バイオリニスト神尾真由子の言葉から
暮れの30日午後2時半30分からのNHK教育番組『神尾真由子・21歳のバイオリニストに密着・・・国際コンクール優勝舞台裏』を漫然と見ていた。
クラッシックからジャズ、ブルース、カントリーミュージック、ポップス、ラテン、シャンソン、カンツオーネ、タンゴと何でも聴くが、曲名と歌手・演奏者の名前を覚えないことこの上なく、ただ単に感覚が受付ければ聴く、受付けなければ聴かない程度で、うまい下手を判断する鑑賞力があるというわけではない。1月1日もNHK総合で7時過ぎから放送した「2008年ニューイヤーコンサート、ウインフィルハーモニーオーケストラ」を録画しつつ聴いたが、ショパンの何々と演奏名がインポーズで示されても、覚えないものだから関心を示すこともなく、以前聴いたことのある曲なら、ああ聴いたことのある曲だな程度で耳を傾けた。
嫌いというわけではないが、各局共占めているお笑い系が正月特別番組と銘打って長時間ものとしているために時間埋めに淘汰を受けていない者も出演していて、全編通して面白いというわけではないから、チャンネルをいたずらに動かすことになる。日テレで箱根駅伝の実況中継を流していたが、一人一人が42・195キロを走り切るマラソンの放送は見るが、偏見のせいかコマ切れ能力の足し算にしか見えない駅伝は好きになれず、チャンネルを回すことはしない。そういったことで昭和天皇が亡くなったとき、殆どのテレビ局が追悼番組にハイジャックされた中で唯一ハイジャックを免れたNHK教育放送かビデオ店に多くの人間が殺到して借りてきたビデオに逃げ込んだように、暮れと正月3が日の多くの時間を以前録画したアル・パチーノ主演の映画2本と録画した「2008年ニューイヤーコンサート、ウインフィルハーモニーオーケストラ」とに逃げ込んでいた。
神尾真由子は1986年6月12日生まれ。4歳の時からバイオリンを始めて、1996年第50回全日本学生音楽コンクール全国大会小学校の部において4年生で第1位を獲得。1997年3月、オーチャードホールで、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団とラロ「スペイン交響曲」を共演してわずか10歳でソリストとしてデビュー。各国際コンクールで優勝。2007年6月には4年に1度開催される若手演奏家の登竜門である第13回チャイコフスキー国際コンクールバイオリン部門で優勝。日本人がバイオリン部門で優勝したのは1990年の諏訪内晶子以来2人目だといったことをWikipediaが紹介している。
所属事務所なのだろうか、「ASPEN」なるHPで、<「この才能は、ただただ神から授けられたとしか言いようのないヴァイオリン奏者」、「歌心に満ちた音楽が体の中からあふれ出てくる」と大絶賛され、その将来を嘱望されている。>と出ている。天才バイオリニストというわけである。勿論、どこが天才なのか私の鑑賞力では判断できない。
ただバイオリニストといったソリストの場合、全神経を集中して演奏に没頭しているときの眉根を寄せた年寄り臭くさえなる険しい表情が演奏を終えて元に戻る年齢相応の満足感に満ちた溌剌とした表情に何とも言えない美しさを感じる。21歳の美人顔の神尾真由子にしても演奏中は40代前半のおばあさんの顔になる。
番組自体はNHK交響楽団と共に日本各地を演奏旅行する内容となっているが、演奏シーンのみ紹介されるのではなく、NHKのインタビューをあれこれ受けている。NHK交響楽団の指揮者は外国人で、インポーズで紹介していながら、例の如く記憶することができず、ここにその名前を記すこともできない。
「指揮者が外国人ですが、緊張しますか?」
