安倍晋三は2017年5月3日憲法の日に東京・永田町で開催の「第19回公開憲法フォーラム」にビデオメッセージを寄せ、その中で日本国憲法への自衛隊明記を提起している。
安倍晋三「私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます」
そして翌年の「第20回公開憲法フォーラム」は2018年5月3日の同じ憲法の日に東京・平河町の砂防会館別館で開催され、安倍晋三は同じようにビデオメッセージを寄せて、日本国憲法への自衛隊明記を訴えている。
安倍晋三「私は昨年、この「公開憲法フォーラム」へのビデオメッセージにおいて、自民党総裁として一石を投じる気持ちでこう申し上げました。『いよいよ私たちが憲法改正に取り組むときが来た。憲法9条について自衛隊を明記すべきだ』
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しかし、残念ながら近年においても『自衛隊は合憲』と言い切る憲法学者は2割にとどまり、違憲論争が存在します。その結果、多くの教科書に合憲性に議論がある旨の記述があり、自衛官たちの子供たちもその教科書で勉強しなければなりません。皆さん、この状況のままでいいのでしょうか。
この状況に終止符を打つため、憲法に、わが国の独立と平和を守る自衛隊をしっかりと明記し、違憲論争に終止符を打たなければならない。それこそが今を生きる私たち政治家の、そして、自民党の責任です。敢然とその責任を果たし、新しい時代を切り開いていこうではありませんか」
違憲論争に終止符を打つために日本国憲法へと自衛隊の存在を明記する。と言うことは、憲法明記によって自衛隊合憲を誰の目にも明確にして、違憲論の入り込む余地をシャットアウトする意図を持たせた作業を意味する。
つい最近も、山口県下関市内で開催の長州「正論」懇話会設立5周年記念講演会での席でも、「『自衛隊を合憲』と言い切る憲法学者はわずか2割だ。その結果、多くの教科書に自衛隊の合憲性に議論があるとの記述があり、自衛官の子供たちも、その教科書で勉強しなければならない。そのために憲法に自衛隊を明記する」と同じことを言い、次の国会に自民党の憲法改正案を提出できるよう、党内議論を加速させたいという考えを示している。
では、憲法にどのように自衛隊を明記するかと言うと、2017年5月3日の「第19回公開憲法フォーラム」で、「勿論、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと堅持していかなければなりません。そこで『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは国民的な議論に値するのだろうと思います」と述べている。
改めて日本国憲法第2章9条を見てみる。
〈第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。〉
いわゆる「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を謳っている。と言うことは、厳密に解釈すると、日本国憲法は個別的であれ、集団的であれ、あるいは専守防衛であれ、軍事的自衛権を認めず、当然、戦争という形で交戦するための戦力である自衛隊は違憲としていることになる。
ここから誤魔化しが始まる。2016年11月22日鈴木宗男提出の「軍隊、戦力等の定義に関する質問主意書」に対する2016年12月1日「政府答弁書」
〈憲法第9条第2項は「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、同項で保持することが禁止されている「陸海空軍その他の戦力」には当たらない。〉
日本国憲法が保持を禁じている「陸海空軍その他の戦力」とは「自衛のための必要最小限度を超える実力を保持」した戦力のことであり、「必要最小限度の実力組織」にとどまる限り、「不保持」を謳っている「『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」と、簡単に言うと、自衛隊は戦力ではないから、違憲ではないとしていることになる。
一つを誤魔化すと、次も誤魔化すなければ、辻褄が合わなくなる。
2015年6月8日参議院議員中西健治提出の〈集団的自衛権における「必要最小限度の実力行使」に関する質問主意書〉に対する『政府答弁書」
〈お尋ねの「我が国に対する武力攻撃が発生し、これを排除するために、個別的自衛権を行使する場合」の「必要最小限度」とは、武力の行使の態様が相手の武力攻撃の態様と均衡がとれたものでなければならないことを内容とする国際法上の用語でいう均衡性に対応するものであるが、これと必ずしも「同一の範囲・内容」となるものではない。
新三要件に該当する場合の自衛の措置としての「武力の行使」については、その国際法上の根拠が集団的自衛権となる場合であれ、個別的自衛権となる場合であれ、お尋ねの「必要最小限度の実力行使」の「範囲・内容」は、武力攻撃の規模、態様等に応ずるものであり、一概に述べることは困難である。〉(一部抜粋)
先ず「最小限」と言う言葉の意味を大辞林で見てみると、「それ以上は切りつめたり小さくしたりするのが無理だという限度」とある。だとすると、「必要最小限度」とは、一定程度の固定性を持たせた必要とする最小限の武力、あるいは実力を言うことになる。
次に「武力」であろうと、「実力」であろうと、それが軍事組織の力を表す以上、兵員数・兵器数などの総合力・戦闘力を内容とする兵力を指し、兵員や兵器の規模が兵力の大小となって現れる。
