COP15/小沢環境相の会議の成果を「満塁サヨナラホームラン」と言うセンス

2009-12-22 02:34:30 | Weblog

 気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は中国やインドなどの新興国、特に中国が自国の経済成長を優先させて、法的義務が伴う二酸化炭素排出量の削減に反対、地球温暖化の責任を先進工業国に課し、先進国により多くの削減率を求めたため、産業革命以降の気温上昇幅を2度以内に抑える目標を掲げた「政治合意」の法的拘束力のある内容での原則全会一致としている採択を断念、「合意に留意する」という内容で採択となったという。

 地球温暖化は先進国の責任だとする中国の主張は、「会議は重要で積極的な成果を挙げた」と評価しつつ、「特に『共通だが差異ある責任』の原則が維持された」(47NEWS)と述べてているところに現れている。

 いわば二酸化炭素の排出削減は世界各国にとって「共通」の課題だが、削減の責任には「差異」があるとするスタンスとなっているというわけである。

 ということなら、「会議は重要で積極的な成果を挙げた」との評価も自国にのみ有利とする責任逃れからの評価ということになる。

 昨21日の「47NEWS」《COPは最悪の混乱ショー 英閣僚、中国の抵抗を批判》という記事を載せている。
 

 ロンドン共同】ミリバンド英エネルギー・気候変動相は、気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)が「世界最悪の大混乱ショー」となり「結果には失望させられた」と強調した。中国などが法的拘束力のある枠組みづくりに抵抗したことを最大の理由に挙げ、中国を名指しで批判した。英テレビに20日出演して述べた。

 ミリバンド氏は、いくつもの国が財政支出を伴う貢献を確約したことなどを評価する一方、「法的合意を望まない中国など少数の発展途上国の、とんでもない抵抗に直面した」と訴えた。

 中国に同調したインドや、協議を転覆させようとしたスーダン、ベネズエラの姿勢も非難した。

 日本はこうは直截的に(【ちょくせつてき】まわりくどくないこと。ずばり言うこと。)中国を批判できはすまい。集団主義・権威主義の行動様式に縛られて事勿れな態度に慣らされているからだ。

 オバマ米大統領も全体会合で中国の対応を批判したと英紙ガーディアンの報道として「msn産経」記事が伝えている。オバマ大統領が再度米中首脳会談を要請したところ、温家宝首相は事務レベルの交渉担当者を差し向けたそうだ。

 外交上の国際信義に悖るしたたかさを見せたわけである。

 確かNHKのニュースだったと思うが、COP15に出席していた日本の小沢環境相が会議について次のように発言していたのをチラッと聞いた。

 「いやぁ、逆転満塁サヨナラホームランでしたねぇ」

 多分、「合意に留意する」で一致を見たことで会議の決裂を回避できたこと、あるいは先進国と新興国・途上国の決定的な対立を回避できたことを以って「逆転満塁サヨナラホームラン」と形容したのだと思うが、実際には「逆転満塁サヨナラホームラン」とは、これ以上ない申し分のない形での“決着”を譬えて言う言葉のはずである。会議の決裂を回避できた、各国の対立を回避できたといったことは会議が目指した“決着”ではない。各国の20年までの削減目標の法的拘束力を持たせた義務づけが目指していた“決着”だったはずであり、最終ゴールとしていたはずである。

 勿論、そのような“決着”、最終ゴールは中国やインドといった新興国、その他の途上国を除いてだが。少なくとも日本と欧米各国はそのことを“決着”とし、最終ゴールとしていた。

 そのような“決着”を見たわけでもなく、そのような最終ゴールに到達したわけでもないのに、「逆転満塁さよならホームラン」と成果づける感覚は日本の政治家としては見事な感覚なのだろう。

  小沢環境相がCOP15の会議で英語で意見表明していたが、訴えようとする意志のカケラも感じさせない緊張感ゼロであるばかりか、抑揚もなく原稿を機械的に棒読みするだけの何らインパクトを感じさせない、口に出して読むだけなら中学生でもできる意見表明となっていた。

 会議の成果を「逆転満塁ホームラン」と形容する状況把握力ゼロの感覚と抑揚もない英語原稿の棒読みの緊張感喪失の感覚とは相呼応したセンスとして小沢環境相の中で存在しているものなのだろう。

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チャールズ皇太子の活動から日本の皇室のあるべき姿を見る

2009-12-21 03:46:40 | Weblog

 19日(09年12月)の「asahi.com」に次のような記事があった。

 《英国では王室が政治介入 皇太子の8省庁働きかけ判明》

 題名も触れているが、8省庁の大臣に政策に関する意見を手紙で送っていたという内容である。
 
 大臣になった政治家の間では、皇太子からの書簡は、その筆跡から「黒クモのメモ」と呼ばれているということだが、このことだけからも、歓迎されている意見ではないことが分かる。

 これは英紙ガーディアンが情報公開で入手した資料から判明した事実で、元々環境や農業、建築等に強い関心を持っていたチャールズ皇太子が2006年から、財務、外務、食料農村の各省など8省庁の大臣に手紙を送り、自らの意見を述べていたというものである。

 皇太子は公の場で環境保護や景観維持などに関して自らの見解を述べることはあったが、政治家に直接働きかけている事実は知られていなかったことだという。

 どのような意見の提示なのか、各省庁は皇太子の意見の内容までは開示していないが、皇太子側は環境に配慮した街づくり事業に関して皇太子の考えに沿う政策と病院の設計について現代建築嫌いの自分が肝いりでつくらせた団体が考案した伝統を生かした技術を採用するよう勧めていたという。

 このような意見の提示を以って記事は〈政治家に対して直接の「政治介入」の実態が明るみに出た形だ。〉と書いている。

 尤もチャールズ皇太子の場合はあくまでも「政治介入」した側とされていて、日本の天皇の場合は「政治介入」される側で、主体と客体の違いを、あるいは加害者か被害者かの違いを見なければならない。

 但し記事は次のように、〈英国には日本のような成文憲法は無く、王室メンバーが政治的な意見を言うことが禁じられているわけではない。 〉と伝えてもいるから、いくらカッコ付きで「政治介入」と書いたとしても、直ちに政治介入とは言えないのではないだろうか。

 例えばチャールズ皇太子が有能な経営感覚、もしくは有能な政治感覚の持ち主なら、その意見を活用しないと英国の損失となる。だが、逆に有能でないにも関わらず、王室の一員の意見だからといってそれを採用したなら、英国に害をもたらすのは誰の目にも明らかである。

 要するに相手を一個人と見て、その意見が有能かどうかを採用基準とすれば済むことで、チャールズ皇太子が自身を王室の一員だからと意見は採用しべしという姿勢を取り、相手も王室の一員の意見だからと意見の質を問わずに採用するのは双方共に権威主義の網に絡め取られた関係を築くことになっているからだろう。

 そうはなっていないところを見ると、少なくともチャールズ皇太子を一個人と見ていることではないだろうか。

 但しチャールズの意見がもし専門の国会議員の意見を上回る先見性を有していたなら、専門職として都合が悪く、メンツに関わることだからと、反対する者が存在する可能性はある。

 そういったことから「黒クモのメモ」という有難い評価を頂いているということもあり得る。

 野党・自由民主党のヒューン議員が同紙に「皇太子は政策の進み具合を尋ねる資格はあっても、特定の考えを押しつけることはまったく別問題だ」と批判しているということだが、自分たちが正しいと信じている信念を国の政策に反映すべきだと主張してやまない、例えば人権団体や女性の権利を訴える団体がその主張が政策化されるまで働きかけの闘争を展開するのも、そのような主張を受け入れ難いとしている政治家側からしたら「押し付け」ということになるだろうから、押し付けになるならないは政策的な利害が決める問題であろう。

 政策的な利害を基準とせずに相手の立場や地位を基準として対応した場合、それが政策的な利害に反した対応なら、立場・地位が下の場合は無視するだろうから、上の立場や地位からの意見や主張は無理強い、ゴリ押しの類の真正な「押し付け」となるばかりか、押し付けられた側は既に触れた権威主義の網に絡め取られた関係に従って政策に添わない意見・主張に目をつぶる、黙過する無責任を働くことになる。

 金銭的な利害から対応した場合も同様のことが言える。

 要するに受け手の側の姿勢が問題だということである。

 このことは一般市民も手紙やメール、あるいは電話で意見を言うケースから証明できることである。中には何度もしつこく繰返す市民もいるだろうから、政策とするに添わない場合、押し付けの部類に入るに違いないが、だからと言って、「政策の進み具合を尋ねる資格はあっても、特定の考えを押しつけることはまったく別問題だ」とは言えまい。検討する価値があろうがなかろうが、あるいは再三断っても、何度でも繰返そうが繰返すまいが、市民には意見を言う権利があるからだ。

 同じことを繰返すことになるが、チャールズ皇太子のしたことが「政治介入」となるケースは、王室の一員の言うことだから、直ちに断れない、迷惑だと受け止めた場合、あるいは逆に従わなければならないとした場合で、そこにチャールズを英国王室の皇太子だからと上に置き、自分たちを下に置いて下は上に従う権威主義を働かせることになって、その上下関係に呼応して“押しつけること”と“押しつけられること”の関係を否応もなしに派生させて“介入”という形を取ることになるからだろう。

 このケースも受け手の側の姿勢が問題であることを示している。いくら相手が王室風を吹かせて様々な押し付けを働いたとしても、イギリスは絶対君主制でも専制君主制でもなく、立憲君主制の国だから、政治に関しては相手をあくまでも一個人だと見れば、相手がいくら自分を上に置く権威主義を働かせたとしても、受け手の側が自分を下に置く権威主義で行動しなければ済むはずである。

 この一個人と見ることが相手が王室の人間であろうが一市民であろうが、権威主義性を発生させずに対等な関係を生み、押しつけを排することができるということなら、日本の天皇に関しても同じように扱うことによって政治的な発言が可能となるのではないだろうか。

 そもそもからして天皇は天皇であると同時に一個の人間なのだから、天皇を象徴天皇の地位に縛りつけて政治的発言を許さないとしておくこと自体に人間的に矛盾を生じせしめることになっているのではないだろうか。あるいは人間的に無理強いとなる葛藤を生じせしめることになっているのではないのだろうか。

 象徴天皇であると同時に一個の人間と看做すことによって政治的発言を認め、それを政治家を含めて国民が一個人の発言と把え、その発言の妥当性を計る。発言の自由は人間であることの証明でもあるから、天皇を人間として尊重することにも当たるはずである。

 天皇が政治家や知識人同様に個人としての意見を持ち、それを公の発言とするということは主体的活動体となっていることを示す。天皇が主体的活動体であることによって、政治利用される受動的な政治利用体であることから免れる有効な手立てと思うが、そうではないだろうか。

 天皇を象徴天皇だからと憲法で「国政に関する権能を有しない」と規定して、会見だ会談だと称して内外の政治家との接触を許しながら、そのことに反して政治的発言を封じ込めて、接触を表面的な形式とさせること自体が既に天皇の人間的側面を認めず尊重しない、天皇の「政治利用」に当たるように思える。

 少なくとも当たり前の人間としての扱いをしていない。それを政治的に行っているのだから、やはり天皇の「政治利用」といったところだろう。

 チャールズ皇太子ならずとも、自国の政治家のやることなすことに歯痒く、意見を言いたいと思っている人間はいくらでもいるはずである。政治家側からしたら、票になる等の自身の保身利害に関係しない、あるいは政治資金等の金銭的利害に関係しない者の意見は相手が誰であろうとうるさい、押しつけだと思っているに違いないから、その関係で良し悪しは判断できないはずである。

