安倍晋三の長州正論懇話会「自衛隊員は日本国民の誇りだ」は文民統制からの逸脱、危険な軍国主義

2018-08-16 11:24:18 | 政治
 

 安倍晋三が2018年8月12日午後、山口県下関市で長州「正論」懇話会設立5周年記念講演会で講演し、その発言を「産経ニュース」記事が伝えている。

 冒頭の発言。

 安倍晋三「西日本豪雨の発災以来、最大で3万1千人を超える自衛隊の諸君が行方不明の捜索、大量に流れ込んだ土砂やがれきの撤去、炊き出しや入浴などの被災者支援に当たってきた。被災者のため、黙々と献身的に任務を全うする彼らは日本国民の誇りだ。

 毎年、防衛大学校の卒業式に出席し、最高指揮官として真新しい制服に袖を通したばかりの自衛官たちから『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える』との重い服務宣誓を受ける。

 彼らは国民を守るために命を懸ける。しかし、近年でも『自衛隊を合憲』と言い切る憲法学者はわずか2割だ。その結果、多くの教科書に自衛隊の合憲性に議論があるとの記述があり、自衛官の子供たちも、その教科書で勉強しなければならない。


 こんな状況に終止符を打つ。全ての自衛官が誇りを持って任務を全うできる環境を整えることは、今を生きる政治家の責任だ。憲法の中に、わが国の独立と平和を守ることと、自衛隊をしっかりと明記することで責任を果たしていく決意だ」――

 「被災者のため、黙々と献身的に任務を全う」したのは災害派遣された自衛隊員のみではない。被災自治体の警察官や消防署員も、救出・救助活動、その他の活動を通して「被災者のため、黙々と献身的に任務を全う」した。

 警察官・消防署員は被災自治体のみならず、警察庁が西日本豪雨被災地広島、岡山、愛媛の3県に19都府県警から広域緊急援助隊として計約680人を派遣したとマスコミは伝えている。

 そして多くのボランティアが被災地に入り、任務として与えられたわけではないが、ボランティアとしての役割を「黙々と献身的に」行っている。被災者にしても、被災や近親者の犠牲にもめげずにボランティアや役所、その他の助けを借りて生活の建て直しに懸命に立ち上がり、生き抜く強い意志を発揮している。

 警察官も消防署員も被災者もボランティアも日本国民であり、一国の指導者の立場からは「日本国民の誇り」だと称賛してもいい対象ではないだろうか。

 被災地の住民ではなくても、その他の地域の日本国民である住民それぞれがそれぞれの立場に立ってそれぞれの役割を黙々と、あるいは懸命に担うことで地域が成り立つ働きとなり、それらの総合が国が成り立つ働きとなっている以上、「日本国民の誇り」と称賛すべき対象とはなり得ないだろうか。

 一国の指導者の目から見てだけではなく、多くの誰もが相互に「日本国民の誇り」と称賛されていい対象であり、そうであることをそれぞれが自覚していていい認識でなくてはならない。

 にも関わらず、安倍晋三は一国の指導者でありながら、自衛隊員の被災者支援が任務として行っている当然の行為でありながら、「自衛隊の諸君」と自衛隊員のみの活動を的にして、「日本国民の誇りだ」と称賛、その流れで「日本国民の誇り」だとする称賛を「彼らは国民を守るために命を懸ける」と服務宣誓が言っているところの軍事的国家防衛にまで広げている。
 
 そのような称賛の対象でありながら、「近年でも『自衛隊を合憲』と言い切る憲法学者はわずか2割だ。その結果、多くの教科書に自衛隊の合憲性に議論があるとの記述があり、自衛官の子供たちも、その教科書で勉強しなければならない」境遇に置かれているから、自衛隊の存在を憲法に明記、誰が見ても合憲の状態にして、自衛官の子供たちも誇ることができるようにすると、その決意を述べている。

