産経」記事が伝える小沢一郎政治塾の発言で言うと、政治・経済の困難の克服には「日本人自身が自立した人間(になって)、自分で判断し、行動し、責任を持ち、きちんとしたモラルを身につけることが大事だ」と言わなければならない。

 では自立心を養うにはどうしたらいいか、小沢氏は両発言とも「教育」の必要性を説いている。

 小沢氏「一つはやはり広い意味での教育でしょうね。これは、家庭教育、社会教育、学校教育と、分ければありますけれども、やはり一番大きいのは僕は家庭教育だと思いますけどね。それはやっぱり親自身がきちっと自立してないとね、子供も育てられんないですから。そういう意味で、どっちが先かという話になっちゃいますが、私はそういう考えを前提にして社会や国家の仕組みを、それぞれの人たちが活動しやすい、能力を発揮しやすい仕組みを作っていくと。

 同時に自由な行動でありますけれども、大勢の人が集まった社会ですから、当然、社会全体のセーフティーネットという物を考えるということも、自立社会と同時にそれがないと、まったくのイコール競争社会万能という話になっちゃいますんで、大きな、多くの社会で、多くの人をセーフティーネットで支えながら、個人の努力と能力によって自立した個人の活動が営まれていくということを、非常に抽象的ですがそう思います。それはやっぱり、どっちが先ということがあるけど、煎じ詰めればやっぱり教育なんですかね。人づくりというのか、教育というのか、そこから、まあ一歩から始めるということでしょうかね」――

 「家庭教育、社会教育、学校教育」とある中で、一番重要なのは家庭教育だと挙げているが、但し、「親自身がきちっと自立してないとね、子供も育てられんないですから。そういう意味で、どっちが先かという話になっちゃいますが」と家庭教育を割り引いて評価している。

 私自身は家庭教育説に立たない。学校教育説に立っている。学校社会が保育園・幼稚園に始まって小中高大学と自立心を養うことができないままに子供・生徒を社会に送り、結婚して子どもを生み親となって子育て(=家庭教育)を行う循環の中で自立心なき日本人の姿が延々と続いているのである。その循環を断ち切るためには、小沢氏が言っているように「親自身がきちっと自立してないとね、子供も育てられんないですから」、すべての教育機関が意識的にその役目を担って子供・生徒たちを自立した人間として社会に送る出すことをしないことには自立しないまま親となり子どもを持つ悪循環は止めることはできないはずである。

 例えばこれは確か5、6年前に実見したことだが、私立の保育園で園児たちが外に遊びに出ていたのか、何かの校外実習に出ていたのか分からないが、保母に連れられてぞろぞろと戻ってきた。50代と思しき園長が子供たちを迎えるべく庭に続く縁側に立っていた。子供たちが全員集まるには保母の言うことを聞かなかったり歩くのが遅かったりで時間がかかる。

 その間、最初に戻ってきた子供たちに園長は言葉をかけるでもなくただ廊下に突っ立っている。子供たちも園長に声を掛けるでもなく手持ち無沙汰げに近くで待っていた。全員が揃ったところで、まだ若い保母が、記憶にないが、多分、「では、園長先生にお帰りの挨拶をします」と言ってからのことだろう、子供たちを誘導する一声大きくした声で、「園長先生、ただ今ー」と言うと、子供たちが習って一斉に、「園長先生、ただ今ー」と挨拶した。

 そこで初めて園長はにっこりした顔で、「お帰りなさい」と応じ、挨拶を終えたので保母は、「じゃあ、手を洗ってから入りましょう」と指示すると、子供たちはその指示に従ってすぐ背後の水呑み場に行って手を洗ってから、建物に入っていった。

 この場面にあった関係性はすべて保母の指示に従って動く子供たちの姿である。挨拶するのも手を洗うのも建物に入るのも、すべて上に位置する保母の指示に従って行う。

 上の指示に忠実に従う関係とは明らかに子供たちは保母の意志の支配下にあり、保母は子供たちを支配下に置いた“支配と被支配”を力学とした上下関係が確立していることを物語っている。

 勿論、保母の背後には保母と子どもたちにそういう態度を暗黙の指示で取らせている園長の存在がある。

 子供たちが園に戻ってきた順に自分の判断で手を洗って建物に入り、そこでたまたま園長に会ったなら、自分の判断で「ただ今」を言い、教室で全員が戻るのを待たなければならないとしたら、自分の判断で絵本を見たり、おもちゃで遊んだりをするといった自分で自分の行動を判断させる訓練を積み重ねていくといったことをせず、逆に上の指示で行動させる“支配と被支配”の関係性を一生懸命刷り込んでいるのである。

 家庭でも、自立心を養われる機会を持たなかった親がああしなさい、こうしなさいと子供の行動を指示することを通して“支配と被支配”の上下の関係性を刷り込んで子供たちを学校社会に送り込む。この循環が続いているのである。

そしてその結果が小沢氏の言う日本人の自立の必要であろう

 やはり学校社会が“支配と被支配”の循環を意識的に断ち切る役目を担わないことには、あるいは家庭教育に期待するだけでは「日本人の自立」はなかなか実現しないではないだろうか。

 最近の記事で日本人の自立心に言及した記事がある。《「大学生は主体性が足りない」 経団連、企業アンケート》asahi.com/2011年2月7日3時2分)

 既に触れたように「主体性」は自立心の同義語を成す。主体性なき自立心という行動性は存在しない。逆もまた真なり、自立心なき主体性という行動姿勢は存在しない。

 記事は書いている。〈最近の大学生には主体性や創造力が足りない――産業界にこんな不満があることが、日本経団連のアンケートでわかった。最近の新卒採用で企業側は、募集人数に達しなくても求める人材がいなければ採用しない「厳選採用」を続ける。内定率の向上には、大学教育の内容を巡る企業と大学のミスマッチを解消する努力が求められている実情が改めて浮き彫りになった。〉

 アンケートは昨年9~11月、経団連会員企業1283社と非会員の地方中堅企業に尋ね、596社から回答を得た結果値だという。

 企業が大学生採用で重視する行動要素を企業に尋ねたところ――

「主体性」        平均4.6ポイント
「コミュニケーション能力」  4.5ポイント
「実行力」          4.5ポイント

 最近の大学生の不足素質トップ――

「主体性」 89.1%

 能力・知識面での不足資質トップ――

「創造力」(既存の価値観に囚われない発想) 69.3%

 いずれの資質も上に位置する者の指示で行動し、判断する“支配と被支配”の関係性に縛られていたなら、育たない資質である。「創造力」は特に自身による独自の判断を必要とする。

 小沢氏が言っている「自分で判断し、行動し、責任を持ち、きちんとしたモラルを身につける」自立した行動への、あるいは主体性を備えた行動への期待は不可能となる。

 記事はこの状況を「最近の大学生」のこととしているが、決してそうではない。時代の影響を受けて強弱・濃淡の差は出るが、本質的な血となっている日本人の行動性としてある、“支配と被支配”の上下関係性から発した主体性の欠如であり、自立心の欠如である。

 もしそうでなければ、中央と地方との中央集権体制は封建時代から引きずったままの状態にはなく、とっくの昔に解消し、昔物語となっている中央集権制ということになる。

 だが、そうはなっていない。 

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