08年1月16日の『朝日』朝刊に次のような記事が出ていた。
≪毎週上京してカネ無心 乞食丸出しのよう
官僚への知事の姿勢 道州制懇座長チクリ≫
<道州制のあり方などを検討する政府の道州制ビジョン懇談会の江口克彦座長(PHP総合研究所社長)は15日、名古屋市で開いた道州制シンポジウムで「愛知県知事は毎週のように東京に行っているだろう。官僚にカネください、カネくださいともらいに行っている。差別用語かもしれないが、乞食丸出しのような格好で行かなければならない」と発言した。
江口氏はこの直前に「地方分権という言葉を使うべきではない。嫌な言葉だ。どうして『地方』なのか。みんな『中心』だと思えばいい。自主独立の気概が生まれてこない」と述べ、地域主権型の道州制を目指す考えを強調した。
中央官僚が知事よりも偉いかのような関係のあり方を批判するつもりだったようだが、逆に知事から反発を招きそうだ。>・・・・・
上記記事は相変わらず日本は国が地方を支配する中央集権型の国家となっていて、「地域主権型」といった名前はどうであれ、国と地方が対等の関係とはなっていないことを示唆している。国と地方がもし対等であったなら、地方側の実現させたい政策が国の補助金を必要とする場合、その計画を具体的に述べた文書を国に送り、担当者のプレゼンテーションを参考材料に加えて国が審査を行えば済むはずだが、県知事がわざわざ東京にまで出かけ、中央官僚に会って直に頭を下げるところに対等ではない、自らをお願いする下の立場に置いた上下関係が浮かび上がってくる。
地方が中央の有力な官僚に天下りを求めるのも、企業の官僚活用と同様に天下った元官僚の勤めていた省庁への影響力・顔を期待してのことだと言うが、そのことの可能性も元官僚とかつての職場の在籍者との権威主義的な上下関係の確たる存在を条件として成り立つ期待値であろう。
いわば天下り官僚が省内で持っていた上下関係(=権威主義性)の地方対中央の磁場への置き換えに過ぎず、権威主義を纏った中央対地方の関係であることに変わりはない。
中央省庁が自治体をコントロールする強力な武器となっている「補助金制度」がある限り、中央と地方の「上下・主従」の関係は変わらないという意見があるが、「補助金制度」が日本人の権威主義的上下関係を慣習化させたわけではない。民族性としている日本人の権威主義性が人間関係を上下に規定していて、そこから中央を上に置き、地方を下に置く現在の「補助金制度」を発生させたに過ぎない。日本人の上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の行動様式は中央対地方の関係にのみ存在するわけではなく、すべての人間関係に亘って存在する関係式だからである。
役人の世界だけの関係式ではなく、地方政治家と国会議員の間にも働いている関係力学であり、警察社会をも動かしている構造式であり、企業社会でも本社と支店、あるいは元請会社と下請会社の関係を規定づけ、一つ組織であっても、上司対部下の関係を制約づけている上下性でもあるからである。
1996年を14年も遡る1982年に会計検査院が愛知県警本部の立入り検査を行い、カラ出張で捻出した裏ガネの使途が記載されている裏帳簿類を摘発したものの、不正経理を証拠立てるまでに至らず、1996年に内部告発を受けたかして再度立入り検査が行われたが、朝日新聞社が14年前の裏帳簿のコピーなど同県警の過去の内部文書を入手したとして、1996年の8月26日の記事で次のように伝えている(一部引用)。
≪カラ出張で裏ガネ1000万円 会計検査院 愛知県警の裏帳簿、82年に入手≫
<関係者の話や帳簿類によると、総務部では当時、各課でカラ出張を行い、その旅費をプールする方法で裏金を捻出。裏金に回したのは、旅費予算の8割にものぼり総務、会計、広報など5課があった総務部全体では、裏金の総額が年間、1千万円を超えていた。
裏金の多くは「課費」として課の支出に充てるが、さらにこの「課費」の一部を総務部長ら幹部の私的な経費などを賄う「部費」と「部長経費」に上納する二重構造になっていた。
幹部優先
裏帳簿を見ると、使途で最も多いのは、せんべつやお祝い、香典などの慶弔費で、額の差はあるものの一般職員も対象になっている。が、階級社会の警察だけに、裏金の使途も幹部に厚く、下に薄い。
(中略
つけ届け
本部長や部長への中元、歳暮は慣例になっていて、毎年、機械的に費用が裏金から出ている。70年代半ば、部長が本部長に贈る歳暮、中元の代金は1回21200円。部長と部長夫人には、各課で合同で贈り、一つの課で6000円ずつ出し合っている。
幹部への気遣いは贈り物だけにとどまらない。「本部長令嬢結婚祝分担金」として計55000円が部長経費から。また、「本部長実兄方葬儀に伴う経費」で60100円が使われた。
つけ届けは、警察庁をはじめ全国の警察幹部も対象だ。警察庁や他県幹部が愛知県を訪ねると、みやげを持たせる。人によってはホテル代や運賃まで裏ガネで払っている。「名駅通過、おみやげ 二千円」の記載がある。これは、名古屋駅を通過しただけの管区警察局長に、課員が駅にかけつけて、みやげ品を渡したのだという。(後略)>
下線で表記した箇所が日本人の人間関係が権威主義的上下関係で成り立っていることを証明している。特に「『名駅通過、おみやげ 二千円』の記載」部分は権威主義的上下関係が最も露骨に現れている場面であろう。
管区警察局とは警察庁の地方機関ではあるが、東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州の7地域の警察本部の上部組織として各地域警察を監督する立場にある組織である。そこのトップである局長が単に電車に乗って通過するだけなのに「二千円」の「おみやげ」を持って、多分使いっ走りの下っ端なのだろう、課員が駆けつけて失礼がないように卑屈にペコペコと頭を下げて手渡し、電車が見えなくなるまで深々と頭を下げるか敬礼するかした直立不動の姿勢でプラットフォームから見送る。そのようなシーンがいやでも目に浮かんでくる。
自分たちを下の者に置いていなければできない上の者に対する過剰な敬いではないだろうか。
受取る方も当然のように受取ることができるものだが、自分を上の位置に置いているからこそできる下の者からの貢物行為であり、そのことによって自分を上の者・偉い人間だと確認してもいるのだろう。
ここで問題なのはただ単に電車で通過するだけのことがその通過時間と共に下部組織に情報として伝わる組織の機能性である。上下関係を演ずるだけの儀式の情報交換に関しては遺漏のない組織の機能性とは何を物語るのだろうか。
上の者に対しては常に相手が上の者であり、当方が下の者であると分かる敬いと卑下の相互関係が相手に対して失礼にならない人間関係となっているからこそ、上下関係を証明する情報交換能力が自然と発達することとなった日本人の権威主義性と言うことなのだろう。この情報交換能力の優秀性は上下関係を証明する儀式を疎かにしては上の者に対して失礼であるし、不興を買った場合、下の者の立場が危うくなるといった態度と相互的発達関係にあるのは断るまでもない。
とすると、例えば教育政策で文科省は自分で課題を見つけて自分で解決する能力を植えつける教育が機能しなかった理由を、そのことを目指した「ゆとり教育」の趣旨をうまく伝えることができなかったからだとしているが、制度として機能させ得るかどうかはひとえに情報(=政策)をつくり出し、出力する側の創造性と情報(=政策)を入力し、それを実行する側の創造性との連携プレーにかかっているように、各種政策を機能的・実際的に社会制度化するための創造性を喚起する情報交換能力に不足があるのは権威主義的な上下の人間関係に費やす情報交換能力の突出・優秀さ(=プラス)を受けたマイナスとしてある情報伝達能力の欠如と言えるかもしれない。何しろ日本人の上下の人間関係維持に浪費される情報伝達や創造力にしても、そのエネルギーは金銭的エネルギーに劣らず膨大な量となるだろうから、社会の発展に向けた肝心の情報伝達には手が回らないのも無理はない。
例え「地域主権型の道州制」を目指そうとも、「自主独立の気概」を心掛けようとも、補助金制度の解消に成功しようとも、権威主義的な上下の人間関係をDNAとしていることから逃れらることができなければ、中央と地方の上下関係・主従関係はどこかに残ることになるに違いない。
戦前の日本の軍隊は天皇の軍隊であり、官僚は天皇の官僚であった。戦前に於いても支配層はお上意識を持ち、一般国民を下に置く権威付けで以て相互の人間存在の証明としていた。それぞれが発揮する能力の内容ではなく、能力の権威付けを上下の人間関係で計った。
そのような権威主義的な上下関係の存在様式を戦後も引きずって、中央と地方の関係に最も象徴される権威主義に縛られた「上下・主従」の人間関係が日本社会全体にはびこり状態となっている。知事が中央の「官僚にカネください、カネくださいともらいに行」く場面は日本に於ける「上下・主従」の人間関係の単なる一つの姿に過ぎない。
日本が真に自立(自律)し、他力(=他国)に依存しない自力的発展を望むには人間関係を上下で律する権威主義のメカニズムから抜け出て、個人個人が自立(自律)することから始めなければならないだろう。個人の自立(自律)があって、初めて社会の自立(自律)があり、国の自立(自律)へとつながっていく。
それにしても上に立つ者の卑しいコジキ行為となっている金銭授受・物品授受(歳暮・中元、その他)であることか。中央省庁官僚の汚職の反省から生まれた「国家公務員倫理法」が施行されたのは1999年。内容は国家公務員が利害関係者からの借受けを含むカネの授受や各種接待、贈与の機会を得ることを禁じているが、防衛省の守屋次官の金銭授受・接待やその他の者の類似例が「国家公務員倫理法」が権威主義的な上下関係の打破に無力であることを物語っている。天下りに約束する多額の給与と多額のボーナス、多額の退職金もある意味、「国家公務員倫理法」が禁止している「カネの授受・接待」に当たらないことはあるまい。
≪「長井さん銃撃死近距離から」 警視庁鑑定≫と題するごく短い記事が1月12日(08年)の『朝日』夕刊の紙面の隅っこにまるでそっと知らせる訃報記事のように掲載されている。(あまりじゃないか)
<ミャンマー(ビルマ)で昨年9月、反政府デモを取材中のジャーナリスト長井健司さん(当時50歳)が銃撃され死亡した事件で、警視庁は11日、「1メートル以内の極めて至近距離からライフル銃に相当する小銃で射撃された」とする司法解剖の鑑定結果を発表した。
組織犯罪対策2課が杏林大に鑑定を依頼し、結果が4日まとまった。それによると、中から出る高圧ガスの熱で皮下脂肪が溶けていた。死因は肝臓損傷による失血死だった。>――
警視庁は長井さん銃撃死を日本人が海外で重大犯罪に遭った場合を想定した刑法の「国外犯規定」を適用し、殺人容疑で捜査に乗り出すことを決めている。その後の進展はどうなっているのだろうか。
外務省の薮中外務審議官は遺留品、特にビデオカメラの問題について返還を強く求めていると新聞だかテレビだかが報じていたが、外務省を通じた対ミャンマー要求はその後どのような経過を辿っているのだろうか。
高村外務大臣は事件直後、真相究明を求めることとビデオ返還を「返るまで求めていく」と国民に対して断言したが、断言したとおりに事は運んでいるのだろうか。運んでいるとしたら、どの程度まで進んでいるのだろう。
昨年11月(07年)にシンガポールで開催された東アジア首脳会談を機会に福田首相はミャンマーのテイン・セイン首相と会談し、ミャンマーの民主化の進展と事件の真相究明、遺留品の返還などに関して誠実な対応を要求したということだが、その要求は機能しているのだろうか。言ったままで終わっていないのだろうか。
その後の進展がどうなっているかを調査し、もし言ったままで終わっているとしたら、改めて強く要求すべきだろう。事後調査もせず、事後要求もしなければ、いわば言ったままで終わらせることにするなら、日本国民の手前民主化要求と事件の真相解明要求の演出をせざるを得なかったからしただけだったということになる。つまり猿芝居を演じた。
猿芝居を演じるのは安倍前首相の方こそがふさわしく、福田首相はあまりふさわしくないと思うのだが、ブルータス、お前もか、と言ったところなのだろうか。
高村外相も同じ東アジア首脳会談の機会を利用してミャンマー外相と会談し、射殺事件真相究明とビデオカメラの返還を求めている。その後どうなったか、問い質したのだろうか。
マスコミもただ単に警視庁が発表した鑑定結果をそのまま報道するのではなく、政府や警視庁(国外犯規定による捜査)が国民に対して行った約束がどの程度履行されている、その進展具合を福田首相、高村外相及び警視庁に問い合わせて国民に知らせるすべきではないだろうか。
事件を風化させるさせないの大きなカギはマスコミが握っている。遥かに朝青龍問題よりも大事だと思うのだが、マスコミは朝青龍の一挙手一投足の方が面白いようだ。
そして先天性・後天性に関わらず、体質や遺伝からの難病には手厚い保護を
『国民が真に求める医療政策を実現するために:7つの課題』なるHPに次のような指摘が掲載されている。
<生活習慣病予防の自助努力を医療費負担に反映
<生活習慣病に対応した医療費負担の考え方についても調査を行い、国民の半数以上が、生活習慣病については個々人の自己管理が報われる支払いメカニズムを求めていることが示された。「本人が予測・予防できない救急や感染症などの医療は患者負担を軽くして、予測や予防が可能な生活習慣病については患者負担をより重くすべき。そうすれば、患者が自分で健康管理をするようになるし、医療費負担もより公平になる」という考えに対しては、56%が賛成し、反対の42%を上回った。>(『国民が真に求める医療政策を実現するために:7つの課題』
