ウソつき平野官房長官の天皇政治利用

2009-12-12 10:39:23 | Weblog

 ウソはすぐにバレる

 次期主席の有力候補と目されている習近平国家副主席の12月14日初訪日に際して中国側から翌15日の副主席と天皇との会見を望んできたが、外国要人との会見は一カ月前までに文書で正式申請するのが決まりとなっている、いわゆる“一カ月ルール”があり、それを満たさない11月26日の外務省からの申し入れだったために宮内庁は“一カ月ルール”を理由に会見は認められないと断ったという。

 このルールは「宮内庁が勝手に決めたのではなく外務省と相談して決め、1995年に文書化した」ものだと記者会見での羽毛田宮内庁長官自身の発言として「47NEWS」が伝えている。

 これに〈中国側が納得せず、「習副主席訪日の成否がかかっている」として、なおも陛下との会見を要求した。民主党の小沢一郎幹事長が鳩山首相に会見の実現を働きかけ、首相が平野博文官房長官に会見を実現できないかの検討を指示したという。〉と「msn産経」が書いている。

 民主党の小沢一郎幹事長が鳩山首相に会見の実現を働きかけたという報道に関しては鳩山首相自身が記者会見で、記者から「小沢さんから頼まれたという話があったということですが、それは本当でしょうか」と問われて、「小沢幹事長から、話しがあったわけではありません。そこだけは明確にして、おきます」(TBS)と否定している。否定したからといって、事実を述べているとは限らない。今のところ事実は闇の中と把えておくべきだろう。

 「習副主席訪日の成否」が鳩山首相やそれ以下の内閣閣僚との会談にかかっているのではなく、天皇との会見にかかっているとは何を意味するのだろう。天皇との会見こそが中国にとって意味があるということなら、鳩山首相や主要閣僚、その他の会談はさして意味はない形式でしかなく、実質的な重要性を天皇との会見に置いていることになって、日本の政治家は甘く見られていることになる。

 まあ、実際その程度か。

 11月26日の外務省の要請を宮内庁が断ってから11日経過した12月7日、その間中国との間で遣り取りがあったのだろう、今度は平野官房長官が電話で「日中関係は非常に重要なのでお願いしたい」と羽毛田長官に打診。この打診が断られたから10日に再度ということになったに違いない、再び平野長官から「首相の指示を受けての要請だ」との話があったと「日経ネット」が伝えている。

 対して羽毛田宮内庁長官は「内閣の指示に従わなければならない」(毎日jp)として了承したということだが、内閣官房長官の立場で宮内庁長官に直接電話して行う依頼は首相の指示を受けた対応でなければならないはずだから、平野長官の「首相の指示を受けての要請だ」は最初の電話にもなければならない言葉であろう。

 最初の電話にもあった言葉とするなら、羽毛田長官は「内閣の指示でも」、あるいは「首相の指示でも」ルールは曲げることはできませんと断ったことになる。しかし重ねての「首相の指示を受けての要請だ」の強い要求に止むを得ずということになって「内閣の指示に従わなければならない」という経緯を踏んだことになる。

 鳩山首相が昨11日夜の記者会見で宮内庁への要請を平野博文官房長官に指示したことを認めているから、実際には最初から「首相の指示を受けての要請」のはずだが、もしも最初の電話で「首相の指示を受けての要請だ」の形式を取らずに二度目の電話で初めて使ったということなら、外務省は中国からの要請という形の取次ぎだったかもしれないが、官房長官自身の要請の形で「日経ネット」記事にあるように「日中関係は非常に重要なのでお願いしたい」との理由で会見許可を求めたことになるが、官房長官として首相の指示を受けた対応の形を取らなかったところに問題が生じる。

 これは政治利用に触れる懸念を意識していたことからの「首相の指示」隠しの疑いが生じるが、宮内庁に断られたからといって中国側の要請に対しても斥けることができず、隠してもいられなくなって再度電話するとき、「首相の指示を受けての要請」とせざるを得なかったということなのだろうか。

 いずれにしても目出度く中国側の要請に応えることができた。平野はきっとホッとしたことだろう。もしも大役を果たしたぐらいの気持になったとしたら、情けない話だが、天皇との対面という中国の要請を絶対的に位置づけていたことになる。

 平野官房長官は昨11日午前中の記者会見で、マスコミの天皇の政治利用の観点から質問を受けて次のように応えている。 

 「首相官邸として政治的に日中関係は非常に大事な関係だから(宮内庁に)お願いした」(時事ドットコム

 「1カ月ルールとはどんなルールか承知していない。・・・・中国の要人が来るということで、お目見えしてくださいというのは政治利用でも何でもない」(同時事ドットコム

 鳩山内閣発足翌日9月17日の記者会見で官房機密費について記者から問われて、「そんなのあるんですか。全く承知していません」と真っ赤なウソをついて以来、平野官房長官の「承知していない」はウソ・ゴマカシだと独断することにしている。そしてあの顔は私的(わたくしてき)にはウソつき顔だと決め付けている。

 最初に外務省が要請したときも平野官房長官の最初の電話でも羽毛田宮内庁長官から“一カ月ルール”を理由に断られているはずだから、「承知していない」はずはない。ウソだ、ウソつきだと言われても仕方ないはずである。

 最低限、「迂闊にも“一カ月ルール”というものを初めて知ったが、日中関係は非常に重要なので、そこを曲げてお願いした」とでも言うべきだったろう。

 平野長官に指示を出した鳩山首相の対応。

 「1カ月ルールはわかっていたが、陛下の体調に差し障りのない範囲で会ってほしいと官房長官に指示した」(毎日jp

 (羽毛田長官の批判に関して)「諸外国と日本との関係を好転させるためで政治利用という言葉はあたらない」(同毎日jp

 バカなことを言う。「諸外国と日本との関係を好転させる」は極めて政治の役目であって、それを天皇に負わせるのは政治的利用以外の何ものでもない。政治的側面を持たせない親善が役目ということなら理解できる。大体が「諸外国と日本との関係を好転させる」に天皇にお出ましを願うということなら、内閣に於ける外交に関わる分野は半ば必要なくなる。

 沖縄の基地移転問題でアメリカとの関係が悪化した場合も天皇にお出ましを願ったなら、アメリカと「日本との関係を好転させるた」ことができることになる。

 中国に天皇会見のルールを納得させるのも政治、天皇が会見を断ったからといって悪化する日中関係とはどんな関係なのだろうか。そんな脆い日中関係なのだろうか。

 実際は中国の要請は断ることはできるが、小沢幹事長の要請は断ることができなかったことから発した天皇の政治利用といったところではないのか。

 今朝のTBS「みのもんたの朝ズバッ」“一カ月ルール”について記者に問われて、「一カ月を数日切れば、杓子定規でダメと言うのは、国際親善の意味で正しいことなのかどうか」と述べたと鳩山首相の言葉を間接的に伝えていたが、厳密に言うと、外務省からの申し入は11月26日、習近平国家副主席と天皇の会見は12月14日だから、数日ではなく、10日も切っている。それを「数日切」ったに過ぎないとして「杓子定規」だと言うのはゴマカシ以外の何ものでもあるまい。

 平野官房長官と同じ穴のムジナのウソつきにならないで欲しい。

 宮内庁は内閣府に所属する機関だから、内閣の長たる鳩山首相から見た場合差配する下に位置する関係となるから「一カ月を数日切れば、杓子定規でダメと言うのは」と撤回を求めることができるが、このことは同時に対天皇に関しては上に位置しているはずの天皇個人にも当てはめる「一カ月を数日切れば、杓子定規でダメと言うのは」となる撤回要求であろう。

 いわば鳩山首相は宮内庁長官を通して天皇に対して「一カ月を数日切れば、杓子定規でダメと言うのは、国際親善の意味で正しいことなのかどうか」と要求したことになる。いつの間にか鳩山首相は尊大までに偉くなったようだが、総理大臣が間接的であっても天皇にそのように要求したことは「政治利用」ではないとは決して言えない。

 さらに言うと、鳩山首相が発言しているように果して純粋に「国際親善の意味」での会見なのだろうか。何も天皇だけが国際親善の役目を担っているわけではない。大統領や首相自身、あるいは大統領夫人や首相夫人が訪問国の小学校や障害者施設を訪れるのも、国際親善の役目を持たせた行動であろう。そういった訪問を通して相手国及び相手国民への友好をアピールし、相手国から自国及び自国国民への友好を期待する。

 しかし中国側はほかの国際親善の方法がいくらでもあるはずだが、第一番の「国際親善」の方法として天皇との会見に拘ったことになる。また鳩山首相にしても天皇会見に代る国際親善の方法を中国側に認めさせることもできず(提示したとしても、結果として認めさせることができなかったことになる)、平野長官共々中国側の要請に引きずられて、宮内庁長官及び天皇に会見を承認させたことになる。

 昨日夕方のTBSテレビの報道番組で時事通信の元北京支局員の城山英巳氏が天皇との会見を望む中国側の思惑について解説していた

 「中国政権は天皇のことを国家元首と看做して、日本の総理よりも一段高く位置づけているわけなんですね。日本国民が天皇対して考えている“重み”っていうのを凄く認識していて、天皇陛下を日中関係の中でうまく位置づければ、日本のですね、中国に対する感情もよくなるんじゃないかというふうに思っているわけですね」

 胡錦涛主席が副主席時代に訪日して天皇に会ったとマスコミが伝えている。そして主席となった。胡錦涛主席の次の有力な後継者と目されている習近平国家副主席が副主席の肩書きで天皇との会見を望んだ。時事通信の元北京支局員の城山英巳氏が言っているように「日本国民が天皇対して考えている“重み”」を利用して副主席から主席への昇進に向けて日本に於ける顔見せとする儀式の一つだとしたなら、日本側がその思惑を見抜けないまま中国側が都合とした儀式に天皇の都合を合わせた政治的利用以外の何ものではないということになる。

