嘉田県知事の二足のワラジのどこが悪い 頭の悪い批判だ

2012-12-20 06:22:33 | Weblog

 滋賀県知事でありながら、政党「日本未来の党」の代表となっている嘉田由紀子女史の、いわゆる“二足のワラジ”を、滋賀県内4選挙区で当選した新議員4人が、当選証書付与式終了後の県庁での共同記者会見で批判したという。

 《【衆院選2012 滋賀】新衆院議員も嘉田知事を批判「県政に支障」》MSN産経/2012.12.20 02:11)


 1区当選自民新人大岡議員「きちんと『二足のわらじ』をはくことができればいいが、はけなければ対応を考えざるをえない」

 2区当選自民元職上野賢一郎議員「県民の安全・安心に対して支障が生じている懸念がある」

 3区当選自民新人武村展英議員「地域の課題については、県政と一体になった要望が必要。支障の出ないようにしてほしい」

 4区当選自民新人武藤貴也議員「党首と知事職の両方辞めるべきだ。あれだけ議席を減らした党首は通常は辞めている。県民の負託を受けて知事になっているのに、選挙中は県政そっちのけで国の課題ばかりに取り組んでいた」

 最初の発言は、二足のワラジを履くことができれば問題はない。

 だが、二番目の発言は「県民の安全・安心に対して支障が生じている懸念がある」と言い、二足のわらじを履くことができていないとしている。

 具体的にその支障を指摘、証拠を示して、それ相応の対応を求めるべきだろう。証拠を示しもせずに「懸念がある」とするのは県民を惑わし、嘉田氏に対して悪意ある情報操作に当たる。

 四番目の発言者の頭を疑う。「党首と知事職の両方辞めるべきだ。あれだけ議席を減らした党首は通常は辞めている」と言っているが、辞める辞めないは本人か日本未来の党の落選議員と当選議員、さらには支持者である一般国民が決めることだろう。本人が辞めたいと言っても、周囲が遺留する場合もあるし、立ち上げたばかりの党という関係で、早々に撤退する訳にはいかないといった事情もある。

 政権担当政党ではない代表人事に他党の他人が関与すべき問題ではない。

 四番目はさらに「県民の負託を受けて知事になっているのに、選挙中は県政そっちのけで国の課題ばかりに取り組んでいた」とお門違いの批判を頭悪くも展開しているが、県政であろうと国政であろうと、政治はチームプレーであり、チームプレーであることの考えを全く忘却している。

 そっちのけであっても、嘉田女史以外のチームメンバーが嘉田氏の指示の下、遺漏なく県政を見ていたはずである。情報の遣り取りは携帯電話もあるし、小型のノートパソコンを常時手放さないでいるはずであるから、如何ようにも可能とすることができる。

 批判は合理的な判断能力を欠いているとしか言いようがない。簡単に言うと、頭が狂っているということになる。

 例え独裁者が支配する独裁国家であっても、政治がチームプレーであることに変りはなく、独裁者の意(=命令・指示)を汲み、独裁者の独裁体制維持に都合のいい権益死守に従ってチームが決めたことを国民に反対を許さず、彼らの人権まで無視して強制することが独裁政治ということであって、あくまでもチームプレーに基づいている。決して独裁者一人が何から何まで決めているわけではない。

 嘉田代表は、あるいは嘉田県知事であっても同じだが、県政の場合は県民の要望を踏まえた自らがあるべきとする県政の姿をチームのメンバーと共に構築、実行に移して具体化し、成果を上げることを役目とし、国政の場合は政権を担当しているわけではないから、自らがあるべきとする国政の姿をチームのメンバーと共に構築、国民に訴えて支持者を一人でも多く集めて、支持の広がりを次の国政選挙で問い、ゆくゆくは国政を担当することで自身があるべきとする国の姿を国民の利益に添う形で実現することを希望的役目としているはずである。

 いずれの役目も自らがあるべきとする姿の実現に向けた執念が動機となっているはずである。

 要は結果を見て、それぞれに不都合が生じているなら、具体的な証拠を挙げて、初めて進批判する資格が生じる。結果を見ないうちの“二足のワラジ”批判は不当であるばかりか、頭の悪い人間のすることだと言わざるを得ない。

 こうもアタマが悪いのでは、彼ら自身こそ、議員の資格はなく、早々に当選辞退をすべきであろう。

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いじめ防止対策プログラム

2012-12-19 05:28:50 | Weblog

 前々からいじめはどうしたら防ぐことができるか考えていたが、二段構えの『いじめ防止対策プログラム』なるものをつくってみた。一つは集団競技を行なう。一つは教育を通して。

 実際に役立つ対策なのかどうかは分からない。だが、集団競技の実施に関しては学校社会という集団社会に於いてクラスのすべての生徒、あるいは各学年ごとのすべての生徒、さらには一つの学校のすべての生徒の参加の元、各チームごとに協力し合い、工夫し合って能力の低い生徒を補いつつ総合力を高める努力をして勝ったり負けたりの競技を行うことは心の通わせ合いを伴う協調精神の育みを通して社会意識の涵養につながっていくのではないかと思う。

 役に立たないということなら論外だが、プログラムとしては役に立つように見えても、プログラムの実行の段階で実際に学校現場で活用できるかどうかにかかってくる。何しろ学校の先生にしても暗記教育で育ったせいで文科省という上からの指示に右へ倣えで一斉に従う習性を行動性としている代償として自ら考えて臨機応変に工夫していく創造性を欠いていることから、プログラムを生かす形で活用できるかどうかは分からない。

 よく日本の政治・行政は中央集権体制だと言われるが、それを許しているのは日本人の精神そのもの、思考性・行動性そのものが上に従う中央集権体制となっていて、国家構造と精神が相互に呼応し合っているからであろう。

 いわば多くの日本人が心の中に中央集権体制を抱えているということである。結果として教師にしても文科省の指示に機械的に従うことになる。

 今後日本の政治を担うことになった自民党の2012年総選挙政策プログラムはいじめに関して次のように記述している。

危機的状況に陥ったわが国の「教育」を立て直します。

●いじめの隠ぺいなど、法令違反や児童生徒の「教育を受ける権利」の侵害に対しては、公教育の最終責任者たる国が責任を果たせるよう改革します。

●今すぐできる対策(いじめと犯罪をはっきり区別、道徳教育の徹底、出席停止処分など)を断行するとともに、「いじめ防止対策基本法」を成立させ、統合的ないじめ対策を行います。〉・・・・・

 「いじめ防止対策基本法」は法律を手段とした規制と強制以外の何ものでもなく、他の法律がその効用性を教えてくれる。どのように罰則を強化した法律であっても、犯罪はなくならない。

 「道徳教育」はいじめを未然に防ぐ方法として考えたのだろうが、道徳とか倫理とかは人間が他者との関係や自身が置かれている環境に応じて如何ようにも相対化の試練に出会うことになる。

 他者との関係では例えば盗みは悪いことだという道徳観を身につけている児童・生徒が自分が怖いと思い、自身の考えや行動を支配している同級生等に何々を盗んでこいと言われて、盗んでこない場合の懲罰を恐れて盗んでくる場合、身につけていた道徳観は役に立たないが、対等な関係にある上に盗みは悪いことだという同じ道徳観を持った同級生との人間関係では盗みを働く事態が生じることもなく、盗みを悪とする自らの道徳観を守ることができるように人間関係に応じた相対化を宿命とする。

 自身が置かれている環境に関しては、その日の食べ物に事欠き、空腹を抱えることになると、それまでは盗みは悪いことだという道徳観を守ってきた人間でも、空腹を満たすためについ盗みを働くことになって、結果として道徳観を相対化させてしまう。

 だが、いずれにしてもどう行動するかは最終的には自身の判断にかかっている。

 但し日本の教育は教師から児童・生徒への一方通行の暗記という強制をメカニズムとし、判断能力を身につける基礎となる自ら考えるというプロセスを介在させていないこと自体が判断の相対化、あるい思考の相対化の訓練を欠くことになり、相対化の学びの機会を失わせている。

 そのように相対化の訓練を受けていない学校の教室で人間関係や環境に応じて道徳観や倫理観が相対化され得ることを教えたとしても、児童・生徒一人ひとりが相対化の教えを吸収する土壌を持たないがゆえに身につかず、ああしなさい、こうしなさい、これはしてはいけない、あれはしてはいけないといった暗記形式に則った指示・命令の形での機械的な知識・情報の伝達となって、単なる言葉の伝達で終わりかねない。