医療給付費は年々4%の勢いで伸び、2025年年には50兆円を超えると見られているという。公費負担も28兆円規模に膨らむらしい。医療費の方は2010年には54兆円、その42%を老人医療費が占めるという。当然高齢者医療制度の抜本的な改革は避けて通ることはできない。
その線上に自民党の「聖域なき改革」の旗印の下、国民のための医療政策ではなく、やらずボッタクリの姿を見せることとなった国の借金を減らすためだけの医療費抑制政策の展開がある。「障害者自立支援」の名による本人負担を増やす「障害者自立支援法」、同じく負担を強いる75歳以上高齢者の医療費出来高払い制から「定額制」への移行の拡大方針。
またやらずボッタクリの医療制度改革の一つ、看護師の配置増加による集中医療で入院期間の短縮=医療給付費の抑制を目的とした06年4月導入の「診療報酬改定」が逆に看護師の大病院一極集中を招き、それ以外の場所での看護師不足の格差の招来。
大学卒業医師の研修先自由化によって大学居残りが減少して医師不足を招いた大学病院が地方の公立病院に派遣していた医師を引き揚げざるを得なくなって地方公立病院の医師不足、その先の外来や診療科の閉鎖、果ては病院そのものの閉鎖にまで至っている状況。
結果常勤医師の労働量が増え、過酷な勤務状況に耐えかねて退職していく医師が続出して医師不足とオーバーワークとの関係が累進的に悪循環する傾向。
医師の技術料を含む部分を初めて下げる医療費削減を進めたが、開業医の病院勤務医に比べた高収入構造に手を入れるのを放置したたために開業医へシフトする地方の勤務医が増加、地方病院の勤務医不足になおのこと拍車がかかった小泉診療報酬改革。
すべては自民党内閣の国民を脇に置いた「国民?そんなの関係ねえ、オッパッピー」の財政再建至上命題医療政策が招いた混乱であろう。
医師不足が救急患者のタライ回しの原因の一つでもある社会混乱。国民の命の軽視・生きたままの命の生き剥がしにつながっている。
だが、参院選に大敗し、総選挙の勝敗も難しい状況を迎えて、福田内閣は「高齢者医療費負担増の凍結」や「障害者自立支援法の見直し」へと財政再建目的から選挙戦目的へとシフトさせる方針に出た。決して国民の利益を第一目的としたのではない。票欲しさの政策一部転換に過ぎない。
75歳以上高齢者の医療費出来高払い制から「定額制」への移行拡大は老人たちが病院の待合室を時間潰しの場・おしゃべりの場とし、結果として招いている過剰受診と病院側の過剰診療による医療費の増加を抑制する狙いだとしているが、確かにそういった状況があるにしても、そのことへの手当ては自分で自分なりの時間を持ち、有効に過ごす手段を講じ得ない老人の存在を断つのではなく、再生産される時間的不毛な老人たちを、その再生産を無視して単に遠ざけるその場しのぎの対症療法に過ぎない。
老人たちにとっては時間潰しが優先目的の受診だから、一つの診察が完了したら悪くもないのに別の病名を持ち出して診察を受けたり、診察券を出さずに待合室に陣取っておしゃべりで時間潰しをするウルトラCに出ない保証はない。
そうなったら脅して遠ざけたにも関わらず前の脅しは二度と効かずに再飛来するカラスの大群がみたいなものである。
厚生省が<近い将来介護に必要になりそうなお年寄りを市町村が「特定介護者」に認定。体力アップ教室などに参加してもらい、要介護や要支援の状態になるのを水際で防ぐ>趣旨で始めた「介護予防事業」は参加者が集まらず、参加要件を緩和することにするという朝日記事(07年1月21日≪介護予防の要件緩和 教室参加者集まらず≫)がるが、これも「お年寄り」が「近い将来介護に必要になりそうな」身体状況になるのを待ち構えて網に絡め、「介護予防」教室に取り込もうという政策で、原因療法ではなく、「近い将来介護に必要になりそうな」「特定介護者」の再生産を放置した遠回りな対症療法でしかなく、一見医療費を抑制するようで、逆にある程度カネがかかる仕組みにしている。
尤もカネがかかった方が「介護予防事業」に天下りその他の利権を紛れ込ませやすくすることができ、官僚にとっては却って都合がいいのかもしれない。
要支援や要介護が必要となりそうな「特定介護者」の再生産の根を可能な限り断ち、高齢者医療費を根本から抑制するには記HPの「生活習慣病予防の自助努力を医療費負担に反映」の方法が最適に見えるが、「予測や予防が可能な生活習慣病」と言っても、これも「予測や予防が可能な」状態になるまで――いわばある程度健康を害するまで待ってから医療費を差別化する方法で、必ずしも抜本的な原因療法とは言えない。
また人間は病気になって初めて健康のありがたみを知るように、医者に注意されるまでは関心を払わなかったり、あるいは注意されても、高い収入を得ている者は少しぐらい医療費を多く払ってもさして気にしない場合もあるし、またそこそこの収入でも特別に体の調子が悪いわけではないとなると、暫くは気をつけても、そのうち遊びをを優先させて医者の注意が届かない場合がある。飲酒運転の罰則が厳しくなると当座は飲酒運転を控えるが、時間が経つと運転してしまうようにである。そして重大な人身事故を起こす。
米国の医療保険制度は企業ベースの医療保険が主体で社員の病気は直接経営コストに跳ね返ってくるために社員の健康管理教育を行ったりしているそうだが、確かアメリカでは3人に1人が肥満体質だと聞いたことがある。肥満は心臓病、糖尿病の宝庫だろうから、企業の社員健康管理教育は「そんなの関係ねえ、オッパピー」で飽食・運動不足の怠惰な生活に慣れ切ってしまっていて、なかなか効果が現れない状況にあるのだろう。
より完全な形で「予測や予防が可能な生活習慣病」を断つには、生まれたときから死ぬまでの国民一人ひとりの健康状態・病歴を一括して記録して、通院のたびに医者がその記録に診断内容を付け加え、健康状態が悪化している症状に対しては医療費を高く取る。
母親の胎内からこの世に生を受けた瞬間からの身長・体重・脈拍数、血糖値等を計り、小学校・中学校・高校の身体検査のすべての項目に亘る記録や特に個人的に病気にかかった場合の診断記録、内科にかかろうと外科にかかろうと血糖値等の成人病の進行を判定する検査を行い、記録に付け加えていく。勿論個人情報の保護・管理は徹底させなければならない。不正利用した者は重大な罰則で対処するしかないだろう。
また成人したら、タバコを吸う者は吸う本数、酒を嗜む者はその量等を聞き、記録する。勿論少なく申告する者もいるだろうが、あくまでも診断結果で診察費の差別化を行う。残業時間を含めて労働時間を聞く必要もあるだろう。体力を超える労働量は断る勇気を持たなければならない。断れるか断れないかは本人の責任事項であろう。
また成人病関係だけではなく、自動車事故での怪我も、本人の運転が原因なら、負担を重くすべきである。虫歯も歯磨きを十分に行わなかったとして、負担を重くする。
暴飲暴食、あるいは不摂生からの肝臓病・肝硬変・肝臓癌、胃潰瘍、胃ガン、大小腸潰瘍・腸癌は、当然一部自己負担とする。
このような制度とすることによって健康を「自己管理」できた者が「報われる支払い」システムとすることが可能となり、要支援・要介護に至る老人を可能な限り減らす道につながるはずである。
また、健康に関する「自己管理」は自分なりの時間を持ち有効に過ごす方法を見い出す道でもある。散歩、サイクリング、山登り等々、様々に「自己管理」を講ずることになるだろうからである。当然のこととして、老人たちの(老人でなくても)「時間的不毛」は無縁なものと化す。
抑制できた医療費を保険の利かない難病患者を手厚く保護する方向に持っていく。
1月12日土曜日の朝日新聞朝刊に次のような記事が掲載されている。
≪米大統領選2008 予備選予測大ハズレ、釈明に汗 世論調査機関・大学≫
<【マートルビーチ(米サウスカロライナ州)=小村田義之】米大統領選の民主党の候補指名争いで、ヒラリー・クリントン上院議員が勝利を収めたニューハンプシャー州予備選の結果が、直前の「オバマ上院議員勝利」の予測とかけ離れていたことから、世論調査機関や大学が釈明に追われている。民主、共和両党とも激戦模様で調査担当者も冷や汗ものの毎日だ。
「白人の一部、回答拒否」「最終盤、涙で変化」
10日付米紙ニューヨークタイムズに、ニワトリと太陽を描いた挿さしが掲載された。ニワトリは高らかに「オバマ」と鳴いているが、昇ってきた太陽には「ヒラリー」と書かれている。直前の世論調査が大ハズレしたことへの皮肉だ。
同州の事前の調査では10.3ポイント差でオバマ氏優勢だったが、クリントン氏が勝利。米民間調査機関ピュー・リサーチセンターの代表は、同紙に寄せた記事で 「今回の事前の調査の失敗は現代調査しで最も重大な間違いの一つ」と認めた。間違った背景として、「所得や教育水準の低い白人は調査を拒否することが多い」と指摘。こうした人々は「黒人に対して好意的でない」と踏み込んだ。多くの回答拒否者が白人女性であるクリントン氏に流れたため調査がはずれた、という釈明だ。
米ギャラップ社は「白人は世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しないという議論がある」としながら、これを証明するのは難しいとする。
一方で、米ラムスセン・リポート社は、①クリントン氏の見せた涙などで最終盤に変化が出た②クリントン氏への支持を過小評価した③無党派層の票がオバマ氏よりも共和党のマケイン氏に流れた――との可能性を指摘。マリスト大学は「共和党の事前調査結果は性格だった」と釈明している。
<米ニューハンプシャー州予備選(民主党)の得票率>
実際の結果 ギャラップ社の事前調査
クリントン氏 39% 28%
オ バ マ氏 37% 41%
エドワーズ氏 17% 19%>――
* * * * * * * *
「間違った背景」に人種問題に関わる箇所を纏めると、
①「所得や教育水準の低い白人は調査を拒否することが多」く、こうした人
々は「黒人に対して好意的でない」
②「白人は世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しないと
言う議論がある」としながら、これを証明するのは難しい。
どうも言ってい分析が客観的合理性を備えているとは思えない。①にしても②にしてもそういった状況が一般的な傾向として現れていることを前提としていなければ言えないことであろう。いわば世論調査の現場でそういう状況を現実に経験していなければならない。だったら、なぜそのような経験値を誤差に入れて調査を行わなかったのだろうか。
特に②の「実際は投票しないという議論」は白人が「世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しない」状況を事実として把握していなければ、「議論」は生じない。事実を把握していない「議論」は憶測の域から出ない。また、把握していたなら、「証明するのは難し」くはない。事実を把握していなければ、当然「証明するのは難しい」ことになるが、世論調査に不確定要素として影響する要件ともなるのだから、「難しい」などとは言っていられない。「証明」して、次回からの世論調査の判断材料の一つに加えなければならない。
だが、白人も黒人も同じ人間である。白人が「黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しない」なら、白人に「投票すると回答しながら、実際は投票しない」黒人も存在するはずである。このことも判断材料に加えなければならないだろう。
そして何よりも一部有権者の上記投票行動はアイオワ州の予備選挙にも適合可能でなければならない。適合可能でなければ、「アイオワ州と違って」という地域的な条件付きとする分析でなければ合理性を失う。
新聞記事を見る限り、「所得や教育水準の低い白人は」、あるいは「白人は」と地域を限定しない一般論となっているから、アイオワ州の投票結果にも適合可能でなければならない。
Wikipediaでアイオワ州とニューハンプシャーの2004年現在の人種構成を見てみると、
アイオワ州(人口2,966,334人)
92.6% 白人(2746825人)
2.1% アフリカン・アメリカン(62293人)
2.8% ヒスパニック
1.3% アジア
0.3% 先住民
1.1% 混血
ニューハンプシャー(人口1,309,940人)
95.1% 白人 (1245752人)
1.7% ヒスパニック
1.3% アジア
0.7% 黒人(9169人)
0.2% 先住民
1.1% 混血
アイオワ州、ニューハンプシャー州共に圧倒的に白人が多い。アイオワ州の白人以外は7.6%、ニューハンプシャー州のそれは5%で、微々たる人口に過ぎない。日本人の多くは在日韓国・朝鮮人、アイヌ人、その他の外国人の存在を無視して単一民族国家だと言うが、そのような少数者無視の論理を当てはめるとすると、アイオワ州もニューハンプシャー州も白人単一民族州だと言わなければならない程に圧倒的に白人占拠の状態にある。
しかし視野の狭い日本人と違って、視野の広いアメリカ人は「白人単一民族州」などと言うことはないだろう。
「所得や教育水準の低い白人は」「黒人に対して好意的でない」、あるいは「世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しない」白人による対黒人拒絶反応を両州とも同じ条件下に規定するなら、黒人のオバマはアイオワで白人のエドワーズの29.75%、ヒラリーの29.47%をそれぞれ上回る37.58%も獲得できた結果はどう説明したらいいのだろうか。
黒人のオバマは人口比で白人が圧倒的に多く占めるニューハンプシャー州で、「所得や教育水準の低い白人は」「黒人に対して好意的でない」、あるいは「白人は世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しない」不利な想定に反して、ヒラリーに敗れたとは言え、ヒラリーの39%に対して2ポイント少ないだけの37%もの票をなぜ獲得できたのだろうか。しかも白人のエドワーズ氏の17%を20%も上まわる票を獲得していることも納得がいかない分析となる。