 もし見抜いていたとしたら、日本側はなおのこと悪質となる政治利用の共犯関係に陥ることになる。

 こういったことだけではない。中国のこの手の思惑は日本国民を余程単純な国民に見ている証拠となる。中国側の思惑通りに事が運んだ場合、当たり前のことだが、日本国民の底なしの単純さが証明される瞬間でもある。中国の人権抑圧、マスコミその他に対する報道規制、情報操作、周辺諸国に不必要な脅威を与える軍事力の増強等々は例え会見相手が習近平国家副主席ではなく、国家主席の胡錦涛であっても、天皇とにこやかに握手したからといって、帳消しになる危険要素ではないはずである。儼然として今後とも残る危険な国家的側面であるにも関わらず、にこやかな拍手で日本国民が帳消しにしてしまう。

 中国がそういった局面を求めての会見ということになら、それを鳩山首相以下が手伝ったことになり、例え中国側の思惑通りに事が運ばなくても、鳩山首相からしたら、自分たちの政治利用のみでで終わらずに日本国民に向けた天皇の政治利用を意図しないまま図ったことになる。

 いや、中国の強硬な要請に応じて天皇との会見を国民の目に映すこと自体が顔見せが成功するしないに関わらず、既に日本国民に向けた天皇の意図せざる政治利用ではないだろうか。

 例え小沢幹事長の要請からの天皇の政治利用であったとしても、表に現れないことと片付けられて、結果は同じ経緯を踏む。


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馬鹿の考え休むに似たりのたりの我が普天間からグアムへの移転案

2009-12-11 06:27:29 | Weblog

 日本がお得意のカネで解決する方法――

 在沖縄米海兵隊のグアム移転をめぐる日米両国の協定締結承認案件が4月14日(09年)午後、衆院本会議で採決、与党側自公の賛成多数で可決、与野党逆転下の参院に送付、5月13日午前参院本会議で民主党等野党の反対で否決、それを受けて開催された両院協議会でも意見が一致せず、河野洋平衆院議長が憲法の規定に基づき、衆院の議決通り締結承認を宣言、成立の運びとなった。

 在沖縄米海兵隊のグアム移転にかかる日本側経費負担について2006(平成18)年5月1日に締結した『外務省:再編実施のための日米のロードマップ(仮訳)』には次のように記されている。

 〈第3海兵機動展開部隊のグアムへの移転のための施設及びインフラの整備費算定額102.7億ドルのうち、日本は、これらの兵力の移転が早期に実現されることへの沖縄住民の強い希望を認識しつつ、これらの兵力の移転が可能となるよう、グアムにおける施設及びインフラ整備のため、 28億ドルの直接的な財政支援を含め、60.9億ドル(2008米会計年度の価格)を提供する。米国は、グアムへの移転のための施設及びインフラ整備費の残りを負担する。これは、2008米会計年度の価格で算定して、財政支出31.8億ドルと道路のための約10億ドルから成る。〉――

 就任後初めて来日したクリントン米国務長官と当時の中曽根外相が2009年2月17日にグアム移転と在沖米軍の普天間飛行場の代替施設建設を14年までに完了するとした在沖縄米軍再編をブッシュ前政権下の日米合意通りに進めることを確認する協定に署名している。

 そして、〈米議会は10月8日(09年)、2010会計年度の国防予算で、在日米軍再編計画に伴う沖縄の海兵隊のグアム移転費用について、オバマ政権の要求をほぼ認める形で、約3億ドル(約264億円)を計上することで合意した。法案は18日までに上下両院で可決され、成立する見通しだ。 〉と「asahi.com」記事――《米議会、グアム移転費を可決へ 3億ドル、ほぼ要求通り》が伝えている。 

 「ほぼ要求通り」と言うのは、〈オバマ政権は約3億7800万ドル(約332億円)を要求。下院はこのうち約3億1300万ドル(約275億円)を認めたが、上院は長期計画の不備などを理由に約1億4200万ドル(約125億円)しか計上しなかった。

 上院の判断に対し、ホワイトハウスは「日米合意に悪影響を与える」として反対を表明。上下両院協議会で法案のとりまとめが進められ、最終的に上院が下院に歩み寄る結果となった。 〉とその“要求通りではない”事情を解説している。

 グアムへの移転のための施設及びインフラの整備費算定額102.7億ドルから日本側負担60.9億ドル(2008米会計年度の価格)を差引いた米側負担41.8億ドル(財政支出31.8億ドルと道路のための約10億ドル)のうち、3.78億ドルが初年度予算として動き出したということなのだろう。

 金額的に何だか気の遠くなるような話である。

 では、辺野古への移設にはどのくらいかかるのか。 国民新党下地幹郎議員の2009年11月12日ブログエントリー、体格から言ってもどんなときでも「小声」で済ますとはとても信じられない『ミキオの小声』には次のように書いている。

 〈防衛省が10月初旬に策定した概算要求では、普天間飛行場の返還を進めるための予算として、890億円を要求していました。しかし、仮にアメリカが主張しているように自公政権時代からの辺野古移設案を実現したならば、建設総額は7000億円と試算されております。〉――

 グアム移転日本側負担が60.9億ドル、これは保有しているドルでの支払いとなるだろうが、仮に円が1ドル100円前後に戻るとして日本円に直すと、6090億円となる。下地議員が言う辺野古建設総額7000億円を足すと、1兆3090億円。

 だが、日本が辺野古への移設を中止してグアム全面移転を望んで実現させるとしたら、辺野古にかかる7000億円は不要となり、この7000億円を以ってして辺野古への移動を予定していた普天間のグアム移転にかかる経費を全面負担したらどうだろうか。

 7000億円は100円換算で70億ドルとなり、既定のグアム移転日本側負担の60.9億ドルにほぼ10億ドル上回るが、この金額が普天間のグアム移転に過不足いずれとなるのかは分からないが、例え不足しても日米合意を破棄して普天間の辺野古への移設にかかる国の金額的負担と沖縄県民の精神的負担を解消する代償に払う以外に方法はないのではないだろうか。

 例え余剰が出たとしても、辺野古へ移設した場合は建設費以外に思いやり予算で移設後の様々な経費を負担しなければならないだろうから、その分の負担までグアム移転後も継続して負担する経費に代えたらいい。

 普天間のグアム全面移転の経費を日本側がその多くを負担し、尚且つグアム基地運営に関わる一部経費を思いやり予算で負担する代償として、基地建設に日本の建設会社等の企業が建設を請負うことを条件とさせて、負担の回収を少しでも図ることはできないだろうか。但しバランスを取る意味から、下請は米国企業でも可とすべきだろう。

 例え財政的に厳しくても、このことに限った建設国債等の発行で賄うべきだと思う。

 日本は在日米軍駐留経費全体の74.5%を負担、直接経費負担が約32億2800万ドル、間接経費負担が約11億8300万ドル、米軍駐留経費負担額の比率でも他同盟国の中で最も高い割合となっている、日本は世界の米軍の他国駐留費用の約4分の1を負担している(琉球新報/2005年12月8日)といった報道を引用して、こんな国はないという主張もあるが、日本の安全保障を米国に肩代わりさせて手に入れた経済発展に特化させた国家経営によって世界から、特にアメリカから経済的恩恵を多大に受け、世界第2位の経済大国の勲章をモノにすることができたのである。

 その恩恵を国民も受けてきている。“在日米軍駐留経費全体の74.5%を負担”はそういったことのツケでもあるはずである。

 8日開催の日米関係をテーマとするシンポジウムで長島昭久防衛政務官「日米は対等の関係だと言うが、有事のリスクはアメリカが負い、平時のコストは日本が負うことでバランスが成り立っている。沖縄の皆さんの負担も含めて平時のコストを下げたいんなら、日本側は有事のリスクを少しずつ肩代わりしていかなければバランスが成り立たないのではないか」と言っていたが、道楽息子が四十、五十になってもツケで飲み歩いていて、親がそのツケを支払い続けているようにアメリカの安全保障におんぶするツケが現在も行われていて、そのことに応じてツケの支払いが現在も続いているということであろう。

 アメリカとの間に真に対等な関係を築くためには経済構造を可能な限り内需型に持っていって経済的に自立し、安全保障の面でも自立した行動が取れるようにすることが不可欠条件となるのではないだろうか。

 その方向に進むことによってアメリカとの間の“ツケの関係”が徐々に解消され、対等な関係に近づいていくはずである。


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普天間移設、日刊ゲンダイ記事が教えてくれる時間をかけた現実的な移転案

2009-12-10 06:04:32 | Weblog
 どう教えているかと言うと、全文参考引用すると、手っ取り早く間違いなく伝えることができるし、手っ取り早く間違いなく理解できると思う。

 正直言うと、横着な気持ちがそうさせているに過ぎないが。 

 
《関西空港が「米軍基地」になる日》日刊ゲンダイ/2009年11月17日10時00分)

 「160億円をつぎ込んでどうなるのか。傷口にバンソウコウを張るぐらいではないか」――。仕分け人が、約1.1兆円もの有利子負債を抱える関西国際空港の延命措置に「待った」だ。

 16日、行政刷新会議の事業仕分けで「凍結」となった、関空への巨額補給金。自民党政権が有利子負債の軽減と称して、03年度から毎年90億円をジャブジャブ投じてきた“生命維持マネー”である。

 10年度の概算要求で所管の国交省は関空の収支悪化などを理由に、イケシャアシャアと予算の大幅アップ(160億円)を要求したが、仕分け人の判断は「ノー」。「伊丹や神戸両空港とのあり方を抜本的に解決する必要がある」と、凍結を求めた。

 「67億円の赤字となった関空の08年度連結決算でも、年間227億円の支払い利息に対し、原資となる営業キャッシュフローは336億円に過ぎません。さらにリーマン・ショック以降の国際的な航空需要減退が追い打ちとなり、今年度の発着回数は10.6万回と、滑走路が1本少なかった開港当初を下回る見込みです。補給金で赤字を補填しても、いずれ空港運営そのものが破綻しかねません」(航空行政事情通)

 巨額の有利子負債が世界一高い国際線着陸料に転嫁され、ますます航空需要は減退する……。“お荷物空港”に血税をいくら注いでも、カゴで水をくむようなもの。そこで密かに政府内で話し合われているのが、関空の軍事転用プランだ。

 「荒唐無稽な話に聞こえますが、過去には岩国空港が軍事転用された例があります。国交省航空局の官僚は『現実的だ』とマジメに主張していました」と明かすのは、近著「血税空港」で航空行政のデタラメをあぶり出した、ジャーナリストの森功氏だ。