 勝ったり負けたりの集団競技は相対化を学ぶ機会ともなり得ると考えている。

 では、いじめ防止対策プログラムに入る。

1.運動競技を通した力関係の固定化の相対化

2.自己実現を問う教育
* * * * * * * *
1.運動競技を通した力関係の固定化の相対化

 ☆いじめの発生理由

 いじめとはいじめっ子がいじめる子に対して心理的精神性に於いても身体的物理性に於いても地位的な上下の力関係を築き、この関係を巧みに利用していじめという攻撃を仕掛けていじめる子を精神的にも身体的にも言いなりに支配し、言いなりに従属させることを言い、いじめが一度や二度で終わらない継続的な習慣性を持つのはそのような力関係が両者間に固定化されることになるからであるはずである。

 当然、いじめを防止するためにはこの上下の力関係を相対化させる力を加えて、力関係の固定化を回避する方法が有効ということになる。

 上下の力関係は生徒のすべての能力を上下の価値観で計ることから発生し、そのことが往々にして学校社会が求める能力で上下関係に於ける上の優越的地位を築くことができない、いわば下の劣等的地位に取り残された生徒がいじめを手段としていじめる子を下の関係に置き、逆に自身を上の優越的地位に置くことで、学校社会が求める能力では満足させることができない、下に対する上の優越的地位確保の欲求を充足させる歪んだ権利意識が働く余地をつくることになる。

 いじめが学校社会に於ける上下の価値観、上下の力関係を代償させる価値行為であり、例えそれが歪んだ権利意識からのものであっても、上の優越的地位を築くことができる関係上、いじめっ子にとってはいじめは学校社会に於ける大いなる自己活躍であり、自己の力を証明する大いなる自己存在証明でもあり、大いなる自己実現ということになる。

 いじめが多くの場合、際限もなくエスカレートする理由はいじめが自己活躍であり、大いなる自己存在証明、大いなる自己実現となっていることからきているからであろう。

 ☆具体的方法

 従来の方法とは異なった各種運動競技を利用する。

 先ずクラスごとに全生徒の正確な身体測定と体力測定を行なう。身長・体重・走力・肺活量・跳躍力等々を計測し、記録しておく。

 1.200メートル~400メートルリレー走

 イ.小中高校の各生徒の50メートル~100メートル走のタイムを計測して、各チームの走力がほぼ均等となるように平均値を取った男女混合のリレーチームを各クラスごとに編成する。

 ロ.小学生は50メートルずつ4人走って200メートルリレー、中学生以上は100メートルずつ4人走って400メートルリレーとする。

 ハ.各クラスで8チームか9チームできるはず。8チームの場合は2チームずつの4回のリレー競技とする。9チームの場合は2チームづつが3回、最後に3チームが走る競技とする。

 ニ.1位として残った4チームがそれぞれの記録に関係なしに最終的に1位を決するリレーを行なう。

 理由は、各チームの平均タイムがそれ程の違いがないためにバトンタッチの技術やコーナーの回り方で勝敗が違ってくるはずで、早いチームと早くないチームの固定化を防ぐことができる。

 この固定化の回避は優劣上下の力関係の固定化の防止につながる。

 ホ.教師はリレーをビデオカメラで撮影する。

 ヘ.生徒は競技の前にバトンタッチの練習やコーナーの周り方を練習したり研究したりする。2回目以降、教師撮影のビデオを各チームごとに参考にする。

 バトンタッチの下手な生徒は先頭を走るとか、緊張しやすい生徒は後ろに回すとか、生徒同士が話し合って、工夫させる。

 以上の方法は研究心や協調心を養う契機となるはずである。

 ト.常勝チームを作らないようにする。これも上下の力関係の固定化を相対化する方法。常勝チームができたなら、メンバーを入れ替える。負けることを覚えることも社会に出たときに役立つを理由とする。

 チ.競技の時間は学校休日の土曜日を利用する。

 リ.なるべくメンバーの入れ替えではなく、メンバーが力を合わせ、協力し合ったお互いの工夫や勉強等の努力によって勝ったり負けたりの状況をつくり出すことができたとき、勝ち負けによって力関係が上下に固定化する状況を自ずと防いで力関係の相対化につながっていく。

 ル.学校は大学の陸上競技部に席を置く選手等を無料奉仕で招いて、「どうしたら早く走れるか」を講義させるのも、各チームの生徒同士の協調精神を養うに役立つはずである。

 2.騎馬戦

 イ.クラスを男女別に各身体能力測定値の合計の平均値がほぼ等しくなるように4人ずつのチーム編成を行なう。身体的能力がほぼ等しい、力の接近したチームが編成されることになる。

 ロ.従来の騎馬戦は運動会等で学年ごとか全校で紅組と白組2チームに分かれて戦うが、各クラスで2チームずつ敵味方に分かれて戦い、勝ったチームが勝ったチーム同士で戦っていき、最後に1位チームを決するトーナメント方式とする。

 ロ.教師が全ての戦いをビデオに撮って、生徒の戦い方(=戦術)の研究材料とするのはリレーと同じ。

 3.綱引き

 イ.体重、握力、走力(脚の力)等の合計を平均化した、力の接近したチーム編成とする。

 ロ.以下は他の競技と同じ方式を取る。

 以上の競技を時には学年別のトーナメント戦で行う。

 また、他の競技への応用も教師や生徒が相談して決めて、競技の幅を広げるのも工夫の一つとなる。

 力関係固定化の相対化を通した教育的効用

 1.教師は戦いの前に、「お互いのチームは力が接近しているから、戦い方の工夫や、研究、戦意の持ち方によって勝敗は勝ったり、負けたりするはずだ。今日負けても、努力次第、力の合わせ方次第で明日は勝つかもしれない。例え明日また負けても、勝つ可能性が全然ないわけではないのだから、決して諦めないで、戦い方を工夫したりして、少なくとも毎日、今日こそ勝つぞの気持で戦って欲しい」と可能性への挑戦と努力を促し、勝ったり負けたりの状況をつくり出すよう努める。

 また生徒同士の戦い方の様々な工夫の議論は議論すること・思考することの習慣付けに役立つ。

 さらに勝ちに行く姿勢を植えつけることができたとき、チャレンジ精神の涵養と努力姿勢の習慣化として現れる。

 2.競う競技の種目によってチーム編成が違ってくるから、異なる人間関係が経験可能となる。異なる人間関係の構築も上下の力関係の固定化回避に役立つはず。

 異なる人間関係の豊富な経験は社会性や社会意識の学びにつながっていくはず。

 3.いくら身体的能力が劣った児童・生徒であっても、チームの一員である以上、協力し、工夫し合って劣る身体能力を他のメンバーがカバーしていかなければ、チーム全体の力を維持できないことになる。

 また、競技を通して身体能力が優れた児童・生徒であっても、自分一人であるよりも、多くの人との支え合いによってより大きな力を発揮できることを体感するだろうから、教師はそのことを自覚させ、様々な喩えを持ち出して一般社会にあっても人間は一人で生きることはできない、多くの人との支え合いによって社会の生きものとして成り立つことを教える。

 このような学びが自ずとチーム意識の植え付けにつながるようにする。チーム意識の植え付けはまた、協調精神を養い、社会性や社会意識の学びにも貢献するはずである。

 4.以上の状況を醸成するには生徒自身の努力だけではなく、何よりも教師自身の努力にかかっていることを教師は自覚しなければならない。

* * * * * * * *
2.自己実現を問う教育

 ☆自己実現の意味

 インターネット上に「個人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」と説明しているが、ここでは、「可能性としてある望ましい自己の在り様を実現すること」の意味として使う。

 いじめはいじめを通して自己を優越的な上の地位に置く一種の自己実現だと書いた。そのような自己実現を望ましい自己の在り様としたのである。

 自己の在り様として望ましくないと自覚していたなら、いじめは起きない。

 当然、いじめは自己可能性の追求であり、成功した可能性の実現は自己活躍の証明となり、その証明は自己存在証明そのものとすることになる。

 いじめが自己活躍の主たる手段となり、いじめによって自己存在の証明とし、そこに自己実現を置いているということである。

 ☆将来何になりたいか

 将来何になりたいか、どのような職業人になりたいかは自己可能性が未だ実現していない状態であって、希望的自己実現と言うことができる。

 希望的自己実現は日々に於ける可能性としてある望ましい自己の在り様の自己実現の積み重ねによって達成できる目標であるはずである。

 テストでいい成績を取るのも自己可能性の一つの自己実現であるし、野球少年が日々練習に励んで試合で練習の成果を試し、次第に上達していく過程も日々の自己可能性の自己実現の一つ一つである。