 天皇は神秘的な存在であると主張する者もいるが、紛う方なく一個の人間であることを否定する僭越であると同時に相手を侮辱する意見であろう。例え天皇家に生まれて天皇の地位を継ごうと、一個の人間であることから免れることはできない人間そのものでもあるのだから、人間としての権利でもある発言の自由を認めなければならない事実とすべきであろう。

 発言の自由は人間であることの証明でもあると言ったが、自身の意見を言う自由、他人の意見を聞くかどうかの自由は誰にも等しく与えられている人間が人間であるための権利であって、政治家のみに与えられているわけではない。チャールズ皇太子が各省庁の大臣に政策に関わる意見を手紙で送っていたという報道を読んで、チャールズ皇太子と同様に日本の天皇、その他の皇族にも人間であるための権利の保障に政治的発言をも行う自由を許すべきだと思った。


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オバマも納得する沖縄米軍基地全面撤退案

2009-12-20 07:09:01 | Weblog

 
 ――答は簡単。沖縄の米軍基地が担っている軍事機能のすべてを自衛隊が一切合財引受け、武器を携行してアフガンでもイラクでも出兵し、敵と戦う。そうすることによって沖縄の米軍の任務を不必要とする。任務の必要がなくなれば、全面撤退の扉が自然と開く。対北朝鮮軍事機能も自衛隊がグアムの米軍と共に担う

 メデアタシ、メデタシ――


 勿論、社民党の福島党首は反対するだろう。米軍普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)移設現行計画反対、米領グアムへの移設を主張している立場上、上記プロセスに反対せざるを得ない。

 だが、社民党の前身の社会党委員長だった村山富一は自民党と連立を組んだ自社さ政権で総理大臣となった1994年7月の第130回国会の所信表明演説でそれまでの社会党の党是だった自衛隊違憲論を投げ捨てて、「自衛隊合憲、日米安保堅持」打ち出し、翌日には日の丸・君が代の学校での指導を容認、さらに社会党の「非武装中立」政策は役目を終えたとする見事な変節を演じている。

 そして社会党自身も村山所信表明演説後の9月の臨時党大会で、「自衛隊違憲、安保廃棄」の方針を180度転換、村山首相が打ち出した「自衛隊合憲、日米安保堅持」を追認、軍国主義、国家主義のシンボルの役割を担った「日の丸・君が代」の強制に反対してきた歴史を抹消、国民の間に定着していることを理由に国民意識を尊重するとして「日の丸・君が代」を追認する村山富一に右へ倣う後付の変節を見せている。

1986年9月から1991年まで社会党の委員長だった土井たか子は細川護熙内閣時代から引き続いて村山政権時代も衆議院議長職(1993年8月6日~1996年9月27日)にあり、党籍を離れて無所属に属していたものの、身も心も社会党の人間として村山富一所信表明演説の「自衛隊合憲、日米安保堅持」に立ち会い、尚且つ「自衛隊合憲、日米安保堅持」追認の上に「日の丸・君が代」容認のおまけまで就いた1994年9月の党大会にも立ち会っていたはずである。

 だが、衆議院議長職を離れて、その翌日の1996年9月28日に社民党第2代党首に就くと、社民党が政策として掲げていた非武装中立、九条遵守・平和憲法堅持、自衛隊海外派兵反対、戦争反対の立場に身を置く変節を演じている。

 もし土井たか子が非武装中立、9条遵守・平和憲法堅持、自衛隊海外派兵反対、戦争反対を政治上の基本的信念としていたなら、村山富一が1994年7月総理大臣所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」打ち出したとき、衆議院議長席の高みから眺めているだけではなく、抗議の辞任をすべきだったが、多分、衆議院議長という役柄が居心地がよかったのだろう、当然議長の椅子も座り心地がよかったはずだが、政治的信念よりも居心地のよさ・座り心地のよさを選ぶ事勿れ主義、あるいは日和見主義に浸る変節を演じていたのである

 社民党の福島瑞穂党首は12月15日の習近平中国国家副主席と天皇との会見が天皇の政治利用なのかどうか問題になったとき、15日午前の閣議後の記者会見で、「私は1か月ルールというものがあるのを知らなかった。天皇との会見で中国との間に友好関係が進展すればいい」といった発言をしていて、それをテレビが伝えていたが、このとき問題になっていたのは天皇の政治利用に当たるのか当たらないのかの問題であって、「一カ月ルール」を知っていたか知っていなかったの問題ではない。

 新聞・テレビの情報、あるいは周辺の人間に聞き出すかして既に知った状況にあったはずである。その知識を基に政治利用に当たるか当たらないかを自身が備えている天皇に関わる既知の知識・情報を駆使して判断すべきを、公党の代表を務めている政治家である以上判断の責任を有しているはずだが、その責任を放棄、「天皇との会見で中国との間に友好関係が進展すればいい」などと事勿れを演じる変節を犯している。

 政治家でなくても、多くの人間が初めて知りながら、自分なりの判断を行ったのである。

 福島瑞穂が12月17日に宮崎市内で講演したとき、天皇と習近平国家副主席の特例会見を取り上げて「きっちり反省材料にして今後はルールを守り、尊重していくべきだ」と述べ、「1カ月ルール」に今後は配慮する必要があるとの考えを示したと12月17日付の「日経ネット」記事が伝えていたが、 「一カ月ルール」、あるいは天皇の政治利用かどうかの是非を最初に問わずに「天皇との会見で中国との間に友好関係が進展すればいい」と問題をすり替えて事勿れな態度に走った無責任を修正する発言ではなかったのか。

 修正すると言えば聞こえはいいが、実質的には最初の変節を誤魔化し、真っ当さを演じる新たな変節を犯したといったところだろう。

 福島瑞穂までが抱えているこのような変節の体質からしたら、憲法9条改正とまでいかなくても、自衛隊法の改正による武器を持たせて敵と戦う自衛隊の海外派兵まであと一歩の変節である。

 この変節はオバマも納得する沖縄米軍基地全面撤退への道を開くに違いない。

 また、鳩山首相が「総理という立場上、封印しないといけない」としているものの、日本の安全保障の基本的考えとしている 「常時駐留なき安保」に合致する。


 

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安易に「党の要望は国民の要望」、「党の声が国民の声」と言うことの危険性

2009-12-19 09:52:14 | Weblog

 民主党の小沢代表が16日、党を代表して鳩山首相を筆頭に鳩山内閣のメンバーを集めて内閣が10年度予算案に盛り込む政策に対する“重点要望”を申し込んだと言う。

 主なところで、鳩山首相が当初、「子供を社会全体が育てる発想。子供に関して裕福だとか、必ずしも裕福でないという発想ではない。所得制限は、まず考えないのが基本線だ」(毎日jp)とし、マニフェストでもそのように掲げていた子ども手当に所得制限を設けること、そしてマニフェストで廃止するとしていたガソリンなどの暫定税率の廃止を撤回、「現在の租税水準の維持」に改めるよう要望。これは現行の暫定税率廃止に代えて同水準の新税を導入することでプラスマイナスゼロの「租税水準の維持」ということらしい。

 目的は戦後最大規模に膨らんだ10年度予算95兆円を国債発行額44兆円を超えない範囲でその財源確保に置いているということだという。

 要望についての各閣僚の声を「NHK」WEB記事――《民主の重点要望 閣僚から意見》(09年12月17日 12時42分)が伝えている。

 仙谷行政刷新担当大臣「国民の声を吸い上げるのが政党の仕事であり、内閣として要望を租借しながら主体的に結論を決めていくことが重要だ」

 原口総務大臣「地方に配慮し、子ども手当も全額国庫負担と記述していただき、たいへん評価している。最終的には鳩山総理大臣のリーダーシップの下で内閣が決断する。こうしたプロセスは諸外国でもあることで、何もおかしなことではない」

 (子ども手当所得制限に関して)

 福島消費者・少子化担当大臣「予想以上に税収が落ち込んだなかで、国民も今すぐマニフェストをすべて実行せよということにはならないのではないか。やむをえない措置として、否定はしない」

 亀井郵政改革・金融担当大臣「他党のことには干渉しないが、鳩山総理大臣のような人や、わたしの孫に子ども手当を支給しますと言われても、もっと困っている家庭があると思うので、所得制限は必要だ。所得の捕捉は申告制にすればクリアできる」と述べました。

 長妻厚生労働大臣「党の要望は重く受け止めるが、最終的に決定するのは鳩山内閣であり、要望がそのまま政府の決定になるということではない。社会全体で子どもを育てる経費を負担するという考えから、子ども手当に所得制限を設けるべきではない」

 (高校の授業料の実質無償化)

 川端文部科学大臣「政権公約どおり所得制限を設けないとしてもらったのは、ありがたいことだ」

 (ガソリンなどの暫定税率維持)

 直嶋経済産業大臣「税収が極端に落ち込んでいるので、マニフェストの工程表どおりに暫定税率をすべて廃止するのは、率直に言ってなかなか厳しい状況なのではないか」

 平野官房長官「要望は要望としてどこまで受け止められるかは、政府が最終的に決める」

 ――重点要望の一部は民主党の政権公約に違反するのではないか。

 同平野官房長官「政権公約に違反するかどうかは議論があるが、これまで言ってきたことと違う結論になるのであれば、しっかり説明し、国民の理解を得る必要がある」――

 長妻厚生労働大臣の子ども手当に関して以外はほぼ全員が要望を受け入れる方向でいる。いわば内閣成立から3カ月そこそこで自分たちも関わって政策立案し、賛成したマニフェストの変更容認姿勢となっている。

 鳩山首相が内閣の責任者としてマニフェストに当初掲げた政策に対応した政策実行の決意を表明するのは立場上当然のことだから、当初のマニフェストを異質化させるこの党の重点要望は同時に首相の政策実行の決意の変更を要望するものとなる。

 「マニフェストは国民との契約であり、必ず実現する。約束を果たせなければ、首相としての責任を取る。国民に信を問うのも責任の取り方の一つだ」 (《予算編成で首相の見せ場は? 暫定税率存続に抵抗したものの… 》msn産経/2009.12.17 23:23)

 記事は次のように解説している。〈首相は11月2日の衆院予算委員会でこう啖呵(たんか)を切ったことがある。マニフェストが実現できなければ、衆院解散・総選挙に打って出る覚悟を示したものだ。〉――

 凄い決意だった。このような姿勢を不退転の決意と言うのだろう。鳩山首相のこの不退転の決意の変更をも迫る党の重点要望だが、どう受け止めたのか、COP15開催のデンマークへ出発する前の記者会見からある程度窺うことができる。「asahi.com」記事から関連箇所を抜粋引用。
 

 《マニフェスト「柔軟性も重要」17日の鳩山首相》(2009年12月17日21時14分)

 【マニフェスト】

 ――昨夜も今朝も首相は党の声が国民の声だというような言い方をしているが、マニフェストで選ばれた民主党がマニフェストを変える場合でも、民主党の考えが国民の声と考えるか。