 だが、安倍晋三の自衛隊員のみの被災者支援を「日本国民の誇り」とし、「国民を守るために命を懸ける」軍事的防衛にまでその称賛を広げるのは国家的任務を上に置き、警察官や消防署員やボランティア、あるいは被災者、それ以外の一般的な日本国民を含めた、言ってみれば彼らの市民的任務を下に置く、それぞれが大切であることを無視した優劣の価値をそこに見ていることになる。

 いわば相対化の力学を通して称賛しなければならない「日本国民の誇り」でありながら、相対化を抜きに優劣のモノサシを当てることで自衛隊員を絶対化した「日本国民の誇り」としている。

 この絶対化には自衛隊員を選ばれた特別な存在、一種の選民扱いとする意識を否応もなしに忍ばせていて、危険な軍国主義さえも窺うことができる。

 安倍晋三のこのような愚かしい意識を受けて、その反映として多くの自衛隊員が何様意識を持つに至った場合の危険は計り知れない。

 戦前の大日本帝国軍隊兵士は天皇の軍隊の天皇の兵士だと天皇と同様に自らを絶対化することで選民意識を持つことになり、他の国民を下に見、自らは何でも許される横暴な存在、何様へと祭り上げていった。軍隊や軍人のこの何様意識も軍国主義と結びつきやすく、事実、いとも簡単に軍国主義を跳梁跋扈させていった。

 また安倍晋三が「彼らは国民を守るために命を懸ける」と特別扱いでいくら断言しようとも、自らが成立させた平和安保法制に基づいて行った場合の戦争に最終的に勝利したとしても、無傷のままに勝利する絶対的な保証はどこを探してもないのだから、国民を守らない戦争は戦前と同様、否定し難く存在することになって、特別扱いの断言は断言としての完璧性を失うことになる。

 特に旧日本軍は戦闘で窮地に立ったとき、自分たちだけが敵軍から逃れることを考えて、そこで生活していた日本国民を放置して撤退したり、共に撤退したとしても、泣き声が敵軍に知られるからと母親に赤ん坊まで殺させるといったことまでした。今の自衛官がいくら国民を守るために義務付けられていようとも、状況次第で兵士に課せられた服務の宣誓はそっちのけに人間としての素のエゴイズムを曝け出して、自分を守るためにのみ命を懸ける事態も十分にあり得ることになる。

 このように完璧・絶対だと保証できない自衛隊員を選ばれた特別な存在、一種の選民扱いとした場合の軍国主義に向かいかねない何らかの反動を考えた場合、当然のことだが、シビリアンコントロールの点でも問題が生じることになる。

 今更持ち出すまでもなく、日本国憲法「第5章内閣 第66条2項」は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定、陸海空自衛隊の最高指揮権を握っている総理大臣が自衛隊に対してシビリアンコントロールの頂点に立っていることになる。

 その総理大臣が自衛隊員を選ばれた特別な存在、一種の選民扱いをしている。この精神的親和性からは、一歩間違えると双方共に軍国主義化しかねない点も踏まえて、果たして厳格なシビリアンコントロールを期待ができるだろうか。旧日本軍の二の舞を危惧したとしても無理はない自衛隊員に対する絶対化・特別な存在視が安倍晋三の意識から臭い出てくる。

 その臭いに反応した場合の自衛隊員の危険性も考えなければならない。

 安倍晋三と自衛隊員共々のあり得る可能性が低いとは決して言えない危険性と比較した場合、講演の最後の方で「生活保護世帯の子供たちの高校進学率は初めて90%を超えた」とか、「この春、高校、大学を卒業した若者たちの就業率は過去最高水準となった」、あるいは「中小企業の倒産は政権交代前から3割減少し、この27年間で最も少なくなっている」等々の政策自慢とその成果は評価する程のことではなくなる。

 我々は戦前日本軍隊の軍国主義の脅威を見てきた。安倍政権は安全保障環境に於ける軍事的脅威の名のもとに軍事的色彩を強めている。シビリアンコントロールという点からも、首相の続投資格があるのか、自民党総裁選で次期総裁として選ぶ資格を持っているのか、考えるべきだろう。
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