 「例えば、民主党政権内で四苦八苦している普天間基地を移設させる。浮島である関空に基地を持ってくれば、騒音問題や沖縄住民の負担は一気に解決します。何より、辺野古移設に伴う莫大な滑走路建設費用が浮く。その分を関空の負債返済に回してもいい。日米間の軍事空域の問題は残りますが、一石二鳥どころか、三、四鳥の成果を生むプランです」

 与党の一角を占める国民新党の下地幹郎衆院議員(沖縄1区)も、今月2日の予算委で関空の軍民共用プランを披露。「安全保障の負担は、国民全体で分かち合うべきだ」とブッていた。

 関空から米軍機が飛び、キタの歓楽街を米兵が練り歩く日が来るのは、そう遠くないのかもしれない。――

 キャッシュフロー〈cash flow、現金流量〉カネの流れを意味し、主に、企業活動によって実際に得られた収入から外部への支出を差し引いて手元に残る資金の流れのこと。現金収支を原則として把握するため、将来的に入る予定の利益に関しては含まれない「Wikipedia」


 自民党政権が03年度から毎年90億円をジャブジャブ投じてきた。ところが国交省は10年度概算要求で160億円を要求。

 この倍近いプラス70億円の増額は従来どおりの90億円の補給では焼け石に水だとする苦しい台所事情を物語っている。それを停められたのではまさしく関空特別仕様の“生命維持装置”を外されたようなものであろう。

 当然、破綻という名の死へと向かっていく。そうなったなら、約1.1兆円もの有利子負債を抱えている関空をどう更生を図ろうと、再建に手を貸す自治体も企業も存在しないに違いない。

 普天間は一旦日米合意通りにキャンプシュワブ沖に移設する。関空が緩やかに死へと向かい、息を引き取った時点で、その跡地へとキャンプシュワブ沖に移設した米軍基地を再移設する。

 かくして〈関空から米軍機が飛び、キタの歓楽街を米兵が練り歩く。〉・・・・大阪のオバチャン、恐いでぇー。

 関空がこの世から存在しなくなると、前原国交相が描いている羽田ハブ化にも好都合な材料となる。

 バブルに向かう時代に計画され、バブル末期に開港、税金を投入しなければ生命維持できない巨大姿はバブルの宴の跡を未だ残している遺物に見えないことはない。

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普天間移設/鳩山首相は日米関係の悪化を恐れずに最低限県内移設に最大限努力すべし

2009-12-09 10:41:07 | Weblog

 昨8日夜のNHKニュースが都内で日米関係をテーマとするシンポジウムが開催されたことを伝えていた。

 米側出席者の一人のアーミテージ元米国務副長官「鳩山政権が普天間移設の決定を参議院選のある来年夏まで延ばすと、日本が日米同盟より連立政権維持の方が重要と考えているのではと米国は心配になるだろう」

 石破自民党政調会長「来年1月に名護市長選挙がある。安全保障を地域の選挙に委ねることは政府の責任放棄につながる」

 長島昭久防衛政務官「日米は対等の関係だと言うが、有事のリスクはアメリカが負い、平時のコストは日本が負うことでバランスが成り立っている。沖縄の皆さんの負担も含めて平時のコストを下げたいんなら、日本側は有事のリスクを少しずつ肩代わりしていかなければバランスが成り立たないのではないか」

 米軍普天間飛行場移設を鳩山首相が年内決着を断念、年明けに先送りしたことに対する米側の反撥を日本側出席者も含めて改めて代弁する議論内容となっている。

 だが、自民党の石破が言っている「安全保障を地域の選挙に委ねることは」云々は、名護市民も国民の一部であり、その意思を無視することは国民の意思の無視につながる、民主主義に反する思想でしかない。一国の安全保障政策に関しては地域住民の声は無視しても構わないと、独裁政権なら可能とすることができることを言っているのと同じ愚かしい発言となる。

 年内決着断念・年明け先送りがアメリカの対日不信感を増幅する、日米関係を悪化させると懸念する向きがあるが、対米関係の悪化はブッシュ前アメリカ大統領のイラク戦争に反対、軍をイラクに送らなかったためにシラク大統領のフフランスとシュレーダー首相のドイツが既に経験している。

 普天移設の年内決着の断念で日米関係が悪化した場合、かつてのフランス及びドイツとアメリカとの関係に似た局面に現在の日本も立ち入るということであろう。悪化という点でどちらがりより深刻な状況に陥ったとしても、ドイツとフランスは対米関係の修復に動き、悪化した関係を決定的に永遠化させたわけではない。

 ドイツはシュレーダーからメルケル首相に代わり、フランスはシラクからサルコジに大統領が変わると、両国は一度冷え切った対米関係を修復している。

 2005年11に就任したメルケル首相は翌06年1月に訪米、ブッシュと初会談を行い、独米関係の「新たな一章の幕開け」(asahi.com)とまで言っている。

 2007年5月に就任したサルコジフランス大統領は8月に父親のブッシュ元大統領の別荘に招かれ、ブッシュ大統領と会談。確か「アメリカとフランスは家族同様だ」といったことを口にして、アメリカへの親近感ぶりを示している。
 
 この独仏とアメリカとの関係の悪化と修復の変遷は例え沖縄の基地問題で日米関係が悪化したとしても、それを修復するチャンスはいくらでもあることを物語っている。

 1999年に大統領に就任したベネズエラのチャベスは強力に社会主義政策を推し進めてアメリカとの関係を冷却させ、「この宇宙に存在する最も邪悪な存在!悪魔の象徴!それは、ジョージ・W・ブッシュ」、「ブッシュはアメリカ史上最も知能指数の低い大統領だ」(Wikipedia)と公の場で激しくブッシュ前大統領を非難してきたが、オバマ政権となると、未だ実現していないが、関係修復に動く気配を見せている。

 要するに何らかの利害関係を残している以上、関係悪化は一時的に過ぎないと言うことができるのではないだろうか。鳩山首相も日米関係の悪化を恐れずに沖縄県民が望む以上、国外移設が無理なら、最低限県内移設に最大限努力すべきではないだろうか。


 

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事業仕分けによる文化・芸術面の予算削減分は民間企業に出させるべき

2009-12-08 11:59:45 | Weblog

 《事業仕分けに怒りあらわ 音楽関連5団体が緊急アピール》asahi.com/2009年12月7日20時45分)

 日本オーケストラ連盟など音楽関連5団体が文化予算を大幅に縮減する「事業仕分けに怒りあらわ」に7日都内で緊急アピールの記者会見を開いたという。

 出席者はピアニストの中村紘子女史、指揮者の外山雄三氏、新国立劇場次期芸術監督の尾高忠明氏、作曲家の三枝成彰氏、関西フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者の藤岡幸夫氏等合計8人。

 学校にオーケストラや劇団など芸術家を派遣する事業を「国の事業として行わない」とされたことへの反発からだそうだ。

 藤岡幸夫(事業仕分けの「国が子どものためだけに事業をすることは必然性に欠ける」との評価に怒りをあらわにして)「ホールがない地域の子どもたちに生演奏を聞かせる活動は意義がある。・・・・情操教育を国がやらずして誰がやるのか。地方にももう財源はない」

 三枝「日本より人口の少ないフランスがあんなに大きくみえるのは、文化を重んじ、予算を投じているからだ」

 そして要望書を提出。文化庁の総予算が国家予算の0.12%で、欧州やアジア諸国に比べても著しく低いこと。文化政策を統括的に扱う「文化省」の設立を要望している。

 「NHK」記事では――《著名音楽家ら 事業継続求める》(09年12月7日 18時1分) では、〈全国の小中学校にオーケストラや劇団が訪れ、子どもたちに優れた舞台芸術に触れてもらう事業が「廃止」とされるなど文化関連の事業が廃止や予算縮減と結論づけられた。〉となっている。

 「時間をかけて行われる子どもたちの情操教育が、むだな事業と同じように議論されるのはふさわしくない」

 「全国のオーケストラや劇団は予算不足に苦しんでいるところが多く、国の助成金がカットされれば、特に地方の団体は存続が危ぶまれる」といった進言。

 中村紘子「人間の成熟は手間暇をかけて行われるものだということを認識してもらいたい」

 中村紘子(YOMIURI ONLINE)「芸術文化は短期間で効果は出ないが、夢を与え、人間を育てる」

 中村紘子(日経ネット)「芸術文化は子供の夢やイマジネーションを育て、科学や先端技術の思考にも役立つ」

 上記「日経ネット」記事――《著名音楽家8人、「仕分け」に反論 遣事業継続など訴え》は、〈日本のプロオーケストラ30団体が現在受けている文化庁からの助成は年間約19億円。他の先進国に比べ少ないが、事業仕分けでそれが半分に減り、学校への芸術家の派遣事業も打ち切られる可能性が出てきた。〉と書いている。芸術を支える目的の寄付税制の見直し等も提言されたそうだ。

 三枝成彰(時事ドットコム)「オーケストラなどへの助成約19億円が半減されれば地方オーケストラは存亡の危機。ほかに大きな無駄があり、ここでけちっても仕方ない。重大さを理解していないことに怒りを感じる」

 飯森範親(同時事ドットコム)「多くの子供たちに生の演奏の感動を与えてきた。鳩山首相が言う友愛をはぐくむ仕事だ。・・・・音楽は生きる力となり、かつて演奏会後に『死ぬのをやめた』という手紙を受け取ったこともある」

 中村紘子(毎日jp)「芸術文化は人間そのものを育てること。人間を育てるには時間がかかる。1、2年で効果が出るものとは違う」

 外山雄三(同毎日jp)「少しずつ我慢してなんとかなるなら我慢したいが、オーケストラはもう限界」

 三枝成彰(同毎日jp)「助成が削減されると、地方のオーケストラは存在できなくなる可能性がある。そういう意味がわかっていたのか、非常に疑問を感じる」

 中村紘子(47NEWS)「お金をかけるとすぐに経済効果を期待する感覚があるが、芸術文化は人間そのものを育てるというもので、時間がかかる」

 尾高(同47NEWS)「見よう見まねから始まってようやく今のレベルまできた日本のクラシック音楽だが、予算が削られてはすべて水の泡になってしまう」

 「msn産経」記事――《【事業仕分け】日本オーケストラ連盟など抗議 交流予算の縮減で》(2009.12.7 13:51)は出席者の直接的な発言内容は伝えていないが、〈事業仕分けでは、日本芸術文化振興会や芸術家の国際交流の予算要求の縮減が妥当と判定され、伝統文化子ども教室事業学校への芸術家派遣コミュニケーション教育拠点形成事業は国の事業として行わないと判定された。日本オーケストラ連盟と日本演奏連盟、日本クラシック音楽事業協会などは、芸術の質の低下は避けられず、豊かな人づくり、社会づくり、国づくりの沈滞、国際社会におけるわが国の地位低下を招くとして再考を求めている。〉と、縮減対象となった事業名を具体的に書いて、その悪影響を指摘の形で纏めている。