 「私は基本は基本で、応用も応用と。基本という視点は大事です。常にそれは、基本は忘れないで行動する必要がある。

 しかしそれと同時に、臨機応変に、ある意味で国民の思いというものも、あるいは経済状況等、様々変化する可能性もあるわけです。それに応じた、柔軟性というものも重要だ。

 まさにそれが求められているのが政治ではないでしょうか。その中でそれをどのようにしてうまく運営していくかというのが、私は政治の要諦(ようてい)だと思います。

 一つに凝り固まって何でも後生大事にという発想は、その基本の部分は大事ですけども、もっと大事なことは国民の皆さんの暮らしを守る、ということです。その暮らしを守るためにいま、予算交渉をやっています。いい状況になってきているとそう思っています。色々党の、与党3党の声も聞かして頂いた。それはそれなりに、ある意味での国民の皆さんの声を反映している様々なご要望だと思います。

 それもしっかりと耳を傾けながら、年内の予算編成と、これがある意味で非常に大事だと思いますから、それに向けて最終調整をして、最後はこの私も自分の思いを述べてきましたけど、そのもとで最終的に決定します」

 【マニフェスト違反】

 ――子ども手当の所得制限、暫定税率の維持となれば、それは明確なマニフェスト違反という理解でいいか。

 「私は個別のこと、議論している最中ですから。自分の意思は申し上げておきました。それ以上のことを申し上げるつもりはありませんが、それは国民の皆さんの思いというものを大切にしながら、それぞれ意思決定をしていきたい。暫定税率に関しては、これはみんなで、少なくとも民主党の候補者はですね、廃止をすると主張してきましたから、その思いはやはり、大事にする必要があると私は考えています」

 ――明確なマニフェスト違反ととらえるか。

 「維持をするなどという議論も、それはあるのかもしれません。しかし、私は国民の皆さんの意思を尊重していかなきゃならん、そう思っています」

 ――党の要望を受けて、すでに閣僚への指示は出したか。

 「色々と、さきほども議論していくなかで、私の思いはそれぞれの項目に関して伝えてあります。ただいまここで申し上げるつもりはありません」

 この記者会見はほかの報道には17日の昼に行われたと書いてあって、鳩山首相は午前も首相公邸前で記者団に党からの暫定率維持の申し入れに関しての自身の受け止めを話している。

 「私は廃止すべきだと申し上げてきた。国民に対する誓いだと思っている。最終的には私の方で結論を出す」(日経ネット)――

 結論はこれからだと言っているのだから、当初の不退転の決意どおりに即座に反対姿勢を示したわけではない。

 首相の「党の声が国民の声」「msn産経」記事には「党からの要望は国民の皆さんの声だ」となっているが、マニフェストの「基本の部分は大事」だが、「ある意味での国民の皆さんの声を反映している様々なご要望」であり、「大事なことは国民の皆さんの暮らしを守る」ことだからと、要望自体の意義を認めている。

 そしてお決まりの「最終的には私の方で結論を出す」となっているが、これは当たり前のことで、当たり前でなくなったら、政府は必要なくなる。平野官房長官も「政府が最終的に決める」と当たり前のことを改めてのように言っている。

 だが、当たり前のことであっても、麻生前首相が何かにつけ「最終的にはこの麻生太郎が決めます」と言いながら、他の閣僚や党実力者の声、あるいは世論に押されて態度を右往左往させたように自分が言い出した最終的な政策決定過程すら守れず、形式で終わらせることが往々にして存在する。

 このことは鳩山首相の19日のCOP15からの帰国を待たずに与党内で重点要望に向けて動き出したことからも窺うことができる。

 民主党の山岡国会対策委員長「一般の皆さんが対象にならなければ、国をあげて子育てを支援するという子ども手当の意味を成さない。財源を少なくするために年収800万円レベルで制限するのは適当でなく、2000万円くらいが妥当ではないか」

 (暫定税率の租税水準維持に関して)「そういうやり方は国民の気持ちを欺くもので、望ましいと思えない」(NHK

 国民新党の自見幹事長「所得の差があるときに一定の制限を付けるのは、社会的な公平性と正義において、また一方で財政が厳しいときには当然だ。・・・・年収2000万円以上という声もあるが、そういった人はわずかに過ぎず、実際的ではない。ごく常識的には1000万円以上が目安ではないか」(NHK

 子ども手当に所得制限をかけるかどうかの鳩山首相の最終決断を待たずに既に上限金額に向けて走り出している。党内で集約化され、それが党の意見として鳩山首相に示されることになるに違いない。そのとおりに決定されなくても、一応の基準とされるのは目に見えている。

 暫定税率に関しても、首相は「私は廃止すべきだと申し上げてきた。国民に対する誓いだと思っている」と言いつつ、藤井裕久財務相ら政府税制調査会幹部に対してガソリンの税率引き下げが可能か打診している。(《ガソリン税:5円下げ案 政府税調、首相の打診受け》毎日jp/2009年12月19日 2時30分)

 党重点要望にあった「現在の租税水準の維持」に反対ではなく、ガソリンの税率引き下げで抵抗しようというのである。記事は政府内にガソリン1リットル当たり約25円の暫定税率を5円程度引き下げて、20円にする案が浮上しており、鳩山首相が帰国する19日にも最終調整に入ると伝えている。

 〈ガソリンの暫定税率は1リットル当たり約25円で、年間税収は約1.3兆円。自動車関連税の暫定税率全体(約2.5兆円)の半分強を占める財源の柱となっている。5円の引き下げは約2600億円の減収につながり、慎重な声が政府内にもあるため、首相に最終判断を仰ぐ。〉としている。そして次のような解説を載せている。

 〈政府税調は暫定税率を公約通り来年4月に廃止する方針だが、同時に新たな税制措置を講じて上乗せ課税を継続する方向。税率を現行水準で維持した場合、ガソリン価格も下がらず、「暫定税率の衣替えに過ぎない」と批判を呼ぶ恐れがあった。首相の打診は、減税の実施でガソリン価格を引き下げることでその批判をかわし、暫定税率廃止の効果を国民に実感してもらう狙いがあるとみられる。ただ、引き下げには民主党内に反対の声も強く、実現するかは微妙な状況だ。〉――

 少なくとも首相の「最終的には私の方で結論を出す」が自身の当初の信念に従った「結論」ではなく、重点要望に引きずられた「結論」となることを暗示している。

 マスコミや野党自民党から「マニフェスト違反」と言われる所以であろう。 

 民主党は衆院選前の7月、2005年前回衆院選で自民党が掲げたマニフェスト(政権公約)を検証・採点して、〈自民党の公約の達成度は「20点から30点」と酷評している。〉(《達成度は「20点」と批判=前回の自民公約を検証-民主・岡田氏》時事ドットコム2009/07/31-00:08)

 当時民主党幹事長だった岡田克也が自民党政策の「幼児教育の無償化」や「道州制移行」を取り上げ、「4年前の約束が果たされていない。4年前の約束と今言っていることが全く違う。自民党の公約を信用できない」と現在の民主党にも当てはまることを言って批判している。

 記事は次のように解説している。

 〈検証結果によると、幼児教育については、前回公約で「無償化を目指す」と明記していたと強調、「自民党にとって幼児教育無償化は総選挙の風物詩?」と痛烈に皮肉っている。さらに、前回も「子育て期の経済的負担を軽減させる」とうたいながら、生活保護の母子加算を廃止したとして、「公約違反」と断じている。〉――

 「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)も自公政権4年間の政権実績を評価、採点している。「毎日jp」記事――《政権実績:自公政権4年の実績評価(要旨)》(2009年8月3日》から簡単に見てみる。

 ◇経済同友会

 【政権運営=35点】

 【政策=50点】

 ◇連合
 【政権運営=20点】

 【政策=30点】

 ◇言論NPO

 【政権運営=30点】

 【政策=41点】

 ◇PHP総研

 【政権運営=43点】

 【政策=58点】

 ◇日本総研

 【政権運営=36点】

 【政策=38点】

 ◇構想日本

 【政権運営=50・5点】

 【政策=50点】

 ◇全国知事会

 【政権運営=58点】

 【政策=56点】

 ◇青年会議所

 【政権運営=40点】

 【政策=46点】

 ◇ポリシーウォッチ(小泉構造改革を主導した竹中平蔵慶応大教授が代表を務める研究者らの集団)

 【政権運営=45点】

 【政策=45点】――

 連合は民主党の支持母体ともなっているから、辛口の採点となっているのは理解できるが、【政権運営】も【政策】も最高点が58点しかない。

 鳩山首相がわざわざ口にするまでもなく「国民との契約」であるマニフェストの変更は契約解除とまでいかなくても、公約としていたことの整合性を失い、国民に対して契約違反を迫ることになるはずである。

 にも関わらず、重点要望を出した小沢幹事長は「党と言うより、全国民からの要望なので、どうぞ可能な限り、予算に反映させていただくよう、お願い申し上げる」とテレビで言っていたが、党の要望と国民の要望を一致させている。

 テレビのこの発言を聞いて奇異な感じを持ったが、契約違反に当たりながら、「全国民からの要望」とすることが果たしてできるのだろうか。

 鳩山首相にしても、「党からの要望は国民の皆さんの声だ」と党の要望と国民の要望(=声)を一致させている。

 確かに衆議院選挙では多くの国民の支持を得ている。そのことばかりか、民主党が掲げた公約を「必ず守るべきだ」すると国民の声はごく少数で、「守れないものが出てきても仕方がない」、「公約に囚われず柔軟に政策を実行すべきだ」とする声が9割を超えていて、現実的な政権運営を望んでいる(msn産経)国民世論=民意を背景に“党の声は国民の声”だと、あるいは「党の要望は国民の要望」だと言っているのだろうが、しかし一方で鳩山内閣発足時の支持率が軒並み70%を超えていた数値がNHKが12月11日から3日間行った世論調査では鳩山内閣を「支持する」と答えた有権者は先月の調査より9ポイント下がって56%、「支持しない」が13ポイント上がって、34%となる民意の動きを見せている。

 この民意の動きはNHKの調査だけではなく、ほかのマスコミの調査も似た動きとなっている。

 これと似たような状況が政権交代前の自民党与党時代にも存在した。昨07年の参議院選挙の野党勝利が直近の民意でありながら、自民党は「参議院も民意だが、衆議院も民意だ」と民意が動いていることを無視して不動と位置づけ、参議院に対する衆議院の優位性を楯に与野党逆転した参院で否決された法案を衆議院に戻して再可決する民意無視を働いた。

 この経緯も言ってみれば、党の要望、あるいは自民党内閣の要望と国民の要望を違う形を取っていながら無理やり一致させた僭越行為とと言える。

 いわば国民の期待に添っていないのだから、世論調査に現れている現在の民意=国民の声を無視して直ちに「党の声が国民の声」だとすることはできないはずである。

 勿論、国民の要望(=声)に党も内閣も応えていないからとマニフェストを変更して結果的に国民の要望に応えることができ、支持率を上げることができるケースもあるだろう。例えマニフェスト違反だと言われようと、マニフェストを変更して成功したのだから状況を読む能力があったのだと結果オーライとする。

 政治は結果責任である。中途過程に紆余曲折があったとしても、結果を国民の要望に限りなく近づけて一致させる。そのことを以ってマニフェストの変更・違反は許されるとする論理も成り立つが、だが同時にマニフェスト作成に費やした時間と、先見性を兼ね備えていなければならない政策立案に果たした政治に関わる創造力の質が問題となる。

