自民党の子どもの柔軟な思考能力否定、国民蔑視の「学校教育における政治的中立性についての実態調査」

2016-07-11 09:01:10 | 政治

 各マスコミが自民党が「学校教育における政治的中立性についての実態調査」を始めたことを7月9日午後に一斉に取り上げた。

 要するに国家権力側に立つ自民党が政治的中立性を逸脱した教師を炙り出す姿勢を打ち出すことで教師側に監視の目や密告の目を意識させて、自主沈黙(=言論の自己統制)に持っていこうという魂胆なのは目に見えている。

 勿論、この手の魂胆は意識していようがいまいが言論統制の意図を内部に芽吹かせている。

 2014年12月14日投開票の総選挙前11月20日に「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井 照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに、《選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い》と題する文書を送付し、こうして欲しいという指示を事細かに出して選挙報道の公正中立求めたが、この文書が自由な言論への暗黙の統制圧力となったことと同工異曲を成す。

 実際の文章を知ろうとして自民党のサイトにアクセスしてみたが、アクセスできなかった。問題視を受けて削除されたことがマスコミの記事によって知ることができた。

 今朝(7月11日朝)になってアクセスできたが、削除前とどう違うのか、「Litera」(2016.07.09)記事から見てみる。  

【消される前の文章】
《教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。》
【新たな文章】
《教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「安保関連法は廃止にすべき」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。》

 自民党サイトは次のような調査理由を掲げていたから、さらに文章を改めたことになる。

「学校教育における政治的中立性についての実態調査」    

党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。

学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。

そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。

 政治的中立性を尤もらしく掲げているが、ここで言う「政治的中立性」とは国家権力側から見た「政治的中立性」に他ならない。

 当然、国家権力の主張に反する言論はすべて「政治的中立性」を逸脱していることになる。逸脱していると烙印を押すことになる。

 「特定のイデオロギーに染まった結論」にしても、国家権力のイデオロギーに反していることを以って「特定」としていることになる。

 だから、「子供たちを戦場に送るな」、あるいは「安保関連法は廃止にすべき」という国家権力のイデオロギーに反する教えは「特定」だという位置づけを受けることになる。

 いわば国家権力のイデオロギーに反する考え・主張は全て「特定のイデオロギー」と価値づけて排除し、それが成功すれば国家のイデオロギーだけが残ることになって、その成功のもとに国家のイデオロギーに言いなりになること――全面従属を暗黙的な欲求としている。

 戦前の教育も同じであった。

 戦前の教育は「教育勅語」や「国体の本義」を通して天皇の絶対性・日本国家の絶対性を謳い上げる「特定のイデオロギー」で国民を洗脳し、全面従属を求めた。

 教育現場に於いては殆どの教師が、あるいは親までもが国家権力のイデオロギーを自らのイデオロギーとしていたためにそれを生徒に植えつけていく大人から子どもへ、子どもから大人への循環を可能とした。

 当然、自民党のこの調査は天皇と国家への全面的な奉仕を国民に求めた、戦前の日本国家が持っていた意思と通底していることになる。

 戦前の日本国家を国家の理想像とし、天皇主義者でもある国家主義者の安倍晋三が支配する自民党だから、当然の自由な言論に対する統制意思なのだろう。

 自民党のこの調査を取り上げたマスコミの中には「密告社会の到来」とか、「市民を監視させ合うという戦時体制そのままのもの」、いわば戦前の密告社会・監視社会の再来といった警告を発しているが、もう一つの大きな問題点がある。

 戦前と違って現代日本は情報社会だと言うことである。

 例え教師が教育現場で国家権力側の主張に反する教えを、いわば「政治的中立性」を逸脱した特定のイデオロギーに染まった教えを如何に吹き込もうと、戦前のように教師が生徒に対して絶対的位置に立っているわけでもないし、あるいは戦前のように社会人として成長していく過程で得る情報が教師の教えに限られているわけではない。
 
 このことは子どもに対する親についても同じことが言える。今の子どもが蓄積していく情報の発信源が戦前のように直接的に接触する教師や親(あるいは大人)に限られているわけではない。

 現在では学校や親の教え以外に幼い頃から、絵本やマンガに始まって成長に応じて年齢相応の漫画や雑誌、あるいは小説、テレビ、ラジオ、インターネットと様々な情報源が発信する大量の情報から取捨選択して自身の情報、あるいは自身のイデオロギーを形成していく。

 子どもの側から言うと、自身の見解や主張を形成していく情報、あるいはイデオロギーは何も教師や親(大人)の教えが戦前のように全てではないと言うことである。 

 全てであったなら、こんなにも大量にお笑い芸人など出てこなかったろう。

 勿論、戦前もお笑い芸人は存在した。だが、すべての男子が兵隊さんになって国に尽くすことが国家への最大の奉仕だという教師や親から教えられて自分のものとすることになった考えに取り憑かれていたなら、芸人は出てこない。

 教師や親(大人)の教えを全てとしない子どももそれなりに存在したということであろう。

 絵本や漫画から始まって、ラジオ、テレビ、雑誌、小説、インターネット等々のマスメディアや個人が発信する洪水のように氾濫する大量の情報から自身の情報、あるいは自身のイデオロギーを形成していく取捨選択は考える作用を必然的に伴う思考過程となる。

 当然、思考過程を経ることになる情報の取捨選択は、一般的には教師や親が発信する情報に対しても、個人差はあっても、一定の年齢以降、適用対象とされる。

 それを自民党の面々は教師が発する情報――国家権力側から見て政治的中立性を逸脱したとしている特定のイデオロギーが子どもの思考を一生支配するかのように危惧し、そのような教師を炙り出そうと調査に乗り出した。

 いわば子どもたちが成長していく過程で教師や親が発信する、あるいはマスメディアや個人が発信する大量の情報を取捨選択の思考作用を経て自身の考え、主張、イデオロギーへと形成していく柔軟に考える力を否定、子どもの頃から硬直した思考能力の持ち主であるかの如くに扱い、そのような硬直した思考能力に一生支配されるかのように看做している。

 この子どものそれなりに考える力を信用していない状況は国民蔑視以外の何ものでもない。

 と言うことは自民党政治がその殆どを確立した日本の教育制度すら信用していないことになる。

 教育現場から国家のイデオロギーに反する「特定のイデオロギー」を排除したいという欲求は国家のイデオロギーへの全面従属を暗黙的な欲求としていると書いたが、戦前の多くの子どもや大人を国家権力が発信した特定のイデオロギーで支配することに成功した、その体験を今以て生きづかせていて、再現させたいと欲求していることを示す。

 非常に危険な国民蔑視であり、非常に危険な自民党の政治状況となっている。

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