外国人の指揮者は何度も経験済みなのだから、「指揮者が日本人と外国人とではどちらが緊張しますか?」と聞くべきだったのではないだろうか。優勝した第13回チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門の演奏シーンも番組で紹介していたが、指揮者は外国人である。「コンクール」となれば専門家の評価を受けるのだから、緊張すると言う点ではNHK交響楽団との演奏旅行の比ではないと思うのだが。
天才バイオリニスト神尾真由子、口許に軽く笑みを見せながら落着いた声で、「日本人の指揮者の方が緊張するかもしれない」
「なぜ?」と問われて、「なぜか外国人の方が緊張しない」とやはり落着いて軽く受け流す。
「日本人の指揮者の方が緊張するかもしれない」を当て推量で読み解くとしたら、簡単に言うなら、外国人の方がフランク(=率直)で接しやすいということではないだろうか。と言うことは日本人はそうではない、あるいは外国人と比較してフランクさに欠けて接しにくいということになる。
この差はどこから来ているかというと、日本人が依然として権威主義を行動様式としているからで、相手との距離を上下関係で計るからだろう。
日本人の指揮者はオーケストラという集団内では最上位位置を占め、各楽器演奏者を指揮者の下に位置させることから、演奏以外の個人的態度に関しても指揮者に対して礼儀正しい態度、指揮者をそれ相応に尊敬する態度を知らず知らずのうちに要求することになる。
そのように自分を上位者と位置づけた指揮者の暗黙の態度要求を受けて、自分の態度をその要求内に収めつつ演奏に臨まなければならない。率直な態度など飛んでもないということになる。
外国人の場合は対等――と言うよりも、自分は一人の指揮者であり、指揮を担っている。各楽器演奏者はそれぞれの楽器を専門に演奏する者たちであると水平にある関係で見ているから、個人的態度に関しては相手に失礼にならない範囲で自分は自分で振舞えばいい、自分の務めを果たす責任ある態度のみが求められている。いわば自分の持てる力で楽器を演奏する義務のみを負えばいいといった意識を人間関係のルールとして完成させているから、自分の務めである演奏のみに意識を集中させればいい。対人関係に意識を使わなくて済む分、お互いが緊張なく率直な態度で接することができるということではないだろうか。
このことは楽器を習うにしても大学院で教授について研究に従事するにしても、先生と生徒との間に上下関係(大学院では「徒弟制度」がまだ生きているなどと言われている)が私的空間にまで亘って否応もなしに生じる現在も生きている権威主義的人間関係が証明している。
先にアル・パチーノのビデオを見て暮れと正月の時間を潰したと書いたが、その一つ1992年製作「セント・オブ・ウーマン(scent of a woman)」の中で人間関係に関わる印象的なシーンが演じられていた。1週間の休暇を伴う感謝祭前のレアードという名の優秀な高校で生徒が校長を侮辱するいたずらを仕出かす。3人の生徒が日が暮れて暗くなった校庭の外灯にハシゴをかけ、天辺に萎んだ状態の大きな風船を吊るす。それを校舎から出てきたチャーリー・シムズとジョージの2人の生徒が目撃して、ジョージが何をしているんだと声をかける。相手の1人が「でかい声を出すな、明日の朝教える」と抑えた声で制したとき、年のいった女性教師アンセーカー先生が出てきて物音に気づき、「何なの?」と尋ねるが、ジョージが調子よく誤魔化して遣り過ごす。
次の日の朝、生徒が登校する中を校長がジャガーに乗って登場。外灯の下に停める。それを教室から窺っていた3人のうちの真ん中の1人がマイクで、「ドラック校長は貪欲な読書家だ」とか、「教養・学識に恵まれ、賢明な判断ができるお方だ」と先ず褒め上げ、「だが、彼についての疑惑が広がっている」と校庭に流す。次いで右側の一人がマイクを引き取って脇に置いたガスボンベの栓をひねると、外灯の天辺に吊るした風船が膨らんでいく。生徒たちがジャガー脇に降り立った校長を遠巻きに囲む。ガスボンベの栓をひねっていた生徒がマイクで、「ドラック校長はどうやってあのご機嫌な取引をしたのか。理事会はなぜジャガーを彼に買い与えた?彼は知らぬ振りをしたのではない。知らなかったわけではない。唇をすぼめて突き出し、彼らのケツにキスしただけだ」