 100年に一度と言われる世界的な大不況のさ中に最終的に積み上げたマニフェストなのだから、特に先見性は欠くことのできない重要な政策立案要素であったはずである。心して作成に臨まなければならなかったはずだが、先見性まで欠いていたことになる。

 鳩山首相が「私は基本は基本で、応用も応用と。基本という視点は大事です。常にそれは、基本は忘れないで行動する必要がある」と言おうと、「臨機応変に」、「柔軟性というものも重要だ」と言ってマニフェストの変更に正当性を与えようと、政治家を名乗っていながら、何のためにマニフェストづくり(=政策づくり)に生半可ではない時間を費やし、何のために雁首を揃えて頭を振り絞ったのかという問題である。時間のムダ遣い、政策立案の無能、先見性のなさをさらけ出すマニフェストづくり、政策づくりだったということにならないないだろうか。

 例えマニフェストを変更して成功したとしても状況の変化を読む能力が優れていた、先見性があったということではなく、そういった能力を有していたならマニフェスト作成の当初から発揮していたはずだから、経済状況とかの何らかの偶然に助けられた成功でしかないだろう。

 多くの時間を費やし、先見性を働かせ、創造力を籠めて政策立案した成果でもあるはずだが、内閣発足3カ月かそこらでマニフェストを変更する。

 百歩譲って、このことを容認するとしても、簡単に「党の声が国民の声」をマニフェスト変更の口実とするのは、あるいは「党と言うより、全国民からの要望」を政策変更正当化の口実とするのは、常に一致するとは限らない、不動ではない国民の意思(=民意)を常に政治家側の意思と看做す僭越な態度につながって危険な臭いを感じる。

 一致していないにも関わらず、さも一致しているかのように装って、「党の声が国民の声」だと、あるいは「党と言うより、全国民からの要望」だと恣意的に政治を進めることも可能となる。

 可能とした場合、独裁意志なくして行い得ない政治の形を取ることになる。鳩山首相はいざ知らず、少なくとも小沢一郎という政治家の中には羽毛田宮内庁長官批判記者会見からも窺うことができることだが、既に独裁意志を芽生えさせているように思える。

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不満足ながら、カダフィ大佐の日本批判に答える

2009-12-18 09:58:40 | Weblog

 リビアの最高指導者カダフィ大佐と明治大などの学生が15日、衛星回線を通じて対話集会を行ったと「asahi.com」記事――《カダフィ大佐、衛星通じ学生に持論 明大で対話集会》(2009年12月15日22時8分)が伝えていた。明治大軍縮平和研究所の主催、学生ら約730人が参加。

 カダフィ大佐の発言箇所を拾ってみた。
 
 「これまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」

 「原爆を落とした米国に日本人がなぜ好意を持てるのか理解できない」

 「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」

 「国連で日本は米国に追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」――

 「47NEWS」では〈欧米諸国や中国を、資源目的でアフリカの国々に介入しているとして批判した。〉と伝えてもいる。

 明大生がどう答えたのか、答えなかったのかは「asahi.com」にも「47NEWS」にも書いてなかった。

 最初に「原爆を落とした米国に日本人がなぜ好意を持てるのか理解できない」について。

 原爆投下がアメリカがもたらした事態と受け止めているよりも、日本の戦争がもたらしたと受け止める考え方が支配的となっているからではないのか。勿論アメリカへの批判もあるが、それが目立って突出するのは日本の戦争が如何に残虐であったか声高に批判が起きたときにそれを擁護する側からその残虐さを相対化させる目的でアメリカの原爆や東京大空襲を持ち出すときに主として限られる批判で終わっているということではないだろうか。

 次に被害当事者について言うと、原爆投下は被害を受けた日本人にとっては原爆そのものの呪わしさだけではなく、被爆時の苦痛を実体験として記憶に張り付かせ、さらに後遺症によってもたらされる苦痛を常時経験していかなければならないが、被害に無関係な絶対多数の国民にとっては原爆投下時に受けた苦痛や被害、さらに後遺症の苦痛を事実あったこと(=情報)として受け止めることはできても、実際の感覚として味わうことができないから、アメリカが投下したことによって生じるすべての利害に無関係でいられることを受けた全体として見た場合のアメリカに対する憎悪の希薄性といったところなのだろう。

 さらにアメリカは日本が起こして国民をどん底に投げ込んだ侵略戦争を打ち負かして軍国主義から日本国民を救い、民主主義をもたらした解放者・恩人と見ていることもあるからだろう。

 終戦の日から半月経った8月30日に厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーが朝鮮戦争の最中に解任にあい日本を去る約6年間に性別も年齢も職業も問わない多くの日本国民からマッカーサー宛の手紙が約50万通も届いたということだが、その内容が贈り物の申し出や日本の政治の矛盾を訴えるといった文言で占められていたということは日本国民がアメリカを日本の軍国主義と戦争からの解放者と見ていたことの証明になる。

 世の中には厭がらせの贈り物というものもあるが、一般的には感謝の気持ちから発している。敗戦直後から「原爆を落とした米国」に日本人は好意を持っていたということであろう
 
 アメリカが日本国民にかつて経験したことのない民主主義をもたらしたのである。「天皇陛下のため」、「お国のため」と天皇と国家に国民こぞって身を投げ打つ姿勢を示していたが、それが国家権力に強制された姿勢であり、そのような姿勢でいることに如何に我慢してきたかがアメリカを敗戦を境に敵国変じて解放者だと看做した日本国民の豹変から窺い知ることができる。

 また日本国民の多くが戦争の直接的な苦痛、あるいは間接的に受けた生活の苦しさを味わっていたとしても、その苦痛をつくり出したのは戦前の日本政府と特に軍部で、敗戦時は食糧危機に見舞われたが、将来に希望を与えてくれたのはやはり独裁政治を葬って民主主義をもたらしたのはアメリカだと見ていたからだろう。アメリカこそ、当時の日本が目指した将来像だった。

 「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」――

 日本にとっては地政学的にその機会がなかっただけのことに違いない。せいぜいアジアに足場を築く機会と国力しかなかった。アフリカ大陸に植民地政策の足場を築くことができる地政学に恵まれていたなら、無計画・無謀にアメリカに戦争を仕掛けたようにイギリス・フランス・ドイツの向こうを張ってアフリカ大陸に「植民地政策や侵略行為」を推し進めていたに違いない。

 「国連で日本は米国に追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」――

 モノづくりの発想に見るべき才能はあっても、その殆んどが既にある見本をなぞり、そのなぞりを発展させる能力によって完結させることができるモノづくりだから、モノづくりに投資できる資金さえ保証されれば、訓練と経験と歴史を積めば誰でも手に入れることができる。

 このことは日本より遥かに後発ながら、同じなぞりとなぞりを発展させて国自体を発展させ、日本のすぐ後ろまでつけてきた韓国、既に日本を追い越した中国の躍進が何よりも証明している才能の質であろう。

 日本自体は歴史的に中国・朝鮮・オランダ・ポルトガル・フランス・イギリス・ドイツ、そしてアメリカの先進技術をなぞり、それを発展させることでモノづくりの才能を伸ばしてきたが、なぞり、それを発展させる能力では解決できない政治・外交といった創造性を必要とする才能を伝統的に欠いているから、アメリカといった政治大国に追随することで劣る創造性を埋め合わせることになる。

 そう遠くない将来、日本はアメリカだけではなく、中国にも追随する国になるに違いない。

 なぜ日本人は見本をなぞって発展させることで解決するモノづくりの能力には長け、なぞりでは解決しない、駆引きやその時々の状況と共に変化していく、あるいは対応次第で異なる道筋や利害の姿を取る、見本が見本とはならない、それゆえに無から有を生じせしめるか、あるいはそれに近い臨機応変の創造性を必要とする政治や外交の能力に欠けるのだろうか。

 日本は大和政権成立時から朝鮮半島や特に中国の文物・制度をなぞり、それを日本の封建制度に合うように発展させることで歴史的・伝統的に誰に邪魔されることなく国を成り立たせてきた。

 そういった国の発展に慣れ、満足してしまった。

 結果的に歴史的・伝統的なその刷り込みが自らの体質となった。戦後アメリカに占領されても、いち早くアメリカの文物・制度に追随し、歴史的・伝統的に培ってきたモノづくりの才能に助けられて日本風に発展させ、モノづくりの才能では解決できないゆえに政治大国となれなかったものの、ついには世界第2位の経済大国にまでのし上がった。

 そういったことではないだろうか。


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自民党谷垣の「英霊が日本の発展の礎を築いた」は世迷言

2009-12-17 10:39:18 | Weblog

 客観的認識能力ゼロの男が公党の代表者となっている

 自民党の谷垣総裁が東京都内開催の全国戦没者遺族大会で戦没者に対する特定の宗教によらない新たな国立の追悼施設について次のように発言したと、「NHK」Web記事――《谷垣総裁 国立追悼施設に反対》が書いている。

 「わが国の発展の礎に、戦争でみずからの命を失った英霊の尊い犠牲があったことを忘れてはならない。自民党の再生を考えるにあたってもう一回この思いを胸の底に畳み込む必要がある。・・・・・追悼施設の新設構想は、断固排撃し、実現させないように戦っていく」

 新たな国立の追悼施設の建設については、鳩山首相が就任前の今年8月に「天皇陛下が、靖国神社に長い間行っておられないこともあり、陛下が安らかに参拝していただける施設が必要だ」と述べ、建設に向けて検討を進めたいという考えを示していたとしている。

 さらに日本遺族会会長の自民党古賀元幹事長も、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認められないと強調したということだが、遺族会会長の立場からしても、客観的認識能力を欠いているゆえにいつまでも古臭い体質のまま成長できないでいる政治家という立ち位置からしても、反対は当然の意思表示である。
 
 谷垣は戦死者が「わが国の発展の礎」となったと古賀と同じく客観的認識能力を欠いたことを言って持ち上げているが、天皇の兵士である大日本帝国軍隊兵士たちが侵略戦争の「礎」となり、日本国家を敗戦の破滅に導いた「礎」となったするなら、理解できる。

 そうでなければ日本の侵略戦争も日本の敗戦も存在しないことになる。

 そのような「礎」を築き上げたのは時の政府であり、何よりも日本の軍部であった。

 戦争で生き残った日本人は戦死者たちが「尊い犠牲」となったとの思いから日本の再建を誓ったわけではない。戦後の食糧危機を兎に角凌ぐことしか頭になかったろう。食糧難の苦境を額に汗し、歯を食いしばって凌ぐことに精一杯だった。

 何しろ敗戦直後の大半の日本人が国に騙されたと戦争を憎み、国を恨んで自分たちを戦争被害者の境遇に置いていたことからして、戦死者を「尊い犠牲」だなどと思っていたはずはない。現実には戦争を戦った兵士たちが侵略戦争の「礎」となり、日本国家を敗戦の破滅に導いた「礎」となっていたにも関わらず、生き残った自分たちと同じように戦死者も国に騙されたとする境遇に置いたはずである。

 生き残った者だけが国に騙された犠牲者で、戦死者がそうでないとしたら、一般国民も銃後で「お国のため、天皇陛下のため」と戦争遂行に心身ともに協力した手前、自己都合に過ぎて整合性を失う。

