昨1月31日(20011年)の衆院予算委員会。民主党の兵庫県第12区選出の山口壮(つよし)議員の菅首相ダボス会議出席の質問に対する菅首相の答弁の箇所から菅政治立ち往生の障害主要因がどこにあるか見てみる。
先ずは山口議員のプロフィールを氏の公式サイトの「プロフィールページ」から見てみる。
昭和1954年10月3日生まれ
血液型 A型
相生小学校、淳心学院中・高等学校、東京大学法学部卒業
米国ジョンズホプキンス大学大学院SAISより博士号を取得(国際政治学博士)
外務省に入省、本省勤務に加え、防衛庁に出向、また外交官としてアメリカ、中国、パキスタン、イギリスの各大使館に勤務。
2000年総選挙で初当選を果たすも、2003年に苦杯をなめ、2005年に復活当選。 2009年に小選挙区で当選、現在3期目。
好きな言葉 「道なきところに道をひらき、不可能を可能にする」
尊敬する人 外務省出身の大先輩である吉田茂
スポーツ テニス、スキーが得意。ゴルフも本当は好きだが、時間がなくてあまりできない。
好きな音楽 ソウルミュージック
好きな食べ物 お好み焼き、ホルモン焼きうどん
著書 “The Making of an Alliance:pan’s Alliance Policy, 1945-1952″
山口議員(ダボス会議出席について)「向うで講演されて、そして手応え等について、どういう感じだったのでしょうか」
菅首相「ま、私、ダボス会議には初めて出席をいたしましたが、あのー、おー、まあ、私は、最後の後半の最後の、ま、1日というか、2日間でありました。
えー、大変、あのー、この、ニューリアリティという、うー、大きな、新しい、現実に対してどうするかという、ま、大変私にとっても、おー、滞在時間は6時間でしたけれども、ま、エキサイティングな時間でありました。
えー、特に私自身が、あー、特別、うー、講演という形で、ま、これは各国の首脳に許されている、講演でありますが、それをさせていただいたことも、大変、エー、エー、感銘深かったわけですが、同時に、えー、それに加えて、えー、5つぐらいのおー、色んな人数でのセッションがありました。
その中で各国の、おー、経済会議、あるいは、あー、あー、学者、あー、等の人たちからいただいた、議論も、大変有意義でありました。
一(いち)に紹介だけいたしますと、私の講演では、えー、まさにここでも議論になっております、うー、開国と、もう一つは絆、という二つの、おー、テーマを軸に、エ、申し上げました。そしてその絆をー、おー、もう一度、つなぎ、イー、あっていく、という、考え方の中に、最小不幸社会ということを申し上げ、えー、そのことを、かなり、ざん、(英語の「より~」を意味する「than」と言おうとしたのか、言い直して)ハッピネスと、果してご理解いただけるのかと思いましたが、あー、ちゃんと説明すれば、あー、よ、よく、ご理解をいただいて、えー、そうした、あー、私のスピーチに、えー、色々と、おー、まあ、あの、お褒めの言葉も、おー、いただくことができました。
と、同時に、イ、小さなセッションで、えー、常に感じたのは、えー、アジアの中の人でありましたが、アジアから見て、日本がどういう国に見えているのか、率直に言いますと言われて、やはり日本がまだまだ、こう、おー、外から入ろうとしても、なかなか入りにくい国だと、いう指摘もいただきました。
えー、私たちの意識としては、日本という国は割りと自由に、開かれているという思いが、あー、ありますけれども、えー、そういう国々から見たら、もっと、おー、開いて欲しい、それに加えて、もっと自信を持って、役割を、オー、担って欲しい。えー、例えばWTOの問題でも、おー、もっとですね、エ、ドーハーランドの前進などに、で、日本がイニシアチブを発揮、取って、貰いたい、こういう色んな面での日本の、おー、一層の、オー、何といいましょうか、活躍も逆に期待され、エ、こういうことが、よく分かりました。