 「地方にももう財源はない」、「全国のオーケストラや劇団は予算不足に苦しんでいるところが多く、国の助成金がカットされれば、特に地方の団体は存続が危ぶまれる」等々資金面、経営面で現状でも切実な窮状に立たされているだろうから、国の助成金の縮減を受けた場合の切実さは十分に理解できるが、国だけに頼らずに何らかの打開策を創造すべきだと思うが、国に頼る姿勢だけが見える。親方日の丸の他力本願に過ぎるように思えるが、そういうことはないだろうか。

 バブルが弾けたときの報道だったと思うが、企業が資金を提供して文化活動や芸術活動を支援する“メセナ活動”がそれまでは活発だったが、バブル崩壊を受けて廃止、縮小に追い込まれたといったニュースが続いたが、現在もこの不況で、企業がスポーツ関係の部を廃止する報道を時折目にする。 

 「女子ソフトボール強豪のレオパレス21、今季限りで廃部」という記事を「asahi.com」が11月28日付で流してもいた。

 企業も厳しい、国の財政も厳しい。だが、日本の企業の文化・芸術支援は今までも十分だったと言えるのだろうか。

 経団連のHPを見ると、1990年11月に経団連が会員の企業や個人が経常利益や可処分所得の1%相当額以上を自主的に社会貢献活動に支出する「1%クラブ」(ワンパーセントクラブ)を設立してる。

 経団連関連のクラブなのだから、錚々たる大企業を先頭に並べて、上から勧誘されたら断ることができない下は上に従う権威主義の義理付き合いから中小企業以下が連綿と入会していると思ったが、加入企業は144社のみ。

 HP中小企業庁の「調査統計」ページによる2006年の企業数は、

 大企業―― 12351社(0.3%) 
 中企業―― 534650社(12.7%)
 小企業――3663069社(87.0%)

 となっているから、「1%クラブ」は選ばれたエリート企業のみの入会となっているらしい。

 「1%クラブ」の「2007年度社会貢献活動実績調査結果」(2008年12月25日)を見てみると、〈社会貢献活動支出について回答した企業385社の、2007年度社会貢献活動支出総額は1,802億円。1社平均では4億6,800万円と、大幅増を記録した2006年度から更に3.1%増加。1991年度の5億2,500万円に次ぐ歴代2番目の額。

 このうち、1%クラブ法人会員(144社)の平均支出額は9億7,700万円(対前年度比0.3%増)と2年連続で過去最高額を更新。また、連結で回答した企業(42社)の平均支出額は11億8,700万円と、全体平均の2.5倍となっている。〉――
 
 2006年の大企業数12351社に対して、1年のズレがあるにしても、2007年度社会貢献活動企業が「1%クラブ」企業144社を含めて回答企業だけであったとしても、385社とは、個々の立場で貢献している企業があるにしても、0.03%なのは少な過ぎると言えないだろうか。

 寄付税制の見直しの提言もあったが、例え見直しがなくても、芸術活動や芸術活動の学校への派遣が「情操教育」、「人間を育てる」、「成熟(への助力)」、「夢やイマジネーションを育む」をキーワードに役立つとしていることに応えて日本の大手企業自体が、以下の中小企業も同じだと思うが、芸術面から情操や夢やイマジネーションといった感性を育み、人間を育て、人間として成熟していくのを手助けする活動に十分に貢献しているかと言うと、0.03%程度では不足があるように思えるが、そうではないということなのだろうか。

 音楽家の三枝氏が「日本より人口の少ないフランスがあんなに大きくみえるのは、文化を重んじ、予算を投じているからだ」と、〈文化庁の総予算が国家予算の0.12%で、欧州やアジア諸国に比べても著しく低い。〉という指摘に添った発言をしていたが、このことはフランスの民間企業に於いても「文化を重んじ」、日本の民間企業と比較してその利益を文化や芸術面に再配分しているということを示しているはずである。

 その方面のフランスの政策の理念が民間企業には反映されず、体現していないにも関わらず「あんなに大きくみえる」成果だとしたら、フランス人一人ひとりが国の予算の成果が現れていない姿を取っているということになって矛盾を来たすからで、民間企業や一般国民の共同歩調があってこその相互反映としてある「あんなに大きくみえる」成果ということでなければならない。

 寄付税制を見直しを図ることで寄付の誘導に弾みをつけることも重要だが、税申告のとき経費で落とせる、会社の宣伝にもなるといった経済的理由で寄付する感覚ではなく、何よりも企業や国民一人ひとりが文化や芸術を理解して自らの血肉とし、人間形成にも子どもたちの情操教育にも必要不可欠だと認識することの方が重要ではないだろうか。そしてその上で税制面からも優遇措置を講じる。

 このことは日本企業の文化や芸術活動に対する寄付行為がその企業の顔が見える形の、いわば企業宣伝となる場合はある程度積極的だが、カネだけ出して企業利益に反映されない形の寄付には消極的だというところにも文化や芸術を真に理解して自らの血肉としている状況から程遠いことを証明している。

 さらに言うと、この状況は情操教育に必要だとしてこれまでに行ってきた学校にオーケストラや劇団など芸術家を派遣する事業やその他の芸術活動が芸術家たちが口々に言っていた役立つことの意義に反して成果を上げていなかったことをも物語っている。

 その反映としてある国の予算削減や日本の企業の低調な社会貢献活動に現れている文化や芸術擁護のお粗末な姿といったところではないだろうか。

 元々この不況下にあっても内部留保も豊富で、不況の打撃を派遣切りの雇用調整弁を巧みに開閉して乗り切り、エコカー減税やエコ家電のポイント制等で多大の利益を得たトヨタやナショナル、キャノンといった企業に1%(「ワンパーセント」)と言わせずに、社会還元として、あるいは利益の再配分として5%前後は出させたらどうだろうか。過去に護送船団方式で国のカネで利益を上げ、企業規模を拡大してきた経緯もある。

 最後に再び音楽家の三枝氏の「日本より人口の少ないフランスがあんなに大きくみえるのは、文化を重んじ、予算を投じているからだ」の発言を取り上てみる。

 2000年のOECD生徒の学習到達度調査(PISA)の成績は――

 総合読解力  8位 日本(522) 14位 フランス(505) 
 情報の取出し 6位 日本(526) 10位 フランス(515)
 解 釈    7位 日本(522) 13位 フランス(506)
 熟考・評価  5位 日本(530) 17位 フランス(496)

 2003年調査の成績は――

 数学的リテラシー全体における習熟度『レベル別割合」

 日本  ――最高の「レベル6」 8.2%
 フランス――最高の「レベル6」 3.5%     

 数学的リテラシー全体

 日本  ――6位 534点
 フランス――16位 511点
 
 そのほかの課題でも日本はフランスを悉(ことごと)く上回っている。

 「日本より人口の少ないフランスがあんなに大きくみえるのは、文化を重んじ、予算を投じているからだ」とは逆行しているこの成績の倒錯はどう説明したらいいのだろうか。

 〈2006年の各国の国内総生産(GDP)に占める学校など教育機関への公的支出の割合は日本は 3.3%、データがある28カ国中下から2番目。28か国の平均は 4.9%。日本の支出割合はこれまで最下位層で低迷し,28カ国中最下位だった前年より,今回は順位を一つあげたものの,支出割合では 3.4%から 3.3%に落ちた。〉(asahi.com

 少ない教育予算で教育上の成果を挙げていると見るべきか、文化・芸術の情操教育に役立たない教育を日本は行っていると見るべきなのか。どちらなのだろう。


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独裁性が対人的非自律性を生み、非自律性が対人上の独裁性を許す

2009-12-07 11:13:43 | Weblog

 独裁性が対人的非自律性を生み、非自律性が対人上の独裁性を許す」という関係は極々当たり前のことだから、誰もが言っているごくごく当たり前の話の展開となるが、勘弁願いたい。
 
 阪神大震災などで災害ボランティアとして入った男性がその場で組織されたグループのリーダーを任されて活動し、あれこれと指図するうちに人を動かすことに快感を覚えたのか、相手が分かっているちょっとしたことも前以て指図しないと気が済まなくなって指図するようになることがあるそうだ。

 分かっていることだからとメンバーが自分の判断で動くと勝手に動いたといって不機嫌になる。あるいは指示したことが相手の判断で変えられると、例え効率の点でも結果の点でも見劣りなく仕事をこなしたとしても、自分が指示した通りの作業手順ではないとクレームをつけたりする。

 そういったことが問題となったボランティアがいたという話を聞いたことがある。

 これは既にリーダーが自己の判断を絶対化している状況を示している。自己の判断の絶対化は自己の絶対化を同時併行させていることは断るまでもない。

 自己の絶対化状態は指示が既に絶対命令となっている状況を示してもいる。他人によるそれぞれの判断を許さない指示という逆説は存在しないのだから、その指示は指示としての性格を失って絶対命令への変身を余儀なくされていると言える。

 このような指示の絶対化は単なるリーダーであることから、自己の権力者化を条件としなければ成り立たない。

 自分の判断は常に正しい、間違ってはいないとする自己判断が絶対化したとき、指示の絶対化(=絶対命令)へと進み、指示の絶対化が指示者をして権力者とさせる経緯を取る。

 さらに進んで権力者が持つ権力を絶対化させたとき、その権力は独裁化し、権力者は独裁者として君臨することになる。

 また指示・命令の絶対化から進んだ権力者の独裁化は指示・命令を受ける側(=被指示者)をして無条件の従属によって可能とさせるから、自己判断を許さない非自律的存在化を条件として成り立つ。このことを裏返すと、独裁は周囲の者の自律とは相容れない行動様式だと言うことができる。自己を非自律的存在とすることによって出現を許す存在性だと言い直すこともできる。