 勉強に励んで、それなりの成績を獲得するのも、成績によって果たす自己実現であって、小中高大学と勉強を続けて、その時々に自己実現を果たしていき、社会に出てサラリーマンとなる、技術者となるのも一つの自己実現である。

 このように日々の自己実現が将来何になりたいか、どのような職業人となりたいのかの希望的自己実現へとつながっていって、その実質を与えて具体化することになる。

 教師は将来的な希望的自己実現はこのような日々の自己可能性の自己実現の積み重ねによって達成できることを自覚させて、日々の努力を疎かにできないことを教えなければならない。

 勿論、将来的な希望的自己実現はテストの成績だけで決まるわけではなく、好きな運動、好きな趣味、好きな遊びに打ち込むことも希望的自己実現の具体化につながっていくことを教える。

 目指していた希望的自己実現と異なっていたとしても、結果的には何らかの自己実現を果たすことになる。

 それがどのような自己実現であったとしても、社会の一員として実現させた自己を懸命に生きなければならない社会的責任を負う。

 万引きの成功を自らの自己実現とする場合もある。万引きによって自己可能性を実現させたのである。反省もなしに万引きを続けた場合、将来的にどのような希望的自己実現が期待できるだろうか。ある日突然反省して、二度と人の物は盗むまいと心に決めて日々を過ごすのも自己可能性の一つの自己実現であって、そのような自己実現からは将来的な自己実現は一個の社会人としての自己実現が期待できることになる。

 逆に反省もなく万引きを続けて、万引きの成功で日々の自己可能性の自己実現を図っている者は将来的には万引きだけではなく、人を誤魔化してカネや物をせしめることで自己可能性としての自己実現を図るようになり、一般的な社会人としてのしっかりとした自己実現は望むことができないことになる。

 ☆自己実現を問う具体的教育方法

 教師は「毎朝繰返すお早うの挨拶だと思って聞いて貰いたい」とでも前置きして、小学校は朝の会、中高は朝のホームルームの時間に自己実現と自己活躍との関係、さらに自己存在証明との関係を説明した上で、将来何になりたいかの希望的自己実現は日々の自己可能性の自己実現の積み重ねによって決まっていくこと、当然、今日一日の自己実現が疎かにできないことを繰返し伝える。

 自己実現という言葉が小学生には難しく、理解できなくても、「今は理解できなくても、いつかは理解できるようになる」と言って、可能な限り噛み砕いた言葉で説明を繰返すことによって児童は頭に記憶し、段々と理解していくものである。

 小学校は帰りの会、中高は帰りのホームルームの時間に、教師は具体的な内容は聞かずに児童・生徒が「今日一日、どのような自己実現を果たしたのか」の言葉を投げかける。

 「今日一日の自己実現を疎かにしなかったか。いじめで今日一日の自己実現を図った生徒はいないだろうな。いじめを自己活躍の手段とし、そのことを自己存在証明とする。

 自己の存在をいじめで証明するなんて、悲しい事実としなければ。

 いじめられる子はいじめで自己の存在を証明しなければならなくなる。そのようなことは誰にとっても耐え難いことだから、その耐え難さに我慢できなくなったとき、突発的に自殺を選んでしまうことになる」

 いじめを自己実現とした生徒はいないかと手を上げさせたり、名乗らせたりするのではなく、それぞれの児童・生徒の自己省察心に直接問いかけて、自身で考え、判断させる方法を取る。

 いじめが発覚してから、単にいじめはいけません、相手の心を傷つけることです、悲しませてはいけませんといった決まりきったスローガンのように繰返すよりも、自己省察心に日々繰返し訴えることの方が言葉としての力を持つはずである。

 以上、役に立つかどうかは他者判斷に任せたいと思う。

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安倍晋三の尖閣「交渉の余地ない」は民主党の「領土問題は存在しない」と同じ逃げの姿勢

2012-12-18 05:06:33 | Weblog

 安倍晋三自民党総裁が衆院選勝利を受け、自民党政権発足に向けて昨日12月17日(2012年)、東京・永田町自民党本部で記者会見を行い、日中間で領土問題に発展している尖閣諸島について次のように発言している。

 安倍晋三「尖閣は日本固有の領土であり、国際的にも国際法的にも日本は尖閣を所有し、実効支配をしている。交渉の余地はない。この問題で、中国国内で日系企業を襲撃したり、日本人に危害を加えるのは国際的なルールに反している。戦略的互恵関係に反しているということを、中国側に強く訴えていく必要がある」(MSN産経

 「尖閣は日本固有の領土であり、国際的にも国際法的にも日本は尖閣を所有し、実効支配をしている」は民主党政権が発言してきた「尖閣は日本固有の領土であり、歴史的にも国際法上も日本の領土である」と全く同じ趣旨であろう。

 だが、この文言には既に耳にタコが出来、聞き飽きている。
 
 なぜ耳にタコが出来、聞き飽きることになったのかはわざわざ断るまでもなく、日本側が言うだけで終わっているからだ。

 肝心なことは民主党政権の「尖閣は日本固有の領土であり、歴史的にも国際法上も日本の領土である」であろうと、安倍晋三の少し言葉を違えただけの「尖閣は日本固有の領土であり、国際的にも国際法的にも日本は尖閣を所有し、実効支配をしている」であろうと、肝心要なことはこの事実を中国に認めさせることであるはずである。

 認めさせることによって、尖閣を巡る日中両国間の経済的・政治的衝突の幕引きを図ることができ、それが誰の発言であっても、「日本固有の領土である」という言葉が単に実効性もなく言うだけで終わらない、言葉通りの実体を厳格に持たせることができる。

 要するに中国に通じない言葉を繰返しているに過ぎない。

 これを以て外交と言えるだろうか。

 相手に対して通じる言葉とし、事実を認めさせることが外交力であって、当然、外交の場で直接的に発揮しなければならない能力であるはずだが、民主党は「尖閣に領土問題は存在しない」の主張を楯に交渉せずの姿勢を取り、結果として相手に通じない「尖閣は日本固有の領土であり、歴史的にも国際法上も日本の領土である」をバカの一つ覚えのように繰返すことになり、聞く者をして耳にタコを拵えさせることになる。

 このような有様だから、民主党政権時代、尖閣を間に挟んだ日中の経済的・政治的衝突は完全決着を見ることなく繰返されることになった。

 外交の場で強敵中国を相手に通じる言葉を創り出して、それを縦横に駆使して事実を認めさせるのではなく、逆に外交の場での直接的な交渉を避けるのは逃げの姿勢以外の何ものでもないはずだ。

 安倍晋三は尖閣問題でタカ派の名前通りに強い態度で臨むと見られていた。ところが、「尖閣は日本固有の領土であり、国際的にも国際法的にも日本は尖閣を所有し、実効支配をしている」から、「交渉の余地はない」と、民主党政権と同じく日本の固有の領土であるという事実を相手に通じる言葉を創造し、認めさせる外交(=交渉)の場は設けないとしている。 

 これでは口程にもなく民主党政権と同じ逃げの姿勢を見せたことになる。

 野田政権の尖閣国有化以降、中国は強硬な姿勢を取っている。安倍新政権が中国に対して遠巻きにした形で、「中国国内で日系企業を襲撃したり、日本人に危害を加えるのは国際的なルールに反している。戦略的互恵関係に反しているということを、中国側に強く訴え」たとしても、尖閣諸島が日本固有の領土であるという事実を相手に通じさせ、認めさせる言葉とはならず、今後とも様々な衝突を引きずることになるに違いない。

 タカ派とは名前ばかりで、安倍政権には尖閣問題の完全決着は期待できないことになる。

 
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橋下徹の首相指名投票方針に見る政党の存在理由無視の危険性

2012-12-17 06:42:43 | Weblog



 ――以後も画像参考にすれば、日本のあるべき姿の指針となると思われる――

 《橋下氏“自民対抗の政治勢力結集を”》NHK NEWS WEB/2012年12月17日 1時7分)



 この記事には書いてないが、他の記事を参考にすると、昨日12月16日(2012年)午後11時の大阪市内日本維新の会開票センター共同記者会見での発言らしい。

 橋下徹日本維新の会代表代行「少数政党が独善的な振る舞いで、何でも反対するような対応をやってはいけない。これだけ自民党に期待が寄せられた以上、維新の会が単独で総理大臣候補を出すというのは、民主主義のイロハから言ってもおかしい。