えー、総じて言えば、やはり、いー、先程も言っていただきましたが、エー、日本が、あー、国として、あるいはすべての国民が自信を持って、えー、世界の中で、やるべきことはやるんだというその姿勢を、示すことを、期待されているというのが、私がダボス会議に出た、一番の、おー、印象でありました」
山口議員「総理、自信と、私、多分、覚悟だと思うんですね。外から見て、我々が本当に覚悟を持って、石にかじりついてもやるぞっ、ということを見てるんだと思う。
結局国債の格付けの話も、そこですから、だから、ここは我々が覚悟を持ってやっていきましょう。で、私たちはね、その、ごつごつしたままでいいんですよ。荒削りのままでいいんですよ。与党慣れなんかしなくて全くいいんですよ。
で、スマートにやる必要なんか全くないと思うんです。ま、菅さん、私たちは今、この、さっき言われたことをですね、泥だらけになって、一緒に這いずりまわって、やってしょう(ママ)、やってみましょう。これを、覚悟を聞いてるんです。是非お願いします」(拍手が起きる)
山口議員、米国ジョンズホプキンス大学大学院で博士号を取得だというから、もう少し論理的な物言いをするのかと思ったら、菅首相と同程度の非論理的な物言いしかできない。勇ましいだけの程度の低い精神論をぶち上げているに過ぎない。
菅首相の答弁を見てみる。ダボス会議で日本時間の1月29日夜に講演を行った。30日に帰国。31日にこの予算委員会での質疑応答。講演の議題はオハコの平成の開国である。口にし慣れたオハコであるゆえに、2日前の経験だから、記憶も印象も鮮やかに頭に残っていなければならない。
それを主張の展開自体が論理性を欠いている上に、「あー、えー、おー」の相の手を入れることで理路整然とは程遠い途切れ途切れの会話となっている。
今回のダボス会議のテーマを、「えー、大変、あのー、この、ニューリアリティという、うー、大きな、新しい、現実に対してどうするかという」という言葉で、混迷を深めている今ある世界の情勢、世界の現実にどう対処するの方法論の模索にあるとした。当然、結論として各国がテーマにふさわしい方法論を示し得たかを紹介しなければならない。
だが、「ま、大変私にとっても、おー、滞在時間は6時間でしたけれども、ま、エキサイティングな時間でありました」の自身の感想、あるいは印象の類いで終わっている。とても一国の首相の論理的思考とは思えない。
勿論、耳に聞くべき方針がいずれかの国の首脳の口から示されたとしても、その方法論が有効かどうかの最終評価は結果を見てみないと分からない。「政治は結果責任」である。方法論は単なる方針の提示に過ぎない。
ところが菅首相はそういった結果に対する視線よりも自身の自慢に置いていた。各国の首脳が求めれば許される講演であると断りを入れておきながら、そのことを従として、「えー、特に私自身が、あー、特別、うー、講演という形で」、「それをさせていただいたことも、大変、エー、エー、感銘深かった」と、特別に許された講演であったかのようなことを主としてさも印象づける話の持っていき方をする自慢と、「あー、ちゃんと説明すれば、あー、よ、よく、ご理解をいただいて、えー、そうした、あー、私のスピーチに、えー、色々と、おー、まあ、あの、お褒めの言葉もおー、いただくことができました」と、称賛を受けたとする自慢を示している。
自慢も大いに結構だが、どう贔屓目に見ても「政治は結果責任」意識のカケラも見い出すことはできない。いや、結果がどう出るか、まだ見ていないのだから、「政治は結果責任」意識を欠如させているからできる自慢であろう。
もし菅首相が「政治は結果責任」意識を少しでも持っていたなら、自身が掲げた平成の開国にしても絆にしても、どう実現するか、その具体的実施論の模索に常に目を向け、方法論の提示どおりの答を出す使命と責任を負うことになっているのだから、結果を見ないうちの自慢は許されないはずだ。
