イギリス北アイルランド・ベルファストでG8サミット=主要国首脳会議が日本時間6月18日(2013年)未明開幕、日本時間19日午前閉幕、2日間に亘って開催され、安倍晋三が閉幕後内外記者会見を開き、アベノミクスがさも成功が約束されているかのように例の如くに怪気炎を上げた。
アベノミクスは未だ発展途上で、いや、スタートについて走り出したばかりといったところで、1着か2着か、ビリッケツか、先の長いゴールでの着順が今のところどのような保証も受けているわけではない。
当然、成功は約束されているわけではない。成功するかもしれないし、失敗で終わるかもしれない。だが、さも成功するかのように怪気炎を上げるにはそう思わせるマジックが必要になる。
そのマジックを解き明かしたいと思う。
記者会見発言は首相官邸HP――《安倍首相内外記者会見》に依った。
安倍晋三「私自身から、経済政策について直接説明する機会を得ました。G8首脳からは、強い期待と高い評価が寄せられました。サミットにおいて、我が国の経済政策がこれ程注目されたことは、近年なかったことと思います」
結果がすべてであるのは断るまでもない。成功か失敗かは結果が決める。結果が未知の状態にあるとき、成功か失敗か、いずれの目が出るのか、結果に対する緊張感はないのだろうか。自身の努力とは無関係な外部的要因によって為替が円高に触れたり長期金利が上昇したりして、経済成長の阻害要因となって立ちはだかることもある。
失敗という結末はなく、頭から成功の結末しかないと信じているとしたら、自身の政策に対する自信過剰、その実施に当たっての自身のリーダーシップに対する自信過剰は単純・単細胞に過ぎる。
リーダーシップの自信過剰は外交発言でも見せている。
安倍晋三「外交政策について、私は北朝鮮に関する議論をリードいたしました。北朝鮮による核の保有は認められず、北朝鮮は安保理決議を完全に実施すべきであると強く訴えました。さらに、拉致問題の解決の必要性を訴えました。これに対し、G8各首脳から力強い支持が示され、これがG8のコミュニケにも反映されました」
相変わらずバカだね、こいつはと思った。北朝鮮の核問題、ミサイル問題、拉致問題をG8で議論する場合、G8は問題解決のいわば舞台外であって、問題解決の舞台そのものとはならない。その場に北朝鮮が加わっていないからだ。
当然、安倍晋三がいくら「北朝鮮に関する議論をリード」しようが、その議論がいくら「G8各首脳から力強い支持」を得ようが、また「G8のコミュニケに反映」されようが、北朝鮮に対する解決の力を持つわけではない。このことは核問題解決が膠着状態に陥っていることが証明している。
にも関わらず、「私は北朝鮮に関する議論をリードいたしました」などと言う。犬の遠吠え程度の役にしか立たない自画自賛に過ぎない。
リーダーシップに対する自画自賛は2010年6月のカナダ・トロントG8で菅無能も披露に及んでいる。G8開催の3カ月前の2010年3月26日に北朝鮮が韓国哨戒艇を魚雷攻撃、46人もの乗組員の生命を奪った。この韓国哨戒艦沈没事件に対する北朝鮮非難声明をG8首脳宣言に盛り込んだ。
菅無能「わたしがリードスピーチを行い、非難すべきは非難するよう申し上げ、宣言に盛り込まれた。
国連安全保障理事会にも非常に大きな影響がある」(閉幕後の記者会見))
要するに自身のリーダーシップで北朝鮮非難声明をG8首脳宣言に盛り込んだことは国連安全保障理事会にも影響を与えると自信を見せている。
但し菅無能は北朝鮮を外交カードとしている中国の存在が安保理の決定に大きな影響を与えることには気づいていなかった。気づいていたなら、北朝鮮批判を首脳宣言にいくら盛り込もうとも、「国連安全保障理事会にも非常に大きな影響がある」とは発言できなかったろう。
「大きな影響がある」のは中国の存在自体であるからだ。
菅の無能は6月26日の閉幕前の夕食会で中国のG8への参加を呼びかけていながら、閉幕後の記者会見で安保理での中国の影響まで認識することができなかったところに象徴的且つ決定的に現れている。
菅無能「中国に一層責任感を高めてもらうため、時には中国をG8に呼ぶことを考えてもいいのではないか」
尤もこの提案は中国にあっさりと肘鉄砲を食らっている。
中国外務省馬朝旭報道局長「G8の文書は知っているが、中国はG8でなくG20のメンバーだ」
菅無能は夕食会で中国G8参加を提案していながら、閉幕後の記者会見で安保理の北朝鮮非難が中国の影響を受けるとは考えもいなかった。