 小選挙区制は健全なる2大政党制を目指したもので、複数政党が乱立するのはよくない。次の自民党と公明党の政権に緊張感を持たせるためにも、考え方が同じ人たちが一緒になってひとつの勢力を作っていかなければならない。国民の選択肢として、政権交代が可能となる勢力を作っていくのがわれわれの使命だ」

 最初の発言は、国民の多くが自民党に投票したのだから、「民主主義のイロハから言って」首相指名選挙では「民主主義のイロハから言って」自民党の安倍総裁に投票すると言っている。

 後の発言は、政策の考え方が一致する議員を糾合して自公政権に対抗し得る一大勢力の結成を図る方針の宣言となっている。

 後者は橋下徹の日本維新の会の政策と自公政権の政策の違いを前提とした方針ということになる。

 政策の違いは存在理由の違いを示すはずだ。国民は政策の違いによって政党に対してそれぞれに存在理由を見い出す。
 
 日本維新の会と自公政権が政策の違いに応じた存在理由の違いを抱えていながら、存在理由の違いを無視して自民党に国民の多くが投票したのだから、首相指名投票では安倍自民党総裁に投票するという発想に矛盾はないだろうか。

 自民党ではダメだ、維新の会にその政策の違いから見た存在理由に賛同して投票した有権者が果たして納得するだろうか。

 いわば存在理由に違いがある自民党に対して首相指名を通して与党としての存在理由を認知するという矛盾である。

 確かに第一党ではない自党が推す首相候補が指名される可能性はゼロにも関わらず誰かが首相として立候補するのは形式・儀式の類い以外の何ものでもなく、滑稽に過ぎない、「民主主義のイロハから言ってもおかしい」ということなら、白紙投票とすれば、存在理由の違いの提示と両立させることができるはずだ。

 そういった合理的な発想はないのだろうか。

 維新の会代表の石原慎太郎は橋下首相指名論に、「政党の体をなさない。党首を出すことが政党の沽券(こけん)だ」(MSN産経)と反対の姿勢を示しているそうだが、スタート地点に於ける政党の存在理由をそこに置いているからだろう。

 あとの話し合いで安倍首相指名となるのかどうなのか不明だが、例え一度でも政党の存在理由を蔑ろにする橋本徹の姿勢は政党を一方で束ねる政治家として愚かしく、危険に見える。

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審判の日/『日本未来の党』の子ども手当年間31万円は可能、決してバラマキではない

2012-12-16 07:39:27 | Weblog



 ――画像の指示を参考に投票すれば、ほぼ間違いない審判に対する判断が可能となると思われる――

 『日本未来の党』の子ども手当年間31万円支給をバラマキだと喧伝されているが、一般会計と特別会計を併せた国家予算約200兆円の無駄を省くことと予算組替えで、終了を先延ばしできる事業は複数年度跨がせて各年度ごとの予算を縮小すれば可能である。

 例えば新幹線の完成を1年伸ばすとか、2年伸ばすとかする。例え新幹線が早く完成しても、停車駅地域の経済効果は見込めるが、停車駅でない地域の経済活性は取り残されて、地方に於いても地域格差が生じる現象を見ることになる。経済が十分に回復してからの新幹線完成、開通という手順を踏めば、停車駅とならない地域もそれ相応の経済的刺激を見込むことができるはず。

 元々日本の官僚組織はタテ割りのムダ体質となっている。タテ割り自体がムダをつくり出す体制であって、ムダの温床ということができる。

 ムダ削減と予算組み換えで20兆や30兆の捻出は不可能ではない。

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国家主義者安倍晋三の一国を任せることができない頭の程度、その認識能力

2012-12-15 10:18:51 | Weblog

 ――すべては政治がしっかりしているかどうかにかかっている――
 
 選挙だから、マニフェストの冒頭の挨拶で、「『責任ある政治』、『信頼できる政治』、『安定した政治』を、早急に取り戻さなければなりません」と約束し、政策に関しては、「何々します」、「何々します」と約束の大盤振舞いをしているが、安倍晋三自身の人間性の本質は国民よりも国家を優先させる国家主義者であって、当然、この国民よりも国家優先の思想は今後も安倍政治に反映することになる。

 安倍晋三は自著『この国を守る決意』に、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」

 この言葉に安倍晋三が国家主義者であることが集約されている。

 同じ安倍著『美しい国へ』にも特攻隊を美化した箇所に同趣旨の表現が存在する。

 「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦に向かい何を思い、何といって、散っていったのだろうか。かれらの気持を次のように語る人は多い。

 《かれらは、この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために――それは、父母であり、兄弟姉妹であり、友人であり、恋人であった。そしてその愛しきものが住まう、日本であり、郷土であった。彼らはそれを守るために出撃していったのだ》

 私もそう思う。だが他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠にしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。彼らは「公」の場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつ、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。

 今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている。だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきたのだろうか。国家のために進んで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。

 たしかに自分の命は大切なものである。しかし、ときにはそれを投げ打っても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。〉・・・・・・

 薄っぺらで浅はかなご都合主義に全編彩られている。

 「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」という言葉にしても、「彼らは『公』の場で発する言葉と、『私』の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつ、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」という言葉にしても、「今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている」という言葉にしても、「自分の命は大切なものである。しかし、ときにはそれを投げ打っても守るべき価値が存在する」という言葉にしても、国民を国家に従属させて、国家を国民よりも優先させる国家主義の思想を背景として語っている。

 確かに戦前、命を投げ打った兵士はたくさんいた。特攻隊兵士のみならず、大日本帝国軍隊兵士も加えなければならないだろう。ガダルカナル島攻防戦で、東部ニューギニア戦線で、ミッドウェー海戦で、硫黄島の戦いで、沖縄戦で、その他等々で、230万人(旧厚生省発表)の兵士・軍属が命を投げ打った。

 外地一般邦人約30万人、空襲等の国内戦災死者約50万人にしても、国に命を投げ打たされたようなものだろう。

 だが、「命を投げ打った」と言えば、聞こえはよいが、実際には230万人の軍人・軍属の命の投げ打ちを以てしても国を守ることはできなかったのである。

 一般国民80万人の犠牲を以てしても、国を守ることはできなかった。

 軍人や軍属、一般国民を国を守る役割対象とする(「道具とする」言った方が適切な表現となるかもしれない)こと自体が国家主義の思想そのもので、ここに安倍晋三という政治家の頭の程度と本質が現れている。

 国家を守る役割対象は国家権力(=国の政治)であるはずである。国家権力(=国の政治)が国家の構成要素である主権・領土・国民を守る役割を担わされている。勿論、そのためには国民の協力が必要となる。

 だが、国をどう守るか、何を以て守るかは国家権力(=国の政治)が決めることである。どういう方向性の政治を選択し、どういう戦略・戦術の外交を使い、国の富(=経済)をどう築いて国民生活を豊かにし、国力のバックアップとするのか、戦前に於いても戦後に於いても国家権力(=国の政治)にかかっているはずである。

 特に戦後は全面的に国民の負託を受けるという手続きを経ている。

 戦前の国家権力(=国の政治)の場合、同じく国家を守る役割を担わされていながら、その国家(=主権・領土・国民)を守ることができなかった。その最たる原因は国の政治が軍部のコントロールを受けるようになり、軍部の暴走を許すことになったからだろう。

 このことは国を守るには政治がしっかりしているかどうかにかかっていることを何よりも証明している。現在の活力が低迷した日本の国力にしても政治のだらしのなさ・低迷がそのまま反映して国を守ることができなくなっている一つの完成図であるはずである。

 安部晋三は特攻隊兵士が突撃に当たって「この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた」と的外れなことを書いているが、日本が平和で豊かな国になるもならないも偏に政治にかかっているであって、兵士の行動は間接的には国の政治、直接的には当時の政治をコントロールしていた軍部に従った行動に過ぎない。

 また、現在の政治家は「国民の生命・財産を守る」とよく口にするが、このような発言も国の政治が国を守る役割を担わされていることの間接的表現であるはずである。 

 当然、政治を国を守る役割対象に規定すべきを安倍晋三は、国家優先・国民従属の国家主義者らしいと言えば国家主義者らしいと言えるのだが、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」などと時代錯誤にも国民を国を守る役割対象に位置づけようとしている。

 安倍晋三は自衛隊を国防軍に組織替えして、国民を一人でも多くそこにぶち込み、国を守る役割を担わせようとしているが、国を守るのは第一義的にはあくまでも国の政治であって、政治がしっかりしていなければ、戦前のように多くの兵士が国を守るどころか、精神論だけで成り立たせた愚かしい政治と軍部の犠牲となって犬死を押し付けられることになる。