また「所得や教育水準の低い白人は」「黒人に対して好意的でない」、あるいは「白人は世論調査で黒人に投票すると回答しながら、実際は投票しない」とするアメリカ白人の政治性に対する分析がもし合理性を備えた動向なら、なぜニューハンプシャー州で働いた投票傾向がアイオワ州で働かなかったのだろう。納得いく説明が新たに必要になる。
上記「分析」に対する疑問を納得させるとするなら、①の分析も②の分析も合理性を備えた分析となっていないと見るべきではないだろうか。
上記「分析」を分析したこの分析がもし的を得ているとすると、ヒラリーのニューハンプシャー州での逆転勝利は米ラムスセン・リポート社が世論調査の大ハズレの総括理由とした「①クリントン氏の見せた涙などで最終盤に変化が出た」が有力な分析となってくる。
と言うことは大多数の有権者は「ウソ泣き」と見なかった分析せざるを得ないが、それだけではないような気がする。オバマも列席した党員集会の席でヒラリーと司会者だか有権者の一人だかとの次のようなやり取りをテレビが報じていた(どの局か忘却)。
「好感度でオバマ氏に負けていると見られているが?」
ヒラリー(ちょっと深刻な顔になるが、口許に笑みを忘れずに軽く受け流す感じで、)「その言葉に傷ついたわ」(周囲から笑いが起こる)
「アイムソリー」(再び周囲から笑い。「傷ついた」と軽くいなされたなら、誰だって謝らざるを得ないだろう。)
ヒラリー(口許に静かな笑みを絶やさずに)「確かにオバマ氏の好感度が高いのは認める。だけど、私だってそんなに悪くないと思うけど?」
(それとない催促に)「イエス」(再び笑い)
オバマ「ヒラリー、あなたの好感度は悪くない」
オバマが口を挟んだのはヒラリーがいい感じを出していたからだろう。事前調査でも実際の選挙戦での手応えでも劣勢に立たされていた中で口許に穏やかな笑みを湛えて機知のある受け答えに終始できたヒラリーに周囲の受けが決して悪い印象のものではなかったのは周囲が発した親しみのこもった笑いが証明している。有権者の大多数が好感度の悪さを事実として受け止めていたなら、口に出して冷笑したい思いを腹の中に押さえて冷ややかに見守るだけだったろうから。この受け答えはヒラリーを見直させるかなりの得点となったのではないか。
オバマはテレビカメラが回っている中でヒラリーに得点を稼がれては困るから、口を挟まざるを得なかった。少なくともヒラリーに注目が集まり、オバマはあの時点では脇に追いやられていた。口を挟むことでニューハンプシャー州でも自分が主役であることをテレビカメラに示す必要があり、そのためにはヒラリーの機知を終わらせる必要があったのではないか。
その証拠はオバマの好感度よりも下に位置させる「あなたの好感度は悪くない」という紋切り型の言い方で片付けてしまった余裕のなさに現れている。もしあのときオバマが「ヒラリー、あなたの好感度は私よりもずっと上だ。私はあなたの足許にも及ばない。私が保証する」とでも余裕ある態度を示すことができたなら、オバマの機知がヒラリーの機知を上回って拍手喝采を受けたのではないだろうか。
こう見てくると、「クリントン氏の見せた涙などで最終盤に変化が出た」という分析だけが逆転の有力な要因ではないように思える。
客観的合理性を欠如させた分析という点ではこちら日本でも、補給支援法の衆議院再議決に関する議論の中にも見受けることができる。
参議院で否決、衆院に戻されて再議決、与党賛成多数で成立したことに対して民主党の鳩山由紀夫幹事長は「直近の民意は参議院だから、再議決は暴挙」と非難。伊吹自民幹事長は「参議院も民意、衆議院も民意」だと、再議決を肯定。
伊吹幹事長の主張は「民意不動論」とも名づけることができ、果して「不動」なのだろうか。
岩見とかいう政治評論家が昨日のTBS「みのもんたの朝ズバッ」で伊吹幹事長と同じ「民意不動論」を展開していた。但し衆議院に限った「民意不動論」で、参議院に関しては「民意移動論」となっている。自民支持だからだろうが、それにしてもご都合主義が過ぎる持論展開なのだが、知らぬが仏で本人はサラサラ気づいていない。政治評論家を名乗るにはそれくらい鉄面皮でなければならないのだろう。
岩見「どちらが民意かどうかという議論はね、あまり意味がないんですよ。両方とも民意なんですよね。この前の参議院選挙からすでに半年経ってますからね、また民意は動いていると思いますよね、今ね。そういう、だから議論をするとキリはないんで。ええ、3年前の衆議院選挙もこれは間違いなく民意ですから。そういう両方分かれた民意の中で国会をやっていくしかないんですよ。一方は無視するわけにはかないんですよ」
確かに「民意は動く」。だから、鳩山幹事長は「直近の」と断りを入れているのだろう。岩見某政治評論家は「この前の参議院選挙からすでに半年経ってますからね、また民意は動いていると思いますよね」と言いながら、「ええ、3年前の衆議院選挙もこれは間違いなく民意ですから」と、「3年前から」(前回総選挙は05年の9月11日だから、実際は2年4ヶ月前から)動かない民意と把える矛盾を曝して平然としていられる客観的合理性の欠如の持主となっている。
過去の選挙を例を取ると、1988年7月の参議院選挙では、消費税、リクルート事件関与で支持率が急落・辞任した竹下登後継の宇野首相の愛人スキャンダルも影響して、自民党大敗、社会党大躍進の与野党逆転の風を吹かせた。
宇野首相は選挙の責任をとって辞任したものの、参院与野党逆転の「民意」の熱が冷め切らない翌々年の1990年の衆議院選挙では「民意」は社会党を136議席に躍進させたものの、果たしてもいい、果たさなければならなかった与野党逆転を拒否する、参議院で示したのとは逆の「民意」が動いた。
「民意」はかくかように「動く」。現在の参議院の民主選択の「民意」が次の衆議院選挙で同じように示される保証はない。だが、2年4ヶ月前の衆院での自民党選択の「民意」が半年前の参議院での民主選択の「民意」へと動いた結果である。3年前の衆議院選挙で「民意」が表した形跡は残っているが、「民意」自体は姿を変えている。そして現在、福田内閣支持率低下、どちらの政権が望ましいかという世論に対する問いに「民主党政権」を選択する「民意」へと働いている。もし自民党が3年前の「民意」が残っているとするなら、選挙で「民意」を問い、そのことを証明しなければならない。例え自公が選挙を制したとしても、当時の3分の2以上の「民意」は決して同じ形で残ることはなく、違った結果で動いていることを証明するはずである。
それを岩見は参議院の「民意」だけ動くものとし、2年4ヶ月前の「民意」はそのままに置く客観的合理性を欠いた歪んだ分析を政治評論家でありながら、テレビで示して何とも思わない。
そして姑息な自民党・公明党の選挙戦
大阪府知事選が1月10日に告示された。その大阪府だが、昨年暮れの12月30日というどん詰まりに情報公開せずに府債返済を借り換えの手法を使って総額3500億円ものカネを先送りして、その分を一般会計にまわして見かけ上赤字額を減らす「赤字隠し」を行い、財政再建団体に転落するのを防いでいたことが発覚してマスコミに報道されることとなった。
隠した分借金が減らないことになり、府債残高(一般会計)は06年度末で約5兆円に上るという。いわば素人が自転車で綱渡りに挑戦するような財政的に危険な状況にあるらしい。当然のこと、誰が当選しても赤字減らしと財政再建団体の回避という難関が待ち構えることになる。
元々大阪府は土地柄なのか大阪市も含めてムダ遣い・裏ガネ作りの放漫経営で日本全国に名を成していた。売れっ子になっていくらでもカネが入ってくる漫才師・お笑いタレントの類がいい気になって女と酒にカネを浪費するようなズサンな金銭感覚を役人たちも受け継いでいるようであった。
大阪府が府ぐるみで30年以上の長きに亘って取引企業に出させた架空請求書に支払ったと見せかける架空取引形式でその企業の口座に取引代金をプールさせて私的な飲み食いに使っていたとして市民団体の指摘で露見したのは横山ノック知事時代の1996年の12月である。遡った1年半の間で裏ガネは1億2千万円以上に達していたということだが、日本の経済発展に相連れ添って裏ガネ金額は累進的に増加していったと計算しても、30年をかけたら、相当な数十億単位となるのではないだろうか。やりにもやったり大阪府といったところである。
昭和で言うと東京オリンピックが終わった後の昭和40年代からで、日本が高度経済成長レースのスタートからほんの少し先を走り出していた頃のことである。そして昭和48年に第一次オイルショック、続いて昭和54年に第二次オイルショックのパンチを食らっていささかたじろぐことになるが、1986年末から「バブル景気」に突入、1991年の花開く春という季節に逆に経済の花は弾け散り、失われた10年へと足を踏み込むことになるのだが、世間がそのように浮き沈みしている間も大阪府は「30年以上の長きに亘って」公金の私的流用のバブルに浸っていたのである。
04年12月には今度は大阪市が93年から市職員OBに共済年金以外に1人当たり最高で計400万円となるヤミ年金とヤミ退職金が受取れる任意団体をつくり、維持資金としてこちらは11年の長きに亘って市職員の掛け金以外に300億円以上もの市費が投入されていたことが露見している。
大阪府の放漫経営と同質・同根の「県民・市民の税金?公金?そんなの関係ねえ、オッパピー」のお膝元大阪市の放漫経営なのだから、地方自治体に於ける上部組織の大阪府が関係ないとは決して言えない。上のなすところ、下これに倣う、である。いわばお互いに公金仕立てのうまい汁を吸い合っていた。
また借金依存の公共事業、その上に毎年40~50億円の予算を投入している同和対策はエセの圧力、あるいは威嚇を受けて相当に不明朗な部分を抱えているということだが、これらも放漫経営が許しているムダ遣いに入れなければならないだろう。
言って見れば、大阪府の赤字体質、借金隠しは大阪市共々職員の体質が中央官僚に劣らずに官僚体質化し、腐り切っていて、そのことが原因しているということではないか。
対して府知事選立候補の主たる3人とも大阪の「元気回復」を自らの政策のキーワードに掲げ、府民に訴えている。腐りきった府職員・市職員を背中にして、その方向には目を向けずに府民に顔を向けて、予算はどうする、こうする、ムダ遣いはやめると懸命に約束している。
いくら社長一人が頑張っても、社員が腐り切っていたなら、頭に描いた製品(=政策)は素晴らしいものであっても、頭に描いたとおりの製品はできないし、売れ行き(=政策実行)は製品の質に応じて希望どおりには運ばない。消費者(=府民)に恩恵をもたらす製品には出来上がってはいないからだ。いわば空回りすることになる。
とすると、府民に顔を向けて政策を訴えるにしても、背後の腐り切った府職員をどうするか政策の俎上に上げ、その扱いを根本に据えるべきではないだろうか。例えば橋下自公隠れ候補が公立小学校の運動場の全面芝生化をマジメ顔で訴えているが、多分子供たちに伸びのびと走らせるために考えついたのだろうが、伸びのびと走る場を提供したとしても、日常不断に伸びのびと走る機会を提供しなければ、赤字ハコモノ施設と同様の運命を辿ることになるし、場を提供しなくても、伸びのびと走る機会さえ提供すれば、どのような場所でも環境に適応して伸びのびと走るようになるもので、発想が逆だと思うのが、ハコモノに当たる芝生化が実現したとしても役人たちが県議とグルになってその工事を利権の餌食に変えてしまったなら、予算不足となって5年でできるところが10年かかる、20年かかるということになりかねない。
府庁が体内に抱えるガン細胞はにっちもさっちもいかない程に増殖し、全身転移していて治療には荒療治しかないと見なければならない。府職員を全員入れ替えて首のすげ替えを行うか、それが不可能なら、課長や部長といった上司の首のすげ替えを行うことで怠惰・怠慢な職務態度の者の身分保障・生活保障は請合わない前例を作り、それを楯にヤル気を出し、ヤル気を維持できる者を引き立てることを絶対条件とする人事を行うことを政策のトップに持ってくるべきだろう。それが実行できるか否かによって、他の政策の成否がかかってくる。
どうせ5兆円も借金を抱えていて財政再建団体転落寸前の状態なのだから、職員の削減は既定路線としなければならない。その機会を捉えて、大阪府のムダ遣い・借金づくりの放漫経営に指導的立場で多大に貢献してきた部長・課長クラスから始めて順次下位に向けて首を切っていく好機とすべきだろう。
独裁に走るのはまずいが、生活を失いたいか、失いたくないか、失いたくなければ、一生懸命に働けといった性格の強権が今こそ必要でないだろうか。街頭演説のどの候補の言葉も歯がゆく見えて仕方がない。
予断になるが、橋下徹自公隠れタレント候補はWikipediaによると、かつて<『サンデージャポン』で日本人団体による中国広東省珠海市での集団買春問題に関して、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」と発言し批判を受け、生放送で降板を宣言した(正確には降板させられた)。その後、2006年中期から時々ゲスト出演しており、その時には「青空有罪・無罪」の有罪という扱いで出演する(無罪は八代英輝)。先に『たかじんのそこまで言って委員会』で全く同様の発言をしたがこの時は問題に問われなかった。>となっているが、売春をそれが20歳以上の男女の1対1の取引であるなら否定はしないが、ODAに於ける国家予算の流れを売春に於けるカネの流れと同等・同質になぞらえる発想はさすが売れっ子のタレント弁護士だけあって見事という他ない。この発言は同等・同質扱いの言い草であるゆえに、「日本の中国へのODAは日本人による中国人女性に対する買春みたいなもの」と言い換え可能となる。ODAを買春程度と貶めているのである。