だが、政治に於けるサイコロは投げたとしても目が出るまでに長い時間と紆余曲折の状況の変化を受けるにも関わらず、自慢から入っている。自身の使命と責任に対して厳しい意識を持ち得ない神経の緩みがあるからだろう。
小沢氏に言わせたなら、「お褒めの言葉をいただきことができましたと言うのはまだ早いっちゅうのに」とお叱りを受けるに違いない。
神経の緩みは他にも見ることができる。アジアの中の人から、「日本がまだまだ、こう、おー、外から入ろうとしても、なかなか入りにくい国だと、いう指摘」があった。それに対して、「そういう国々から見たら、もっと、おー、開いて欲しい、それに加えて、もっと自信を持って、役割を、オー、担って欲しい。えー、例えばWTOの問題でも、おー、もっとですね、エ、ドーハーランドの前進などに、で、日本がイニシアチブを発揮、取って、貰いたい、こういう色んな面での日本の、おー、一層の、オー、何といいましょうか、活躍も逆に期待され、エ、こういうことが、よく分かりました」と単にWTOの問題等の個別的な問題でのイニシアチブを発揮だとか、自信を持って役割を担うだとか、「外から入ろうとしても、なかなか入りにくい国」の理由解明の直接の答になっていない話で終えている。
こういった答弁の展開となったのは、「外から入ろうとしても、なかなか入りにくい国だと、いう指摘」があったとき、日本国の代表者なのだから、聞き捨てならない指摘と見て、彼が見ている「外から入ろうとしても、なかなか入りにくい」理由はどこにあるのか、どのようなことなのか、その本質的な障害を聞き質して、参考になるようなら学習材料とすべきを、聞き質さなかったからだろう、
聞き質していたなら、相手が答えたとおりのことを紹介していたはずである。
確かに原稿で用意した主張の展開は理路整然と論理立っている。だが、原稿に頼らずに自分で話す主張は原稿を読み上げるときの理路整然性を失い、その上「政治は結果責任」意識を全くと言っていい程に欠いているから、起承転結だけではなく、話の内容自体がトンチンカンな様相を呈する。
「政治は結果責任」意識を強く持ち、常に結果を追求する姿勢を自らに厳しく課したとき、初めて指導力、リーダーシップを発揮し得る。「政治は結果責任」意識を欠いているところに指導力、リーダーシップは期待不可能となる。双方の能力は連動しているということである。
「政治は結果責任」意識を欠いている代表的な例を挙げるとしたら、直近の例では日本国債格下げを記者から問われて答えた「そういうことは疎いので」発言であろう。
「政治は結果責任」を常に自らの厳しい態度とし、そのような姿勢で日々臨んでいたなら、当然自身が発するどのような言葉にも厳しい意識を向けることになるから、逆に下手な言葉は使えなくなり、逆に自身も「言葉の重み」を重要視し、周囲からも「言葉の重み」が求められることになる。
だが、菅首相はこのルールからいとも簡単に外れて、自分から言葉を軽くする行動に出る。「政治は結果責任」意識を欠いていることに相互対応した「言葉の重み」の欠如、「言葉の軽さ」であろう。
「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間で、いろいろなことに配慮しなければならず、自分のカラーを出せなかった。これからは本免許を取得し、自分らしさをもっと出し、やりたいことをやっていきたい」にしても、もし 「政治は結果責任」意識を強く持っていたなら決して口にはできない発言としなければならないはずだが、何とも思わずに口にすることができる責任意識の欠如にしても如何ともし難い。
この発言にあるのは支持率の低下や菅政治の進行が難渋していることを自己免罪する意識のみで、やはり「政治は結果責任」意識の欠如が原因した甘えとしか言いようがない。
これまでは発信力が弱かった、これからは色々な機会を設けて発信力を高めたいとしたことにも現れている「政治は結果責任」意識の欠如であり、言葉の軽さであろう。「政治は結果責任」意識を強く持ち、そのことに相互対応して「言葉の重み」を常に意識的に体現していたなら、いつ如何なる言葉の発信にもそれなりの効果を出していかなければならないはずだが、そのことに矛盾して発信力が弱かった言う。