膨らみ切った風船にはズボンと下着を脱いで尻を突き出し紳士風の中年男性のその剥き出しの尻に腰を屈めた男性が唇を突き出してキスしているマンガが描かれている。校長は気づき、その風船を割ろうと取り出した小さなナイフでジャンプをしながら突き刺そうとするが、もう少しのところで届かない。そこでジャガーのドアを開け、ステップに乗ってそこから手を伸ばして何度か試した後、やっと突き刺すが、同時に風船が割れて、中から噴き出した白いドロドロの液体をジャガーごと頭からかぶってしまう。
ジョージとチャーリーが校長室に呼びつけられ、3人がいたずらを仕掛けている場面を目撃したはずだとアンセーカー先生が言っている、誰がやったんだと問い詰められる。2人とも暗くてよく見えなかったと誤魔化す。校長は感謝祭明けに懲罰委員会を開いて究明に当たる、集会で解決が得られなかった場合は、君たちは退学だとなかなかの独裁振りで2人に圧力を掛ける。
そして親が金持ちのジョージに対しては「帰っていい」と許可を出す。するとジョージは椅子から立ち上がって、「じゃあ、いい感謝祭を」と校長に手を差し出す。校長はその手をいかがわしげに見下ろしていたが、「ありがとう、君もな」と言って握り返す。生徒は「そうします」と答えて、校長室から出て行く。
握手する習慣が日本発のものではないとしても、高校生が対等な関係で校長に握手を求める光景は日本では考えられるだろうか。確かに校長は指導者の位置に立っている。指導者としての口を利く。そして生徒は指導を受ける立場にいる。だがそれは立場上の関係で、人間関係はあくまでも対等な関係にある。そうと窺わせる場面であった。
そうでなければ、「じゃあ、いい感謝祭を」と校長に生徒の方から握手を求めることなどできないだろう。対等に口を利き、日本の場合の下に立つ者の上に立つ者に対する恐る恐るの態度や腰の低さは微塵も感じさせなかった。
暮れの夜にチャンネルを変えつつ見たモノマネ合戦の番組で、ホンモノの歌手にそっくりに扮装した歌手がホンモノの持ち歌をそっくりな声とそっくりな仕草で謳った後、ホンモノが現れてそのあと拍手喝采の中で歌うというパターン化した場面で、ホンモノ歌手が差出す手をそっくりさんは腰を屈め、頭を低くして何度もペコペコと下げながら手を下から差出し、さも有難いことだといった素振りで握り返していたが、明らかにそっくりさんは自分を下の者に置いた態度を演じ、そしてホンモノは当然のように自分を上の者に置いた態度で鷹揚に握手を受けていて、図らずも日本人の上下関係を暗黙裡に炙り出した象徴的シーンとなっていた。
「セント・オブ・ウーマン(scent of a woman)」の校長はジョージが校長室を出た後、チャーリー・シムズにいたずらの犯人が誰か喋らそうと働きかける。立場上持っている有利なカードを狡猾にも利用して。と言うことは親が金持のジョージを先に退出させたのは、親がカネを持っているというその理由でその生徒にはそのカードは効き目がないからである。
「ハーバードの入学許可局は私との間に合意があって、通常レアードが提出する願書の事実上の3分の2が入学を保証されている。今年提出した一人が実に優秀だが、経済的には恵まれず、授業料も生活費を払えない生徒だ。願書にはメモを書き添えたが、それは誰のためか分かるか?」
「分かりません」
「君だよ。君だ、シムズ君。誰がやったか話してくれるか?」
「お話できません」
「休み中に考えておいてくれたまえ」・・・・・