G8翌月の7月国連安全保障理事会で当然のことながら哨戒艇沈没事件は取り上げられた。韓国と日本が法的拘束力を持った安保理決議を狙ったが、中国の反対で法的拘束力の持たないワンランク下の「議長声明」で決着づけることしかできなかった。
菅無能がG8で、「国連安全保障理事会にも非常に大きな影響がある」と自信たっぷりに言ったことの見事な成果である。
安倍晋三が今回のG8で、「私は北朝鮮に関する議論をリードいたしました」と自信たっぷりに言っていることにしても、北朝鮮が在籍していない場所での議論のリードが問題ではなく、在籍している場所での議論のリードを創り出すことこそが肝心な点なのだから、言っていることの意義は菅無能の上記発言といい勝負といったところだろう。
記者会見に戻る。
安倍晋三「最後に、G8においても、各国との二国間会談においても、私自身も驚くほど、日本の、私の経済政策、三本の矢への強い関心が示され、各国がいかに日本の再生に強い期待を抱いているか、印象づけられました。日本は、再び世界の中心に躍り出ようとしている、そう実感したサミットでありました。それだけに、今後三本の矢を成功させ、日本をデフレから脱却をさせ、強い経済を取り戻して、世界経済の成長に貢献をしなければならない、その責任を痛感いたしました。私からは以上であります」――
結果を見ないうちの自信過剰は揺らぎもしない。「日本は、再び世界の中心に躍り出ようとしている、そう実感したサミットでありました」・・・・・
米連邦準備理事会(FRB)による量的緩和縮少の観測だけでショックを受けて日本の株価が大きく下がり、為替が円安に振れるのである。当然、世界の中心に踊り出るなどということは至難の業だということを認識していなければならない。しかも結果を見ないうちから、「日本は、再び世界の中心に躍り出ようとしている、そう実感したサミット」などとは簡単には言うことはできないのはずだが、簡単に言うところが、その認識能力の程度からしてハッタリとしか聞くことができない。
アベノミクスがさも成功するかのように思わせる巧妙なる言葉のマジックで成り立たせていると疑わせる点は質疑応答の最初の質問とそれに対する安倍晋三の回答に見ることができる。
原NHK記者「今のお話の中でのアベノミクスについて強い各国から期待が示されたとのことでしたけれども、各国の理解が得られたというふうにお考えでしょうか。
また、最近の為替や株価の動向を踏まえて、野党側からはアベノミクスに対する懸念も示されています。株価や為替が不安定な動向を続けていることについて、国民に今後どのように安心感を与えようとお考えでしょうか。
そして、成長戦略や骨太の方針を巡っては、歳出の削減に向けた具対策が示されていないという指摘もあります。社会保障費の見直しも含めて、今後社会保障費の歳出の削減をどのように進めていくお考えなのか、具体的にお話しください」
安倍晋三がアベノミクスのこれまでの成果について説明している箇所のみを取り上げる。
安倍晋三「GDPの成長率は、昨年の7月、8月、9月は、マイナスの3.6%だった。しかし、それが今年に入って1月、2月、3月は、プラスの4.1%、マイナスからプラスに、ネガからポジに、私たちが進めている政策によって変わったんですね。そして4月の数値を見てみると、消費においても生産においても数値は改善しています。
また、有効求人倍率は0.89、リーマンショック以来の水準、いわば、リーマンショック以前に戻ったといってもいいと思います。成長率、生産、消費、雇用の全て改善しています。今回のサミットにおいても、こうした実体経済が改善しているということを前提に、強い期待と評価を頂いたと思っています」――
GDP成長率が昨年7月、8月、9月マイナスの3.6%から今年1月、2月、3月プラスの4.1%へと変わった。この4月で消費も生産も数値の改善を見せている。有効求人倍率はリーマンショック以来の水準である0.89に改善。生産、消費、雇用の全てで改善を見て取ることができる。実体経済は着実に上向いている。
確かにこうも改善した数字を見せられると、実際アベノミクスの効果と思わせる力はある。
このことを裏付ける記事がある。《大企業景気判断 2期連続改善》(NHK NEWS WEB/2013年6月11日 12時12分)
財務省と内閣府による3カ月に1度の資本金1000万円以上の企業およそ1万6000社対象の調査だそうだ。この中には中小企業も入る。
今年4月から6月にかけて景気が「上昇している」と答えた企業マイナス「下降している」と答えた企業=
大企業5.9ポイント(3カ月前比+4.9ポイント)――2期連続の改善。
中小企業-11.3(3カ月前比+6.7ポイント)