また豊かになった中国人が大量に日本に旅行に来て「買春」したら、「中国人による買春は日本に対する中国特需の一部だ」とでも表現しなければならなくなって、ありがたく受け止めなければならなくなる。確か週刊誌に成金中国人が日本人AV女優を上海だかに呼び寄せてカネに飽かせて甘い生活を漁っていると窺わせる内容の見出しを掲げていたが、橋下徹の主張に添うなら、日本のODAが一部貢献した中国人の成功物語と褒め称えなければならなくなる。
こういった独りよがりの発想人間を知事にと1票を投じる有権者の政治認識はやはり独りよがりが吸い寄せあう予定調和の結果なのだろうか。横山ノック辺りを知事に圧倒的多数で当選させた前科のある府民である。性懲りもなく橋下徹に1票を投じる府民が後に続いたとしても不思議はないと見なければならない。
同じWikipediaに橋下徹は体罰容認の発言をしていると出ていたが、小学校校庭全面芝生化発言は自らの体罰容認主張を薄め、中和させて曖昧模糊とするキレイゴトの疑いもある。
「橋下氏は知名度が高く、無党派層への支持を広げるには政党色を前面に出さない方がいい」との判断から自民党、公明党とも党本部としての推薦・支持を見送るとした記事が朝日新聞に載っていたが、政権交代か、政権交代阻止かの政党対決の様相を呈していて勝ち負けが有権者の意識に影響は与えないはずはない最近の政治状況と、毎日新聞の昨年12月の世論調査で次期衆院選は自民党と民主党のどちらに勝ってほしいかを尋ねたところ、民主46%、自民33%という結果が出ていること、さらに最初から無所属ではなく、自民党からの立候補要請を受けて決めた立場にあることを考え併せるなら、自公の代表を名乗り、名乗らせて政党色を前面に出すのが有権者の政治の行く末を見守る視線に応える正直な態度というものだろう。それがどう誤魔化しても誤魔化しきれるはずもないのに、「政党色を前面に出さない方がいい」と誤魔化すまやかしを平気でやらかせている。
何とも姑息な自民党であり、公明党であることか。
参考までに引用。
≪<衆院選>勝利期待は民主46%、自民33%≫(毎日新聞調査1月5日)
毎日新聞が昨年12月に実施した全国世論調査(電話)で、次期衆院選は自民党と民主党のどちらに勝ってほしいかを尋ねたところ、民主46%、自民33%という結果だった。その他の政党13%、無回答9%。「民主躍進、自民惨敗」となった昨年7月の参院選直後より民主党のリードが大きくなった。年金記録漏れ問題や防衛省の不祥事などで自民党への逆風が強まっていることがうかがえた。
この質問は今回で5回目で、いずれも民主党が自民党をリードしている。参院選直後の昨年8月調査は民主44%、自民37%で7ポイント差だった。9~10月の3回の調査では差が4~5ポイントに縮まったが、今回は13ポイントに開いた。
同時に質問した支持政党が自民26%、民主27%と拮抗(きっこう)していることを考えると、民主支持層以外にも民主党への期待が強いことを示した。
衆院選への関心については、「非常に関心がある」39%、「ある程度関心がある」43%で、計82%が関心を持っている。「あまり関心がない」は11%で、「全く関心がない」は3%だった。
衆院選の投票の際に最も重視するのは「政策」が51%で咲いた。「人柄」15%、「所属政党」11%、「経歴や実績」9%、「イメージ」3%などが続いた。当選した政治家に一番重視してほしいものは(1)「国全体の政策」62%(2)「地元への貢献」27%(3)「政府や政党幹部とのパイプ役」4%--の順で、有権者が政治家の政策立案能力に期待を寄せていることが浮かんだ。
衆院選で小選挙区と比例代表でどちらを重視するかは、「小選挙区」の68%が「比例代表」の21%を大きく上回った。【石川貴教】
今朝の朝日新聞に≪国の補助金受けた法人 閣僚16人にも献金 06年≫なる記事が出ている。内容は、国の補助金を受けている36法人が交付決定通知を受けた日から1年間献金を原則禁止している「政治資金規正法」に違反して、06年以降に閣僚を経験した国会議員(引退1人を含む)47人のうち、福田首相ら24人が代表を務める各自民党支部に対して同年、計1690万円の政治献金を行っていたとなっている。
記事によると、政治家側は「適用除外に該当する」、あるいは「寄付者が補助金を受けているか把握することは事実上、不可能だ」を免罪理由としている。「適用除外」とは同記事が<「試験研究、調査または災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないものを除く」と適用除外を規定している>としているが、そういった名目のもとに利益追求が行われているケースもあるという。
例え純粋に非営利部門に向けた補助金であっても、それを行うについて金銭的利益を受けることに変わりはない。それが順当・真っ当な性質の補助金なら、なければ業務に支障が生じるだろうからである。子供の成績を上げたくて学習塾に通わせたいと思っても、収入が許さなくて通わせることができない親にとって塾に通わせることを目的とした他処からの補助は親子にとって順当・真っ当な性質の補助となり、大いなる利益となるだろう。上(国・政治家・官僚)から利益を受けているという恩義が政治献金、その他の反対給付となって現れたということもできる。
それとも企業側にしたら利益行為・営利経営を禁ずるヒモつき・制限つきの自由に使えない補助金など必要ではないのだが、国側が天下り先や権限づくり、仕事づくりを目的として設けた補助金制度だから長い物に巻かれろで従った「補助金」の受給という形式を踏んでいるに過ぎないということなのだろうか。但し頂く一方ならやらずボッタクリとなって格好がつかないから、官僚にも天下り引受け、各種接待、その他の何らかのキックバック、政治家にも政治献金の形でキックバックの反対給付となった?
そのことの一端を<大手石油関連会社でつくる業界団体「石油連盟」は、経産省から06年度上半期だけで計約40億円の補助金の交付決定を受ける一方、協会に計8000万円を寄付していた。>とする上記朝日記事から窺うことができる。厳密に言うなら、利益に結びつけてはならない「40億円」である。そこから「8000万円」も(官僚へのキックバックを計算に入れたなら、「8000万円」で済まないだろう)捻り出すには陰で利益に結びつけているか、タダ同然となる「40億円」か、必要以上に補助された「40億円」か、そのうちのどちらかだろう。どちらであっても便宜を受けていることになり、その見返り・御礼が政治献金その他のキックバックということではないか。
多分他の部門から捻り出した「8000万円」だと言うだろうが、「8000万円」の余裕があるなら、原資は国民の税金で「補助金」の形を取っているに過ぎない。「40億円」-「8000万円」=39億2000万円の補助に抑えるのが社会責任上の順当な措置ではないだろうか。
「寄付者が補助金を受けているか把握することは事実上、不可能だ」に関して言うなら、企業側は補助を受けるについて受ける場合の注意事項を国側から説明されているだろうから(説明していないとしたら、国側の怠慢となる)、政治家側が「把握」不可能であっても、企業側の「把握」必須事項でなければならず、「事実上、不可能だ」という理由は成り立たない。
脱税や申告漏れで国税庁から追徴課税を受けた芸能人等が会計士が間違えたことで自分は一切関与していないと弁解する場面が跡を絶たないが、会計士を雇用するに当たって人気商売だから決して間違っていると指摘を受けることがないようにと前以て注意を伝えておくのが雇用者の人事義務であろうから、政治家の逃げ口実と同根の弁解に連ねることができる。
必須事項でなければならないにも関わらず、それを無視し、あるいは破って政治献金に走るのは利益(=補助金)に対する見返りの利益(=政治献金その他)をギブアンドテーク、あるいはキックバックの形で図らなければならない暗黙の圧力がそもそもから存在していたからだと疑うこともできる。大体が「政治資金規正法」の規定に則って政治献金という形での見返りの利益を考慮しないで済むなら、誰も法律をことさらに犯さないはずである。
企業側の「政治資金規正法」の規定違反に対応した政治団体側・政治家側の「政治資金規正法」の規定違反であり、その相互性から言えば、同じ穴のムジナとしての連携プレーと言えないことはない。
この政治家と企業との関係式は、官僚側からの企業側に対する随意契約の形を取った取引に於けるおいしいばかりの利益供与(市場価格を超える上乗せ部分は一種の補助金と言える)とそのような恩恵に対して、「今後とも当社に随意契約でお願いします」と飲み食い・ゴルフ・旅行等の接待、盆暮れの高額のお中元・お歳暮の贈答、あるいはパンフレットの監修料とかの名目を用意して「随意契約はありがたいことです。みなさんの利益にもなることです」と現ナマによる直接還流などのギブアンドテーク、あるいはキックバックに見ることができる官僚と企業との関係式と同じプロセスを踏み、同じ構図を描いている似た者関係にあると言える。
これを以て癒着の構図と言わずに何と表現したらいいのか。程度の低い政治性・程度の低い権威主義的権力性が可能としている程度の低い癒着関係・人間関係と言わざるを得ない。
参考までに引用。
≪国の補助金受けた法人 閣僚16人にも献金 06年≫(08.1.11/『朝日』長官)
<06年以降に閣僚を経験した国会議員(引退1人を含む)47人のうち、福田首相ら24人が代表を務める各自民党支部が同年、国から補助金を受けた36法人から計1690万円の政治献金を行っていたことが朝日新聞の調べで分かった。このうち甘利経済産業相と若林農林水産相を含む16人は在任中に、20法人から計931万円の献金を受けていた。尾身幸次前財務相、高市早苗前特命相はすでに企業側へ返金し、松田岩夫元特命相も近く返金する。(江口悟、四倉幹木)
政治資金規正法は、国の補助金を受ける法人が交付決定通知受けた日から1年間、献金を原則的に禁じている。一方で、補助金の対象について「試験研究、調査または災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないものを除く」と適用除外を規定している。補助金受給企業・団体からの献金は、自民党の政治団体「国民政治協会」が06年に109企業・団体から計7億8千万円を受け取っていたことが明らかになっており、国と企業などとの癒着を防ぐ規制が骨抜きになっている実態が改めて明らかになった。
06年分の政治資金収支報告書などによると、代表を務める自民党支部が、国の補助金交付決定を受けた法人から1年以内に献金を受けていた閣僚らは、現職では福田首相、町村官房長官ら8人。05年に発足した第3次小泉内閣と06年9月発足の安倍内閣では、安倍前首相や麻生太郎元外相ら16人で、24人への献金額は計1690円にのぼった。
福田首相や安倍前首相ら18人は、「適用除外に該当する」「寄付者が補助金を受けているかどうか把握することは事実上、不可能だ」などとして、献金に問題はないという考えを示した。3人は「事実を確認し対応を決めたい」と答えた。
献金していたのは建設、製紙、機械などの大手を含む36法人(述べ48法人)。06年に国土交通、経済産業、農林水産、環境、防衛の5省庁から新規事業支援など計70億円以上の補助金を受け、それぞれ5万~30万円を寄付していた。
即座に変換を
上脇博之・神戸学院大教授(憲法学)の話 補助金受給法人の政治献金は政治資金規正法で原則禁止されており、適用除外に該当することが明白でない場合は違法だ。仮に適用除外に該当しても、閣僚在任中の補助金受給企業からの献金は、大臣規範で「職務に関して廉潔性を保持する」と規定されている通り、即座に返金すべきだ。
また、誰が補助金を受けたかや適用除外の定義が国民に容易に分からない現状のままなら規正法第1条にある「政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにする」との立法目的に矛盾しており、適用除外の廃止が必要だ。>
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≪補助金受給の109企業・団体、自民に献金 計7億円≫(asahi.com/08.1.6)
<国から補助金の交付決定を受けた109の企業・団体が06年、自民党の政治資金団体「国民政治協会」に、計7億8000万円を献金していたことが朝日新聞の調べで分かった。政治資金規正法は、補助金を受けている法人からの政治献金を原則禁じているが、多くの企業・団体が「規正法の例外に当たる」と主張している。補助金受給法人が国との癒着を深めるために献金することを防ぐ規制が名ばかりとなっている実態が明らかになった。
政治資金規正法は、国から補助金の交付決定通知を受けた法人が1年以内に政治献金することを原則禁止している。一方で、「試験研究、調査または災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないものを除く」と規定。適用対象も法人格を持つ組織に限定している。
各省から企業・団体への補助金交付状況と国民政治協会の06年分政治資金収支報告書を朝日新聞が調べた結果、補助金の交付決定後1年以内に同協会に寄付をした企業・団体数は109あった。自動車、電機、建設、鉄道などの日本を代表する大手企業が多い。寄付額は計7億8030万円で、同年に協会が集めた企業・団体献金の総額27億9903万円の4分の1以上を占めた。
これらの企業・団体が献金までの1年間に交付決定を受けた補助額は判明分だけで280億円にのぼる。経済産業、国土交通、環境、農林水産の各省の補助金で、目的も先端技術開発、新エネルギー導入や温室効果ガス排出削減などの設備投資、交通施設のバリアフリー化など広範囲に及ぶ。