「上位者の命令は絶対」とばかりに簡単には言うことを聞かない。日本の場合、高校生が校長に対してこういった立場に立たされ場合、断るにしても、下の者であることを弁えて、相手を上の者と見てお願いする形で断るに違いない。
ビデオのストーリー自体は至近距離戦闘の訓練の朝、スクリュードライバーを4杯も飲んだ酔った状態で訓練に臨み、ピンを抜いた手榴弾を投げる前に手から滑り落としてそれを爆発させてしまい最終的に視力をすべて失ったアメリカ陸軍の元中佐アル・パチーノが住んでいるボストンの郊外から元華やかな生活を送ったニューヨークに人生を見限る旅に出るのだが、目が見えないから付き添いと身の回りの世話にチャーリー・シムズをアルバイトに雇う。
だが、チャーリーは気難しい元中佐と付き合うことになるアルバイトを生活費稼ぎのために引き受けたものの、学校での行く末が気がかりでため息ばかりついている。「この車は重いな。誰かさんが背中にクソ重い物をしょってるからだ」と中佐に見抜かれ、「心配事があるなら話してみろ」と言われるが、「たいしたことじゃないです」とその場は断る。しかし中佐に何度か促されて、おいおい学校での出来事を話す。
アルパチーノの方はこの世の名残にかつて華やかに過ごした時間に再度浸ろうとして高級ホテルに泊まり、高級レストランで食事を摂る。レストランではボーイフレンド待ちの若くて美しい知的な女性を、勿論目に見えないが、女性がつけている香水(=scnt)の匂いからその名を当てて相手を驚かせてから、まだ習い立てだという相手を説得して店のバンドが弾いているタンゴの踊りに誘う。
見事にリードして素晴らしいダンスを披露し、店に来ていた客の拍手を受けるが、華やかな時間から何も見えない暗闇の世界という現実に引き戻されて却って始末の悪い沈んだ気分に陥る。
兄とその子どもたちである甥の家を今生のお別れに訪ねるが、元々歓迎されられざる客であったために、言い合いの会話となり、ますます気持が沈み込む。チャーリーに葉巻を買いに行くように言いつけて、その間にピストル自殺を図るべく、勲章をきらびやかにつけた軍服に着替えるが、胸騒ぎを覚えたチャーリーが部屋に戻ってくる。側頭部に向けたピストルを取り上げようとして揉み合いとなり、チャーリーはアル・パチーノにピストルを突きつけられ、「出て行け」と怒鳴られる。チャーリーは抵抗して、「だったらやめればいい、やめたいなら、やめればいい。僕もやめる。お前は氷だって言われたしね。そのとおりだから、僕も人生やめる。二人で死のうよ。早く引き金引けよ、甘ったれ、見栄っ張り、もうクソったれ」と逆に食ってかかる。
「死にたくないだろう?」
「中佐もね」
「死なないでいい理由を教えてくれ、一つでいい」
「タンゴを踊れるし、運転が誰よりもうまい」
チャーリーは目は見えてもタンゴを踊れない。チャーリーの誘導でスポーツカーを見事に運転して見せていた。
「俺はこれからどう生きていけばいいんだ」
「例え間違えてもいいから、続けるんだ」
「タンゴの調子でやれっていうのか?死んだ方がマシだと思ったことが何度もある。それでも生きなきゃってことか?ブルースにしておけばよかった」
タンゴの華やかさを知った者の悲劇。ブルース止まりの地味な人生を送っておけば、落差を味わわなくても済んだという意味なのだろう。それに対してチャーリーは「カッコーよかったよ」とタンゴが踊れることの素晴らしさを伝え、勇気づける。
中佐は死を思い直してチャーリーとボストンに戻る。懲罰委員会が開かれる。校長が全生徒を講堂に集め、ステージの離れた一つの机には金持の息子ジョージとその付き添いとしてその父親が椅子に座り、もう一つの席にはチャーリー・シムズだけが椅子に腰掛けている。