中小企業は3カ月前と比べて+6.7ポイント大幅な改善ながら、さらに先行きプラスに転じることが見込まれるにしても、依然として-11.3ポイントである。
このことは株価の上昇と円安の恩恵が大企業と富裕層に偏重していることの反映でもあることを物語っているはずだ。
と言うことは、安倍晋三が言っているGDP成長率や有効求人倍率の改善にしても、生産、消費、雇用の改善にしても、大企業に偏重した改善だと言うことができる。
このことを証明する二つの記事がある。《個人金融資産 3.6%増加》(NHK NEWS WEB/2013年6月19日 9時37分)
日銀発表の「資金循環統計」によると、預金や株式など個人が保有する金融資産の残高が株価上昇を受けて今年3月末時点で1571兆円と1年前より3.6%増加したと伝えている。
一方、生活保護受給者は過去最多を更新している。《生活保護受給者 過去最多更新》(NHK NEWS WEB/2013年6月12日 12時13分)
今年3月時点で216万1053人。
この数字はこれまでで最多の前月よりも5835人増えて、11カ月連続での過去最多更新だそうだ。
生活保護受給者が増えるということは、自力生活から生活保護生活への落ちこぼれが続いていることを示しているはずだから、下層へ行く程株高と円安の恩恵に無縁であることの証明でしかない。
だが、安倍晋三はアベノミクス効果が今のところ大企業偏重の恩恵であることを隠し、すべてがうまくいっているかのようにアベノミクスを宣伝している。言葉のマジックそのものである。
この大企業偏重の恩恵にしても、為替レートや株価、さらには長期金利の動き一つでどう転ぶかも分からない。
もう一つ、アベノミクスが主として大企業偏重の部分的恩恵であるなら、大企業自体の日本国内に於ける広がりを把握しながらその発言を聞かないことには安倍晋三のマジックに誤魔化されっ放しとなる。
以下の統計は《経済産業省「工業統計表」(2006年)に依る。
全国の企業数は421万社。
大企業は約1・2万社(0・3%)
中小企業は約419・8万社(99.7%)
全従業者数4013万人
大企業は約1229万人(31%)
中小企業は約2784万人(69%)
中小企業の定義は以下のとおりとなっている。
製造業:資本金3億円以下又は従業者数300人以下
卸売業:資本金1億円以下又は従業者数100人以下
小売業:資本金5千万円以下又は従業者数50人以下
サービス業:資本金5千万円以下又は従業者数100人以下
中小企業と言えども、かなりの規模だが、先に記した財務省と内閣府の3カ月に1度の景気が「上昇している」と答えた企業マイナス「下降している」と答えた企業調査では中小企業は3カ月前と比較して6.7ポイント上がっているものの、依然として-11.3であることを考えると、大企業がプラスを維持している分、株高と円安がたった0・3%しか占めていない大企業により集中していることが分かる。
当然、製造業・その他で従業員20人以下、商業・サービス業で従業員5人以下の、421万社の全企業数に対して366・3万社の87%を占め、従業員数にして、全従業者数約4013万人に対して23%の約929万人の小規模企業の場合、アベノミクスの恩恵はさらに微量化しているはずだ。
だからこそ、生活保護受給者が過去最多を更新することになる。
勿論、アベノミクスは成功の階段を一気に駆け上がるかもしれない。だとしても、結果を見ないうちから、さも成功が約束されているかのようにアベノミクスを宣伝できるのは、あるいはアベノミクスの恩恵が既に幅広くもたらされているかのように言葉を駆使できるのは自身が用いている巧妙な言葉のマジックを自分でも信じ込んでいるからなのは言うまでもないだろう。
問題は聞く者をしてそのマジックが効果を示すことである。
言葉のマジックで巧妙にゴマ化す遣り方、さらには安倍晋三という政治家が元々持っているお粗末な認識性からすると、約束されている成功も、その約束を失う可能性は否定できない。