 このことは敗戦翌年の1946年5月19日の「飯米獲得人民大会」と名づけられた「食料メーデ-」に掲げられたプラカードの文言からも証明できる。

 参加者は25万人も集めそうだが、そのプラカードには「詔書、国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」(『昭和史』有斐閣)と、戦争中だったなら不敬罪でたちまち逮捕されてしまうから不可能だったことが書いてあったそうだが、ここには国民は今なお国に騙されている犠牲者だとする意識が否応もなしに現れている。

 当時の日本人が食べることに如何に懸命になっていたか、食糧を獲得することに如何に頭が一杯だったかということだけではなく、この深刻な食糧不足が国に騙されて戦争をした結果だとしていたのである。銃を取って戦死した兵士をして「尊い犠牲」だなどと思う意識の回路は持ち合わせていなかったろう。

 麻生太郎は総理大臣に就任するに当たって2008年9月29日に衆院本会議で所信表明演説を行った際、「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」と述べたが、「御名御璽」とは天皇の署名・公印を指して現在も公的に用いられている呼称だそうだが、麻生太郎と敗戦翌年の食料メーデ参加者の天皇の扱いは真逆であったことが分かる。麻生太郎の恐縮・畏敬に対して当時の国民は侮蔑・嘲笑の対象としていた。「尊い犠牲」だとする意味づけは不可能だったろう。

 今日戦死者を「尊い犠牲」だとすることができるのは多くの国民に悲惨な犠牲を強いた愚かな侵略戦争だったとしていた戦後当時の国民の意識を忘却の彼方に捨ててしまっているからに違いない。侵略戦争を戦いながら、戦死したことを以って「尊い犠牲」だとすること自体が既に客観的認識能力を失った倒錯した考えとなっている。「犠牲」とは貢献を意味するからだ。侵略戦争に貢献した「尊い犠牲」となってしまう。

 この貢献という意味だけを取り上げたとしても、谷垣の言っている「わが国の発展の礎に、戦争でみずからの命を失った英霊の尊い犠牲があったことを忘れてはならない」が如何に世迷言か理解できようというものである。

 戦争を生き残った多くの日本人は当初は飢えから逃れるため、あるいは飢えに見舞われないために懸命になった。国民の努力もさることながら、アメリカの食糧援助で凌ぎ、敗戦から5年後の朝鮮戦争特需、それから11年後のベトナム戦争特需の恩恵や為替利益などが日本の経済「発展の礎」となって日本はここまで来た。

 谷垣の客観的認識能力ゼロは西松建設違法献金事件で政策秘書が略式起訴された身内の二階俊博選対局長に対する対応にも現れている。党内のこのままでは来年の参院選が戦えないといった理由からの役職辞任要求に鳩山首相自身の献金問題と比較して10日の記者会見で、「鳩山さんはトップリーダー。(疑いの)金額も違う。説明責任も果たしていない」(asahi.com)と処分に反対、執行部の続投方針に地方組織から抗議文が執行部に送付されたと言うことだが、与党と野党の立場の違いや衆参両院の議席数の違い、さらに党支持率の違い等から、その大きな違いを埋めて尚且つ逆転する対応の違いを見せるべきだったが、首相という立場と野党の選対局長の立場の違いと金額の違い、二階にしても果たしているかどうかも分からないのだから違いがあるのかどうかも分からない説明責任を取り上げて、二階の方が小さい問題だとしたのは客観的認識能力を欠いていたからだろう。

 大体が二階問題は自民党が与党の時代から引きずっていたことで、現在の野党の立場からのみ考えるべきではなかったはずである。

 党内の処分要求に抗えず、二階俊博自身が役職辞任の辞表を提出してケリをつけたが、その後手に回った対応によって、鳩山首相に対しても与野党の立場に関しても、何ら違いを見せることにならなかった。

 谷垣総裁は「選挙対策の仕事の真っ最中で、判断が間違っていたとは思わない」(時事ドットコム)と釈明したそうだが、政策秘書の略式起訴から二階本人の辞任まで、そこに民主党との違いを何ら見せることができなかったのだから、「判断が間違っていたとは思わない」はやはり客観的認識能力を欠いた発言としか思えない。

 「党内世論読めず」と批判する(時事ドットコム)記事があったが、「党内世論読めず」とは客観的認識能力の欠如が原因した識見の無さを言うはずである。


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小沢一郎の極めて危険な天皇忖度

2009-12-16 08:31:34 | Weblog

 昨日エントリーの当ブログ《天皇政治利用批判に対する鳩山首相・小沢幹事長・平野官房長官三者三様態度》で小沢記者会見を14日夕方放送のTBS「総力報道!THE NEWS」から採ったが、アップロード後「Google」でインターネット記事を検索していたところ、TBS「総力報道」では編集カットしてあった記者の質問の言葉と小沢幹事長の発言の一部分が「J-CAST」記事に全文採録の形で採り入れてあった。特に抜けていた小沢幹事長の発言部分は政治利用に当たる肝心な箇所に思えるために、改めて「J-CAST」記事を全文参考引用して、青文字で記したその箇所のみの感想を述べたいと思う。 


 《ワイドショー通信簿・小沢幹事長会見に反発 宮内「陛下に僭越。ムカムカする」》J-CAST/2009/12/15 16:13)

 <テレビウォッチ> 『1か月ルール』を無視した形で、中国の習近平国家副主席と天皇陛下の会見を実現させた批判に対し、渦中の小沢民主党幹事長が苛立ちをあらわにして吠えた。

何とも聞き苦しい、荒っぽい発言の数々に驚いたが、12月14日行われたこの記者会見の一部始終を取り上げた番組では、コメンテーターから「はっきり言ってムカムカしてきます」という声も。

  で、その会見での小沢幹事長の発言は……
 
 記者「会見は「30日ルールにのっとらずに行われるが?」

小沢「『30日ルール』って誰がつくったの? 知らないだろう? 君は。法律で決まっているわけでもなんでもない。そんなもの。君は日本国憲法を読んでいるかね? 天皇の行為はなんて書いてあるの?」

記者「国事行為と……」

小沢「国事行為は内閣の助言と承認で行われるんだよ。だから、ナントかという宮内庁の役人がどうだ、こうだと言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。しかも、内閣の一部局、一役人が内閣の方針、決定したことについてどうだ、こうだというのは日本国憲法の精神、理念を理解していない、内閣にどうしても反対なら辞表を提出した後に言うべきだ。当たり前でしょう、役人なんだから」

  記者「ルールはなくてもいいと?」

 小沢「なくていいもんじゃない。私はルール無視していいとか何とか言っているんじゃない。宮内庁の役人がつくったから金科玉条で絶対だなんて、そんなバカな話あるかって言うんですよ、ね。天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?天皇陛下のお体が優れないというならば、それより優先性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか、そうでしょう、分かった?

 『脱官僚、政治主導』は、宮内庁も『聖域』でないというわけだろうが、それにしても『象徴天皇』を掲げた日本国憲法の理念、戦後、天皇陛下の『政治利用のあり方』に慎重な気配りしてきた理由などはどこ吹く風。僻説とも取れる荒っぽい発言は、お話にならない。

スタジオでは、三屋裕子(スポーツプロデュサー)が「優位性の低い行事を誰が決めるの。あちこち矛盾している」。

また宮内正英(スポニチ編集長)も「政治ではないけれども記者会見は何度も出ました。はっきり言ってムカムカしてきます。ご自身に聞いてみたら陛下は『お会いしましょう』というと思う云々は、僭越過ぎると思う」と、悪評紛々。 (文 モ ンブラン)
 【僻説】(へきせつ)「間違った考え。偏った説」(『大辞林』三省堂)

 「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?」は天皇の意志を直接確かめていないのだから、一方的に“疑問を挟む余地なし”とした絶対的思いを前提とした発言であって、そうであるからこそ、小沢自身がそうして欲しいとする、その方向に限定した忖度から発して、当然の結末として結論・解釈が忖度から些かも外れない一致を見せることとなっている。

 このような絶対性を前提とした忖度が一度や二度天皇の意思と一致したとしても、そのことを当たり前とし、既成事実化した場合、小沢の発言から言うと、「必ずおっしゃると思いますよ」に表れている“疑問を挟む余地なし”の絶対性を一般化した場合、すべての忖度自体が絶対となり、忖度の主体である小沢一郎自身を絶対化させることになる。

 民主党及びその内閣に於いて、小沢一郎なる存在は既に絶対的存在と化しつつある。絶対的存在となっていることの自信から発した「天皇陛下ご自身に聞いてみたら・・・」云々でもあるに違いない。

 もし天皇に対する小沢一郎の忖度が絶対となり、天皇をして小沢の忖度どおりに“必ずおっしゃらせる”存在とさせた場合、独裁意志を以って天皇を動かす上下の力関係を小沢一郎は手にしたことになる。小沢、天皇間の独裁関係の確立を意味する。

 「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?」が如何に危険な“疑問を挟む余地なし”の忖度であり、政治利用意志であるかが分かる。

 小沢一郎が「天皇陛下のお体が優れないというならば、それより優先性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか、そうでしょう、分かった?」と言っていることに対して三屋裕子が「優位性の低い行事を誰が決めるの。あちこち矛盾している」と批判しているが、天皇の会見が友好・親善が目的なら、各国対象の友好・親善にまで優先順位をつけることになる。

 これは極めて政治的な取り計らいとならないだろうか。結果的に政治的重要性で優先順位をつけることとなって、小沢一郎が言うように「優先性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか」とはならないということである。

 政治的重要性で優先順位をつけるのは容易ではあっても、そのような順位に従った会見の設定は政治的重要性の順位を天皇に担わせる天皇による代償行為ともなって、間違いなく政治利用そのものとなる。

 “一カ月ルール”に触れながら、敢えて習近平国家副主席と天皇との会見を“特例”として実現させたのは経済関係も含めて政治的に中国を最重要の国と位置づけ、そこに優先順位を置いたからだろうから、例え名目は友好・親善が目的であろうとも、また政治利用に当たらないとどう抗弁しようと、政治的重要性で優先順位をつけた政治利用に当たらないはずはない。

 大体が「分かった?」、「分かった?」と自己の意思を絶対として他に押し付け言動自体が既に独裁意志を孕んでいる。

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天皇政治利用批判に対する鳩山首相・小沢幹事長・平野官房長官三者三様態度

2009-12-15 12:23:52 | Weblog

 鳩山首相、14日朝。

 「杓子定規に考えるよりも、本当に大事な方であれば、天皇陛下の、ォー、お身体が一番大事ですけどね、その中で許す限り、お会いになっていただくと。今回の場合、日中関係をさらに未来的に発展させるために、大変大きな意味があると思っていますから、私は判断は間違っていなかったと、そう思います」

 要するに習近平国家副主席は「本当に大事な方で」、天皇との会見が「日中関係をさらに未来的に発展させるために、大変大きな意味がある」から、“一カ月ルール”を「杓子定規」に適用するのではなく、柔軟に解釈していただいたと言うことなのだろう。

 鳩山首相は11日夕方に同じ趣旨のことを言っている。

 「諸外国と日本との関係を好転させるためで政治利用という言葉はあたらない」

 この発言に関して先のブログで次のように書いた。

 「諸外国と日本との関係」の好転は〈極めて政治の役目であって、それを天皇に負わせるのは政治的利用以外の何ものでもない。政治的側面を持たせない親善が役目ということなら理解できる。大体が「諸外国と日本との関係を好転させる」ために天皇にお出ましを願うということなら、内閣に於ける外交に関わる分野は必要なくなる。〉――

 諸外国と友好促進、友好関係構築に於ける天皇の役目はあくまでも象徴的な意味合いでの志向であって、実質的な関係促進、あるいは実質的な友好関係の構築はやはり政治の役目であって、そういった側面に関して天皇は儀礼的・形式的に担っているに過ぎない。

 儀礼的・形式的である以上、敢えて“一カ月ルール”を曲げる必要はなかったはずである。「国家主席になって訪日の機会があれば、そのときはいつでもお会いできますから」で納得させることもできたはずである。

 曲げた理由が中国からの再度の申し入れからであり、それを宮内庁に認めさせた会見の正当化の口実に「諸外国と日本との関係を好転させるため」だ、「日中関係をさらに未来的に発展させるために、大変大きな意味がある」からだと一見政治的側面を持たせない友好親善のように装わせているが、本来は政治の役目として完結させなければならない外交問題を“一カ月ルール”を敢えて曲げさせたことでその役目を結果的に天皇にまで広げている。

 要するに鳩山首相とその周辺は政治の役目として完結させる能力を発揮することができずに天皇にまでその役目を振った。政治利用そのものであろう。

 14日の夕方からのTBS「総力報道!THE NEWS」で小沢幹事長の記者会見を流していた。時には口許にうっすらと笑みを漂わせたが、ほぼ一貫して強い調子で責める詰問口調を見せていた。

 途中別の場面を入れる編集がしてあるため、その箇所は「・・・・・」で記した。

 小沢「君、日本憲法読んでいるかね?(相手の返事を待つ間(ま)。「君」と呼びかけられた記者の声は聞こえない。)

 うん?