 国を守る役割対象を国民に置くのか、国の政治に置くのか、安倍晋三はこういったごく当たり前のことも理解できない。このような頭の程度、その認識能力からして、どの程度の政治ができるか、推して知るべし。

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安倍自民党の勝たせ過ぎは良くない 「原発安全神話」ならぬ「政治安全神話」の過ちを犯すことになる

2012-12-14 11:51:42 | Weblog

 この世に絶対は存在しない。政治にしても絶対ではない。安倍政治に於いても同じである。政治が絶対でないにも関わらず、数の絶対を与えた場合、絶対でない政治を絶対とすることになる。

 これは「政治安全神話」の打ち立てを行なうに等しい。原発が絶対安全ではないにも関わらず、「原発安全神話」を打ち立て、その安全神話の上にアグラをかいて必要な危機管理対策を疎かにしてきた。そのツケが福島原発事故で露わになった。

 絶対ではない政治を絶対とさせた場合、言ってみれば、大政翼賛会状況を作る出すことに手を貸すことになる。
 
 絶対とさせないために程々の議席で収まるよう、有権者は配慮すべきである。

 安倍晋三が打ち出した「無制限金融緩和」という大胆な金融政策を例に取って説明してみる。

 11月17日(2012年)熊本市内の講演。

 安倍晋三「やるべき公共投資をやり、建設国債をできれば日銀に全額買ってもらう。

 物価目標を達成するため、日銀は無制限にお札を刷って、資金供給を増やすべきだ」(MSN産経

 以降、同じような発言を繰返している。

 安倍晋三「無制限金融緩和」とは、赤字として残る紙切れの建設国債を買わせて、日銀からカネを引き出すのも、日銀が「無制限にお札を刷って、資金供給を増やす」のも、市中で無制限に使うカネに困らないようにしようという政策であろう。

 このように日銀が通貨供給量を大幅に増加させた場合、インフレが発生、物価が高くなって、商店や最終的には企業の利益を上昇させる。

 だが、日銀がいくら通貨供給量を無制限に増加させたとしても、直接自分の懐に入ってくるわけではないカネは消費者にとって宝の持ち腐れでしかなく、消費者自身の給与が増えて、モノが買えるようにならなければ、需要は増えないことになり、個人消費が伸びなければ、企業の利益も上がらず、設備投資等の民間部門の資金需要の伸びも期待できないことになり、デフレはデフレのまま続いて、商店や企業は安く売って満足には利益が生じない経営状態が続く。

 商店や企業の利益が生じなければ、従業員の給料を上げることができず、モノを買うカネも出てこない、結果モノが売れない悪循環が続くことになる。

 ましてや2014年に消費税増税が待ち構えている。収入が増えない中で増税に備えて国民の多くが財布の紐を締めるリスク回避行動に出た場合、なおさらにモノが売れず、企業の設備投資のカネとしても使われないことになって、無制限な金融緩和策だと言って日銀に放出させたカネは使われないカネとして残りかねない。

 だから、このような事態を恐れて安倍晋三は12月9日のフジテレビの報道番組で、消費税増税を3党合意していながら、増税の態度を明確にしなかったのだろう。

 安倍晋三「来年4~6月の経済の動向を見ながら判断する。その数値が出るのは8月だから、それを受けて秋に判断する」(時事ドットコム

 同じ12月9日のNHK報道番組。

 安倍晋三「来年の4月から6月の経済指標を見ながら、来年の秋に消費税率を引き上げるかどうか判断する。自民・公明両党で政権をとって景気を回復させ、デフレから脱却して円高を是正し、消費税を上げていきたい」(NHK NEWS WEB

 消費税増税法附則第18条、いわゆる景気条項が、「消費税率の引上げに当たっての措置」として、「経済状況を好転させることを条件として実施するため、物価が持続的に下落する状況からの脱却及び経済の活性化に向けて、平成23年度から平成32年度までの平均において名目の経済成長率で3パーセント程度かつ実質の経済成長率で2パーセント程度を目指した望ましい経済成長の在り方に早期に近づけるための総合的な施策の実施その他の必要な措置を講ずる」と結果ではなく、あくまでも目標としているのに対して、安倍発言は「景気指標」に現れる景気の結果で判断すると、いわば景気が実質的に良くならなければ上げないという趣旨の、景気条項にも3党合意にも矛盾した発言となっている。

 この矛盾は消費税増税前後に景気が悪化する前例に習ったものであろう。

 要するに安倍晋三の「無制限金融緩和」にしても絶対ではないということである。

 また、1090年代中盤の経済低迷期以降、日銀は基本的に金融緩和策を取り、さらに進んで1999年2月にゼロ金利政策を採用、当時としては積極的な金融緩和策の実施に踏み込んだものの、モノが売れず、民間部門の資金需要は伸びなかったとする説がWeb記事やインターネット上の主張からも数多く見受けることができる。

 このことも安倍晋三の「無制限金融緩和」が絶対ではないことを証明している。

 では、自信たっぷりに発言している公共投資にしても、果たして絶対なのか見てみる。

 建設国債を日銀に全額買わせて捻り出したカネは政策的に公共工事をつくり出せば、使うに困ることにならないだろうが、いつかは返済しなければならない赤字国債として残る。

 かつては公共工事で道路を造れば、それが政治家の地元利益誘導からの経済効果を無視した公共工事でなければ、そこに物流や街の活性化が生じて経済効果を継続的に生んでいったが、道路や橋といったインフラ(社会基盤)やインフラに応じた物流が成熟した日本社会では企業活動の活発化を前提としない新規の道路や橋の建設はかつてと同じようような経済効果を継続的に引き出すことはできないはずだ。

 いわば優先順位は公共事業よりも企業活動の活発化による景気回復が先だということになる。

 自民党は公共事業に10年間で200兆円を投資する「国土強靱化策」を主張、公明党は10年間で100兆円規模のインフラ整備策「防災・減災ニューディール」の推進を主張、共に東日本大震災や直近では笹子トンネルの天井崩落事故を教訓にした既設公共施設の事前防災事業を主張している。

 12月7日の愛媛県鬼北町街頭演説。

 安倍晋三「国が率先してお金を使い、公共投資をしていく。やるべき公共投資はたくさんある。(笹子トンネル事故に触れて)耐用年数を超えたトンネルや橋や道路、しっかりと補強していく」(YOMIURI ONLINE

 12月12日の広島市街頭演説。

 山口公明党代表「きのう東日本大震災の余震と見られる地震があり、南海トラフ付近で起きる巨大地震や首都直下地震も懸念されている。老朽化した橋やトンネルなどを改修し、災害に耐えられる強いものに替えていくべきだ。野田総理大臣は『公共事業はバラマキだ』と言うが、命を守る防災・減災対策をやらなくてもいいのか」(NHK NEWS WEB)――

 だが、既設の社会基盤に対する公共工事は経済効果が既に固定化していて、工事が終了すれば工事自体が生み出していた経済効果も工事と共に終わって継続性がなく、赤字国債がほぼ残ることになりかねない。

 笹子トンネルの天井板をカネをかけて全て撤去して通行の危険を取り去ったとしても、当初は珍しがって通行してみる者もいるだろうが、その撤去工事によって個人消費の継続的な増加や民間需要の伸びが期待できるわけではない。

 防災・減災公共事業では継続的に生み出すことができない経済効果を他の新規公共事業の経済効果か、景気回復よる税収の伸びで補ってプラスとすることができなければ、赤字は減らない。

 他の新規公共事業が企業活動の活発化を前提としなければ継続的な経済効果は望めないということなら、やはり優先順位は景気回復でなければならない。

 そのためには規制緩和や税制改革等を行なうことで企業活動を刺激する必要性を説く識者が数多くいる。

 このことも安倍「無制限金融緩和」が絶対ではないことの証明であろう。

 絶対ではない政治であるにも関わらず、自公に衆議院3分の2以上の議席を与えた場合、参院否決の法案も衆院3分2賛成で再可決・成立可能な「政治安全神話」を打ち立てて政治の全てを絶対とさせることになり、危険極まりないことになる。

 特に安倍晋三は国民よりも国家を優先させる国家主義者であることに注意しなければならない。安倍政治を絶対とさせないためには程々の議席で収まるよう、有権者は配慮すべきである。

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安倍晋三の教科書検定基準見直しは地方分権の流れに反する国家主義的立場からの中央集権の強化に過ぎない

2012-12-13 11:16:01 | Weblog

 2012年衆院選自民党マニフェストには「教育の立て直し」の方法の一項目について次のように記述している。

 〈子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう、教科書検定基準を抜本的に改善し、あわせて近隣諸国条項も見直します。〉――