校長が演壇で、この高校から卒業したレアードマンがホワイトハウスにも国防省にもいる、レアードは国のリーダーを育てる揺籃の場として全世界に名を知られている、ところが、レアードの価値・規範・伝統が軽視された、レアードの名誉が著しく傷つけられた。その名誉を守らなければならないと一席ぶっているところへ、ニューヨークからリムジンで帰ってきた、その運転手に付き添われて元中佐のアル・パチーノが現れ、チャーリーの父親代わりの資格でその隣に腰掛ける。校長は先ずジョージから犯人追及に取り掛かる。
ジョージは最初はのらりくらりと言を左右にしていたが、「ひょっとしたら」と、体型や声で誰々だったかもしれないと3人の名前を挙げる。誰々だったかもしれないでははっきりとした証拠にはならないが君は正直に答えてくれたと褒め、今度は追及をチャーリー・シムズに向ける。チャーリーは迷いながら、「何か見えましたが、それが誰か言えません」
「つまり君が見たものは?」
「言えません」
「体型や身長から判断して、誰なんだ?」
迷ってから、「レアードタイプの人でした」
「懲罰委員会が検討するが、恐らく退学だ。君は隠蔽の天才、ウソつきだ」
ハーバードの入学許可を握っている権力を無視された。そこへ中佐が大声で割って入る。「だが、密告屋じゃない!なぜなら彼はレアードのレッテルなんかもう必要はないからです。ここのモットーは何ですか。少年よ、クラスメートの情報を提供して、自分を守れ。これをやらない者は厳罰に処すですか?いいですか、今事が起こったとき、ある者は逃げ出し、ある者はとどまる。このチャーリーは困難と向き合い、あのジョージはでっかいパパのポケットに隠れる。そしてあなたはジョージに褒美をやる。チャーリーは潰す気だ。誰がここの卒業生か知らないが、ウイリアム・ハワード・タフト、ウイリアム・ジェニングズ・ブライアン、ウイリアム・テルたちの精神は死んでしまっている。過去の亡霊になりつつある。そしてあなたは情報屋をここで育てて世界中に送り出している。もしそれが人類のためだと考えておられるのなら、考え直すことです。なぜなら、あなたたちはこの学校の創立当時の真の精神を破壊しているからです。悲しいことに今日ここで開かれているシーンは何ですか?私の隣にいる少年だけが真の上流。私が保証しますが、彼の魂は損なわれていない。だから取引などできない。ここにおられる誰かさんが情報を買うからと取引きを申し出たが、チャーリーだけが売らなかった」
「バカげたことを」と校長は叫んで木槌で演壇を叩く。
「バカげているのはあなたの方だ」と立ち上がってなお一段と声を張り上げる。「あなたは何をバカげたと言うのか分かっておられないからお見せしよう。ここに入ってきたとき私はこういう言葉を聞いた。リーダーを育てる揺籃の場。だが吊り紐が切れると揺り籠は落ちる。ここの揺り籠はもう落ちてしまっている。リーダーたちを育て上げるあなた方。今ここではどんなリーダーたちを製造しているんでしょう?私には分からない。今日のチャーリーの沈黙がよいことか悪いことか、私には判断できない。でもこれだけは言える。彼は自分の将来を買うために魂を売ったりはしなかった。こういうものを私たちは高潔と言う。勇気と言います。それを備えたリーダーこそを創るべきです。チャーリーは十字路に立たされ、取るべき道を選びました。正しい道です。それは品性を養う道義でできた道です。学業を続けさせてやってください。彼の未来はあなた方の手中にあります。委員会のみなさん、価値ある未来です。私を信じて、潰さないで下さい。取り囲んで守ってやってください。いつか誇りに思う日が必ずきます」
出席中の学生から拍手が起こり、静かに長く続く。その場で懲罰委員は立ち上がって検討し評決する。それをアンセーガー先生が読み上げる。いたずらをした3人の生徒は保護観察。「ひょっとしたら」と犯人の名を告げたジョージに対しては、協力への報酬、お礼などを受け取らないことという厳しいお達し。チャールズ・シムズに対しては、一切の責任なし。拍手と歓声が講堂を覆う。・・・・The endへと続く――