 権力者の独裁者化は権力のお裾分けに与って自らも権力者に見習い、僅かながらにも借り着の権力を揮(ふる)う権力者の取り巻き等の者を除いて、いわば権力の独裁によって精神的・物質的利益を享受できない者をして限りなく自律的存在であることを剥いでいき、非自律化させていくと言うこともできる。

 もう二、三十年も前になるかもしれないが、朝日新聞の投書欄にあった話で、60~70歳の年齢の女性が戦前、大日本婦人会支部の支部長とかをやっていて、当時は充実した日々を送って、自分の人生にとって一番生き生きしていた時代だった、当時が懐かしいといった内容の投書があった。

 それはそうだろうと思った。会員の上に立つ支部長とかの権力を手に入れ、投書には書いてなかったが、「お国のため」、「天皇陛下のため」と会員や町内の婦人たちを命令口調で思いのままに動かしていただろうから。

 命令される方は、国賊だ、スパイだ、非国民だと理不尽に扱われたくないから、長い物には巻かれろの自己判断を放棄した非自律的存在へと自らを追いやり、仕方なく動く。反対する者はなく、すべて言いなりに動いてくれるのだから、充実した日々でないはずはない。人を自分の指示通りに動かす権力の甘い蜜の味に酔い痴れたに違いない。

 自身が大日本婦人会という権力組織をバックにその権力を体現していたとは気づかなかったのだろう。さらにその背後に軍部の権力や天皇の権力、あるいは日の丸を掲揚していたなら、当時は有無を言わせないその権威が控えていたからこその自身の権力――虎の威を借りた権力だとは気づかないまま、例えそれがミニ(小型)のものであっても、独裁権力化させていた結果の人を言いなりに動かす充実した活動・活躍の類だったのだろう。

 それが自分の人生にとって一番生き生きしていた充実した時代の正体に違いない。

 戦前の日本でこのように自分が所属する狭い世界でミニ独裁者となって君臨していたのはこの婦人だけではなく、町内会や隣組といった男たちの間にも広がっていた、日本全体から見たらゴマンと存在していた独裁状況ではなかったろうか。

 権力の独裁性は学校の集団いじめの場面でも展開される。いじめの首謀者がいじめ仲間に対し腕力や喧嘩の強さを武器に絶対的権力を持って独裁者として君臨していた場合、指示・命令の絶対的遂行が自己の権力を証明する道具でもあるから、首謀者のいじめの指示・命令は絶対となり、仲間は自分の判断としてはノーと言う拒絶反応を示していたとしても、逆らった場合の懲罰・仕返しが怖くて自己判断を抑圧・抹殺して自己自身で自己を非自律的存在に貶め、いじめの生贄(=犠牲者)に対して例えそれが残酷な性格の仕打ちであっても、指示・命令されたとおりに従属的に、あるいは自身の活躍が評価されて信頼を獲ち得ることを望んで指示・命令以上のことを無条件・無考え(=非自律的)にいじめを実行することになる。結果としてその種のいじめは陰湿・凶悪ないじめとなる。

 仲間たちの忠実な実行によって首謀者の権力の偉大さが証明される。何という倒錯世界だろう。

 体育会系の部活の先輩対後輩の間でも先輩による後輩に対する暴力的ないじめがしばしば生じるから、権力の独裁化が存在する証拠となる。逆説するなら、権力の独裁化なくして、陰湿ないじめは起きないと言える。

 この関係に於いても独裁者化した先輩に対して非自律的存在と化した後輩の関係を見ることができる。

 職場に於けるパワーハラスメントも同じ構造を取った人間関係であろう。地位に付属する権力をその権力に抗うことができない部下の弱い立場を利用して絶対化し、独裁化にまで高め、できもしない指示・命令を下して窮地に追い込むいじめを働く。あるいは仕事に関係のない人格や尊厳を傷つける言葉を吐いて、非人間的扱いをする。

 以上のような独裁者は、その程度は様々だが、社会のどこにでも存在する。出発点は何らかの権力を握った者が自己の判断を絶対化することによって始まる。自己判断の絶対化が自己自身の絶対化へと進み、自己を独裁者的存在へと高めていく。併行して対人的非自律化を推し進めていくことになる。

 自己の判断を絶対とせずに、議論を重ねてその判断をよりよい内容を持たせていくことが権力の独裁化を防ぐ有効な方法ではないだろうか。
 
 最後に、自己権力を絶対化させた社会の独裁者というものは往々にして自分の気に入らない行動を取る者を公の場だろうが何だろうが構わずにバカ呼ばわりをする。あくまでも自己を絶対者に置いているからできるバカ呼ばわりであるが、中央・地方の政治家の中に何人か名前を挙げることができるのではないだろうか。

ろう。


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橋下府知事の「公務員から厳重抗議なんて言われたくはない」の独裁性

2009-12-06 00:43:39 | Weblog

  《普天間移設:「話あれば関空に」橋下大阪府知事》(毎日jp/2009年11月30日 11時17分)

 11月30日の朝、橋下大阪府知事は米軍普天間飛行場の移設先として関西国際空港受入れの検討を記者団に語った。

 「あくまで個人的な意見だが、政府から正式に話があれば、基本的に(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」

 そして沖縄での地上戦を挙げて、

 「沖縄には多大なご負担をかけたので、本州の人間は十分配慮しないといけない。・・・・あくまで日米安保が軸の話だが、国から提案があれば、最初から一切拒否するわけにはいかない」

 負担は戦前に限ったことではなく、在日米軍専用施設面積の約75%が沖縄にあり、県土面積の約11%を占める(Yahoo!ニュース)負担が現在も続いている。また負担の軽減は時々の政府が率先・主導して動く問題のはずだが、小手先の解決方法で凌いできた。

 私自身は「沖縄は日本から独立すべきだ」とブログに書いた。

 記事は〈嘉手納基地の騒音軽減対策としての訓練の一部受け入れも視野に関空の軍民共用化〉と同時に〈神戸空港の活用も検討事項に挙げた。〉と書いている。

 いくら「個人的な意見」だとしても、この発言は政府から検討の要請を受けた場合、実現の成算ある「個人的な意見」だったのだろうか。ただ言っただけではないと思うが、関西空港はともかく、神戸空港は建設費3140億のうち90%以上を神戸市が拠出した市営空港(「Wikipedia」)だというから、府知事の管轄の及ばない自治体の空港を移転対象に入れる場合、「沖縄には多大なご負担をかけたので、本州の人間は十分配慮しないといけない」と思うから、関空を移転先として検討課題に入れてもいいと考えているが、足りない分、近接している神戸空港が検討の名乗りを上げてくれると、米軍の使勝手が良くなって、アメリカ側も受け入れ可能の案となるのではないだろうかといったふうに前以て話を通して内々にでも同意を取り付けておくことが必要ではなかったろうか。

 そうでなければ、甚(はなは)だ不遜な越権行為となる。他処の自治体に勝手に言われたくないよ、とばかりに。

 以前ブログに書いたが、沖縄1区の国民新党下地幹郎が11月2日(09年)の衆院予算委員会で岡田外相に質問している。

 「関西空港のB滑走路が全くゼロですから、安全保障上は全く音も出ないし、あの地域を航空母艦が通るわけですから、あそこを活用して、外来機の訓練をやるというと、私、嘉手納の統合は半分になる。そういうことを提案する。しかも、沖縄県民のこの思い、基地を造っていいですかということは聞かない。許可認可、沖縄の許可を受けずに基地内基地ですから、新たに基地を造らずにできる。」

 例え関空のB滑走路が殆んど使われていなくても、必要だと計画して建設したはずで、国内線の客を伊丹空港に獲られていることや世界的不況等の理由で需要が伸びないことからの(1兆円超の有利子負債を抱えているそうだ。)低利用状態ということだと思うが、海上空港だから拡張余地はあると言っても、軍民共用を目的として建設したわけではない空港に軍用を取り入れるには民間の需要状況に応じて色々と問題が生じない保証はない。上の言うことを無条件に従わせる独裁国家ではない以上、前以て時間をかけた、いわゆる根回しが必要で、そのような根回しがあった上の橋下知事の関空活用発言だったのだろうか。

 ところが管轄外の神戸空港に関しては神戸市の空港事業室長から電話で「他の自治体が管理運営する空港について、移設先と例示するのはもってのほかだ」(《在日米軍再編:普天間移設 橋下・大阪府知事「神戸移設検討」で市が抗議》毎日jp/2009年12月4日)と大阪府に電話で抗議があったということは何ら神戸市に話を通さずに独断的に神戸空港の名前を挙げたことになる。

 管轄外の行政に関して何らその資格もなく自身の一存の支配下にあるかのように取り扱ったことだけを以てしても、独裁性を帯びた対応と言えないだろうか。

 何かの催し事で人手が足りないと聞いて、本人の意向を確かめもせずにいつでも女房を使ってくださいと言っていい顔をする男がいるが、ちょっとしたことに過ぎないように見えるが、そのように言えるのは女房なる存在を支配下に置き、自身を何でも言うことを聞かす独裁者の位置に置いているからだろう。少なくとも気持ちの中では自分をそのように位置づけているはずである。

 「msn産経」の別記事――《橋下知事激怒に神戸市室長「抗議するとは言っていない」》(2009.12.4 13:45 )によると、空港事業室長は橋下知事の発言を新聞報道で知り、矢田市長の考えが議論の余地はないということを確認した上で抗議の電話をかけたと取材陣の質問に答えたとなっている。

 神戸市空港事業室長の電話抗議に対しての橋下知事の対応を《橋下知事激怒「本当に神戸市はダメだ」 市室長から抗議電話され》msn産経//2009.12.4 11:24 )から見てみると――

 「市長からの抗議なら分かるが公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」(12月1日夕)

 「神戸市役所は税金でつくった空港なのに、自分たちの空港と思っている。口を出すなというなら、関西3空港をめぐる問題でも、神戸空港を除いたらいい。神戸市は、もうちょっと関西全体のことを考えないと本当にダメ」――

 「YOMIURI ONLINE」記事(《神戸市が橋下知事に抗議、普天間移設問題巡る発言で》2009年12月4日)が「関西空港に限らず、沖縄の基地負担軽減に資する空港は神戸空港だと思う」と橋下知事が発言したことに対する矢田神戸市長の直接の対応を伝えている。