 どういうふうに書いてある、憲法?

 天皇の行為は何て書いてある?

 何て言うか、どういうふうに書いてある、憲法に?

   ・・・・・・・

 “30日ルール”って、誰が言ったの?(睨みつけるようにする。)

 知らないだろ、君は?

 法律で決まっているわけでもないんでしょ?そんなもん。

 天皇陛下の行為は国民が選んだ、内閣の助言と承認ですべて行われるんだ、すべて。

 それが日本憲法の理念であり、えー、主旨なんだ、ね。

 何かと言うと、宮内庁の、役人が、あー、どうだこうだ、どうだこうだと言ったそうだけれども、全く日本憲法、民主主義というものを理解していない人間の、発言としか私は思えない。ちょっともう、私には信じられない。

 しかし内閣の一部局じゃないですか、政府の。もしどうしても反対なら、辞表を提出したのちに言うべきだ。当たり前でしょう?役人だもん。

   ・・・・・・・

 だから、“一カ月ルール”って、誰がつくったんですかって言うんですよ。宮内庁の役人がつくったからって、金科玉条で絶対だなんて、そんなバカな話、あるかっていうんですよ。

 天皇陛下は内閣の助言と承認で、それが憲法にちゃんと書いてあるでしょうが。それを政治利用だと言ったら、天皇陛下は何もできないじゃない?

 内閣の何も助言も承認も求めないで、天皇陛下、個人で勝手にやんの?そうじゃないでしょ」――

 小沢一郎は言っている。

 「天皇陛下の行為は国民が選んだ、内閣の助言と承認ですべて行われるんだ、すべて」

 改めて持ち出すまでもないが、日本国憲法は天皇の行為に関して「第1章 天皇」の第3条と第4条(1)で次のように謳っている。

 第3条 天皇の国事行為に対する責任

  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 第4条 天皇の機能

(1)天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
 
 「天皇の国事に関するすべての行為」についてのみ、小沢が言う「内閣の助言と承認」を必要とするのであって、憲法で権能を有していないと規定している「国政」に関してまで「内閣の助言と承認」が有効となるわけではない。

 いわば「内閣の助言と承認」があったからといって、「国政」に天皇を関与させることは憲法では天皇の禁止行為となっている。

 小沢は「天皇陛下の行為は国民が選んだ、内閣の助言と承認ですべて行われるんだ、すべて」、だから政治利用ではないと、国事行為も国政行為もごちゃ混ぜにして詭弁を弄しているに過ぎない。

 小沢がなすべきことは「内閣の助言と承認」の元に天皇の了承を得た天皇と習近平国家副主席の会見は決して天皇の政治利用には当たらないことの直接的な証明であって、憲法上の天皇の役割の解釈ではない。

 宮内庁の態度を「全く日本憲法、民主主義というものを理解していない人間の、発言としか私は思えない。ちょっともう、私には信じられない。」と言っているが、「日本憲法、民主主義というものを理解していない人間」とは小沢自身のこととなる。

 また “30日ルール”に関して「法律で決まっているわけでもないんでしょ?そんなもん」と言っているが、国政上、もしくは社会上の行為のすべてが法律で決められていて、その規制を受けるわけではない。法律による規定を受けなくても、慣習や慣例、伝統に従った、あるいは文書で取り交わした様々な契約に従った規制も存在するのだから、「法律で決まっているわけで」なくても、頭から無効な“ルール”だと決め付けるわけにはいかない。

 だが、小沢一郎は「そんなもん」と頭から無効だと言っている。不当でないにも関わらず、不当だと決め付けるのは下を上に無条件に従わせようとする権威主義的態度を自身が抱えているからに他ならない。

 「法律で決まっているわけでもないんでしょ?そんなもん」の次に「“一カ月ルール”って、誰がつくったんですか」と自己主張を正当化するために強弁の補強を図っているが、宮内庁が勝手に決めたのではなく、外務省と相談して決め、1995年に文書化したものだと新聞記事が伝えていた記者会見での羽毛田宮内庁長官自身の発言を先のブログに書いた。

 このことは天皇自身も了承している“一カ月ルール”でなければならない。もし了承していない、一切関知外のルールだとしたら、宮内庁と外務省が勝手に契約して勝手に天皇の行為を規制する最たる政治利用となる。

 いわば天皇自身も関与している“一カ月ルール”であって、宮内庁が勝手に「金科玉条」にしているわけではあるまい。しかし小沢はそれを宮内庁のみの関与として、天皇の関与を認めていない。天皇の健康維持のためにつくった“ルール”なのだと向ける目を持たない。

 記者に向けた睨みつけるような詰問口調に既に現れていたが、「何かと言うと、宮内庁の、役人が、あー、どうだこうだ、どうだこうだと言ったそうだけれども」の発言にしても、「内閣の一部局じゃないですか、政府の」にしても、内閣の最終責任者でないにも関わらず、さもそうであるかのような宮内庁を下に見ている態度、眼中に置かない態度であって、権威主義的態度が現れた発言としか言いようがない。

 「もしどうしても反対なら、辞表を提出したのちに言うべきだ。当たり前でしょう?役人だもん」とさも相手に非があり、自己に正当性あるかのように言っているが、任命権者たる内閣総理大臣が宮内庁長官の態度に異議があるなら、内閣でその進退を諮って更迭するなり、戒告するなりすればいいのであって、小沢一郎が党幹事長の立場から内閣にそのことを進言する資格はあっても、内閣に所属していない立場から内閣の方針を批判したからと言って一々辞表を出せと言うのは独断と僭越に当たり、一種の威しに当たる批判の封殺を狙う権威主義的態度と言わざるを得ない。

 小沢一郎の最も権威主義性が現れた言葉を「内閣の何も助言も承認も求めないで、天皇陛下、個人で勝手にやんの?」に見ることができる。「個人で勝手にやる」わけがないことは常識として分かることを、その常識を無視した上、「個人で勝手にやんの?」と天皇に対しても差配者であるかのように自分を上に置いた敬意とは正反対の軽んじた言い方となっているからである。

 小沢一郎幹事長が抱えているこういった権威主義性からすると、今回の韓国訪問での12日の講演で、東京大学考古歴史学者だった江上波夫教授から直接聞いたこととして「騎馬民族日本征服説」を紹介、「韓半島南部の地域権力者が海を渡って来て今の奈良県に政権を樹立したという。・・・・この話をもっと強調すれば日本に帰れないから、これ以上強く話すことはできない」と聴衆を笑わせた発言からも、「天皇も、8世紀の桓武天皇の生母は百済(ペクチェ)の武寧(ムリョン)王の子孫だと言われた」(《【小沢氏来韓】「在日韓国人ら外国人地方参政権を現実化させる」》中央日報/2009.12.13 12:04:53)との発言からも窺うことができる日本を他のアジアの国よりも優越的位置に置く日本的な権威主義性の否定は国益のためにはどのような手段も許されるとするマキャベリズムだと疑えないこともない。

 何しろ1990年に韓国の盧泰愚大統領が来日、天皇との宮中晩餐会で天皇が述べる日本の戦争がアジアに与えた被害に関わる発言を踏み込んだ謝罪とすべきかどうかで自民党政府内で揉めていたとき、天皇の言葉を内閣が決めること自体が既に天皇の政治利用だが、一歩踏み込んだ謝罪とすることに決定すると、当時自民党に在籍していた小沢一郎が「反省しているし、(韓国に)協力している。これ以上地べたにはいつくばったり、土下座する必要があるのか」と天皇の一歩踏み込んだ謝罪に反対、その発言が韓国で問題となって政府・自民党首脳会議の場で迷惑をかけたと謝罪する羽目に陥った前科を抱えている。当然、韓国世論の反撥を苦い経験として学習しているはずである。

 謝罪が前科に反しているものの、苦い経験の学習に立った韓国世論の受けを狙った講演での発言だとしたら、まさしくマキャベリズムだと勘繰れないこともない。

 社民党の福島瑞穂は小沢幹事長が韓国訪問で日本の植民地支配に対し謝罪の意を示したことについて、「『村山談話』は植民地支配について謝罪する中身だった。小沢幹事長が同じような気持ちでおっしゃったのであれば、『村山談話』を踏襲するものであり、適切だ」(NHK)と評価したということだが、安倍にしても麻生にしても、自身は踏襲していないにも関わらず、中韓との関係維持のために「内閣として」という限定付きで「踏襲していく」と常に二重基準の村山談話の踏襲だったことを考えると、福島瑞穂のようには簡単には評価できない小沢一郎の「村山談話」の踏襲と言えないこともない。

 平野官房長官は昨14日午前の記者会見で今月9日に外務省が中国側に再度会見を拒否していたという一部報道について記者に問われて、「承知していない」(msn産経)と否定している。

 外務省を通しての中国側の要請が宮内庁の断りにあって、そのことを外務省は中国側への返事としたが、中国側の再度の申し入れを受けて官房長官が自ら宮内庁に電話を入れたのだから、「承知していない」はずはない。ウソつき官房長官の面目躍如のウソ八百であろう。

 事実「承知していな」かったとしたら、官房長官の立場として職務怠慢に当たる。事実無根だと否定した場合の後付の露見を恐れて、「承知していない」とした誤魔化しに過ぎと断定できる。

 今回の天皇の政治利用で自民党からもあれこれと批判が出ているが、昭和天皇や平成天皇の日本の戦争に関わったアジア等の国々への訪問の際に行う天皇の謝罪を踏み込んだ言葉にするかどうか散々に政治利用してきた歴史を抱えているのだから、批判する資格はない。

 大和政権成立時から天皇は政治利用体でしかなく、その歴史を今日まで担っているのではないだろうか。そう解釈しないと、日本の政治権力の歴史的な二重性を解くことができない。