ストーリーのウラを返すと、地位やカネをエサにされて魂を売る多数派の人間が存在し、少数派に過ぎないが、売ることを踏みとどまる人間が存在する。校長と生徒の間で繰り広げられるそのような人間模様を優秀な生徒が集まる高校を舞台に描いたと言うことだろう。
だが、ここには立場上の上下関係は存在しても、人間間の上下関係は存在しない。個人性に関わる上下関係、「上尊下卑」の関係は存在しない。ここが日本人の人間関係と違うところではないだろうか。権威主義の行動様式に囚われ、人種差別や女性差別から抜け出れない欧米人も多々存在するが、基本的な人間関係のルールは水平方向で相互作用し合っている。
2008年の新年を迎えて、先ず暗い話から
新しい年になったからと言って、新しい時代を迎えたわけではない。例えば2001年は1月1日となって、さも人類は希望に満ちた新世紀を迎えるかのように世界各地で花火をバンバン上げ、イルミネーションをきらびやかに輝かせ、シャンペンやワインで乾杯のお祭騒ぎを繰り広げたが、現実の時代は限りなく悪い方向に向かっているようにさえ思える。
尤も「世紀末」とか「人類の終末」といった言葉は古くからあったのだから、どうも人類発展の原理は繰返し悪い方向に向かう逆説的・否定的マンネリズムの時代進行に絡め取られて、そこから逃れられないでいるのかもしれない。
だとしたら、その動きを止めたり、よい方向へ逆行させる能力を人類は持たないことになる。当然、年が変わっただけのことで習慣・仕来りだからと言って、簡単には「明けましておめでとう」とは言えない。逆に何も考えずに言える人間は幸せ者と言える。これ偏見かな?それとも「そんなの関係ねえ、オッパピー」で、「明けましておめでとう」と言うべきなのだろうか。
福田首相が次のように年頭所感を表明したと西日本新聞インターネット記事(08.1.1/≪年金制度を抜本改革 首相、年頭所感で表明≫)に出ている。
「政治も行政も企業も、生活者や消費者の立場に立つよう発想の転換が求められている。今年を『生活者・消費者が主役となる社会』へと転換するスタートの年にする」
ウラを返すまでもなく、これまでの自民党政治の時代は何年も新しい年を迎え、何回も新しい年に変わりながら、「政治も行政も企業も、生活者や消費者の立場に立つ」「発想」
を持たなかった、「生活者・消費者が主役となる社会」を目指してこなかった。2008年の年は「生活者・消費者が主役となる社会」へと転換を図り、それを実現させる新しい時代を創造しなければ政権は保てない、民主党に取られてしまうということだろう。
福田首相にこのような「発想」の転換を迫らせた余儀ないそもそもの事情は断るまでもなく昨年7月の参院選の自民党大敗北であろう。多くの自民党議員が自分たちが総裁選で安倍支持に雪崩を打ったことも忘れて、あのバカがっ、と内心安倍晋三を罵っているに違いない。
「政治も行政も企業も、生活者や消費者の立場に立つ」「発想」がなかったこと、「生活者・消費者が主役となる社会」に向けた視点が一切なかったこと、それらが大敗北の決定的な要因となり、政権維持の難しい状況に立たせた。そのことが否応もなしに要請した「年頭所感」だった。
いわば「生活者や消費者の立場に立つ」「発想」がなければ、あるいは「生活者・消費者が主役となる社会へと転換」を図る姿勢を示さなければ、福田政権が崩壊するだけではなく、政権与党の自民党は政権を失う。連立を組んでいる公明党の政権命運は自民党次第だから、自民党だけのことを考えればいいといったところだろう。
福田内閣に変わっても内閣支持率は時間の推移と共に下がり続けている中で総選挙の足音が間近に聞こえ、政権の座からの転落かどうかの岐路に立たさるシーンが迫りつつある。自民党のそういった戦々恐々とした図が参院選敗北以降続き、その恐れを一層強めて迎えた2008年の新年であり、それが福田年頭所感に現れた。