4月10日(2013年)の当ブログ記事――《国民の基本的人権を制約する意思が露わな自民党日本国憲法改正草案の危険性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、《自民党日本国憲法改正草案》の「前文」で謳っている「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」とか、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」、「美しい国土と自然環境を守りつつ」、「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」等々の文言を取り上げて、〈一見国民に対する義務付けのように見えるが、そのような義務付けの直接的な目的が国民一人一人の福利(幸福と利益)ではなく、国の形づくりであり、国の形づくりを福利となす国家主体の条文となっている〉と批判、さらに現憲法が基本的人権を含めた「第13条 個人の尊重」に関して、〈生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り〉と制限対象を特定していないのに反して、《自民党日本国憲法改正草案》が謳っている基本的人権の自由が「公益及び公の秩序に反しない限り」となっているのは、〈国家権力の価値判断次第で「公益」も「公の秩序」も解釈変更が可能となって、いわば勢力の違いや立場の違いで「公益」も「公の秩序」も姿を変えることになって(このことは戦前の日本で見てきたはずだ)、国民の権利・義務に対する国家権力の恣意的運用の制約を原則とする憲法の精神に反して、逆に国家権力の干渉の余地を拡大し、国民の権利を制約する危険性を孕んだ規定〉となっていると批判した。
いわば《自民党日本国憲法改正草案》は国家主体・国民従属の憲法草案であり、個人の自由に対する国家権力干渉の余地を持たせた危険性を孕んでいるということであり、当然、その憲法は国家権力の恣意性を制約する憲法本来の役目を負わず、逆に各国民の活動を制約する内容を持っていることになる。
この国家主体・国民従属の構造を成し、国家権力がそうすべきだとしている価値判断の押し付けは「家族、婚姻等に関する基本原則」の項目の「第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条文の中の「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定にも見ることができる。
第3項で、「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定して、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」と謳っているものの、「家族は、互いに助け合わなければならない」と、国家の最高法規である日本国憲法で規定し、その規定に「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関して」違反した場合、どうなるのだろうか。
実は河野太郎自民党議員がこの「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定を6月13日の衆院憲法審査会で批判している。
河野太郎「道徳を憲法の中に持ち込むべきではない。
家族が助け合うのは、そうあるべきだろう。道徳は個人に任せられるものだ」
道徳が「個人に任せられるもの」でなければならないのは、道徳観は時代によって異なる姿を取る場合があるし、国家権力によっても異なる道徳感を抱えている場合があるからである。
そうであるにも関わらず、国家権力を支配的立場で構成する政治家たちがこうあるべきだとする道徳観のもと、「家族は、互いに助け合わなければならない」とした場合、否応もなしに個人の自由に対する国家権力の干渉=国家権力の価値判断の押し付けが生じることになる。
具体的な例を言うと、国家権力が同性婚に反対の立場を取った場合、「家族は、互いに助け合わなければならない」の「家族」の中に同性婚者は存在しないことになり、この規定は国家権力の価値判断に基づいた「家族」の押し付けとなって、やはり国家権力の個人の自由に対する干渉が生じることになる。
また、「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定に違反した場合、いわば憲法違反を犯した場合、家庭内暴力や児童虐待によって家族助け合いの憲法に違反したときは一般の法律で犯罪として罰することことで憲法違反に決着を付けることができるが、離婚によって家族助け合いの憲法に違反したとき、離婚裁判は犯罪として裁くものではないから、憲法違反にどう決着をつけるのだろうか。
特に妻が夫と子供を捨てて家を出て他の男性と一緒になったといった事例による家族助け合いの憲法に違反した場合、どう決着をつけるのだろうか。
何も決着の方法を取らなければ、憲法は有名無実化する。