献金額の多い20余りの企業・団体に国民政治協会への献金について見解を聞くと、大半が「補助金は利益を伴うものではなく規正法の適用外」と説明し、適法な寄付だと主張した。
だが、判明した補助金の中には、マンションの開発や起業支援を目的としたものも含まれ、技術開発でも製品化・実用化に向けて企業側が提案した事業に対する補助金が少なくない。
総務省は「その補助金が利益を伴うものかどうかは、個別の事業ごとに営利を助長しているかなどを詳しくみる必要がある」と説明している。
また、大手石油関連会社でつくる業界団体「石油連盟」は、経産省から06年度上半期だけで計約40億円の補助金の交付決定を受ける一方、協会に計8000万円を寄付していた。だが、同連盟は法人格のない任意団体のため規正法の対象から外れ、補助金についても「利益を伴わない」と主張している。
自民党は「企業からの寄付はすべて国民政治協会が受け、個別の寄付については承知していないが、法律の範囲内で適正に処理しているものと理解している」と説明。国民政治協会は「個別の企業の経済活動について逐一把握することは社会通念上、不可能だ」とし、政治団体側が補助金受給の有無や内容を確認することは難しいという見解を示した。 >
本命と言われながらアイオワ州の予備選で3位に終わった上に引き続いてのニューハンプシャー州予備選の事前の世論調査ではトップ41ポイントのオバマ上院議員に13ポイントの大差をつけられ28ポイントしか支持のなかったヒラリー・クリントンが予想を覆して勝利をモノにした。
逆転の一因にニューハンプシャー州予備選の前日、劣勢著しい状況下でまだ態度を決めかねている有権者からの質問の最中に声を詰まらせ、涙を見せた姿がいつも自信たっぷりで強い女を演じていた姿に反して人間らしい一面を見せたと女性の同情票を誘ったとする見方を挙げている向きもあるが、しかし涙を「ウソ泣き」と突き放す批判もあった。
昨日昼の日テレのワイド番組「ミヤネ屋」でもコメンテーターとして出演していたタケシ軍団の一人、ガダルカナル・タカ(間違えているかもしれない)とか言うお笑いタレントが言下に「あれはウソ泣きだよ」と言っていたが、立場によって見方が違うことを知らない人間の物言いだと本人は気づいていない。
人間は支持する人間、好意を持っている人間に対しては常にいい方向に解釈しようとする。逆に悪意を持っている人間に対しては悪意ある解釈を施す。常に批判的な態度で向き合っている人間に対しては批判的な目でその人間を見る。
ただそれだけのことでしかない。実際にヒラリーの涙が「ウソ泣き」だったとしても、ヒラリーの支持者は大統領候補本命でありながらアイオワで3位という惨憺たる結末、そして事前の世論調査で13ポイントもの大差をつけられ、周囲だけではなくヒラリー本人も敗北を予想し、そのことに気持を備えていた違いない中で思わず弱気な気持ちが出た、是非勝たせて選挙戦に居残らせてやりたいと逆に気持を奮い立たせたかもしれない。ウソ泣きだとは思わずに。
逆にそれが「ウソ泣き」ではなく、抑えきれずに思わず出た弱気からの表情だったとしても、いわゆるヒラリー嫌い、あるいはオバマの熱狂的支持者にしたら、「ウソ泣き」と取るだろう。得点を稼ぐことになったなら困るからだ。人間は立場に応じて利害が異なってくる。利害が異なれば、当然解釈に違いが生じ、解釈に応じた「事実」がつくられることになる。
どう解釈し、どのような「事実」をつくり上げようとも、結果として態度を決めかねていた女性票を多く取り込んだとマスコミは解説しているが、ヒラリーに1票を投じた多くの女性、そして男たちも「ウソ泣き」と見なかったわけである。
態度を決めかねていたということはオバマに対してもヒラリーに対しても特に批判的でもなく、特に好意を持っているわけでもなかったということで、そういった中立的態度が仕向けた彼らなりの「解釈」がヒラリーに幸いした投票行動と見ることができる。
「ミヤネ屋」に同じくコメンテーターとして出演していた何かの評論家かどうか知らないが、「女性に対する拒絶感の強さと黒人に対する拒絶感の強さのどちらが強いかにかかっている」とコメントしていたが、これはステレオタイプな解説に過ぎないのではないだろうか。
確かに民主主義の進んだアメリカでも有色人種よりも白人の方が優秀だと考える人種的権威主義者もいれば、女よりも男の方が何かにつけて優秀だとみなす性差的権威主義者もいるだろうが、黒人やそれ以外の有色人種にしても男女の関係なく、また白人女性にしても性差に関係なく各分野に広く進出し広くアメリカ社会で活躍し、重要な地位にまで達している。
またアメリカは世界各国から人種や肌の色の違いに関係なく、優秀な人材を受け入れている。日本のように日本民族は優秀だとしていることからの単一民族に拘らない。NASAにもシリコンバレーにも多くのインド人、多くの中国人が進出し、活躍している。アメリカ人障害者の社会参加にしても、日本と比較してその比ではないだろう。
オバマ支持者の中には多くの白人がいるし、ヒラリー支持者には白人だけではなく、多くの黒人が集っている。候補者にしても黒人だ白人だと、あるいは男だ女だと区分けしていたなら、選挙を戦うこともできないだろう。
黒人初の大統領が出てきてもいいし、女性初の大領領が出てきてもアメリカの歴史からしたら不思議はない現象であろう。中国系、インド系、韓国系、あるいはアラブ系大統領も将来的には決して否定できないカードとしてあるはずである。
但し日系大統領は出てきて欲しくない。それはその人の個人的才能と努力にかかっている出来事だが、集団主義・権威主義に囚われている日本人は日本人が優秀だからと「解釈」して自らの民族性を誇ることになるだろうからである。優秀な民族性からではないことは周囲にいる優秀から程遠い日本の政治家自体の存在がそのことを逆説的に証明している。
ここで思うのは、ヒラリーが今回大統領にならなければ、女性初のアメリカ大統領という歴史的に記念すべき足跡は遠のくことになるのではないかという予想である。オバマはまだ若いし、次の機会が望める。現在46歳のオバマの8年後はあっても、現在60歳のヒラリーの8年後は余程のことがない限り望めないのではないだろうか。
参考までに。
≪ヒラリー氏の目に涙 支持率下落、「うそ泣き」の見方も≫(08.01.08/asahi.com)
米大統領選の最初の予備選が翌日に迫ったニューハンプシャー州で7日、同州での支持率が下降している民主党のヒラリー・クリントン上院議員が目に涙を浮かべる一幕があった。米メディアが一斉に伝えた。
米ニューハンプシャー州・ポーツマスで7日、まだ投票する人を決めていない有権者からの質問を受けるヒラリー・クリントン上院議員=ロイター。目がうるみ、何度か言葉を詰まらせた
いつも強気のクリントン氏が人間的な一面をみせたという同情論の一方で、「疲れが出たのだろう」「(有権者を取り込む)うそ泣きでは」といった見方も出ている。
3日のアイオワ州党員集会で3位に甘んじ、巻き返しをはかるクリントン氏は、州東部ポーツマスのカフェでの対話集会に出席。選挙戦の苦境を前提に、参加者の女性が「どうしたら、そんなに前向きでいられるのですか」と質問した。クリントン氏は「簡単ではありません」と苦しい思いを吐露。「自分が正しいと信じていなければ前向きではいられません。私は米国が後退するのを見たくないのです」と言いながら声を詰まらせ、目をうるませた。
米ギャラップ社がニューハンプシャー州で実施した最新調査(4~6日)によると、オバマ上院議員が41%でトップとなり、クリントン氏は28%。13ポイントの大差をつけられている。
クリントン氏の「涙」について、オバマ氏は「選挙戦は大変なものだ」と話した。
<平成18年8月に福岡市で幼児3人が死亡した飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ)に問われた元市職員、今林大被告(23)の判決公判が8日、福岡地裁であった。川口宰護裁判長は危険運転罪の成立を認めずに業務上過失致死傷罪を適用。検察側求刑の懲役25年を大幅に下回る懲役7年6月を言い渡した。検察側は控訴するとみられる。
危険運転罪の適用要件の「正常な運転が困難な状態」だったかどうかが争点。裁判長は「高度に酩酊した状態とは認められない」とし、「脇見による前方不注視」が原因と判断した。懲役7年6月は業過致死傷の併合罪としては最高刑。
被告は缶ビール1本と焼酎ロック9杯程度、ブランデー水割り数杯を飲んだ後、運転を開始したと認定。一方で、事故現場まで蛇行運転や居眠り運転をしておらず、事故の48分後に行った呼気検査でも酒気帯びレベルで、泥酔状態とまでは言えないと結論づけた。>とサンスポ(2008.1.9≪福岡3児死亡事故「危険運転」を認めず…判決7年6カ月≫一部引用)に出ている。
「ビール1本と焼酎ロック9杯程度、ブランデー水割り数杯を飲んで運転」して「高度に酩酊した状態とは認められない」とは羨ましいくらいのかなりの酒豪と言えるし、それだけ飲める懐具合にも羨ましさを感じる。
ロックは水割り程には薄まらない。ブランデーの水割は5倍に薄まったとしても、ブランデー自体が40度前後だろうから、8度に下がったとしても、4杯飲めば、計算上は32度になる。しかも3種類のチャンポンである。一種類に限って飲んだ以上に酔いがまわり、なお且つ醒めにくくなる。
毎日新聞(インターネット記事)が判決要旨を載せている。≪福岡・車転落3児死亡:福岡地裁判決(要旨)≫(2008年1月9日 東京朝刊)
<福岡市東区で06年8月に起きた3児死亡事故で、危険運転致死傷と道交法違反(ひき逃げ)の罪に問われた元福岡市職員、今林大被告(23)に対し、福岡地裁が8日言い渡した判決の要旨は次の通り。(呼称・敬称略)
◆主文
被告を懲役7年6月に処する。
◆認定事実
◇被告は06年8月25日午後10時48分ごろ、福岡市東区の海の中道大橋で、乗用車を時速約100キロで脇見運転し、大上哲央(34)運転のRV車に追突、海中に水没させ、大上紘彬(当時4歳)、倫彬(同3歳)、紗彬(同1歳)を水死させた。哲央と大上かおり(31)に約3週間の傷害を負わせた。
◇被告は呼気1リットル中0・15ミリグラム以上の酒気を帯び、車を運転した。
◇交通事故を起こしたのに負傷者の救護措置を取らず、警察官に報告しなかった。
◆危険運転致死傷罪の成否についての判断
危険運転致死傷罪について、刑法は「(アルコールなどの影響で)正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ」と規定している。「正常な運転が困難な状態」とは、正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、道路や交通状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることを必要とすると解すべきである。
被告は、海の中道大橋に入って50~60メートルの緩やかな左カーブが終わって直線道路に入った辺りから、右側の景色を眺める感じで脇見を始め、その後、前を振り向くと突然目の前に被害車両が現れたと供述する。被告供述は事故の態様と整合しているだけでなく、道路状況に照らしても不自然でない上、逮捕当初から一貫しており、十分信用性が認められる。被害車両を発見できなかった原因は脇見だったと認めるのが相当である。被告が被害車両を間近に迫るまで気付かなかったことについて説明できないことを前提に、正常な運転が困難な状態だったとする検察官の主張は誤ったものと言わざるを得ない。
被告は事故前に相当量の飲酒をした上で車を運転し、事故を起こしたが、スナックを出た後から事故現場まで車を走らせた間、アルコールの影響とみられる蛇行運転などはなく、衝突事故なども全く起こしていなかった。事故直前に車の速度を80~100キロに加速させたが、事故当時の道路・交通状況からみれば必ずしも異常とは言えない。
事故前後の被告の言動中には、検察官が指摘するように被告が酒に酔っていたことをうかがわせる事情が存在する一方、被告が相応の判断能力を失っていなかった事情も多数存在する。しかも、事故の48分後に実施された呼気検査の結果で、警察官は被告が酒気帯びの状態だったと判定していたことからすれば、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。被告がアルコールの影響により正常な運転が困難な状態だったと認めることはできない。
◆結論
検察官の主張に照らして関係証拠を検討しても、主位的訴因である危険運転致死傷の事実を認めることはできず、予備的訴因である業務上過失致死傷と道交法違反(酒気帯び運転)の事実を認めることができるにすぎない。
弁護人は事故当時、大上哲央が居眠り運転をしていたことで被害が拡大したと主張するが、居眠り運転の事実を否定する哲央の供述に疑問を差し挟む余地はない。弁護人の主張は失当である。
◆量刑理由
事故の結果は深刻かつ悲惨である。死亡した3児は両親に連れられて昆虫採集に出かけた帰途、車ごと真っ暗闇の海中に放り込まれ、尊い命を絶たれた。夢や希望に満ちあふれた人生を迎えようとしていた矢先、短い一生を終えなければならなかったもので、哀れと言うほかない。大上夫妻の悲しみや喪失感は筆舌に尽くし難く、夫妻が被告に対して峻烈(しゅんれつ)な処罰感情を抱いているのは当然である。
被告は女性をナンパする目的で酒気帯び運転に及んでおり、動機は極めて自己中心的で何ら酌量の余地はない。時速約100キロという高速度で運転し、犯行態様は危険極まりなく悪質。事故を起こすべくして起こしたと言うべきであって、厳しい非難を免れない。
ひき逃げについても、被告は車両が故障したためやむを得ず車を停車させたものの、その後も救護義務や報告義務を尽くさなかったばかりか、市職員の身分を失いたくないという自己保身から友人に身代わりを頼み、飲酒検知の数値が低くなると考えて友人に水を持って来てもらうなど犯情も誠に悪質である。