 「神戸空港は市民の利便に資する、という考えで造った経緯がある。普天間の機能を引き受けるというのは議論する余地もない」――

 橋下知事の「市長からの抗議なら分かるが公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」・・・・

 市長を通して抗議すべきだということなら、神戸空港の利用についても神戸市長を通すべきだったろう。だが、空港室長の対応を見ても、神戸市長の対応を見ても、一切通していないことが分かる。自分は通さなくても、相手に対しては通せと言い、それが正しいことだとすることができるのは自身に独裁性を持たせていなければできない言動であろう。

 実際に市長を通して抗議しろという意味の発言だとしたら、はっきりとそう言うべきで、「公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」は自身よりも空港室長を下に置いた雰囲気の言葉になっている。自分を何様の上に置いた言い草になっているということである。

 「公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」だけを把えて見ると、市民、県民、国民が「政治家に厳重抗議するのはおかしい」ということになりかねない危険な言葉となる。もしそういうことなら、独裁性を貼り付けた言い草となる。

 また神戸市長が米軍共用に同意していて、その意志が固く、神戸空港を直接所管業務としている立場で空港室長が反対なら、神戸市にも反対意志があることを橋下知事と世間に知らしめるために橋下知事に対して抗議の声を上げても何ら不都合はないはずである。橋下知事が上の言うことにはすべて従えとした場合、独裁性を自他に背負わせることになるからだ。

 また「神戸市役所は税金でつくった空港なのに、自分たちの空港と思っている。口を出すなというなら、関西3空港をめぐる問題でも、神戸空港を除いたらいい。神戸市は、もうちょっと関西全体のことを考えないと本当にダメ」にしても、相手が反対すると何ら話し合いを持たないまま、「口を出すなというなら、関西3空港をめぐる問題でも、神戸空港を除いたらいい」と、やはりそう言う資格もないはずだが、頭から直ちに排除しようとするのは自身を常に正しい場所に置いているからだろう。

 常に自分を正しいとするこの排除の思想も独裁性を自己のものとしていることから発している心の動きと言える。

 橋下知事がどの程度独裁性を内心の性格としていたとしても、人気とマスコミのセンセーショナリズムに支えられた絶対性の発揮で以て、それなりの成果を挙げるに違いない。

 そのことは自身の抗議が橋下知事の機嫌に触れたあとの神戸市空港室長の態度から見て取ることができる。

 「『矢田(立郎)市長の考えは議論の余地はないということ』、と府の担当者に伝えただけ。『もってのほか』や『厳重に抗議する』などの言葉を発した覚えはない」(上記msn産経記事――《橋下知事激怒に神戸市室長「抗議するとは言っていない」》

 抗議は当然であるとする思いで抗議したはずだから最後まで信念を貫くべきだが、そのことをたちまち投げ捨てて、反論してきた橋下知事の発言や態度にご尤もとひれ伏し、自分を少なくとも正しくなかった場所に追いやっている。

 マスコミにしても橋下知事と空港室長をそれとない善と悪の対照で扱っている。それはマスコミ各社が見出しに使っている「橋下知事激怒」という言葉、もしくはそれに類似した言葉が証明している。マスコミ等の第三者から間違っていると見た方が「激怒」したとのみ扱った場合、いわばそれは間違いだといった指摘がなかった場合、滑稽な言葉の使い方となる。即ち橋下知事を正しい場所に置いた言葉の使い方となっている。

 こういったマスコミの扱いが大衆的な人気と共に橋下知事に絶対性を与え、ときとしてそれが独裁性を帯びることになる。


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普天間移設問題越年/同盟という名の人質関係から日本を見る

2009-12-05 09:53:31 | Weblog

 普天間移設問題を話し合う日米閣僚級作業グループの第2回会合が昨日4日外務省で開催、日本側が年内決着を断念、年が明ければいいチエが浮かぶのかどうか、年明け以降に決着を先送りしたと言う。

 理由は鳩山首相が元々沖縄の気持は県外だとの思いを持っていたことと、社民党が県外・国外への移設を求めて、硫黄島やグアムを候補と挙げていたこと、福島党首が現行計画通りの移設なら連立政権からの離脱も辞さない考えを示したことだと言われているが、昨日TBSの夕方のニュースで、福島党首の連立離脱の意向は鳩山首相にとっては渡りに船だったのではないかと言っていた。

 福島党首の一種の連立離脱威嚇は少なくとも米側に対する有効な説明理由の一つとなり得る。年内決着の岡田外相、北澤防衛相に対する鳩山首相のオバマ米大統領との会談で「年末までにあげないといけないとか、約束したわけではない」(日経ネット)、「年内でなければだめだと申し上げたことはないが、できるだけ急ぎたいという思いは変わっていない」(Bloomberg)といった発言は結果的に半ば気持ちが傾いていた年明け先送りの前置きだったとも言える。

 平野博文官房長官が12月3日の記者会見で翌日4日の日米閣僚級作業グループの第2回会合に備えて鳩山首相の年明け先送りの意思を代弁している。

 「私自身は年内とは言ったことは一切ない。『できるだけ早く』という話はしたかと思うが、(鳩山)総理自身もそういう考えだと、理解、認識している」

 日本側決定への日米閣僚級作業グループ会合での米側の反応に対するマスコミの反応。

 「日米関係に悪影響」、「米側は再編計画全体への悪影響を懸念」、ほかに「ルース米大使が日本側に激怒」(msn産経)というものもあった。

 いつも温厚なルース米大使が普天間移設の年内決着断念で「岡田外相らの面前で大声張り上げ」たと報道している。

 年内だろうが年明けだろうが決定するについては先ず内閣の長として責任ある鳩山首相自身が関係閣僚と話し合って意志統一を図り、それを以って自身の意志統一を行って、内閣の統一した意志とする。

 あるいは首相としての自己の意志を絶対とするなら、話し合いの中で他の異なる意志を自己の意志に従えさせて、それを以て内閣の統一した意志とする。そういった断固たる意志決定の経緯を踏まなかった。

 マスコミが伝える程には日米関係の悪化は気にする程のことはないように思える。相互に日米軍事同盟という名の人質関係にあるのだから、軍事同盟の解消といった決定的な関係悪化にまで至るデメリットまで犯すはずはない。アメリカにしても日本の基地を必要としている。

 経済の面から見ても、グローバル化した今日戦前アメリカが日本への石油を禁輸したように日本製品の輸入禁止や米製品の対日輸出禁止といった強硬措置を取れるわけではない。日本の経済に打撃を与えることになったとしても、アメリカの経済にも打撃を与えることは誰の目にも明らかなことだからだ。

 但し、この日米軍事同盟という名の人質は中国が民主化するまでの有効期限しかない。中国が現状のまま共産党一党独裁であっても、アメリカは政治・経済に亘る共存関係をさらに深めていくだろう。中国の存在を無視して――いわば中国抜きに世界の政治・経済を語ることはもはや不可能なのは誰が見ても明々白々だからだ。

 だが、中国が民主化し、基本的人権を中国国民に保証したなら、アメリカは日本との関係を経済の分野に限って産業界に任せた関係維持で済ませることができる。中国の民主化が中国自身の対外的な軍事的脅威を剥ぐからだが、このことは同時に日米軍事同盟の意義を薄め、アメリカは日本に変わって中国と軍事同盟を結ぶことも可能となる。

 こういった関係への移行は元々日本に対しては政治面で期待する局面が少なかったことによって生じる反動とも言える。単にアメリカの意向に添って、賛成・反対の手を挙げてくれさえすればよかった。

 こういった局面に至る場合に備えて日本が現憲法下で世界に生き残る道は政治的にも経済的にも自律(自立)することではないだろうか。内需主導の経済構造と世界の問題を軍事力に頼らずに迅速に解決する政治的チエの獲得にかかっているように思える。

 内需主導型経済の転換も国際紛争を軍事力に依存しない方法で問題処理する政治的チエも生み出すことができなければ、憲法を改正するか、それが不可能なら、厳密に言うと憲法違反のゴマカシを働かせた自衛隊特措法の臨機応変の活用で自衛隊を例え戦闘地域であっても海外へと派遣して、国際社会の一員であることをアピールするしかない。

 そうしなければ、アメリカは本当に堪忍袋の緒を切らすに違いない。

 

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学力格差は経済格差が原因ではなく、人間関係格差だとする主張は事実なのか

2009-12-04 10:34:02 | Weblog

 11月17日(09年)の「毎日jp」記事――《全国学力テスト:人のきずなで成績↑ 離婚、持ち家が左右――阪大グループ分析》が「年収など経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」とする大阪大大学院人間科学研究科志水宏吉教授(教育学)研究室が行った調査を載せている。

 とすると今まで言われていた親の収入が子どもの学歴に影響するという「経済格差=学歴格差」は間違いと言うことになる。

 志水教授は次のように結論付けている。

 「家庭や地域のつながりが緊密に残った場所ほど学力が高く、都市化が進んだ大阪で『しんどい学校』が増えた。子どもと保護者や先生の信頼感、地域の支えなど、つながりの回復が打開策になる」

 いわば人間関係が濃密か希薄か、学力はその密度に影響を受ける。裏を返すと、親の収入には関係ないということである。

 調査は07年の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年の全国テストの小学6年中学3年の国語・算数(数学)の都道府県別正答率と、国勢調査など統計データに示されている社会環境を加えて分析、年収など各指標ごとに学力に影響する度合いの強さ(相関係数)を比較したもので、その結果学力を左右する要因として▽離婚率持ち家率不登校率――の3指標の比重が高まっていて、指標に加えた「年収」の学力に与える影響は小さいと出たと言っている。

 まず離婚率と学力の相関係数(上昇するほど1に近づく)――

 ▽離婚率小6算数)――1964年(0・102)~07年(0・536)・・・・離婚率が5倍以上にも上昇してい
              る。
 ▽持ち家率小6算数)――1964年(0・070)~07年(0・444)・・・・持ち家率は6倍以上も上がってい
               る。
 ▽不登校率も同様だとしているが、1964年から比較して07年は5~6倍上昇していると言うことなのだろ
  う。