安倍晋三みたいな古い家族観・結婚観を持った政治家が国家権力の地位を占めている間は、憲法を有名無実化しないためにも一般的な法律で決着づけることができない家族助け合いに反する離婚のような憲法違反は勢い、かつてそうであったように社会悪としてブレーキをかける形で決着をつける風潮に向かわないだろうか。
離婚に社会が寛容となった現在でも離婚は恥ずかしい、世間体が悪いと社会悪として把え、我慢して結婚生活を送る女性が少なくないようだが、かつての離婚に非寛容な時代は離婚して実家に戻った女性を嘲る意味合いで「出戻り」と称した。本人も出戻りとして肩身の狭い思いをして、なるべく目立たないように生活した。
要するに離婚を再び社会悪とし、肩身の狭い思いをさせる社会的・精神的懲罰を力としない限り、結婚生活に関した場合の「家族は、互いに助け合わなければならない」の憲法の規定は守られないことになる。
このような国家権力が価値判断した道徳観の押し付け、国家権力の個人の自由に対する干渉を証明する格好の事例がある。2006年9月26日から2007年9月26日の第1次安倍内閣時代の2007年5月、安倍政権の教育再生会議が「子育てに関する緊急提言」を纏め、公表して、子育てに関係している、あるいは今後関係するであろう世の男女の子育ての参考にお節介にも役立たせようととした。
まさにお節介だったからこそ、政府の公式発表前にマスコミが単に事実を伝えるだけではなく、批判的な文脈で報道、世論がその批判に追随したため、2007年7月予定の参院選への悪影響を恐れて安倍晋三が見送りを決定した。
この件に関しては2007年5月4日の当ブログ記事――《安倍教育再生会議のかくまでも美しい上からの子育て管理-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、「子育てに関する緊急提言」がどれ程にお節介か、新聞記事に載った項目を参考までに掲載してみる。
●保護者は子守唄を歌いおっぱいを上げ、赤ちゃんの瞳をのぞく。母乳が十分出なくても抱きしめるだけでもい
い。
●授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビデオを一人で見せない。
●インターネットや携帯は世界中の悪とも直接つながってしまう。フィルタリングで子供を守る。
●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」
など社会性を持つ徳目を教える。
●「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おかげさまで」日本の美しい心、言葉。
●子供たちをたくさんほめる。
●PTAは父親も参加。――
一つ一つは各個人に任せるべき各個人が考え、判断して行うべき道徳観であって、それを無視している点、まさに国家権力が価値判断した道徳観の押し付け以外の何ものでもない。
もし子育てに関わる男女のすべてが自分で考え、判断して行うことができずに、上から指示されたすべての項目を指示されたとおりにすべて忠実に守ったとしたら、その方が恐ろしいことに気づかない。国家権力に対する従属人間を造ることになるからだ。
尤も安倍晋三は自身が理想とする戦前国家に従属した国民を造りたい願望を密かに抱いているに違いない。
かくこのように安倍内閣の体質自体が既に国家主体・国民従属の構造となっている。国家権力が価値判断した道徳観の押し付けは国家主体・国民従属の構造をなぞる一つの例に過ぎない。
もう一つ、同じく2006年9月26日から2007年9月26日の第1次安倍内閣時代の2007年4月、民法772条が離婚後300日以内に生まれた子が遺伝的関係とは関係なく前夫の子として戸籍に入れられる規定となっていることから、誰の子か分かっている母親が前夫の子として戸籍に入れられることを避けるために戸籍上の手続きをしない結果、無戸籍の子どもが生じている問題に決着をつけるべく、自民党の「民法772条見直しプロジェクトチーム」が議員立法で法案を提出・成立を図っていた。
どのような法案かというと、妊娠時期を示す医師の証明書やDNA鑑定で離婚後に妊娠したことが明らかな場合、再婚後に出産した子の出生届を『現夫の子』として受理できるようにする内容だというが、離婚前に妊娠していたとしても、そういったことは世の中にザラにあることだろうから、構わないではないかと思っている。
ところが議員立法提出にブレーキが入った。
長勢法相「300日問題の見直しを進める与党プロジェクトチーム(PT)の議員立法案は『不倫の子』も救済対象になりかねず、親子関係を判断するDNA鑑定の信頼性にも問題がある。