飲酒運転に起因する悲惨な交通事故が後を絶たないことは公知の事実であり、一般予防の見地からも被告には厳しい態度で臨む必要がある。被告の過失の程度の大きさ、結果の重大性、酒気帯び運転とひき逃げの悪質性を考えると、被告に対しては処断刑の上限に当たる懲役7年6月の実刑で臨むのが相当である。
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事故によって殺された3人の子供の死を「哀れと言うほかない」とはどういうことなのだろう。子供に向けるのではなく、被告に向けて「残忍」とか「残酷」といった言葉を使うべきではなかったか。他人事に聞こえて仕方がない。
今朝のTBS「みのもんたのズバッ」で、裁判長は「海の中道大橋に入る前に約2.7メートルの狭い道を車をこすりもせずに運転していた」ことを理由に危険な状態で運転していたとは言えないとしているということだが、自分が酔っていること、そして狭い道だと認識でき、なお且つ年齢が若くてそれ相応の運動神経を持っていたなら、かなり酔っていても、「気をつけろよ、車をこするなよ」と極度に緊張した状態で注意を払いさえすれば、スピードもそれ相応に抑えるだろうし、かなり酔っていてもそれを補って正常に見える運転はできるということを裁判長は知らないらしい。
問題は狭い道から広い道に出た後である。若い年齢の人間ほど、酔っていながら狭い道をうまく運転できた自慢と広い道に出たことからの安心感がない交ぜになって、逆に大胆な運転となる。それが海の中道大橋という広い道路での時速約100キロというスピードでの事故となった一因でもあろう。
何人かで若い少年たちが同乗した車がよく事故を起こすのは運転している少年が他の少年に運転がうまいことを見せたくてつい大胆な運転をすることと、巧みに運転する自分の姿に酔い痴れて、脳裏の目がそのような見事に運転する自分に向いていしまうからだろう。そしてますます見事な運転を見せようと抑えが利かなくなって最後には自らの運転技量を超えて車が暴走することになり、車が見る影もなくペシャンコに大破する大きな事故へと発展する。自分が気のある女の子か、あるいは逆に自分に気のある女の子が同乗していようものなら、なおさらにいいとこを見せようとして始末に悪い。
西日本新聞の(2008/01/08付 九州ねっと≪【福岡3児死亡事故の判決要旨】≫)には、<被告はこの道を通勤経路として利用し通り慣れており、終電が終わる前にナンパをしたいと思っていた被告が、午後10時48分という夜間に、車を時速80~100キロに加速させたからといって、それが異常な運転であったとまでは言えない。>と伝えているが、広い道でなお且つ<通勤経路として利用し通り慣れて>いたという安心感が、狭い道を運転するときの緊張感を失わせ、大胆な運転につながったと見ることもできる。
また毎日新聞の「判決要旨」には<被告は、海の中道大橋に入って50~60メートルの緩やかな左カーブが終わって直線道路に入った辺りから、右側の景色を眺める感じで脇見を始め、その後、前を振り向くと突然目の前に被害車両が現れたと供述する。被告供述は事故の態様と整合しているだけでなく、道路状況に照らしても不自然でない上、逮捕当初から一貫しており、十分信用性が認められる。>としているが、この裁判長の判断は<終電が終わる前にナンパをしたいと思っていた被告が、午後10時48分という夜間に、車を時速80~100キロに加速させた>と自ら言っていることと整合性はなく、相互矛盾した物言いとなっている。
被告は「終電が終わる前」の駅の光景と歩く若い女の姿を脳裏に思い浮かべて、その場面に意識の目を向けて脇目をする余裕もなくまっしぐらに走らせていたはずで、<右側の景色を眺める感じで脇見を始め>たいうのは合理性に欠ける。気持は駅にまっしぐらに向かい、頭の端に若い女に声をかけるシーンや相手が都合よく応じるシーンを思い浮かべていたはずである。だからこそ、終電に間に合わせようと「80~100キロ」のスピードを出していたのだろう。
朝の通勤時間帯に事故が多いのは、会社の始業時間に余裕のない場合、叱る上司や同僚の顔ばかりに気持が向かって、道路に向ける注意が散漫になるからである。車を運転しながら、前を見ているようで、実際は通らなければならない赤が長い信号や渋滞する道路、そして会社の始業のチャイムに目が向いてしまう。そのことを考えるだけで頭が一杯になって現実の視野を自分から狭めてしまう。
JR宝塚線の脱線事故も、運転手が停車位置に正確に停車せずオーバーランしたことから時間遅れが生じ、それが初めてではないために上司の懲罰・マイナス評価を気にし、それを帳消しにしたいばっかりに時間を取り戻そうとして焦って電車のスピードを上げた。次の駅に到着時間に限りなく近い時間で滑り込むことだけを脳裏に浮かべていて、電車がどれだけスピードが上がっているか、電車が普段とは違う異常な揺れを生じせしめていることなどに気づかなかったのではないか。周囲に目を向けていなかっただろうから。彼が見ていたものは次の駅のプラットフォームと時間だけだったに違いない。
被告は終電(=ナンパ)に間に合わせようと、<車を時速80~100キロに加速させた>。したたかに酒を飲んでいるなら、例え「酩酊」していなくても、前方及び周囲に最大限の注意を払って安全運転を心がけるべきを<80~100キロ>にスピードを上げなければ間に合わない駅と若い女に目を向けて運転していた。頭の中はそれで一杯だったに違いない。気持は前を走っている車を越えて、当然すぐ目の前を走っている車など目に入らず、前へ前へと<時速80~100キロ>以上の速さで進んでいた。ナンパすることだけを考えていた。頭の中はそれしかなかった。決して単なる「脇見」運転ではない。ある意味「正常な運転が困難な状態だった」。
その時点で、すでに車は凶器と化していたのである。このことだけでも「危険運転致死罪」に相当するのではないだろうか。
もう一つ。酒を飲んで運転している場合、法律で禁止されていることだから、ちょっとした事故を起こしても酔いは醒めてしまう。人生経験が浅く、世間ずれしていない人間、あるいは歳が一定以上経って身体の反応が鈍くなっているといった人間でなければ、事故を起こした場合の酔いの醒めは早い。<事故の48分後に行った呼気検査でも酒気帯びレベルで、泥酔状態とまでは言えない>検知数値だった言うが、単なる追突ではない、追突させた車が橋の欄干を破って海に飛び込んでしまったのである。半端ではない驚きが血流を早めて(事故を起こした後、心臓は破裂せんばかりの動悸を打っていたに違いない)アルコール混じりの血液を正常化してしまうということはないだろうか。その上、<友人に水を持って来てもら>って飲んでいることも酔いを醒ますに役立っているだろう。
酒酔い運転で事故を起こした多くの人間がその罪の重さを恐れて轢き逃げを行う。中には巧妙にも酔いが醒めたところで自首して罪を軽くしようと謀る。そういったことも<相応の判断能力を失っていなかった事情>として考慮されるのだろうか。
参考までに西日本新聞の≪【福岡3児死亡事故の判決要旨】≫(2008/01/08付 九州ねっと)
<福岡地裁が8日言い渡した3児死亡事故の判決要旨は次の通り。
■【総論】
危険運転致死傷罪が成立するためには、単にアルコールを摂取して自動車を運転し人を死傷させただけでは十分でない。同罪に当たる「正常な運転が困難な状態」とは、正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、現実に道路や交通の状況などに応じた運転操作が困難な心身の状態にあることを必要とする。
■【事故状況】
今林大(ふとし)被告は事故直前に前方を走行していた大上哲央(あきお)さんの多目的レジャー車(RV)に気付き、急ブレーキをかけて衝突を回避しようとしたが、RVの右後部に衝突した。被告は「海の中道大橋」の直線道路に入った辺りから、右側の景色を眺める感じで脇見を始め、前を振り向くと突然目の前にRVが現れたと供述し、十分信用できる。
RVを直前まで発見できなかったのは、脇見が原因と認められる。被告はこの道を通勤経路として利用し通り慣れており、終電が終わる前にナンパをしたいと思っていた被告が、午後10時48分という夜間に、車を時速80―100キロに加速させたからといって、それが異常な運転であったとまでは言えない。
■【飲酒状況】
被告は2軒の飲食店で飲酒後、運転を開始した時に、酒に酔った状態にあったことは明らか。しかし、その後の具体的な運転操作や車の走行状況を離れて、運転前の酩酊(めいてい)状態から直ちに「正常な運転が困難な状態」にあったという結論を導くことはできない。
被告は事故直後、ハザードランプをつけて降車したり、携帯電話で友人に身代わりを頼むなど、相応の判断能力を失っていなかったことをうかがわせる言動にも出ている。飲酒検知時も千鳥足になったり足がもつれたりしたことはなく、現場で警察官は、呼気1リットル当たり0.25ミリグラムという検知結果や言動などを総合し、酒酔いではなく酒気帯びの状態だったと判断した。高度に酩酊した状態にあったとする検察官の主張には賛同できない。
同じ量のアルコールを摂取しても、得られる血中アルコール濃度には個人差が相当大きいので、鑑定などを根拠に事故当時の被告の血中濃度が1ミリリットル当たり0.9―1.0ミリグラムだったと認定するのは合理的な疑いが残る。また血中濃度がその程度になれば、前頭葉などが抑制され前方注視及び運転操作が困難になるとした鑑定意見も、症状に個人差があると説明しており、正常な運転ができない可能性があることを指摘したにとどまる。直ちに前方注視及び運転操作が極めて困難な状態にあったとまで認めることができない。
■【総合判断】
今林被告は事故現場まで蛇行運転や居眠り運転などをしておらず、その間に衝突事故も起こしていない。事故当時、状況に応じた運転操作が困難な心身状態にあったかどうかをみると、被告は2軒目の飲食店を出発して事故後に車を停車させるまでの約8分間、湾曲した道路を進行し、交差点の右左折や直進を繰り返した。幅約2.7メートルの車道でも車幅1.79メートルの車を運転していた。
また事故直前には大上さんの車を発見し、ハンドルを右に切って衝突を回避しようとし、反対車線に飛び出した自分の車を元の車線に戻している。これらの事実は、被告が状況に応じた運転操作を行っていたことを示し、正常な運転が困難な状態にはなかったことを強く推認させる。
事故直前に脇見運転を継続しているが、走行車線を大きくはみ出すことはなく、前方への注意を完全に欠いたとまでは言えない。事故の48分後に行った呼気検査では酒気帯びの状態と判定され、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。
以上の通り、危険運転致死傷罪の成立は認めることはできず、業務上過失致死傷と道交法違反(酒気帯び運転)の罪に当たる事実が認められるに過ぎない。
弁護側はRVの大上さんが居眠り運転をしていたと主張するが、大上さんの供述の信用性に疑問はなく、失当である。
■【量刑の理由】
3児は幸せな日々を送っていたが、理不尽にも短い一生を終えなければならなかった。海中で必死の救助に当たった大上夫妻が体験した、不条理で残酷な極限的状況には想像を絶するものがあり、被告に峻烈(しゅんれつ)な処罰感情を抱くのは当然である。
被告は事故以前にも4件の交通違反歴があり、酒気帯び運転もしていたと述べており、交通規範意識は著しく鈍磨していたと言わざるを得ない。
被告の過失の大きさや結果の重大性、酒気帯び運転、ひき逃げの悪質性などにかんがみると、処断刑の上限に当たる実刑をもって臨むのが相当である。
国民の命をトカゲのシッポとする「命の生き剥がし」思想
昨年暮れの朝日新聞(07.12.31朝刊)に≪歴史は生きている 東アジアの150年 ≫と銘打った特集記事が出ている。その≪第7章 アジア・太平洋戦争と国共内戦 下≫は≪国共両軍に残留日本人がいた≫という内容となっている。
但し、自発的「残留」でもないし、自発的「入隊」でもない。記事は次のように伝えている。日本は45年8月にポツダム宣言を受諾した。将兵は武装解除して帰国するはずだったが、中国山西省の省都・太源に司令部が置かれていた日本の「支那派遣軍北支那方面軍第1軍」の5万9千人のうち2600人もが残留し、共産軍との戦いで550人が死亡、奥村さんら700人以上が捕虜になった。
「そりやあ、日本に帰りたかったですよ」と奥村さんは言う。「でも、上官に残れといわれれば従うしかありません。軍隊では、上官の命令は天皇の命令。抗命、反抗はできないのです」
記事は残留の理由を、日本の第1軍司令官・澄田らい(貝偏に來)四郎中将らにかけられていた戦犯の容疑を免れる代わりに日本撤退後に内戦になれば劣勢は必至だった山西省を支配していた国民党系の軍閥リーダー、閻錫山(えん・しゃくざん/イエン・シーシャン)を支援する交換条件で日本軍の一部を残す取引したためではないかとしている。
帰国した奥村さんたちは自分の意思で勝手に残ったとされ、日本の政府から旧軍人としての補償を受けることができず、裁判でも敗訴したという。
軍の命令での残留ということにしたなら、天皇の大日本帝国軍隊は「天皇」と冠する限り無誤謬でなければならなかったその絶対性を自ら破棄することになる、それを守るための「沖縄集団自決軍強制無罪説」と同じ線上の「自分たちの意思で勝手に残った」とする歴史偽装に違いない。
一方共産党軍に加わっていたのは満蒙開拓青少年義勇隊に所属していた兵頭さん、坂口さんで、戦後の46年9月、関東軍(旧満州の日本軍)の傷病兵を運ぶためと思って担架を運ぶ訓練をさせられた後、送り込まれた場所は国共内戦の激戦地の共産党軍で、そこで担架隊員にさせられた。