 ▽教育娯楽費割合中3数学)――1964年(0・566)~07年(0・134)・・・・「教育娯楽費割合」が4分
                  の1以上減少している。

 これらの結果を以って、学力に影響する要因として〈経済的な豊かさに関わる指標は影響が小さくなる傾向が出た。〉としている。

 記事はこの調査の傾向が象徴的に現れている例として1996年43位から07年最上位となった秋田県と1996年6位から07年最下位近くにまで成績が落ちた大阪府の指標を取り上げている。

「つながり格差」をもたらす主な指標■   

      離婚率        持ち家率       不登校率

大阪府 0.23(全国4)  53.1(全国45) 1.27(全国13)

秋田県 0.16(全国42) 78.4(全国1)  0.87(全国45)

全国  0.20       61.2       1.17   

<※離婚率・不登校率は06年度、持ち家率は08年現在。単位・%。カッコ内は全国順位


 この統計調査から導き出した結論を記事は次のように記している。

 〈大阪では離婚率の高さや持ち家率の低さが、結果的に親や祖父母、近所との接触機会を少なくしていると評価。学力低迷の要因として、社会環境が子どもの生活や意識を不安定化させているとみる。40年余りで各地の経済力格差が縮小、一方で子どもの環境の変化が大阪で顕著に現れたと分析している。〉――

 調査の詳細を直接知りたいと思って大阪大大学院人間科学研究科のHPにアクセスしてみたが、調査結果をHP上に公表していないのか、アクセスの方法が悪いのか、調査結果に辿りつくことができなかった。記事の内容から推測するしかないが、間違いがあるかもしれない。あった場合はご指摘願いたい。

 〈離婚率の高さや持ち家率の低さが、結果的に親や祖父母、近所との接触機会を少なくしている〉ということなら、非離婚家庭や持ち家家庭が結果的に親や祖父母、近所との接触機会を多くしていると裏返すことができる。そしてこのような事情からの「接触機会」の多い少ないが子どもたちの学力格差につながっているというわけである。

 家を持つにはカネが問題となる。カネがなくては家を持つことはできない。例え30年ローンであっても、30年で返済可能と計算ができる生活の安定を前提として家を持つ。家を持つことによって、子どもの人間関係を多様化させることができ、学校の成績が上がると言っている。

 この経緯は根本のところで親の経済的な問題――いわばカネの問題が深く絡んでいると言えないだろうか。

 一方、非離婚家庭で妻が専業主婦の場合は夫の給料のみで生活が成り立つからこそ可能となっている状況ではあるが、離婚した場合、妻は働きに出て、自分一人の収入で生活を支えなければならない。例え夫婦共稼ぎであっても離婚した場合の収入に関わる条件は同じだが、専業主婦の場合、特に子どもを抱えた状況で新たに仕事を探さなければならない不利は特に日本の社会では相当なものがあるに違いない。

 離婚の結果、家を持たないことと同様に子どもの人間関係を希薄化させ、学校の成績に悪影響を与える・・・・と調査は言っている。

 だとしても、離婚とそのことが引き起こす子どもの教育をも含めた諸々の生活上の問題にしても、根本のところで親の経済的な問題――いわばカネの問題に反応させることはできないだろうか。

 例えば厚生労働省調査の「平成18年度全国母子世帯等調査結果報告」の中の
「離婚母子世帯における父親からの養育費の状況」によると、「養育費の取り決め状況は、『取り決めをしている』が38.8%」で、「離婚した父親からの養育費の受給状況は、『現在も受けている』が19.0%」と非常に低い数字となっている。

 例え養育費を支払う取り決めをしていたとしても、殆んどが途中で取り止めとなっている。

 また「ひとり親世帯の平成17年の年間収入」調査を見てみると、「父子世帯の平均年間収入(平均世帯人員4.02人)は421万円」に対して、「母子世帯の平均年間収入(平均世帯人員3.30人)は213万円(前回調査212万円)、平均年間就労収入は171万円(前回調査162万円)となっている」としている。

 いわば仕事で得ている平均年間収入は171万円だが、児童扶養手当や元夫から貰っているとしたら養育費、慰謝料を合わせて213万円になると言うことなのだろう。年間42万円が労働外収入となるが、月別とすると、3万4千円程度に過ぎない。

 但し、「就業している母のうち『常用雇用者』の平均年間就労収入は257万円、「臨時・パート」では113万円」で母子家庭と言えども、日本の社会の正規雇用と非正規雇用の格差の反映を正直に受けている。

 また平成17年の母子世帯の平均年間収入213万円に対して全世帯の平均年間収入は563.8万円で、一般世帯を100とした場合の母子世帯の平均収入は37.8に過ぎないということだが、両者の生活格差――収入という名のカネの格差の程を窺うことができる。

 勿論、以上の数値はあくまでも平均であって、その分布状況を上記調査は付け加えている。

 平均年間収入213万円のうち、少ない方から4分の1に当たる第1四分位値――118万円     
          (中央値)少ない方から4分の2に当たる第2四分位値――187万円
                 多い方から4分の1に当たる第3四分位値――270万円

 いわば同じ離婚世帯でも多い方から4分の1に当たる270万円収入世帯と少ない方から4分の1に当たる118万円収入世帯の収入格差は152万円もある。月に直して、約12万6千円となる。なまじっかな格差ではない。

 調査は次の状況も伝えている。

 「末子が、小学校入学前の平均年間収入は 177 万円、小学生の平均年間収入は208万円、中学生の平均年間収入は232万円、高校生の平均年間収入は248万円であり、末子の年齢が上がるにつれて平均年間収入が増加している」

 「母子世帯になってからの期間と平均年間収入を見ると、『5年未満』が191万円、「5年以上」が236万円と「5年以上」経過した世帯の方が 23.6 %高くなっている。」

 二つの調査結果は関連し合っている。一つ仕事に就いて年数を経れば、経験年数に応じて昇給していくからだろう。母子世帯経年数と子どもの成長年数が重なる結果である。

 但し、子どもが成長していけば、その分教育費等その他の支出も多くなっていくから、収入が増えたからと言って、そのことが即生活の余裕につながると言うわけではあるまい。

 少ない方から4分の1に当たる第1四分位値の118万円前後の世帯はとても無理かもしれないが、多い方から4分の1に当たる第3四分位値の270万円前後の収入世帯とそれ以上の収入世帯の場合、月収入に直すと24万円の収入になるから、子どもを月5~6千円の会費を払って、そのほかにも通勤費やユニフォーム代がかかるとしてもスイミングスクールやサッカースクールといったスポーツクラブに通わせることができるに違いない。あるいは学習塾でもいいが、サッカースクールなどは幼稚園年中組みから会員を募集している教室もある。

 子どもたちは本人がもう厭だと言わずに通っている限り、自分のしているスポーツが楽しくなっていて、そこで「親や祖父母、近所との接触機会」を友達に変えて子どもたち同士で充実した人間関係を築くことができるはずである。

 子どもが女の子ならピアノ教室に通わせたり、発表会だ、習っている子同士のお誕生会を各家庭で持ち回りに行えば、その子の人間関係を広げることもできる。

 例え離婚母子家庭であっても、カネが保証する経済的な余裕がありさえすれば学習塾や音楽教室やサッカー教室等に通わせることはできるのだから、調査が言っているように離婚率の高さや持ち家率の低さが「人のきずな」を希薄とするとは必ずしも言えなくなる。

 もしそういった子どもたちがそれなりに楽しんで充実した人間関係を結んでいながら学力低下傾向にあるとしたら、別の要因を考えなければならなくなる。

 また1964年から07年までの間に全国的には持ち家率が6倍以上も上がっているにも関わらず、その傾向に反して大阪の持ち家率が低いということは(全国45位)、持ち家のない家庭はアパート等の家賃負担が大きく、そのことが教育にかけるカネの余裕をなくして子どもの人間関係の範囲を狭めているということにならないだろうか。秋田といった地方の場合、地方へ行く程親代々から受け継いだ持ち家が多い傾向にあるだろうから、家賃がかからない分、それなりの収入があれば、子どもにかける教育費も応分に負担が可能となる。

 いわば持ち家問題にしても離婚問題にしても、すべて根本のところでカネがカギとなってくる。

 記事は大学院調査の指摘として持ち家率や離婚率に絡めて「40年余りで各地の経済力格差が縮小」と伝えて、このことを以って「年収など経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と結論付けているが、このことは都市と地方の経済格差の拡大が言われていることと反する。

 これは推測に過ぎないが、持ち家世帯に関しては都市と地方の経済格差は縮小しているかもしれないが、大都市になる程、その都市内の経済格差は逆に急激に拡大しているはずである。

 東京を例に取ると、少数であっても年間何億、何十億と稼ぐ人間が存在する一方でホームレスが大多数存在するし、あるいは決して安くない一泊千円以上取るとかいう山谷やその他のドヤ街、ネットカフェに寝泊りする人間が多数存在する。この不況でクビを切られ、住いを失った非正規社員がホームレス化したという話を聞くし、生活保護申請が急増したという報道もある。

 ホームレスやドヤ住まい・ネットカフェ難民が都会に多いのは大きな都会程、このような最低限の住いの不自由しない供給場所ともなっているからで、食に関して言うと、一文無しのホームレスになったとしても、飲食店はどこにもあるから、ごみバケツに放り込んで店の前に出した客が食べ残した食べ物を漁って飢えを凌ぐチャンスに事欠かないし、空き缶・空き瓶を拾って現金化し生活の糧にするにしても、住んでいる人間が多い都会程ポイ捨ても多いはずで、彼らに供給と需要の関係を十分に満たしてくれるはずである。

 いわば大きな都会になる程、社会の吹き溜まりとしての容積が比例して大きくなり、逆説的に住みやすい場所となる。

 但しこのことは同時に大きな都会になる程、住民間で生活格差の拡大が見られるということでもある。

 だが、この調査にはこのような要素は考慮せず、「40年余りで各地の経済力格差が縮小」し、離婚率や持ち家率の増加とは逆に中学3数学の「教育娯楽費割合」が1964年(0・566)から07年(0・134)へと4分の1以上減少していることを根拠に学力格差に関しては「経済的な豊かさにかかわる指標は影響が小さくなる傾向が出た」としている。