貞操義務なり、性道徳なりという問題は考えなければならない」
要するに貞操義務、性道徳という観点から考えた場合、不倫の子の救済が不倫をした母親の救済となって、その貞操義務、性道徳を免罪することになって腹立たしい限りということであって、不倫すべてを罪と断定することは難しいにも関わらず、何の罪もない不倫の子そのものの救済は考えてもいないということになる。
長勢法相は不倫した母親ばかりか、不倫の子どもにまで懲罰を与えようとする古い家族観に支配されている。
国会対策委員会幹部「離婚して別の男の子を出産しようとはけしからん」
女性にとって嫌いになった男の代わりに好きになった男を見つけて、その男の子どもを産むこと程の歓びはないはずだが、古い家族観に囚われている政治家には理解できない。
与党PT案が300日規定見直しだけではなく、再婚禁止期間の短縮まで盛り込む方針を掲げていたことに首相の安倍晋三は拒絶感を示す。
安倍首相「婚姻制度そのものの根幹に関わることについて、いろんな議論がある。そこは慎重な議論が必要だ」
役所に離婚届を提出して受理されたなら、その場で結婚届を提出、受理される法制度も悪くないと思うのだが、安倍晋三はあくまでも現在の再婚禁止期間を守る立場を取っている。
この再婚禁止期間現行制度維持は一度結婚したら、男も女もその結婚を守り通すべきだとする意思を働かせているはずだ。もし働かせていなければ、男女の幸せを基準にして結婚制度を考え、再婚禁止期間短縮の方向へ意思を働かせるはずだからだ。
安倍晋三は「誰もが再チャレンジできる社会」を標榜しているが、結婚に於ける男女の再チャレンジに古い考えでいるようでは、標榜自体をウソとすることになる。
何れにしても安倍晋三や自民党幹部たちの古い家族観に縛られたこういった姿勢も、国家権力が価値判断した道徳観の押し付け、国家権力の個人の自由に対する干渉に当たる。
このような国家主体・国民従属の構造を取った体質が改憲思想と響き合って、「家族は、互いに助け合わなければならない」と、個人に任せるべき道徳観に対する国家権力の干渉が発しているはずだ。
国家主義者安倍晋三の国家主義に基づいた改憲はどのような内容であっても反対すべきだ。
自民党は参院選公約最終案のうち原発に関しては「安全性が確認された原発の再稼働は、地元自治体の理解が得られるよう最大限努力する」と謳っている。安倍晋三と復古主義的国家主義のベッドで添い寝している政調会長の高市早苗が自らも関わって参院選公約を作成したからだろう、原発再稼働を優先させる発言をしている。
但し単純な再稼働発言とは趣を大きく異にする。素直には受け取ることはできない問題発言の部類に入る。
《「原発事故による死亡者は出てない」自民・高市政調会長》(asahi.com/2013年6月17日18時2分)
高市早苗「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない。安全性を最大限確保しながら活用するしかない。
産業競争力の維持には電力の安定供給が不可欠で、原発は廃炉まで考えると莫大(ばくだい)なお金がかかるが、稼働している間のコストは比較的安い」(下線部分は解説文を会話体に直している)
原発再稼働を前提としている以上、「安全性を最大限確保」は当然の措置だが、安全性の「最大限確保」が絶対安全を保証するものではない。
絶対安全を保証するとしたら、「原発安全神話」に回帰することになる。
このことも危機管理の前提としなければならない必須事項であるはずだ。
いわば、「安全性を最大限確保」したつもりでも、事故の可能性をゼロとすることはできないことになる。
事故の可能性をゼロとすることはできない姿勢で安全性の「最大限確保」に努めなければならない。
以上のことを前提とすると、「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない」と言っていることは、「安全性を最大限確保」するものの、事故の可能性をゼロとすることはできない関係から、死者さえ出さなければ、原発事故は止むを得ないと言っていることになる。
国家主義者にして復古主義者の高市早苗はこのように認識することによって、原発事故直接死が発生しなければ、原発事故関連死が発生していたとしても無視することができ、「事故によって死亡者が出ている状況ではない」と言うことができる。
高市早苗のこのような認識は勿論、人間生命の尊厳の否定、人間生命の軽視に当たる。
このような生命観の軽い人間が自民党の役員を務めている。その責任は問われて然るべきだろう。