 時代は地方分権の流れにある。国が検定を手段として教科書内容の決定に介入して大枠を決め、その大枠を地方に一律に強いる教育方法は国家権力による一律的な強制であるというその一点によって中央集権体制の構造を踏襲している。

 検定を用いたこのような教育の中央集権体制は日本の教育が暗記教育となっているからこそ成り立つ一律性であって、この一律性が逆に暗記教育を補強する力となっている。

 暗記教育の構造を取らずに不可能な、日本全国似たような知識・情報を児童・生徒に学ばさせるという一律性である。

 12月12日(2012年)、「日本未来の党」の小沢一郎氏も日本外国特派員協会で講演、自民党の教科書検定の見直しを批判しているそうだが、残念ながら、発言自体を伝えている記事がなかった。

 安倍晋三が「教科書検定基準を抜本的に改善」して、「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書」とすると言っていることは、その方向の内容へと一律性を強化することを意味する。

 国家権力による一律性の強化は国家主義の力学を衝動として初めて可能となる。

 安倍晋三は本質的には国家主義者であるゆえに、知らず知らずのうちに国家主義を発動することになっている。

 文部省のHPから、「教科書検定の意義」と「教科書検定の必要性」を見てみる。

 《検定 3.教科書検定の趣旨》文部省HP)
   
 〈教科書検定の意義

 我が国では、学校教育法により、小・中・高等学校等の教科書について教科書検定制度が採用されています。教科書の検定とは、民間で著作・編集された図書について、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることです。

 教科書に対する国の関与の在り方は、国によって様々ですが(表2参照)、教科書検定制度は、教科書の著作・編集を民間に委ねることにより、著作者の創意工夫に期待するとともに、検定を行うことにより、適切な教科書を確保することをねらいとして設けられているものです。

 教科書検定の必要性
 小・中・高等学校の学校教育においては、国民の教育を受ける権利を実質的に保障するため、全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等の保障、適正な教育内容の維持、教育の中立性の確保などが要請されています。文部科学省においては、このような要請にこたえるため、小・中・高等学校等の教育課程の基準として学習指導要領を定めるとともに、教科の主たる教材として重要な役割を果たしている教科書について検定を実施しています。〉――

 「適切な教科書の確保」はなぜ地方に委ねることができないのだろうか。委ねてこそ、地方分権であろう。

 「教科書検定の必要性」について、「全国的な教育水準の維持向上」「教育の機会均等の保障」「適正な教育内容の維持」「教育の中立性の確保」と要件を挙げているが、全国似たような知識・情報を一律的に詰め込んだ教科書を使って、そのような知識・情報を全国の児童・生徒に一律的に暗記させる、その成果を以って「全国的な教育水準の維持向上」とすることにどれ程の意味があるのだろうか。

 あるいは、「教育の機会均等の保障」だとすることにどれ程の価値があるのだろうか。

 全国的に似たり寄ったりの知識・情報を一律的に暗記させることを以って、「適正な教育内容の維持」とすることができるのだろうか。

 日本全国津々浦々、児童・生徒が洩れなく似た知識・情報を一律的に学ぶことができれば、確かに「教育の中立性の確保」と言うことはできる。

 金太郎飴の金太郎が棒飴の右にも寄らず、左にも寄らず、常に真ん中に位置しているという意味の中立性は確保できる。

 児童・生徒が学ぶべきは教師から与えられる知識・情報を単に暗記して丸のまま自分自身の知識・情報とすることではなく、自分の頭を通して考え、判断して自分なりの知識・情報へと高めていくことであり、そのような姿勢こそが自立性の獲得へとつながっていく。

 自分が学ぶ知識・情報を教師に全面的に頼るのではなく、自分で考えて判断して決めていくことによって知識・情報に関わる自立性が身につく。

 例えそれが知識・情報に関わる自立性であったとしても、そこから始まって他の方面に関わる姿勢でも自ずと自立性を育んでいくはずである。

 だが、全国の教師自身が国家主義的な教育の中央集権体制に飼い馴らされ、国が検定して与える教科書の全国一律的な知識・情報をそのまま「全国的な教育水準の維持向上」とか、「教育の機会均等の保障」とか、あるいは「適正な教育内容の維持」「教育の中立性の確保」等々を理由として児童・生徒に一律的に与えて、一律的に暗記させようとするのでは、児童・生徒に自立性獲得のキッカケを与えないばかりか、教師自身が全国的に一律に自立していない姿を立ち位置としていることになる。

 市町村単位で教師たちが民間の有識者を交えて話し合い、自分たちの責任で検定を経ない教科書を決める自立性を発揮可能とする、教育の国家主義的な中央集権体制から解き放たれたとき、その自立性にしても自ずと児童・生徒にも伝わって、そのことが習慣的となり、自立性確保の扉を開いていくはずである。

 児童・生徒の自己を主体として取るべき態度を決定していく自立性こそが社会意識や創造性を育む。

 暗記教育では社会に従属する姿勢を学ぶことはできても、それが国家主義的な中央集権体制が望む姿ではあっても、主体的な自立性は期待できない。

 自立性と国家主義とは相反する価値観であるのは断るまでもない。国家主義は個人を国家に従属させる構造を取るが、自立性は自我の確立、個人の独立を意味する。

 学ぶべきは自立精神に基づいた社会意識や創造性であるにも関わらず、安倍晋三は国家主義的な中央集権体制を取っている日本の教育になお一層の国家主義の血を注ぎ込み、その中央集権体制を強化しようと目論んでいる。

 「日本の伝統文化」を育むという美名のもと、国家を意識させようとしている。

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歴代自民党政権は少子化対策に無策だった 安倍晋三が首相でも無策は無策として続く

2012-12-12 11:11:42 | Weblog

 米国家情報長官室の分析機関、国家情報評議会が12月10日、2030年までの世界情勢を予測する報告書を公表したという記事。《2030年「覇権国なき世界」=日本核武装のシナリオも-米報告書》時事ドットコム/2012/12/11-09:20)

 報告書は2020年代に中国が米国をしのぐ世界最大の経済大国になる可能性が高いと指摘。但し、「2030年までは米中両国や他の大国を含め、いかなる国も覇権国家たり得ない」と予測。

 〈中国など新興国の台頭により、米国が支配的影響力を持つ「パックス・アメリカーナ(米国による平和)」の時代は急速に終焉(しゅうえん)に向かうと予想。一方で、米国は「2030年時点でも『同等の国の中のリーダー』であり続ける」とし、米国に代わるグローバルパワーの出現と新たな国際秩序の形成はまずないとの認識を示し〉ているという。

 報告書は日本の国力に対するマイナス影響要素として次のように紹介している。

 「急速な高齢化と人口の減少が長期的な成長の機会を著しく蝕みつつある」

 軍事的情勢として米国が孤立主義に陥り、東アジアでの同盟関係を蔑ろにした場合、「幾つかのアジア諸国」が核兵器追求に走る恐れもあると予想。国家評議会報告書監修者のマシュー・バロウズ氏の発言。

 マシュー・バロウズ氏「日本が核武装を決断するシナリオも存在するが、可能性は極めて低い」――

 一部政治権力者が如何に核武装衝動に走ろうと、国民が許さないだろう。

 「急速な高齢化と人口の減少が長期的な成長の機会を著しく蝕みつつある」社会、成長阻害要因をつくり出した元凶は歴代自民党政権である。なぜなら揃いも揃って少子高齢化対策に無為無策だったからだ。

 2005年12月23日の『朝日』朝刊。《人口減 産めぬ現実》 

 先ず記事は厚労省の推計で2005年に生まれた子供の数が死亡者を1万人下回り、政府推計よりも1年早く人口の自然減が始まったと紹介している。

 その主たる要因として、子育てや教育におカネがかかり過ぎる経済的負担、仕事と子育てが時間的に両立困難な事情、育児の過重な心理的・肉体的負担、出産で一旦退職すると、元の職場・元の仕事に戻れず、家計の補助をパートに頼らなければならないといった簡単には出産に踏み切ることのできない現実の壁、出産に対する障害を紹介している。

 最後の例として挙げた、積み上げたキャリアからパートへの職業の転向は出産するなら、そのことを覚悟しなけれがならないということであり、そういう覚悟に迫られる女性が多く存在するということなのだろう。

 〈内閣府の試算では、大卒の女性が退職せずに60歳まで勤務した場合、出産により一旦退職してパートで再就職した場合、障害年金が2億円以上多くなる(国民生活白書)〉と伝えているが、パート覚悟の出産は2億円をフイにする覚悟をも併せてしなければならないことになる。