 大阪府にしても、東京都同様に住民間の経済格差はピンからキリまで大きいはずである。

 こういうことではないだろうか。「離婚率・不登校率は06年度、持ち家率は08年現在」の調査だとしているが、学力テストの成績自体は1964年と07年の比較である。

 07年は02年から始まった「戦後最長景気」の最終局面の年だが、企業の人件費抑制策として持ち出した雇用の非正規化が拡大した結果、全体の所得は僅かにマイナスとなる伸びをもたらし、当然個人消費の拡大に反映されるはずはなく、企業一人勝ちの景気となって一般国民には「実感なき景気」と言われた。

 そのような「実感なき景気」の中で正規社員と非正規雇用、そしてそれ以下の低所得者との経済格差は大きなものがあったはずである。いわば「教育娯楽費割合」に関して中高所得者の金額面の支出は変わらなくても、あるいは少し上昇を見たとしても、それを差引いて持ち家を持たない世帯にほぼ重なる離婚家庭や非正規雇用等の低所得者が一人ひとりの金額は少なくても、人数の多さの点で1964年(0・566)から07年(0・134)へと4分の1以上の減少分の多くを担ったことからの調査値ということではないだろうか。

 この推測が正しいとなると、「年収など経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」とする大阪大大学院の調査を正しい指摘ではないことになる。

 あるいは逆に調査とその指摘が正しくて、当方の推測が間違っているのかもしれない。

 この調査を全面的に正しいと把えて、これまで「学力格差は経済格差」と言われてきたことが社会共通の考えとなって「カネの全能性」が取り沙汰され、「要するにすべてはカネの問題だ」という薄っぺらなリアリズムに走って成績の悪いことの正当化に親にカネがないことを理由とする子どもが多く現れたと、「学力格差は経済格差」の考えを批判する向きもあるが、この批判が正しいとしても、カネがすべてを解決する力はないと「カネの全能性」は否定できるとしても、カネがあらゆる物事に於ける解決の大いなる力であることに変わりはないと言えるのではないだろうか。

 だからこそ、スパコンの研究開発やその他の科学技術の研究などで、国の予算に頼る。研究側から言わせたなら、このことは「研究格差は経済格差」だと言っていることであろう。

 事実経済大国程、技術開発は進んでいる。

 カネが物を言う現実世界は決して「薄っぺらなリアリズム」ではない。特に子どもを抱えて教育費の捻出に難儀している低所得者にとっては切実深刻な「リアリズム」以外の何ものでもないだろう。子ども手当2万6千円の政策で民主党に投票した有権者が多くいたことも、教育にしてもカネであることを物語っている。 


 記事の読み方が間違っているかもしれないから、「毎日jp」を全文参考引用しておく。  
 《全国学力テスト:人のきずなで成績↑ 離婚、持ち家が左右――阪大グループ分析》(毎日jp/2009年11月17日)

 大阪大大学院人間科学研究科 全国学力・学習状況調査 社会環境

 07年の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率▽持ち家率▽不登校率--の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査で分かった。いずれも家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関連する指標で、研究チームは「年収など経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。子どもの生活基盤を支える指導の重要性を再認識させる結果として、注目を集めそうだ。

 大阪大大学院人間科学研究科の志水宏吉教授(教育学)の研究室が、両テストの小学6年と中学3年の国語・算数(数学)の都道府県別正答率と、国勢調査など統計データを分析。年収など各指標ごとに学力に影響する度合いの強さ(相関係数)を比較した。

 それによると、離婚率と学力の相関係数(上昇するほど1に近づく)は64年から07年に0・102から0・536(小6算数)に上昇。持ち家率も0・070から0・444(同)と強まった。不登校率も同様だった。これに対し、教育娯楽費割合が0・566から0・134(中3数学)となるなど経済的な豊かさにかかわる指標は影響が小さくなる傾向が出た。

 両テストの都道府県別順位は、07年最上位の秋田県が43位から躍進、大阪府は6位から最下位近くに陥落している。研究グループは大阪では離婚率の高さや持ち家率の低さが、結果的に親や祖父母、近所との接触機会を少なくしていると評価。学力低迷の要因として、社会環境が子どもの生活や意識を不安定化させているとみる。40年余りで各地の経済力格差が縮小、一方で子どもの環境の変化が大阪で顕著に現れたと分析している。

(この分析はおかしい。都市と地方との経済格差は広がっているはず。また非正規社員が増え、正規社員との経済格差・収入格差が確実に広がっている。「離婚」によって収入が減った、「持ち家率の低さ」は低収入の証明。経済格差が底にあるはず。)

 志水教授は「家庭や地域のつながりが緊密に残った場所ほど学力が高く、都市化が進んだ大阪で『しんどい学校』が増えた。子どもと保護者や先生の信頼感、地域の支えなど、つながりの回復が打開策になる」と話している。【竹島一登、福田隆】

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 ■「つながり格差」をもたらす主な指標■    

     離婚率        持ち家率       不登校率

大阪府 0.23(全国4)  53.1(全国45) 1.27(全国13)

秋田県 0.16(全国42) 78.4(全国1)  0.87(全国45)

全国  0.20       61.2       1.17   

 ※離婚率・不登校率は06年度、持ち家率は08年現在。単位・%。カッコ内は全国順位

 ■ことば

 ◇全国学力テスト
 「教育の成果と課題の検証」を目的に07年にスタートした。小学6年と中学3年のほぼ全員が対象。文科省は「序列化や過度な競争」を避けるため、市町村・学校別の結果は非公表とするよう求めている。全国テストは1961年に始まったが、文部省(当時)は64年を最後に全員参加方式を取りやめた。

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ウッズ不倫騒動と流行語大賞に見る二つの言葉

2009-12-03 09:12:53 | Weblog

 

 最初の一報はプロゴルフのスーパースター、タイガー・ウッズ選手が運転していた車を自宅近くの消火栓と樹木に衝突させ、妻がゴルフクラブでリヤガラスを叩き割ってウッズ選手を救出したという一種の美談。

 ゴルフを愛し、家族を愛するスーパースターならではの夫婦愛と把えた趣向からのその報道が一転、実はウッズの不倫に逆上した妻から逃れるために、多分慌てて走らせた末の自動車事故で、妻がゴルフクラブでリヤガラスを叩き割ったのはウッズを救出するためではなく、ゴルフクラブを持って追いかけていったまま収まらない怒りをガラスを叩き割ることで表現した行為だといった趣向の報道に一変した。
 
 慌てて逃げたからだろう、ウッズは裸足だったとか、相手は2001年9月の米同時多発テロで婚約者の写真を掲げて捜しまわりマスコミに取り上げられて全米で有名になった女性だとかマスコミは格好のネタとした。

 ところがこれで幕が下りたわけではなかった。別のロサンゼルスでホステスとかしている別の女性がテレビ番組に堂々の出演をしてウッズとの2年にも及ぶ二人の関係を暴露、二人が遣り取りした300通にも及ぶ携帯メールの遣り取りも機密扱いから解除、公開したという。

 日本では政府関係の機密文書は機密扱いのままなかなか公開されないが、あちらでは外交機密の公開以上に不倫関係の機密扱いは簡単に解除されるようだ。

 妻は相手は私だけではなかったと怒りに駆られ、ロサンゼルスの女性も秘密の関係は私だけではなかったと怒り心頭に発し、さらに新たに相手は私だけではなかったと言う女性が現れたなら、芋づる式暴露合戦となるが、そのような暴露は一方でウッズの目覚しいばかりの女性関係――大活躍の不倫行動を浮かび上がらせることになる。

 ウッズの不倫報道を聞いているうちになぜかテレビタレントの石田純一が言ったとか言わないとか取り沙汰された、「不倫は日本の文化だ」という言葉を思い出した。

 「不倫は日本の文化だ」とすると、外国には存在しない文化ということになる。だがアメリカだろうがフランスだろうが、イタリアだろうが、その当事者がイタリアの首相であっても、不倫は堂々と存在する。

 石田純一は民放テレビでかなり前に報道番組のメイン司会者を始めたが、箸にも棒にもかからない程に満足に解説できない男だなと思っていたら、そのことが理由かどうか分からないが、早々に降板したのを覚えている。

 最近の不倫ではモナ騒動があり、彼女はなぜか芸能界活動の謹慎を強いられたが、この不倫で謹慎という文化こそ日本の専売特許のように思えるが、誰が誰と不倫しようがしまいがどうでもいいことで、不倫に関わる言葉が合理的な言葉になっているかどうかの点だけは気になる。

 世界中に不倫は存在するのだから、「不倫は日本の文化だ」は合理的な言葉だと言えるだろうか。

 「不倫は日本の文化だ」から、「不倫は男と女の文化だ」と言い直すことによって合理的な言葉となり得るように思える。

 いわば古今東西、どこの国と関係なしに男と女の文化だと。もっと大きく言うと、「人類の文化」だと言える。このように言うことによって、漏れのない整合性を持った全くの合理性を獲ち得ることになるが、どうだろうか。

 尤も「人類の文化」だとしても、社会的タブーとなっているのも事実である。

 だが、男にとっても女にとっても止み難い文化となっていて、多くの男と女がタブーを人跡未踏の地に足を踏み入れるかのような覚悟で踏み越えていく。

 まあ、二度目三度目となると、そうでもないだろうが。

 次に今年の流行語大賞に「政権交代」という言葉が選ばれ、鳩山首相が受賞した。授賞式には出席せずに首相官邸で受賞についての感想を記者団に述べた場面がテレビで流れていた。

 「政権交代が流行っては困りますがね。これは冗談です」

 とか笑いながら言っていた。

 「政権交代が流行る」かどうかは民主党政治の結果責任であって、「政権交代」が一人歩きするわけではない。影が人について回るが如くに時の政権が演ずる諸々の結果について回る。

 いわば今回の政権交代は麻生自民党政権の結果責任として現れた政権交代でもあり、政権交代の主役はどちらかと言うと鳩山首相よりも麻生前首相とも言える。政権交代を提供した最大の功労者として麻生太郎前首相を表彰しなければ片手落ちとなるのではないだろうか。

 鳩山首相の「政権交代が流行っては困ります」の言葉にしても、受賞者が鳩山首相一人で、政権交代提供の最大の功労者たる麻生太郎前首相を受賞者の一人に加えなかったことも、いささか合理性に欠いていると思うのだが、どうだろうか。


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