そして鈴木宗男に対する政府答弁書ではその兵力が「必要最小限度」にとどまる限り、第9条2項が禁じている「戦力」に当たらないと、自衛隊兵力に一定程度の固定性を持たせたせているが、この答弁書では、〈個別的自衛権を行使する場合」の「必要最小限度」とは、武力の行使の態様が相手の武力攻撃の態様と均衡がとれたもの〉であるが、その「均衡」は国際法が言っているところと必ずしも「同一の範囲・内容」ではないと断りを入れてから、〈「必要最小限度の実力行使」の「範囲・内容」は、武力攻撃の規模、態様等に応ずるものである〉と、前者の固定性を外して、「均衡」の名の下、相手の戦力の変化に応じた同等性を与えている。
極端なことを言うと、相手が核兵器で攻撃する意図を示した場合、「均衡」の同等性を確保するためにこちらも核兵器を用意することになる。このことは2016年4月1日の閣議決定した政府答弁書が証明してくれる。
〈政府は、憲法第9条と核兵器との関係についての純法理的な問題として、我が国には固有の自衛権があり、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法第九条第二項によっても禁止されているわけではなく、したがって、核兵器であっても、仮にそのような限度にとどまるものがあるとすれば、それを保有することは、必ずしも憲法の禁止するところではないが、他方、右の限度を超える核兵器の保有は、憲法上許されないものであり、このことは核兵器の使用についても妥当すると解しているところであり、平成二十八年三月十八日の参議院予算委員会における横畠内閣法制局長官の答弁もこの趣旨を述べたものである。〉――
自衛のための「必要最小限度の実力」にとどまる限り、核兵器の所有は憲法は禁じていないとしている。但し所有だけであったなら、「均衡」の同等性は確保できなくなる。使用しなければ、「武力攻撃の規模、態様等に応ずる」ことはできない。
日本国憲法を言葉通りに読む限り、「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を謳うことで個別的であれ、集団的であれ、あるいは専守防衛であれ、如何なる軍事的自衛権を認めず、それらの行動主体である自衛隊を違憲としている憲法9条を安倍晋三やその他は「必要最小限度の実力行使」というマジックを使ってどのような戦力とすることも可能な誤魔化を働かせている。
このようなマジックを使うに至った前提は日本は「主権国家」であるから、他の主権国家同様、個別的自衛権も集団的自衛権も認められるとする論理を呼び水としている。
1972年の「自衛権に関する政府見解」は、〈我が国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない〉としつつ、憲法前文を、〈わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。〉と解釈、このような自衛の措置は〈あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認される〉ものの、〈右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきもの〉だからと、〈わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる〉と個別的自衛権に限って許容し、〈他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉と集団的自衛権は違憲としている。
だが、安倍晋三とその一派は集団的自衛権の行使にまで触手を伸ばすことになった。2015年6月1日の衆議院憲法審査会。
高村正彦「現在国会で審議をしている平和安全法制の中に、集団的自衛権の行使容認というものがありますが、これについて、憲法違反である、立憲主義に反するという主張があります。これに対して、昭和34年のいわゆる砂川判決で示された法理を踏まえながら、私の考え方を申し述べたいと思います。
憲法の番人である最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であります。言いかえれば、この法理を超えた解釈はできないということであります。
砂川判決は、憲法前文の平和的生存権を引いた上で、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない』と言っております。
しかも、必要な自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしておりません。ここが大きなポイントであります。個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていないわけであります。
当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったと主張する方もいます。しかし、判決の中で、国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べていますので、この主張ははっきり誤りであります。
そして、その上で、砂川判決は、我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲無効でない限り、内閣及び国会の判断に従う、こうはっきり言っているわけであります。
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従って、合理的な解釈の限界を超えるような便宜的、意図的憲法解釈の変更ではなく、違憲であるという批判は全く当たらないということを改めて強調したいと思います。
憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではありません。もしそれを否定する人がいるとしたら、そんな人はいないと思いますが、憲法81条に反し、立憲主義をないがしろにするものであることを申し添えたいと思います」