いわば年頭所感がポーズで終わるかどうかは別問題として、その恐れは限りなく100%近くあると思われるが、参議院与野党逆転状況と内閣支持率低下状況が促した年頭所感であり、その意味で機会的である点を免れることはできない。参議院選挙で自民党が05年の小泉の衆院選挙と同様に自民党が大勝といかなくても、政権運営に支障を来たさない程度に過半数を上回っていたなら、「生活者重視」・「消費者重視」の政治への転換など言い出さなかったろう。自民党政治は、そして自民党政治に無節操に追随する公明党政治は「生活者重視」・「消費者重視」を口先だけとしていたからだ。
地震の恐れが間近に迫られなけば地震対策がマニュアルを機械的になぞるだけで済ますように、政権交代の恐れがない余裕の政権運営の間は「生活者・消費者が主役となる社会へと転換」といった視点はその場の取り繕い・口先だけで済ませてきたが、そうは言っていられなくなった。
勿論政権交代のまったくの現実化はその影響は福田内閣の崩壊にとどまらず自民党全体に及ぶ無視することはできない重大事項なのだから、それを防止すべく神経戦が閣僚だけではなく、自民党の各実力者、かつて自民党に籍を置いた、少なくとも影響力を持った者たちの間に既に展開されている。それが山崎拓や郵政造反の中でただ一人復党せずに無所属で踏ん張っている平沼赳夫、あるいは鈴木宗男、伊吹自民党幹事長。さらに小泉元首相等々の「政権再編」を視野に入れた動きだろう。
山崎拓――。
≪自民・山崎氏、大連立に否定的≫(07/11/18・日経新聞)
<自民党の山崎拓氏は18日、長崎市で講演し、自民、民主両党による大連立構想について「民主主義としては機能しなくなる。健全な形ではない」と述べ、否定的な考えを示した。次期衆院選の結果が自民と民主が300対100だった場合には「民主が大連立構想に乗ってくる可能性がある」と指摘。「自民が第一党だが、民主との差が50議席になれば、政界再編になる」と語った。
衆院解散・総選挙の時期に関しては「予算を執行できなければ、政権担当能力がないということになる。与野党の対立を乗り越えるための協議が起こり、解散・総選挙は避けられない」と、2008年度予算案の成立のメドである来春ごろが可能性が高いとの認識を明らかにした。>――
平沼赳夫――。
≪「保守」旗印に新党結成も 平沼氏、政界再編にらみ≫(07.12.30/中日新聞)
<郵政民営化に反対して自民党を離党した平沼赳夫元経済産業相が、衆院選後の政界再編をにらみ、「保守」を旗印に自民、民主、国民新各党議員らと新党を結成することも視野に入れながら、精力的に活動している。
郵政造反組の復党後も無所属で通してきた平沼氏は、ねじれ国会解消のためには政界再編が必要と繰り返し強調、「国の大事な法案が通るよう第3極づくりをしていくのが私の使命だ」と意欲を示してきた。
「健全な保守」を掲げ、自民党内で考え方の近い麻生太郎前幹事長や安倍晋三前首相ら保守派との連携を強化。中川昭一元政調会長が中心となって12月に発足、約80人が参加する「真・保守政策研究会」では最高顧問にも就いた。
一方で、「民主党の一部に手を突っ込んで政局にしないと駄目」と公言、交流のある民主党議員の“決起”を促そうと水面下での接触を続けている。郵政民営化反対で同じ立場の国民新党幹部らとの意見交換も活発だ。(共同)>――
鈴木宗男――。
≪政界再編想定し選挙協力判断=新党大地・鈴木代表≫(07.12.10/時事通信)
<新党大地の鈴木宗男代表は10日、北海道釧路市内で記者団に対し、自民、民主両党から要請されている次期衆院選での選挙協力について「選挙が終わったら政界再編が加速するかもしれない。そういうことも頭に入れながら対応していきたい」と述べ、政界再編も想定して判断する考えを示した。>
小泉純一郎――。