安倍晋三は人間生命の尊厳を否定し、軽視する人間を自民党役員に任命した。安倍晋三と高市早苗が人間生命の軽視という点で感性を響き合わせているからこそ、任命できたのだろう。
安倍晋三のそのような生命意識とその任命責任も問わなければならない。
因みに復興庁発表、2013年5月10日付け「NHK NEWS WEB」報道の、今年2013年3月末時点までの震災関連死者数と、その多くが原発関連死と推察される福島県の震災関連死者数を挙げてみる。
震災関連死――2688人
福島県 ――1383人
福島県の震災関連死者数が全体の震災関連死者数の半数以上を占める。岩手県389人、宮城県862人に対して福島県のこの1383人という圧倒的多数は明らかに原発事故が関係していることを物語っているはずだ。
どのくらい関係しているのか、2013年3月13日付け「TOKYO Web」(東京新聞)の集計ではあるが、〈福島県内で震災関連死と認定された1337人のうち、少なくとも約6割にあたる789人は原発事故の避難などに伴う「原発関連死」〉だとしている。
「少なくとも約6割」である。
上記「NHK NEWS WEB」と「TOKYO Web」記事の震災関連死者数に若干の違いがあるのは、「NHK NEWS WEB」が2013年3月末時点の死者数を挙げているのに対して、「TOKYO Web」記事の発信日は3月末から18日遡る2013年3月13日発信という違いからだろう。
「TOKYO Web」はこの記事の中で福島県内で少なくとも12人が自殺した可能性があるとしている。
また、2013年3月27日付け「NHK NEWS WEB」記事は、2011年3月11日の原発事故で福島県南相馬市の高齢者施設から避難した患者たちの1年間の死亡率が事故前の2.7倍に上ったとする東京大学などの研究グループが纏め調査結果を伝えている。
福島原発事故は原発事故直接死を出さなかったが、自殺等、様々な形の原発事故関連死を出した。そして今なお、関連死の危険に曝されている少なくない被災者が存在するはずだ。
国政に関与する政治家が国民の生命・財産を預っていると言うなら、今なお関連死の危険に曝されている少なくない被災者が存在するというところまで認識しなければならないはずだが、「事故によって死亡者が出ている状況ではない」からと、原発事故関連死を無視できる。
その理由は断るまでもなく国家主義者だからである。
これまで国家主義の意味を『大辞林』(三省堂)を参考にしてブログに何度も書いてきたが、今回も書かなければならない。
【国家主義】「国家をすべてに優先する至高の存在、あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」
高市早苗はこのような思想を抱えているからこそ、国家優先の国家経営のためにコストの面から原発再稼働を主張することができ、国民を従に置いて原発関連死者を無視することができる。
安倍晋三も然り。
素晴らしい政治家を日本は抱えているものである。
安倍晋三が6月12日(2013年)自身のフェイスブックで、田中均元外務審議官の安倍政権右傾化批判、飯島訪朝スタンドプレー紛い批判に対して、一時帰国を果たした拉致被害者5人を北朝鮮に返さずに日本にとどめた自身の判断の正しかったことを主張、田中均が北朝鮮当局との約束通りに北朝鮮に戻すべきだと主張したことを間違っていたとし、「彼に外交を語る資格はありません」と逆批判を行った。
安倍晋三のこの批判を掴まえて細野民主党幹事長が3日後の6月15日、批判している。
細野豪志「田中氏は一民間人。表現の自由は尊い。最高権力者が持つ強大な権力を考えたときに、あのような発信は自制すべきだった。
かつての自民党には権力の恐ろしさを知っている実力者が数多くいた。歴代首相は厳しい批判に耐えてきた。今は安倍首相の発信をいさめる人すらいそうにない」(時事ドットコム)
問題は日本に一時帰国を果たした5人の拉致被害者を北朝鮮に戻すとか戻さないといった決定よりも、第1回日朝首脳会談で日本に戻す、あるいは日本人に戻すという原状回復という形式を選択せずに、なぜ「一時帰国」という形式を選択したかという小泉・安倍コンビの決定――そもそもの原点に間違っていたのではないかという点にあるはずで、このことは6月14日(2013年)の当ブログ記事――《安倍晋三のお門違いな拉致問題、田中均元外務審議官批判 自身の無能を知れ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、細野にしても肝心な問題点から外れたお門違いなことを批判の論点としている。