 女性のキャリア発揮という点でも税収に関係していく国の経済という点でも大いなる損失となるはずだが、損失を簡単に利点に転換することができない程に融通の効かない閉鎖的な日本社会となっている。

 記事は、「30年間、政治は無策」との小見出しを付けて、少子高齢化対策に政治が無為無策であったことを伝えている。

 記事発信の2005年12月23日は小泉政権下(任期2001年4月26日~2006年9月26日)の1日であり、当然、日本の経済に大きく影響するゆえに少子高齢化対策には真正面から向き合っていたはずだ。

 内閣官房長官は2005年10月31日~2006年9月26日まで安倍晋三が務め、総務相は小泉純一郎のブレーン竹中平蔵が務めていた。

 12月22日の閣議後の記者会見。

 竹中平蔵「日本が人口減少社会になっていくのは実は30年前に分かっていた。残念ながら30年間、我々の社会は有効な手段を準備できなかった」

 2005年の30年前とは1975年に当たる。1人の女性が生涯に生む子供の数を近似する指標としての「合計特殊出生率」について「はてなキーワード」が次のように解説している。

 〈日本の合計特殊出生率は、1947年~1949年(昭和22年~24年)の第1次ベビーブームの時は4を超えていたが、1950年代前半には急激に下降し、1956年〈昭和31年〉には2.22になり当時の人口置換水準(人口が増加も減少もしない均衡した状態となる合計特殊出生率の水準)の2.24とほぼ同じになった。

 その後、1966年〈昭和41年〉「ひのえうま」の1.58を除くとほぼ2.1~2で一定の水準を保っていたが、第2次ベビーブームの1971年〈昭和46年〉の2.16を境として長期的な下降傾向に転じた。

 1975年〈昭和50年〉には1.91と2を下回り、1989年〈平成元年〉には昭和41年の「ひのえうま」の1.58を下回る1.57となり、少子化が社会問題として国民に広く認識されるようになり「1.57ショック」という言葉が生まれた。

 1993年〈平成5年〉には1.5、1997年〈平成9年〉には1.4、2003年〈平成15年〉には1.3を下回った。〉――

 要するに合計特殊出生率が2以下の危機的な下落傾向が始まったのは小泉政権下の2005年から遡る「30年前」の1975年からだということである。 

 なぜ有効な手を打てなかったのか。

 竹中平蔵「要因は多岐に亘る。経済、住居、所得の環境、教育のあり方、男女参画のあり方の問題」――

 要因が多岐に亘ろうと亘るまいと、要因自体は判明していたのだから、「30年前に分かっていた」問題に30年間、無為無策だったことに変りはない。

 12月19日政府・与党連絡会議(官邸)

 冬柴公明党幹事長「児童手当の対象者は(公明党が連立を組んだ)」99年は約240万人だったが、今回の制度改正で約1310人まで増えた」

 記事は、〈胸を張った。〉と書いている。

 単に支給対象を増やしたというだけのことに過ぎないことを記事は解説している。

 出生数と合計特出生率を見てみる。

 2004年
 出生数 111万 合計特殊出生率 1.29

 2005年
 出生数 106万 合計特殊出生率 1.26

 2006年
 出生数 109万 合計特出生率 1.32


 2007年
 出生数 109万 合計特殊出生率 1.34

 2008年
 出生数 109万 合計特殊出生率 1.37

 2009年(平成21年)
 出生数 107万 合計特殊出生率1.37


 2010年  
 出生数 107万1304人 合計特殊出生率 1.39

 2011年 
 出生数 105万806人 合計特殊出生率 1.39

 2006年から2008年までのほんの少しの増加傾向が2009年、2010年とほぼ横這いで減り、20011年になると、2万人以上の減少となっている。児童手当支給対象者が約240万人から約1310人まで5倍強大幅に増えた事実に比例して出生数、合計特殊出生率が大幅に伸びている事実はどこにもない。

 また、2011年の人口自然増減数はマイナス20万2260人で5年連続のマイナス、少子高齢化の拡大を示している。

 児童手当支給目的には単に目的額を手渡すだけではなく、幼い子どもを持つ若い女性に時間的、精神的、経済的余裕を与えて新たに子を持つ勇気と機会を与えることに寄与することも含んでいるはずだし、その効果が出たとき、結婚や出産を考えている女性に結婚や出産に対して安心感を与えて立ち向かわせることも目的の一つとしているはずである。

 当然、出生数や合計特殊出生率の増加にまで結びついて大きな影響を与えることができなければ、単にカネを配って、その分生活を楽にしたということだけ終わることになる。

 だが、冬柴は合理的判断能力に欠け、頭が単純にできているから、単に支給対象者が増えたことを以って成果だとすることができる。

 我が安倍晋三官房長官の12月22日の記者会見。

 安倍晋三「この政策をやれば確実に少子化に歯止めがかかるという政策はなかなかない」

 少子高齢化が多方面に亘って国力にマイナスの影響を与える阻害要因として立ちはだかる危険性を認識して国を預かっているメンバーの主要な一角を占めていたはずである。「なかなかない」などといった悠長な発言は責任放棄に当たる。

 幾つかの政策を併せて出生数の増加に持っていき、国力の衰えにブレーキをかける必要があったはずだ。

 だが、小泉政権は2002年1月から2007年10月までの戦後最長景気の真っ只中にあり、少子高齢化の影響を甘く見たのではないだろうか。

 出生率は一般的には結婚に関係する。中には未婚の母を選択する女性もいるが、その殆どは先に子どもができたとしても、結婚へとゴールする。出産の多くが結婚を必要条件とする以上、低収入やその他の理由で結婚できない男女の存在は出産の障害となるはずである。
 
 生涯未婚率は男性1980年2.60%から2010年20.14%、女性1980年4.45%から2010年10.61%へと推移している。小泉の2001年4月26日から2006年9月26日までの任期期間は生涯未婚率が増加の一途を辿る真只中にあったのである。

 もし小泉が少子高齢化の影響を甘く見ていなかったとしたら、富の再分配が滞って個人所得も個人消費も伸びず、大企業一人勝ちの景気となった戦後最長景気の利益構造を是正、富の円滑な再分配ヘと何らかの道をつけたはずだが、上が儲けて収入を増やし、下の収入が変わらないということは所得の格差が拡大することを意味するにも関わらず、2004年、労働者派遣法を改正、製造業への派遣を解禁し、派遣社員の派遣期間を3年から無制限に延長、さらに生活保護費や児童扶養手当を削減する、低所得層を増やすだけの格差拡大に自ら手を貸す「骨太の方針」などと名づけた構造改革は試みもしなかったはずだ。

 いわば格差拡大も出生率の増加を阻む要因となっているにも関わらず、逆に格差拡大策を以てして、出生率の抑制に貢献した。

 小泉政権後半の僅かな出生数の増加は格差拡大でより豊かになった上層にのみ関係した数値ではないかと疑っている。

 結婚できても、子どもを安心して生むことができない、余裕がないから子どもを産まなくても、結婚だけはしたいと思っても、結婚生活を満足に送ることができるだけの収入獲得に自信のない若者層が増加していることは非婚率の上昇推移が証明している。

 こういった社会状況に歴代自民党政権は手をこまねき、少子化問題・高齢化問題に無為無策を続けてきた。

 安倍晋三はその無為無策に加担してきたのである。

 無為無策だったからこそ、2012年総選挙のマニフェストに、「少子化」の文字も「高齢化」の文字もなく、単に「やさしい日本をつくろう」と書いて、その一つとして、「子供を産み育てやすい国」と具体像の提示も何もなく、抽象的に述べるにとどめる、これまでの無為無策に相応しい片付け方をしているのだろう。

 戦後一貫して少子高齢化政策に無為無策だった自民党政権が例え政権に復帰したとしても、無為無策から抜け出ることができるとは到底思えない。

 例え安倍政権下で中国やアメリカの景気回復にあやかって日本もそのおこぼれに与って景気回復を成し遂げたとしても、少子高齢化がゆくゆくは「長期的な成長の機会を著しく蝕」んでいく阻害要因となって立ちはだからないだろうか。

 安倍晋三が首相では国民は2009年8月30日の民主党相手の過ちを自民党相手に再び犯すことになりかねない。

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2012衆院選民主党惨敗は消費税増税が原因ではなく、菅・野田がウソをつき続けたからだ