なぜなのか、当時はわけが分からなかったが、「今は思い当たることがある。関係者に迷惑がかかるから」と思い当たることを明かさない。
その後坂口さんは戦死、兵頭さんは中国各地を転戦、内戦が終わった後は薬剤師となり、58年に帰国。当時を振返って次のように述べていると記事は記している。
「帰国させようとしても、途中の国民党軍の勢力地域で捕まって使われる。ならば共産党軍で使おうと考えたのでしょう」
前後で言っていることと矛盾がある。引き揚げ途中で「捕まって使われる」怖れは引揚者すべてが共有しなければならない同じ条件であろう。それを引き揚げる者と残す者を差別化し、同じであるべき条件を無効としている。
これは「支那派遣軍北支那方面軍第1軍」の5万9千人のうち2600人が同じであるべき引き揚げ条件を無効とされて国民党系の軍閥軍隊に強制的に入隊させられた差別化と同じ構図をなす。
このような関係構図に上から下に向けた犠牲強要の力学が存在しなかったと日本軍の無誤謬性・絶対性を今以って信じている現在も天皇主義者であり、国家主義者である人間を除いて誰も否定はできまい。正直に話したなら、「関係者に迷惑がかかる」事情が隠されていたと見るべきである。
国民党系の軍閥軍への強制的入隊にしても明らかに他者に犠牲を強いることによって自らを助ける生贄の構図そのものを窺うことができる。
1929年締結の「ジュネーヴ条約27条」は「捕虜を抑留し、将校およびこれに準じる者をのぞく健康なる捕虜を労働者として使役する権利は、これを捕獲した交戦当事国にある」、「75条」は、「交戦者が休戦条約を締結せんとするときは右交戦者は原則として捕虜の送還に関する規定を設くべし。この点に関する規定が右条約に挿入せられ得ざりし場合といえども交戦者は成るべく速に之が為連絡をとるべし。一切の場合に於いて捕虜の送還は平和克復後成るべく速に行はるべし」(『第二次世界大戦と捕虜問題』藤田勇・神奈川大学/社会主義法から引用)とそれぞれ規定しているということだが、日本軍が一部の兵を帰国させずに共産党軍および国民党軍の利益に供したのは上記条約の規定の逆を行く行為となっている。捕虜でない者をわざわざ捕虜の形にして提供したのである。
これは「役務賠償」の一変形であろう。『第二次世界大戦と捕虜問題』でもシベリア抑留が「役務賠償」の疑いが限りなく濃いことに触れているが、【役務賠償】(えきむばいしょう)とは「労力を提供することによって相手国に与えた損害を賠償すること」(『大辞林』三省堂)を言うが、誇り高き天皇の軍隊の澄田中将の場合の実態はその誇り高き人格にふさわしく「労力を提供することによって」自らの身の安全を交換条件としたとなる。
「役務賠償」については当ブログ記事≪薬害肝炎/「命の生き剥がし」は日本の歴史・文化・伝統≫(07.10.28/日曜日)で、「天皇の軍隊・関東軍は開拓民に対する『命の生き剥がし』だけではなく、ソ連軍に捕らえられた日本兵捕虜の即時送還を国際法に基づいて求めることはせずに、逆に<帰国までの間「極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います」>(93、7.6『朝日』≪旧満州捕虜のシベリア使役 関東軍司令部から申し出≫)と「役務賠償」の生贄に利用する目的の「命の生き剥がし」を将兵に対して行っている。そう申し出たご褒美に自身の身の安全を保証してもらう自己保身からのゴマすりだったに違いない。」と部分的に触れ、2003年8月3日アップロードの自作HP「市民ひとりひとり/戦争百態」でも、「シベリア抑留者は、捕虜中の未払い賃金の支払いを求める訴訟を政府に対して起こしています。南方から帰国した捕虜には労働賃金が支払われ、シベリア抑留者には支払われていないということです。特に民間人を含めたシベリア抑留は、大本営が「国体護持」と引き換えにソ連に労働力として提供した<役務賠償>の産物であった疑いを示す、大本営参謀名の視察報告書がロシア軍関係の公文書施設で発見されたと、1993年8月13日の朝日新聞が記事にしています。同記事は、『ソ連に捕虜の一部を労働力として差し出す「役務賠償」については、昭和20年7月に昭和天皇から対ソ平和交渉を命ぜられた近衛文麿元首相が作成した天皇制維持を目的とする『和平交渉の要綱』に盛り込まれている」と解説しています。そのときの和平交渉は、ソ連に拒否されていますが、敗戦前の『昭和20年7月』の段階で、大日本帝国という国家は、国民を生け贄にする意志は持っていたという事実が存在し、シベリア抑留はそのような意志の発展形として発生したものではないかという疑いを引きずっていた歴史性を持ち、その疑いを証明する視察報告書の発見となっています。」と触れてみたが、この「役務賠償」はあくまでも国体護持(天皇制維持)を至上命題とし、交換条件として国民の命を犠牲とする生贄の構図を描いている。
いわば近衛文麿が『和平交渉の要綱』で示した国体護持を優先課題とした「役務賠償」の提案を関東軍が軍隊護持、あるいは軍上層部の身の安全を優先課題としてソ連軍に捕虜となった日本兵及び民間人に応用した犠牲の構図だっただろうということである。
そして敗戦決定後の中国に於ける日本軍の帰国から外され、共産党軍や国民党軍に編入させられた兵士たちも軍そのものの体裁を維持するため、あるいは軍上層部の延命の犠牲とされて「役務賠償」の形を取らされた。このこと以外の真相は考えにくい。
近衛文麿の国体護持・天皇制至上主義は戦前の絶対的天皇制の一端を重要な立場で支える皇族の一人だったのだから、当然の姿勢であろう。あくまでも初めに天皇制ありきなのである。国体護持・天皇制維持のためには何でもする、国民の犠牲を何らいとわない、歯牙にもかけないが基本的国家観だった。
このことは太平洋戦争の戦局悪化に際して近衛文麿が1945年、敗戦の年の2月に上層した文書(「近衛上奏文」)にも如実に現れている。
近衛文麿の上奏文(抜粋)
敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候、以下此ノ前提ノ下ニ申述候。
敗戦ハ我カ国体ノ暇僅(カキン)タルヘキモ、英米ノ輿論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス(勿論一部ニハ過激論アリ、又将来如何(イカ)ニ変化スルヤハ測知シ難(ガタ)シ)随(シタガッテ)敗戦タケナラハ国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戦ヨリモ敗戦ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。
ツラツラ思フニ我力国内外ノ情勢ハ今ヤ共産革命ニ向ツテ急速度ニ進行シツツアリト存候。即チ国外ニ於テハソ連ノ異常ナル進出ニ御座侯。(中略)
カクノ如キ形勢ヨリ押シテ考フルニ、ソ連ハヤカテ日本ノ内政二干渉シ来ル危険十分アリト存セラレ候(即チ共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府ニ要求セシ如ク共産主義者ノ入閣、治安維持法、及防共協定ノ廃止等々)翻(ヒルガエッ)テ国内ヲ見ルニ、共産革命達成ノアラユル条件日々具備セラレユク観有之候。即(スナワチ)生活ノ窮乏、労働者発言度ノ増大、英米ニ対スル敵愾心(テキガイシン)昂揚ノ反面タル親ソ気分、軍部内一味ノ革新運動、之二便乗スル所謂(イワユル)新官僚ノ運動、及之ヲ背後ヨリ操リツツアル左翼分子ノ暗躍等ニ御座候。右ノ内特二憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動二有之候。(中略)
昨今戦局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉砕ヲ叫フ声次第ニ勢ヲ加へツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動(センドウ)シツツアルハ、之ニヨリテ国内ヲ混乱ニ陥レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨(ニラ)ミ居り候。
一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空気ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル様ニ御座候。軍郡ノー部ハイカナル犠牲ヲ払ヒテモソ連ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安(中国共産党ノ拠点)トノ提携ヲ考へ居ル者モアリトノ事ニ御座候。(中略)
戦局ノ前途ニ付キ何等カ一縷(イチル)テモ打開ノ望ミアリト云フナラハ格別ナレト、敗戦必至ノ前提ノ下ニ論スレハ勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随(シタガッ)テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速(スミヤカ)ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ、満州事変以来今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼ラハ己二戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。(中略)
ソレハトモ角トシテ、コノー味ヲー掃シ軍都ノ建直シヲ実行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提、先決条件ナレハ、非常ノ御勇断ヲコソ願ハシク奉存候。
(外務省編『日本外交年表竝主要文書』下より)
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近衛のこのような国体護持・天皇制絶対主義の姿勢は敗戦前後の天皇の戦争責任問題にも現れている。彼が唱えた天皇退位はあくまでも昭和天皇個人に戦争責任を帰すことで国体護持・天皇制維持の身代わりとする主張であって、他権力にその絶対性を利用させることになっている二重権力構造の原因たる天皇制そのものの罪を問い質したものではなかった。
いわば戦争責任の生贄を昭和天皇に求め、そもそものハコモノたる天皇制という国家体制(=国体)の延命を図った。その構図はソ連に捕虜の一部を労働力として差し出す「役務賠償」案の国民を生贄とし、犠牲とさせる構図と対称をなす。言ってみればトカゲのシッポ切りであろう。国民だけではなく、昭和天皇をも国体護持・天皇制維持のためにトカゲのシッポに変えようとした。
中曽根康弘が戦後国会で吉田茂首相に対して行った天皇退位に関する質問に対しても、基本は天皇制維持に立った質問から出ていない。
大宅荘一はその著『大宅荘一全集第23巻 実録・天皇』で、「どっちも決定的証拠があるわけではないが」と断りを入れて、明治天皇の父親孝明天皇の暗殺説を紹介している。「終戦後になって、京都市に保存されている資料の中に、当時祈祷師として多くの信者を持っていた日蓮宗の僧侶の日記が発見された。それによると、天皇が急病だというので、あわてて御所にかけつけたとき、天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息だったという(一説によると、その前の日に岩倉具視が天皇に新しい筆を二本献上したが、その穂先に毒が含ませてあったのだともいわれている。天皇は筆をとるといつもなめる癖があったからだ)。
アーネスト・サトーはその『日本滞在記』の中で、
風評では崩御の原因は天然痘だといわれたけれど、幾年か後に、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝はたしかに毒殺されたのだと教えられた。・・・・東洋では偉い人の死因を毒殺だとすることは、きわめて普通であると書いている。」と。
孝明天皇は反王政復古派で、統幕派の一部公家と薩長の討幕派に不都合な存在だった。孝明天皇の死後、明治天皇は15歳で即位した。言いなりになる都合のいい存在になることは十分に計算できた年齢だったろう。
もし暗殺説が事実なら、孝明天皇にしてもトカゲのシッポとされたと言える。
このような国民を生贄に供し、その犠牲をいとわない天皇制維持優先・国体護持優先の国家観は国家を形成する上層部の人間ほど強く信念していただろうから、民間よりも軍隊組織優先、兵士よりも上官優先・将校優先は当然の成り行きとしてあった構図であったろう。
勿論この天皇制維持優先・国体護持優先の国家観は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を基盤とし、その上に最も大袈裟な形を取って成り立たせた思想であろう。
そしてそのような思想は今以て国民の命の生き剥がし・犠牲を何とも思わない国家優先・大企業優先の政治に脈々と受け継がれている。派遣や請負といった労働形態で以って「生活」を人質・捕虜に低賃金・長時間を強制する戦後型「役務賠償」に姿を変えて生き続けている。
参考までに、≪「退位」揺れた天皇/歴史と向き合う≫(06.7.13.『朝日』朝刊)から中曽根の退位問題に関わる質問に対する自らの感想の部分を引用。
終戦後自らの周囲に語る/中曽根康弘
私が衆院予算委員会で昭和天皇の退位問題について質問したのは、51年4月にサンフランシスコ平和条約の調印があり、翌52年4月には条約が発効するというときだった。
いよいよ日本が占領体制から脱却し、独立国家として基本体制をつくってゆく大事な時期だという自覚のもとに、時の吉田茂首相に質問するという形で取り上げたのです。
天皇の側近だった木戸幸一さんや、東大総長だった南原繁さんが、天皇退位論を唱えていた。この問題について、国民はどう判断していいのか迷っていたし、答を求めていた時代でもあった。