 現在の日本はロシアのメドベージェフ大統領とプーチン首相の権力の二重構造程ではないにしても、天皇制と政府との非常にソフトな二重権力を描いているが、鳩山内閣は鳩山首相と小沢幹事長の権力の二重性が言われている。真正な民主主義国家ではあり得ない権力構造ではないだろうか。

 国事行為の範囲内ですべてに於いて天皇自身が自らの言葉を持ったとき、政治利用体であることから解放され、日本は真の象徴天皇制の元、権力の二重構造から逃れ出ることができるのではないだろうか。


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それぞれに選ばれし者達――小泉進次郎と母子家庭生徒

2009-12-14 10:38:28 | Weblog

 自民党が安倍・福田・麻生内閣で順次支持を失っていったその回復と拡大を目的に企画した議員の地元を有権者と回るイベント「みんなで行こうZE」の第1弾として引退した小泉純一郎元首相の長男小泉進次郎一年生議員の海上自衛隊横須賀基地見学ツアーが13日開催されたと言う。

 参加者の構成はスポニチによると、〈8割は女性で、20~30代が中心。理由はさまざまで「艦船が見たかった」(30代女性)などが多かったが、中には「(兄で俳優の)孝太郎さんが好きなので」という女性の声も。進次郎氏が登場するとカメラ付き携帯電話での撮影会が始まった。〉というから、タレント趣味のミーハーが主流で、レジャー気分の参加者が多かったように見えるが、しかし何票か自民党へ流れるとしたら、バカにはならない。

 《小泉進次郎氏が基地ツアー=競争率100倍、海自は取材拒否》時事ドットコム/2009/12/13-18:22)から様子を見てみる。

 インターネットを使ったツアー参加募集に参加者49人に対して5200人が殺到、競争率は100倍を超えたという。これは平均的な一年生国会議員に不似合いな、それを超える凄(すさ)まじいばかりの人気と言えるが、小泉純一郎の高かった国民的人気を父子継承したサラブレッドならではの成果なのは誰の目にも明らかである。

 勿論、本人の資質に与っている部分もあるだろうが、その資質にしても父子継承した側面が強いはずである。

 ツアーは停泊中の護衛艦2隻の見学のほか、基地内で小泉進次郎と横須賀名物の「海軍カレー」を食べながら懇談。
 
 海上自衛隊側は「特定の団体に肩入れするわけにはいかない」と報道陣の同行取材を拒否したという。

 見学後の記者団の取材に――

 「『来て良かった』と言ってくれたのが何よりうれしかった。・・・・自衛隊の意向か、ほかの方の意向か分からない。民主党は公開性を重んじる政党だから、公開でも良かったのでは」

 海上自衛隊の取材拒否が民主党の「横やり」だとの見方を示したという。

 小学4年生の娘と参加した東京都多摩市在住の男性会社員(38)。

 「自衛隊に接する機会が少ないが、安全保障を考えるいい機会になった」

 海上自衛隊からそこそこの説明を受け、海軍カレーを食べながら小泉進次郎と安全保障に関して懇談しただけで「安全保障を考えるいい機会になった」とはコピー&ペーストの脳意識からなのか、安直・簡便でいい。

 このことを裏返すなら、頼もしい限りだが、38歳になるまでの新聞記事やテレビのニュース・報道が「安全保障を考えるいい機会」になっていなかったことの暴露でもある。一般的な日常的情報が役に立っていなかったということなら、海上自衛隊見学ツアーに参加しなかったなら、「安全保障を考えるいい機会」は永遠に訪れなかったかもしれない。幸せ者めっ!

 小泉進次郎は父親である政治家として輝かしい経歴に恵まれた小泉純一郎が祖父・父・自身の三代で後生大事に築き上げた鞄(カネ)と地盤と看板と、看板の中でも特に名声だけにとどまらない人気という財産まで受け継ぎ、今や父親を凌ぐ知名度を獲得し、マスコミの厚遇を受けて父親に劣らない存在感を示すまでになっている。

 この華々しいクローズアップはまさしく小泉純一郎の元、選ばれし者としてこのように生を受けたことによる脚光でもあろう。

 この選ばれし者として陽の当たる場所に生を受けた小泉進次郎の対極にある存在者として上記記事と同じ日付けで紹介されている母子家庭の高校生を挙げることができる。

 彼らとて、ある意味選ばれし者として生を受けた人間のリストに入るはずである。

 《塾などの教育費、母子家庭は平均の6割 高校生対象調査》asahi.com/2009年12月13日20時39分)

 父親を亡くした「あしなが育英会」が調査した同会の奨学金を受けている母子家庭の高校生の生活状況によると、塾や参考書購入など学校生活以外でかけている教育費は公立の生徒で公立の全国平均年間約17万円に対してその約6割にとどまる年間約10万円。

 私立の生徒で私立の全国平均年間約30万に対してその4割にとどまる年間約12万円。

 母親の平均年収が父親の生前の半分となる約246万円、月平均20.5万円だというから、高校生である子供達の生活外教育費にかけているそれぞれの金額は母親が少ない収入から子どもの将来を考えて頑張って支出しているが、それでも全国平均以下ということではないだろうか。

 制服代、部活費、修学旅行費など授業料以外でかかる学校生活上の教育費の状況調査でも母子家庭は全体平均を下回って、公立生は公立の平均年間約24万円に対してその7割にとどまる約17万円、私立生は私立平均の年間約46万円に対してその半分にとどまる23万円。

 ぎりぎりまで切りつめ、修学旅行に行けない生徒も少なくなく、今回調べた公立高校生の半数が、低所得を理由に授業料の全額免除を受けていたと記事は紹介している。

 同じ「あしなが育英会」の調査を扱った「YOMIURI ONLINE」記事――《母子家庭、仕事持つ母の63%が非正規雇用》は母子家庭のうち仕事を持つ母親の63%がパートなど非正規雇用だったと書いている。

 非正規雇用の割合は働いている同世代の女性の平均より5ポイント高く、72%の母子家庭で「生活水準は下流」との意識を持っていたと調査内容を伝えている。

 こういった状況は離婚等による生別の母子家庭も似たような境遇にあるに違いない。あるいは離婚によって夫と住んでいた家を出てアパートを借り、それまで専業主婦であったために自分で仕事を見つけなければならない女性はもっと悲惨な境遇を見舞われているかもしれない。

 いずれにしても死別・生別に関係なく生活に困窮しながら子どもを一人で育てている女性にしてもその子どもにしてもカネの力というものを、大袈裟に言うなら、「カネの全能性」というものを痛感しているに違いない。少なくとも肌で実感しているはずである。

 小泉進次郎の輝かしく選ばれし者の境遇から較べたなら、何という色褪せた選ばれし者たちの境遇だろうか。

 また収入不足ゆえに子どもの教育にカネをかけることができない母親は「学力格差は経済格差」という社会状況(=社会がそう仕向けている状況)を痛感してもいるはずである。母子家庭の公立高校生の半数が低所得を理由に授業料の全額免除を受けているとしたら、その生徒達の殆んどが塾には通うことができないでいると見るべきで、そこに学力格差が生じない保証はない。

 勿論、全額免除を受けていない生徒の中にも塾に通いたくても通えない生徒が多くいるだろう。

 ところが世の中には「学力格差は経済格差」は事実無根で、教育に関わる「カネの全能性」信仰は薄っぺらなリアリズムに過ぎない、にも関わらず、多くの大人や子どもが「学力格差は経済格差」に振り回されてきたと主張する偉い人がいる。

 結果、学校の成績が悪いことを親にカネがないことの責任にして、子供たちは「カネの全能性」への思いを強くし、「学力を高める動機」よりも「カネを儲ける動機」の方を選択するようになり、中には満足に学校に行くよりもカネを稼ぐ道を選ぶ生徒が出てきたとしている。

 多分、援交や売春や自身のヌード写真を撮ってカネにする女子中高生や万引きや恐喝で小遣い稼ぎをする男子中高生のことを頭に描いて言っているのだろう。

 だが、殆んどの生徒が可能な限りより良い大学を目指そうとするのはそこをステップとしてより良い企業への就職を図り、より良い収入を得ようとする基本のところでカネが目的だからだろう。部活に入って、サッカーや野球のプロを目指すのも、高収入という名のカネを目的としていることを重要な動機の一つとしているはずである。人間が生活の生きものである以上、生活を利害対象とし、利害損得で生活設計するのはごく当たり前の営みに過ぎない。

 いわば誰もが生活を設計する段階に於いても、現実に生活を営むときでも、カネを無視できない目的としている。いい大学に入って、いい企業への就職を目指すか、学校の成績がそこそこであるためにそこそこの大学を目指して、そこそこの企業に入り、そこそこの収入を得て、そこそこの生活を営むか、あるいはテストの成績に関係なしに始めることができる売春で手っ取り早くカネを稼ぐか――大金を手に入れる入れないは別として、すべては生きていく根底で「カネの全能性」を動機として人間の生命の営みを成り立たせているはずである。

 「カネの全能性」を生まれながらに手にしている者、手にしていない者、一生手に入れない者――どういった境遇に選ばれし者となるかによってその差別を受ける。



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中国の天皇の政治利用の向こうを張って、拉致解決に天皇を政治利用すべし

2009-12-13 11:35:56 | Weblog

 
 12月11日(09年)に都内で開催の拉致被害者家族や支援者らを集めた政府主催のレセプショで鳩山首相は「あらゆる手段を講じながら拉致問題解決に努力する」(YOMIURI ONLINEと発言したいう。

 さらにレセプション終了後に次のように記者の取材に答えている。

 「いつかは、私自身が行く必要が出てきたときには当然、体を張って(北朝鮮に)行くべきだ。・・・・まだ、その状況には当然なってはいない」日経ネット

 「体を張って」とはなかなか勇ましい。「体を張」るよりも、どうしたら拉致被害者を無事確実に取り戻すことができるか“頭を張る”外交戦術上の創造性こそが必要だと思うが、体育会系思想の持ち主なのか、どうしても体を張りたいらしい。

 当然、「体を張って行く」としても、「その状況には当然なってはいない」で片付けるのではなく、「その状況」を創り出す外交戦術が是非必要となる。

 大体が「その状況」になるのを待っていたなら、「体を張って行く」にしても、それまで内閣が持つかどうかの問題も生じる。

 北朝鮮による日本人拉致は1970年代から1980年代にかけて発生している。金日成は1912年生れ、1994年に82歳で死亡。いわば拉致は金日成が生存中の60歳代から70歳代にかけた発生であることを根拠に2004年7月4日アップロードの私自身のHP、《「市民ひとりひとり」第63弾《小泉再訪朝の成果》に〈北朝鮮側から見れば、8人のうち5人の家族を帰国させることで、25万トンの食糧と1000万ドル相当の医薬品を獲得する。安否不明者の調査に関しては再調査の約束だけで済ませた。これは相当な収穫である。拉致が金日成と金正日親子が仕組んだ国家犯罪だと露見しない範囲内で、安否不明者の情報を小出しにして、新たな人道支援を得る切札とすることができる。〉と書き、 2008年3月12日当ブログエントリー《「日本人拉致首謀者は金正日」は想像できたこと》で、〈拉致が北朝鮮が証言したように「特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って行った」ことで金正日将軍様が関与していないが真正な事実なら、「拉致全面解決」は当事者の処分で済み、朝日国交正常化の障害とは何らならない。