そもそもが政治推進の強力な原動力となる参議院の数を失ったのも、「政治は結果責任」意識とそのことに相互対応した「言葉の重み」を共に欠いていたことが原因であった。「政治は結果責任」意識を強く持っていたなら、用意周到な準備をせずに特に中小所得層、あるいは中小企業に影響を与える消費税発言はできなかっただろうし、当然、この種類の言葉は重くなったはずだが、実際は逆の様相を呈した。
要するに菅政治が現在立ち往生しているそもそもの原因は菅首相自身の「政治は結果責任」意識の欠如にあるということである。「政治は結果責任」意識を欠いているから、言葉も軽くなる、指導力も欠くことになる。論理性を失い、トンチンカンな発言となる。
だが、菅首相は菅政治の現在の障害理由を自身の発信力が弱かったとする以外は小沢氏の「政治とカネ」の問題を主たる要因と見ている。
野党の小沢攻撃が菅内閣を追い詰める単なる戦術手段に過ぎず、その攻撃目標が取り除かれた場合、今度は菅首相自身を直接的な攻撃目標に変えるだけのことで、却って攻撃の激しさはますことになることが予測できない。
逆説的に言うと、小沢問題がある間は菅首相に対する攻撃の激しを小沢氏が楯となっている部分、避けることができているはずである。
だが、こういった状況を作り出したのも菅首相自身である。自身の支持率を上げるために小沢問題を、いわば「脱小沢」として利用し、そこから抜け出ることができない自縄自縛にかかって逆に党内対立や内紛と見られる苦境を招いた。
検察の強制捜査を受けて二度不起訴となった、検察審査会の強制起訴を受けたとしても、現在は推定無罪の状態にあるのだから、政倫審出席も証人喚問も必要ではない、強制起訴の結果がすべてを証明すると突っぱねる国会答弁に終始していたなら、小沢グループからも協力を得ることができて挙党一致体制を築けただろうし、内紛だ党内闘争だと見られることもなく、菅政治は障害を自ら設けることを避け得たはずで、公明党の協力を得る可能性も生じたはずである。
だが、党内対立が激しくなり、支持率の低下が進むにつれて、政権与党に与したい欲求をあからさまに見せていたにも関わらず、公明党は利害損得を計算してマイナスが上回ると見たのだろう、菅内閣から離れていった。
プラスが上回ると見たなら、逆に近づいてくるはずである。
質問に立った山口壮氏はアメリカの大学院に学んでもいる。だが、「ごつごつしたままでいいんですよ。荒削りのままでいいんですよ」とか、「泥だらけになって、一緒に這いずりまわって」と、議論を論理的に展開することができずに余りにも日本的に情緒一辺倒の精神論を展開しているが、このような精神論を許しているのは菅首相に欠けているそもそもの出発点をなす本質的な点が「政治は結果責任」意識の欠如であることに気づくだけの論理的な判断能力を持ち得ていないからだろう。
菅首相に今必要な「覚悟」は、「泥だらけになって」、「這いずりまわって」でもすべてに亘って「政治は結果責任」を追求していく「覚悟」であろう。
だが、その覚悟さえも欠いているから、ダボス会議で方法論を演説しただけで、「政治は結果責任」を見ないうちから、特別、講演という形でさせていただいたとか、お褒めの言葉をいただいたとか自慢することができた。
菅首相が本質的に「政治は結果責任」意識を欠き、相互対応的に「言葉の重み」を体現できない、そのために指導力も発揮できない資質の政治家であり続けているということは自省心を働かせて修正していく能力にしても備えていないことになって、菅政治のジリ貧状態は続く保証にはなり得ても、そのことが却って菅政治立ち往生の障害主要因を小沢氏の「政治とカネの問題」とする責任転嫁を逆に強めることになるに違いない。
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