≪衆院選後に政界再編も・小泉元首相≫(日経/07.11.16)
ベトナム訪問中の小泉純一郎元首相は16日、自民、民主両党による大連立構想について「選挙は戦うとしても大事な法律は協力して通そうという姿勢がないと政治が進まない。そういう中で政界再編が起きても不思議ではない」と述べた。次期衆院選後には大連立にとどまらず、政界再編もあり得るとの考えを示したものだ。ハノイ市内で記者団の質問に答えた。
自らの首相再登板の可能性に関しては「私は表舞台で活動する人たちを応援する立場だ」と否定。衆院解散の時期に関しては「現職の首相しか分からない。首相が持つ最も重要な判断の一つだ」と語った。(ハノイ=長谷川岳志)>――
伊吹幹事長――。
≪自民幹事長、「衆院選後に政界再編」≫(日経新聞/07.11.14)
自民党の伊吹文明幹事長は14日、日本記者クラブでの講演で「衆院選で自公で過半数を取っても参院の構成は変わらない。選挙に勝った方が主導する形で政界再編を仕掛け、参院の構成を変えることになる」との見通しを示した。武部勤氏も同日、「選挙をきっかけに新党が出てきて、選挙後に連立ということもある」と語った。> ――
* * * * * * * *
「政界再編」を視野に入れた言動は民主党以下の野党も見せているだろうが、「政権交代」は勿論のこと、「政界再編」にしても現在の政権の枠組のみならず、政権を構成する閣僚及び政権与党を構成する議員の顔ぶれを壊すものである以上、政権与党の立場にいる人間の場合は少なくとも自己地位保存(=自己保身)の方向に動く。自民党という党の姿を限りなく損なわない、自己利害を最大限保証する方向への動きとなる。
このことは自民党政治が政権を維持するための政治――政権維持が自己目的化した政治(政権維持に簡便で有利であるために一般国民を下に置いた大企業優先・富裕層優先の政治)となっていることの必然的な行く末であろう。
それが政権交代の危機を迎えて、純粋・単純に「政権維持」の戦いを挑むのではなく、数合わせ競争の意味を持つゆえに「政権維持」から比べたら手段も節操も言っていられない複雑な呼応関係を見せることになる「政界再編」を重点視野とするまでに至った。
与党側の「政界再編」の動きが政権担当側に身を寄せたい政権維持を軸とした自己利害を動機としているというこの見方が正しいとするなら、福田年頭所感の「生活者重視」・「消費者重視」の政治への姿勢変換欲求は「政界再編」志向と相反する方向を抱えることになる。
昨年7月の参院選の民意はあくまでも「生活重視」・「生活保障」であり、有権者のそのような最大公約数意思が民主党の参議院大躍進・与野党逆転を成果とした。そしてそのような成果の先にある政治の形は「生活者重視」・「消費者重視」の政治を疎かにしてきた自民政治、自民党の面々がどこかで居座るような「政界再編」を望むのではなく、自民政治、自民党の面々(勿論公明党の面々も含めて)を一括消去する「政権交代」でなければ、「生活重視」・「生活保障」の民意を選択した意味を失う。企業優先・国民後手の政治の体質は一朝一夕には変わらないだろうからなのは言うまでもない。
有権者も「ホー、ホー、ホタル来い、こっちの水は甘いぞ」といったまことしやかな言動に誤魔化されて自民党政治を延命させることにもなる「政界再編」の動き、そのゴマカシに乗らないよう注意しなければならない。
自民党政治、その政治を担ってきた自民党の面々、そして節操もなく同調してきた公明党政治と公明党の面々に「生活者重視」・「消費者重視」を実践してこなかったことのツケを政権交代を代償として支払わせなければならない。改めて言うが、それは政策を棚に上げて議員の地位を守るだけ、自己保身だけといった誰がどう結んでも数さえ合わせればいい複雑計算の「政界再編」ではなく、どの党に政権を担わせるかといった単純計算の「政権交代」でなければならないはずである。