 ところが日本側が国交正常化の譲れない条件とした「拉致の全面解決」を北朝鮮側は「解決済み」として拒み、国交正常化で手に入る日本からの戦後補償と経済援助を自らお預け状態にしている。

 朝日国交正常化のお土産である日本の戦後補償と経済援助が危機的状況にある北朝鮮経済立て直しの大きな一助となり、そのことが飢餓・餓死状態に見舞われている多くの国民をその窮状から救い出し、一部特権階級御用達の将軍さまではなく、ほぼ等しく全国民の将軍様となることが金正日将軍様が自らの独裁権力体制を安泰無事に維持する要件であり、父親の金日成から権力を引き継いだと同じく自分の子どもに権力を無事引き継ぐ将来的な権力の父子継承の保証にも力ともなるにも関わらずである。

 ここから読み取ることができる構図は朝日国交正常化が北朝鮮経済の建て直しのカードとはなり得ても、「拉致全面解決」が金正日独裁体制保証と権力父子継承保証のカードとはなり得ないということであろう。だから、「解決済み」の態度を取らざるを得ない。

 ここに金正日が拉致行為首謀者とする根拠がある。〉と書いて、かねがね拉致首謀者は金日成・金正日親子だと主張してきた。

 勿論、金正日が父親の金日成に隠れて行った陰謀ということもあり得るが、金正日が権力を掌握したのは〈1974年2月13日の朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局政治委員)に選出され、翌2月14日には、金日成の後継者として「推戴」された。〉と「Wikipedia」に出ている。1974年2月は日本人拉致の年代中間にほぼ重なるが、金正日が朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」されたのは1991年、国防委員会委員長に選出されたのは金日成死亡前年の1993年日で、軍の統帥権を掌握している。

 1993年以前から軍の統帥権を実質的に掌握していた可能性もあるが、20年~10年前の拉致を父親の金日成に隠れてできたかどうかである。

 2009年11月2日の「asahi.com」記事――《拉致工作機関、金総書記が直接指揮 日本政府調査で判明》は少なくとも拉致首謀者が金正日であることを証明する報道となっている。

 既に読書済みの読者もいるかもしれないが、改めて目を通して貰い、この一文の理解を得やすくするために全文を参考引用してみる。
 

《拉致工作機関、金総書記が直接指揮 日本政府調査で判明》 

北朝鮮による日本人拉致事件を計画・実行した朝鮮労働党対外情報調査部(現35号室)が、金正日・朝鮮労働党書記(現在は総書記)から直接指揮を受ける形で活動していたことが、日本政府の関係当局の調べで明らかになった。金総書記からの指示を受ける際には「伝達式」が行われていた。日本政府内では、金総書記が日本人拉致を指示したか、少なくとも知りうる立場にあったとの見方が強まっている。

 金総書記は02年9月の日朝首脳会談で、当時の小泉純一郎首相に「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行ってきたと考えている」と述べて謝罪。責任者をすでに処罰したとも説明した。自身の関与を否定するこうした主張の根拠が揺らげば、拉致、核、ミサイル問題を包括的に解決して日朝国交正常化を目指す方針を掲げる鳩山内閣の取り組みは困難なものになりかねない。

 政府関係当局の調べでは、日本人が拉致された70年代から80年代初め、対外情報調査部は、金日成国家主席(故人)の後継者の地位を固めつつあった金正日総書記直属の工作機関と位置づけられていた。部長、副部長、課長、指導員、工作員という構成。副部長は3人おり、課は1課から7課まであった。課ごとに日本、韓国、中国などを国別に担当していたほか、工作員養成を担当する課もあった。

 金総書記からの命令を受ける際には、朝鮮労働党の本部に部長、副部長、課長が集められ、「伝達式」が開かれていた。命令は「親愛なる将軍様、金正日同志が次のように指摘されました」という言い回しで始まり、それに続く形で具体的な内容が文書や口頭で伝えられた。命令はその後、課長から指導員、指導員から工作員の順に必要事項が文書や口頭で伝えられた。命令は絶対で、背いた場合には職務更迭や処刑などの厳しい処分があったという。

 日本人拉致事件をめぐっては、すでに警察当局は金総書記に近い対外情報調査部の李完基(リ・ワンギ)・元部長と姜海竜(カン・ヘリョン)・元副部長が、地村保志さん、富貴恵さん夫妻、蓮池薫さん、祐木子さん夫妻の拉致を計画、指示したと判断している。政府関係者によると、福田政権時代に逮捕状を請求することも検討されたが、官邸側の意向で見送られたという。

 日韓外交筋によると、この幹部2人の関与を裏づける過程で、08年2月中旬に日本政府関係者が、78年に北朝鮮に拉致されてその後脱出した韓国の女優、崔銀姫(チェ・ウニ)さんに事情聴取した。崔さんは著書にこの幹部2人と金総書記が写った写真を掲載している。崔さんは事情聴取に対し、金正日総書記が70年代に金日成国家主席から政権運営を譲り受けていたと説明し、日本人拉致については金総書記の指示が「あったと思われる」と証言した。


 この報道に対する平野官房長官の発言を「時事ドットコム」記事――《「金総書記が拉致指揮」報道を否定=官房長官》が伝えている。

 平野博文官房長官(北朝鮮の金正日総書記が日本人拉致事件を実行した機関を指揮していたことを政府が確認したとの朝日新聞の報道について)「この事実関係を政府としては把握していない」 

 そういった事実は存在しないとは言っていない。また、存在するかどうか確認するとも言っていない。金正日こそが拉致首謀者だという事実を掌握しているとした場合、その事実に対応した厳然とした措置を日本側は取らなければならなくなるが、厳然とした措置を考え出すことができない、あるいは事実無根だ、そのようなデマを持ち出すなら、日本とは今後一切交渉しないと将軍様の怒りに触れたなら、日本側から解決の扉を閉ざすことになって取る術が見い出せないことからの「掌握していない」の可能性もある。

 鳩山首相の「いつかは、私自身が行く必要が出てきたときには当然、体を張って行くべきだ」が拉致被害者家族から早期解決をせっつかれている中でその要望を一時的に満たす必要からの気休めの臨時措置ではないと思うが、政治的にも経済的にも危機状況にある北朝鮮国家建て直しの貴重なカードとなり得る日本の戦後補償と経済援助に振り替えても守っている“拉致首謀の秘密”である、鳩山首相がのこのことピョンヤンに顔を出したからといって、少なくとも金正日が仕組んだ国家犯罪だと露見の危険性が生じかねない拉致被害者の帰国を、ハイ、返しましょうとはならないに違いない。

 ではどんな手があるのか。相変わらずの馬鹿の考え休むに似たりのアイデアに過ぎないが、披露してみる。

 今年の3月に中朝国境地帯の豆満江付近で取材、撮影中だった米国メディアの女性記者2人が北朝鮮当局に不法越境の疑いで逮捕・拘束、6月に「朝鮮民族敵対罪」などを適用して労働教化刑12年の判決を言い渡した。

 8月に入って、クリントン元大統領が訪朝、小泉訪朝と同じ前以て根回しして段取りを決めた上での訪朝だったろうが、金正日と会談、2人の身柄引き渡しを要求、それを受けて金正日は拘束中の2人に対して特別恩赦を出して釈放することを命じ、クリントン元大統領は二人を伴って帰国している。

 金正日の恩赦という情けをかけた形にした釈放についての北朝鮮の国営朝鮮中央通信の報道内容を《北朝鮮:米記者拘束問題 2記者釈放 元米大統領訪朝、北朝鮮は「成果」誇示》(毎日jp/2009年8月5日)が題名どおりの趣旨で伝えている。

 ▽クリントン元大統領は金総書記に対して、記者の「不法入国」について「深い謝罪の気持
  ち」を表明。
 ▽「米国政府の懇切な要請」として元大統領が人道的見地から送還を求めた。
 ▽米朝間の懸案事項が「真摯(しんし)な雰囲気の中で虚心坦懐(たんかい)に深く議論さ
  れた」
 ▽クリントン元大統領が「関係改善のための見解を込めたオバマ大統領の口頭メッセージを
  丁重に伝えた」――

 クリントン大統領はアメリカを代表して深い謝罪と人道的見地からの送還を懇切に要請、金正日将軍がそれに応えて、2人の記者に恩赦を与え、釈放を命じたといった場面を国営朝鮮中央通信はつくり出したのである。勿論、場面の先に北朝鮮国民を置いている。

 金正日は報道を利用して自らを上の偉大な場所に置き、クリントン大統領を謝罪し、要請する下の位置に置いたわけである。

 外国人を逮捕すれば金正日にお褒めの言葉が頂けるとその意向を汲んだ不法逮捕の疑いを持つこともできるし、逮捕以後の「朝鮮民族敵対罪」の適用、労働教化刑12年の判決は金正日が仕組んだアメリカとの取り引き材料としての可能性を持たせた陰謀だったろうが、その目論見がクリントン元大統領といった大物の訪朝要請と訪朝を受けた釈放の経緯に見せた自己の偉大さの国民向けの宣伝となって結実したというわけである。

 そのことは会談時に金正日は血色を良く見せるために化粧していたことにも現れている。健康状態を隠すための化粧だったとする報道もあるが、クリントン大統領と並んで立ったツーショットの写真は国民にも見せる消息であったろうから、国営朝鮮中央通信の報道どおりの印象と一致させる必要上の措置でもあったろう。

 大物要人が訪朝して、要人を下の位置に置き、将軍様を上の立場に置く国民向けの自己偉大さの宣伝ともなる演出を施せば相当な無理が利くということなら、日本に於いては鳩山首相はその存在感ではクリントン元大統領よりも遥かに小物に映るだろうから、天皇を措いて適役は存在しないのではないだろうか。

 中国も韓国・北朝鮮も権威主義を行動様式としている。日本は小沢民主党幹事長が訪中で見せたように胡錦涛主席との会見を自らの権威づけとしていたが、中国は日本の総理大臣は眼中になく、習近平国家副主席の訪日に際して天皇との会見を望み、天皇の権威を利用して副主席から主席への昇進に向けた一つの権威づけとしようとしていることからも、天皇以外に拉致被害者解放の適役はいないように思える。

 オバマ大統領が11月の初訪日で天皇と会見したとき、天皇の手を取り、腰を深く曲げて深々と頭を下げたことが屈辱的態度だとアメリカでは問題となったが、天皇が金正日の手を取ってオバマ大統領がしたように腰を深く曲げて深々と頭を下げたなら、日本国民は屈辱的態度だと大騒ぎするだろうが、日本の天皇を下に置いたと見せることができる金正日の権威主義的な虚栄心を痛く刺激するばかりか、北朝鮮国民向けの自己の偉大さを売り込む宣伝ともなって拉致被害者の帰国に快く応じる可能性が生じる。

中国の天皇の政治利用に加担するよりも利口な天皇の政治利用ではないだろうか

 勿論、金正日独裁体制を絶対保証としなければ、天皇訪朝であっても拉致被害者の帰国は絶望的となる。

 金正日を含めて拉致に関わった北朝鮮関係者に対する罪の不問、帰国した拉致被害者に対する日本の警察による事情聴取の中止、そして何よりも拉致被害者が口をつぐむことを条件としなければならない。いわば臭い物には蓋の徹底。

 このような一連の措置が拉致首謀者が金正日であることの秘密を守って、金正日独裁体制を保証する確実な要素となるからである。その保証を日本側が請合わなければ、如何なる形の釈放もないと考えなければならない。

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