保守政治家がそういう質問をするのは勇気のいることだったが、国民がもやもやしている問題に結末をつけておく必要があると考えた。
質問の真意は次のようなものだった。
人間天皇となられた天皇は過去の戦争について非常に苦悩されておられるのではないか。もし天皇に退位したいというお気持ちが万一あるような場合は、吉田首相はそれを抑えてならない。もとよりこれは天皇ご自身が決められることで、外からとやかく言うべき問題ではない。もしそういうことが行われるとすれば日本国民は感銘し、戦没者遺族は感泣し、天皇制の基礎である道徳性が強化、確立されるのではないか。
吉田さんは私の質問の意味を曲解して、「天皇退位を希望するが如き者は非国民」と、珍しく強い口調で答弁した。
吉田さんの誤解はともかく、あの段階ではおそらく、天皇退位論というものに結末がついたような感じだった。国会でそういう議論が行われ、首相の決意が明確になったということによって。
昭和天皇はヒューマニストで、正義感の強い方であったから、大戦の結果については責任を感じられていたと思う。ただ、それは天皇ご自身の心の問題であって、天皇のそういう問題についてあれこれいうべきではないと思う。私自身、その後、首相になって昭和天皇に身近に接した、その実感からすると、昭和天皇という方の人間性、愛国心に触れて、やっぱり退位されないで、がんばってくださってよかったと痛感しました。
それでは、あの戦争の責任は誰が取るのか。戦争までもっていった軍部の指導者や判断を誤った政治家には責任がある。ただし、その責任を裁こうとした東京裁判は、戦勝国が「平和に対する罪」「人道に対する罪」などそれまでなかったものを事後法的につくって、一方的に行った裁判であり、正当なものではなかったと私は主張している。
平和条約11条は、政府の定訳によると、日本は「裁判を受諾し」、その執行に責任を持つとされているが、あの英語は「ジャッジメンツ」(judgements)とあり、複数になっているのは判決のことである。だから正当な解釈は、「判決を受諾し」であり、内容を含めた裁判ではない。
しかし、あの戦争についての責任はいつかが日本国民自身によって問うことが、後世のためにも必要だと考えてきた。戦後60年過ぎて今、ジャーナリズムが改めてその検証に動いていることは、いずれ日本の歴史の上で出てくるべきものが出てきたという感じがしますね。(聞き手・斉藤淳一)
「京都議定書」約束期間が08年1月1日から開始。環境、経済産業両省の審議会合同会合が昨年暮れに二酸化炭素(CO2)6%削減目標値達成は国内的な自力努力で可能と発表したが、年が明けた08年1月3日の『朝日』朝刊≪環境元年 カモにされる日本 排出権購入額、兆単位に?≫を見ると、発表とは少々趣を異にして、排出権取引なる他力要素が必要と受け取れる内容となっている。記事を箇条書きに要約してみる。
①日本政府や日本企業が「キョウト」のために二酸化炭素(CO2)排出権
を世界中で買い集めている。
②日本政府と商社、電力会社、鉄鋼メーカーなどが、中国などアジア各
国や南米で買い集めているのが、CDM(クリーン開発メカニズム)
やJI(共同実施)事業による排出権。07年末時点で、268件。手に入
れる排出権は1億トンを超え、日本は英国に継ぐ大口の「買い手」と
なっている。
③京都議定書で日本は08~12年の5年間で90年比6%削減の義務を負うが
(米国7%、欧州連合8%)、06年の排出量(速報値)は逆に6・4%の増
加。日本の省エネ技術は最高レベルで、大幅削減に向けたこれ以上の
飛躍的な技術発展は難しい。12年の約束期間の終盤にさらに大量の排
出権の購入が必要となる。
④市場では日本が必要とする排出量は5年間で最大10億トンとも言われ、
日本の需要による排出権価格の高騰を見込んで、「欧州の企業が買わなく
ても、いずれ日本が買う」と見て、欧米の金融機関が高い価格を提示して
量の確保に動いている。
⑤もし排出権価格が2倍に高騰すると、5兆円。現在の価格でも2兆円以上
のカネがCO2のために使われることになり、国民負担へと転化されるこ
とになる。
⑥二酸化炭素(CO2)の排出問題は2012年で解決するわけではないから、
「欧州のディーラーは2013年以降の排出権も買っている」とアナリスト。
⑦日本は「ポスト京都」の枠組が決まっていないという理由で、2013年以降
の排出権を買う動きはない。
⑧日本はEUのような国内の排出権取引市場をつくることに経団連が反対
しているために、CO2を外国から「買う」ばかりで、国内で「売る」場が
ない。
⑨反対の理由は、厳しい排出枠が企業に課せられると国際競争力を失い、
逆に海外で非効率な生産を拡大させてしまうためとしている。経団連の
三村明夫副会長(新日本製鉄社長)は「排出権取引はCO2の削減に役立た
ない」との姿勢。
⑩ドイツ環境省エネルギー部長「日本の産業はドイツの10年前とまったく
同じ議論をしている。欧州では、排出権取引がコストとなる一方で、ビ
ジネスチャンスも提供するということが、今では理解されている」
経団連の三村明夫副会長が言うように、「排出権取引はCO2の削減に役立たない」かどうかは分からないが、2012年の約束期間までに「90年比6%削減の義務」は履行しなければならない「京都」約束であって、しかも「06年の排出量(速報値)は逆に6・4%の増加」という逆進状況を順次抹消していくためには排出権取引に頼らざるを得ないとなったなら、兆単位の半端でないカネのかかる「約束」履行となる。記事は排出権価格が現在の水準で推移したとしても(その可能性は限りなく低いが)、2兆円以上のカネがかかるとしているのである。
ここで2006年の90年比+6.4%というCO2総排出量(13億4100万トン)の部門別内訳とそれぞれの増加率を見てみる。
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部門 ―排出量―増加率――内訳 (資源エネルギー庁/06.6.12)
産業部門―38.0%―±00%――企業関連
運輸部門―20.7%―+22%――トラック・乗用車・飛行機・船
事務・商業―15.6%―+33%――オフィス、スーパー、野球場など
家 庭 ―13.5%―+30%――家電、クーラー、テレビ、照明
その他 ―6.8+3.8+1.8% ――エネルギー、工業プロ、廃棄物
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「運輸部門」は13億4100万トン×20.7%=2億7759万トンの排出量である。
次に平成19年9月末現在の保有全車両台数79,682,171台のうち乗用車は57,889,737台という統計を当てはめると、全車両に占める乗用車の割合は約73%となる。ここから「運輸部門」に於ける乗用車の二酸化炭素排出量を概算してみると、2億7759万トン×73%≒2億0265万トン(乗用車の二酸化炭素排出量)。これは2006年総排出量の15.1%を占める。
環境白書によると1900年の二酸化炭素総排出量は11億4400万トンだそうで、その「6%削減」の義務を負うとすると、6864万トン削減して、10億7536万トンまで持っていかなければならない。
これは2006年時点の排出量で推移すると仮定しても、この年のCO2総排出量(13億4100万トン)-10億7536万トン=2億6564万トン・19.8%の削減義務を負うことになう。これを08~12年の5年間で平均して削減していくと計算すると、1年間に5312万トン・3.96%ずつ削減していかなければならない。
『平成19年版 図で見る環境/循環白書』によると、「産業部門では依然として二酸化炭素の排出量の割合は大きく、京都議定書の部門別目標値には及ばないため引き続き取組の推進が必要となる。しかし様々な省エネルギー対策技術の導入など取組が進んでおり、基準年である1990年との比較では排出量は減少している。
民生部門(業務その他、家庭)、運輸部門の二酸化炭素排出量は、基準年である1990年と比較して全体として大幅な増加 (業務その他44.6%、家庭36.7%、運輸18.1%) となり、かつ、2005年現在57%と相当の排出割合を占めている。逆に見れば、これらの部門に関わる多くの人々が取組を進めることにより、削減効果は非常に大きくなるものと期待できる。
このため、特にこれらの部門を中心に、実用段階にある技術の普及による二酸化炭素排出量の削減について見ていくこととする」と出ている。
先に見たように「運輸部門は」1990年比22%増の2億7759万トンの排出量となっている。計算方法が違うのか、上記『平成19年版 図で見る環境/循環白書』の「運輸18.1%」の数値と加えている項目に違いがあるのか、計算方法が違うの分からないが、ズレがある。
尤もズレがあっても、1990年比増加率は、「家庭」、「事務・商業」に次いで「運輸部門が3番目に位置する排出量であることに変わりない。
車は地球環境の保全に迫られてガソリン車から電気自動車へと、歩みは遅いがシフトしつつある。排出権価格が現在の水準で推移したとしても2兆円以上のカネがかかるとするなら、その2兆円を電気自動車の普及に全額活用したなら、乗用車が排出する二酸化炭素を減らすことができるだけではなく、普及に対応したバッテリーのより優れた性能・より優れた耐久性を持った製品への開発と大量生産によるコストダウンによって、電気自動車自体のコストダウン、その相乗効果としてのさらなる普及と開発、そして家庭用の太陽熱発電に於ける蓄電池として利用することもでき、間接的に火力発電所等の二酸化炭素排出を抑制することができるはずである。
あるいは太陽熱発電装置を持たない家庭、その他小規模な工場・商店・事業所等がそれぞれ蓄電池を備えることでほぼ人間活動を停止する深夜の余剰の電気を蓄電し、それを活動を開始した日中の電気エネルギーに振り向ければ、二酸化炭素排出の負荷を抑えることができるはずである。発電所にしても二酸化炭素排出の抑制だけではなく、深夜の使用電気量が増え、昼間のそれが逆に減ることによって、平均した発電作業を行うことができ、余分な無駄が省けるのではないだろうか。
また乗用車の運転エネルギーをガソリンから電気に変えることによって、トウモロコシ、大豆等がバイオ燃料としてガソリン代替燃料に振り向けられ、食品や飼料にまわらずに高騰する現象を抑えることができる。
平成19年9月末現在の保有全車両台数79,682,171台のうち乗用車は57,889,737台だそうだ。現在電気自動車は300万円までコストダウンしているという。1台につき100万円を国が補助して1台の値段を200万円とし、自治体や官公庁にリースではなく購入させるとすると、2兆円÷100万円=200万台を走らせることができる。
完全充電で走行可能な約200kmを走行するために必要なガソリン代約3000円(燃費10km/ℓ=150円)に対して、電気普通乗用車は約750円(昼間25円)~330円(夜間11円)
だとする統計がある。
その差額は電気自動車は平均を取って600円とすると、2400円の節約となる。自治体や官公庁の場合の走行距離はたいしたことはないだろうから、これを半年の燃費として1年間の燃費の節約は2倍の4800円。
節約分の半額を国に返還させることにして、4800円のうち半額の2400円×200万台=48億円が国に戻る。
48億円÷100万=2400台。200万台の上に1年間に2400台を上乗せして走らせることができる。自治体・官公庁が走行距離の長い利用を行えば、さらに上乗せして普及を図ることができる。当然その普及に応じてガソリンの使用量の減少とその価格の抑制のみならず、他物価のコストダウン、及び電気自動車のコスト自体を下げることができる。
06年の乗用車の二酸化炭素排出量は2億0265万トンであり、排気量による違いを無視して全乗用車数57,889,737台で割ると、乗用車1台の二酸化炭素年間排出量は3.5トンとなる。2002400台分を掛け算すると、7008400トンの抑制となる。
これは06年のCO2総排出量(13億4100万トン)の0.52%に過ぎないが、年々増加していくうちのいくらかを抑えた0.52%であり、電気自動車の普及を高めていけば、先にも触れたようにバッテリーの高性能化を図ることができて多目的化が可能となり、他のケースにもつがなる二酸化炭素排出量の抑制であろう。
さらに現在の原油価格が実需に反して投機的思惑にも影響を受けて高騰し、国民の生活を含めた経済全体に悪影響を及ぼしていることを考えるなら、二酸化炭素排出権取引でも投機的思惑に振りまわされない保証はないばかりか、上記『朝日』記事が<日本の需要による排出権価格の高騰を見込んで、「欧州の企業が買わなくても、いずれ日本が買う」と見て、欧米の金融機関が高い価格を提示して量の確保に動いている。>とか、<排出権価格が2倍に高騰すると、5兆円。>と言っているようにコストが予定外にかかる恐れを計算に入れなければならないだろう。
さらに排出権取引は二酸化炭素そのものの実体を削減するのではなく、排出の権利を他から手に入れて見かけ上削減するだけのことで、そのような見かけ上の削減から比較したなら、0.52%の実態的削減は実際よりも大きな数字を示していると言えるのではないだろうか。
また現在は発展途上にあっても、将来的に経済発展していく国が次々と生じていくことを考慮に入れると、世界的な二酸化炭素排出量は経済発展に伴って逆説的に成長の一途を辿るのみで、その流れに逆らえないとなったなら、排出権取引による見かけ上の削減は当然コストが高騰していく問題も含めていつ破綻しかねない夢幻と終わりかねない。
例え0.52%の微々たる削減であっても、二酸化炭素そのものを一歩一歩着実に削減していく実体を伴う削減に立ち向かうべきではないだろうか。