2012-12-11 10:55:07 | Weblog

 各マスコミの衆院選中盤情勢は序盤情勢に引き続いて自公で300議席超す勢い、民主党惨敗、80議席割り込む可能性を伝えている記事もある。

 また民主党の閣僚経験者の苦戦も報じている。

 民主党幹部「やらないと言っていた消費税増税をやった。それがもろに直撃している」(MSN産経

 既に結果が出ていると言っても過言ではないこの惨敗の原因は多くがそう思い、民主党幹部がその思いを代弁しているように見える野田内閣のマニフェストには書いてなかった消費税増税が原因ではなく、菅、野田とウソをつき続けてきたことが真の原因であろう。

 確かに小沢一郎氏及びそのグループと執行部の内部抗争が多くの国民の失望を買っただろうが、内部抗争自体は菅無能がマニフェストに書いてなかった消費税増税を打ち上げ、野田内閣が強硬に増税に向けて突っ走り出したことが、増税に反対の小沢氏とそのグループとの激しい対立となったのであり、遠因は消費税増税の画策にあるものの、現在の内閣支持率や政党支持率に直接的につながった原因ではない。

 鳩山元首相も普天間移設問題で、「国外、最低でも県外」と言いながら、沖縄県内で日米合意という大きなウソをついた。だが、そのウソは菅や野田がついたウソの比ではない。

 消費税増税が民主党2013年衆院選大惨敗の原因ではない理由を最初に述べる。

 毎日新聞の世論調査では菅無能内閣時代の2010年8月の消費税増税賛否は賛成51対反対44と賛成が上回っている。

 但し同新聞社の2010年12月の世論調査では賛成46対反対50と逆転。

 この2回の世論調査から分かることは国民は消費税増税に一方的に反対の意思表示を示しているわけではないということである。

 2011年に入って1月14日~15日の読売新聞社の世論調査。

 消費税増税

 「必要だ」――61%
 「そうは思わない」――35%

 2011年3月の朝日新聞社世論調査。

 「社会保障財源確保のための消費税増税は必要か」

 賛成――57%
 反対――37% 

 2011年9月2日野田内閣発足3カ月後の2011年12月の産経新聞社とFNNテレビ合同世論調査。

 「消費税率の引き上げは適切か」

 「適切と思う」――56.8%
 「適切と思わない」――41.9%
 「他」――1.3%

 こう見てくると、反対一辺倒ではなく、この時点では賛成が上回っていたのである。

 だが、そのうち50%を挟んで消費税増税反対が50%を僅かに上回り、賛成が50%を僅かに切る逆転状況で推移することとなった。

 上記2011年12月の産経新聞社とFNNテレビ合同世論調査が消費税増税と衆院選の関連を質問している。

 「消費税増税の是非を問う衆議院選挙はいつがよいか」
 「消費税関連法案を国会に提出する前」――42.5%
 「消費税関連法案を国会に提出し成立する前」――22.8%
 「消費税関連法案が成立した後で税率を引き上げる前」――18.6%
 「税率引き上げを実施した後」――9.7%
 「他」――6.4%

 同じく2011年12月の共同通信の世論調査。

 「衆院解散・総選挙の時期について」

 「消費税増税法案の成立前」――50・7%
 「法案成立後、増税実施前」――25・4%

 「法案成立後、増税実施前」は野田首相が主張していた時期だが、世論は国会提出前か成立前を圧倒的に望んでいる。

 2009年民主党マニフェストは消費税は「現行の税率5%を維持」と明記、4年間上げないとし、税率を引き上げるときは「引き上げ幅や使途を明らかにして国民の審判を受け、具体化します」と、4年後に税率を引き上げるにしても法案成立よりも国民の審判を先に持ってきている。

 消費税増税に関しては半数以上の有権者が社会保障制度維持のためには止むを得ないと一旦は納得したものの、増税に対する審判はマニフェストの約束通りの履行を求めたということであろう。

 だが、野田首相は実際の増税時期は衆院任期4年後の2014年8%、2015年10%だからマニフェスト違反ではないと強弁のウソをつき続け、しかも「法案成立後、増税実施前」を主張、国民の要求に反して国民の審判を後回しにして増税だけを決めてしまうウソを行った。

 しかも消費税増税法が国会成立すると、2012年8月10日の消費税大増税法成立記念記者会見で新たなウソを用意した。

 野田首相「消費税を引き上げるということ、国民の皆様に御負担をお願いするということは、2009年の総選挙で私ども民主党は勝利をさせていただきましたけれども、そのときのマニフェストには明記してございません。記載しておりませんでした。このことについては、深く国民の皆様にこの機会を利用してお詫びをさせていただきたいと思います」――

 散々にマニフェスト違反ではないとウソをついておきながら、消費税増税法が成立すると、マニフェストには書いてなかった、書いてなかったことを謝罪すると、マニフェストに書いてなかった増税を図った公約違反をではなく、マニフェスト作成時期に遡って書いてなかったこと自体が誤りであったかようにすり替える巧妙・狡猾なウソをついている。

 これで国民が騙されると思ったのだろうか。

 「社会保障と税の一体改革」と言いながら、消費税増税だけを先に決めて、社会保障制度の形を整えるのを後回しにしたこともウソの一つに加えなければならない。

 「福島の再生なくして日本の再生なし」と被災地復興最優先を言いながら、復興予算を被災地の復興とは関係のない、また防災・減災とも関係の薄い事業に流用するウソを見逃し、結果として「復興」という名をウソにした。

 数え上げたなら、きりもなくウソをついている。

 菅のウソを並べてみよう。

 先ずは2010年7月参院選敗北、その責任を棚に上げるウソを犯し、参院与野党逆転が与党としての主体性を失わせ、妥協を強いられる国会となることは目に見えていたにも関わらず、「熟議の国会」とする「天の配剤」だとゴマ化すウソを働いた。

 それがウソなのは後の国会攻防が証明している。

 2010年7月参院選前にマニフェストで約束していない消費税増税を突然持ち出したウソ。参院選遊説の先々で消費税を上げた場合の低所得層に対する逆進性対策として「給付付き税額控除だ」、「かかった消費税分は全額還付だ」と、その時々で言うことが違い、しかも対象年収限度額を「年収200万円とか300万円」、「年収が300万円とか350万円以下」、「年収300万~400万円以下の人」と、これまた場所場所で言うことが違う、当然思いつきで言っていることだから、いずれかがウソとなるか、あるいは全部ウソとなるウソを約束し続けた。

 大震災発生の危機管理対応では最初から最後まで迅速な自衛隊派遣、その10万人体制を勲章とし、その救助人数を、「今朝の報告では、2万6650名の皆さんを、自衛隊はじめ、多くの機関で救助することができた。関係者の努力に改めて感謝を申し上げたい」と誇って、自らの功績としていたが、危機管理対応の実態は放射性物質の飛散からの被災者の避難にしても、適切であるべき情報公開にしても、失態や不手際を繰返していたのであり、さらには被災者に対する生活支援にしても、仮設住宅建設にしても、救援を円滑化する初期的な最小必要限度のインフラの復旧にしても遅れを見せて被災者に数々の不自由を強いる責任不履行を演じていたのである。

 いわば自衛隊の迅速な派遣の功績を自身のすべてに亘る責任の履行であるかのように見せかけて、責任不履行の役割に関しては責任なしと目を背けるウソを最後まで平気でつき続けた。

 だから、菅無能は2011年8月26日の辞任記者会見で次のように言うことができた。

 菅仮免「政権スタートの直後、参議院選の敗北により、国会はねじれ状態となりました。党内でも昨年9月の代表選では全国の党員を始め多くの方々からご支持を頂き、再選させていただきましたけれども、それにも関わらず厳しい環境が続きました。そうした中で、とにかく国民のために必要な政策を進める。こういう信念を持って1年3カ月、菅内閣として全力を挙げて内外の諸課題に取り組んでまいりました。退陣に当たっての私の偽らざる率直な感想は、与えられた厳しい環境の下でやるべき事はやったという思いです。大震災からの復旧・復興、原発事故の収束、社会保障と税の一体改革など、内閣の仕事は確実に前進しています。私の楽観的な性格かもしれませんが、厳しい条件の中で内閣としては一定の達成感を感じているところです」――

 「やるべき事はやった」が事実なら、石もて追われる如くに辞任に追い込まることはなかったろう。

 責任不履行をウソで凌いできた。

 野田民主党の2012年衆院選大敗北は菅・野田の数々のウソの成果だと断言できる。

 歴史は二人を民主党政権を潰した戦争犯罪人だと断罪するに違いない。

 嘘の成果の陰で「国民の生活が第一」の小沢氏と以下の議員がトバッチリを食い、そのトバッチリが「日本未来の党」にも影響している。

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