高村正彦は個別的と集団的自衛権の行使を主権国家であることを理由に認められるとはしていないが、憲法の番人である砂川判決は憲法の前文を「必要な自衛のための措置をとりうる」と読み解き、しかもこの措置に関して判決は「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしていないとして、日本国憲法は個別的と集団的自衛権の行使を認めていることになると主張している。
では、「砂川判決」をざっと見てみる。憲法9条に〈いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしも ちろんこれにより我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。〉との文言で、9条の戦争放棄と戦力の不保持の規定にも関わらず、「我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されていない」と断じている。
そしてこの判決の少し後で、戦争放棄と戦力の不保持によって〈生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。〉と述べているが、この意味は「安全と生存を保持」する方法として日米安全保障条約を締結したことを指す。
この解釈を以ってすると、〈我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。〉としていることは、日米安全保障条約締結国の米軍の武力を借りて我が国の自衛権を発動することまでは日本国憲法は否定していないという意味を取ることになる。
要するに日本国憲法は同盟国の軍事力に頼ることまで禁じて、〈わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない。〉との判決言い分となる。
以上の解釈に間違いないことは次の判決箇所によって明らかとなる。
憲法9条2項に於いて〈戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持 し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。
従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留する としても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉
憲法9条2項が不保持を規定している戦力は「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」、即ち自衛隊であって、当然、自衛隊は違憲の存在ということになるが、「外国の軍隊」、即ち同盟国の米軍は憲法9条2項が禁止している「戦力には該当しない」としていて、そうする必要性は自衛隊が違憲であることによって米軍に「我が国が主権国として持つ固有の自衛権」を肩代わりして貰わなければならないからだろう。
判決が「自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と言っていることは、禁じているとした場合、現実に存在する自衛隊そのものの存在をも否定することになるから、このことを避ける意味で付け加えた文言であろう。
要するに砂川判決は日本は主権国家だから、「固有の自衛権」を有しているが、憲法が9条で「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を謳っている関係から、違憲の存在である自衛隊自身を使った自衛の措置は憲法上許容されず、米軍は憲法が禁じている戦力には当たらないために自衛の措置を憲法前文が規定している「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」規定上、米軍に頼ることは何ら問題ではないとの趣旨となる。
次の判決箇所も同じ趣旨を辿ることになる。
〈平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。〉(文飾当方)
〈平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状〉に対して憲法が「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を規定している関係から、〈主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有〉し、〈国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している〉ことに鑑みて、日本駐留の米軍に〈わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定める〉ことは何ら問題はないとする意味以外に解釈のしようがない。
要するに主権国家は個別的と集団的自衛権を持つことは国際法上の一般論であって、日本の場合は主権国家であることに対して憲法それ自体が禁じている例外に当てはまる。
にも関わらず、日本が主権国家であることを根拠に様々な理由を用いて個別的と集団的自衛権は認められているとし、尚且つ、一定程度の固定性を持たせたわけではない、相手の戦力の変化に応じていくらでも兵力の規模を拡大させることができる同等性というマジックを用いた「必要最小限度の実力行使」を口実に憲法9条の文面はそのままに自衛隊の存在の明記を付け加えることで「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」に対する抹消と自衛隊と個別的・集団的自衛権の合憲を実質的に狙っている。
安倍晋三とその一派の見事な誤魔化しとなっている。