この細野の安倍批判に対して安倍晋三が6月16日、問題がどこにあったのかも気づかずに性懲りもなく再批判を行なっている。しかも欧州歴訪中立ち寄っていた最初の訪問国ポーランドからである。《細野氏は「的外れ」 ポーランドから首相反論》(MSN産経/2013.6.16 23:24)
安倍晋三「田中氏は外務省元幹部の肩書でメディアに露出している。一個人との認識は全く的外れだ。
(細野氏の批判は)私の的確な反論を封じようとの意図でしょう。よくあるパターンの攻撃です。
細野氏は田中氏の当時の行動を問題視していない。田中氏はあの時の(一時帰国当時の)自身の政治家としての行動に対する自省は全くない。だからダメなんです」(解説文を一部会話体に直す)
問題視すべきは田中均の「当時の行動」ではなく、常識中の常識である原状回復という外交成果を目的として金正日との首脳会談に臨まなければならなかったはずで、あるいは臨んだはずで、目的とした外交成果を獲得せずに、あるいは獲得できずに「一時帰国」という常識では考えられない外交成果を選択したことを自ら問題視すべきであるはずだが、今以てそのことに気づかずに自身が判断した「一時帰国」を正しい選択だったと自己評価の自己満足に浸っている。
当然安倍晋三の田中均批判は「的確な反論」でもない。
国内で生まれたばかりの赤ちゃんが病院から誘拐されるという事件が起きることがある。犯人が赤ん坊を産むことができない母親だったり、あるいは流産して生まれてくる子供を失ってしまったりした若い母親だったりする。
例えば生まれたばかりの赤ちゃんが病院から誘拐された事件が発生したのに対して警察の必死の捜査にも関わらず犯人を探し出すことができずに迷宮入りしたとする。
誘拐を共に気にかけてくれていた知人がいて、10年後に赤ちゃんを誘拐された母親にそっくりな子供を見かけた、無事成長していたなら、同じくらいの年齢だと必死の形相で知らせてくれ、警察が学校に依頼して本人には気づかれずに髪の毛を1本採取して貰い、DNA鑑定した。
母親とDNAが一致して、誘拐された子だと断定。30歳過ぎの夫婦を逮捕。犯行の動機は子どもを当時流産して失ったばかりで、それが三度目の流産で、最早妊娠は望めない身体となってしまったことと判明。
警察が子どもを一刻も早い対面を望んでいる実の父親と母親の元に戻す原状回復を図ろうとしたのに対して犯人の夫婦が子どもは家族の一員として我々にすっかり馴染んで10年もの間共に平和に暮らして、実の親子よりも親子らしく関係を築いている、子どもを取り上げないでくれと訴え、10歳に成長した子どもも、生まれたばかりの頃に誘拐されていたから、実の親のことなど知らず、誘拐犯の夫婦を親と思い、何不自由なく生活し、家族との生活を自分の人生の一部として喜びを味わい、成長していたから、このまま家にいたい、どこにも行きたくないと言ったら、じゃあ、誘拐犯が刑務所に入っている間、一人では暮らすことはできないから、実の両親のところに一時帰宅しよう、一時帰宅している間に実の両親に馴染むかもしれない、誘拐犯が刑務所から出る際に子どもにどちらを親として選択するか、決めさせようという一時帰宅を選択するだろうか。
子どもにとっては辛い選択だが、法律上も社会的常識から言っても、実の親のところに戻す原状回復を選択をするはずだ。それも直接実の両親のところに戻すのではなく、保護施設に一時預けて、カウンセラーをつけて、誘拐されたという事実及びその事実を知らずに10年もの間実の親ではない両親の元に過ごしたという事実に対する精神的ショックの緩和と実の親と生活するための心の準備の精神的訓練を行い、精神的に落ち着きを取り戻した所で実の親が時々訪ねていって共に過ごす時間を少しづつ増やしていって、親子共々生活していく一連の訓練を施していくという経緯を取って原状回復を図るのが原則的選択であるはずだ。
勿論、誘拐された実の親にとっても誘拐された子どもにとっても色々な困難は伴うだろうし、原状回復後も様々に困難は持ち上がるだろうが、原状回復の手はいくらでもある。
ましてや拉致被害者は北朝鮮当局者がいる前ではロでは心にないことを言ったかもしれないが、実際には日本への帰国を望んでいたはずである。にも関わらず小泉・安倍は拉致被害者の原状回復を外交成果とするのではなく、一時帰国を外交成果とし、そのときから10年後の今になって一時帰国後に北朝鮮に戻さないとした安倍自身の判断を正しかったとし、戻すとした判断を今更ながらに批判する。
肝心要なことはそういったことではないはずで、そのことに今以て気づかないのだから、どこかが狂っているとしか言い様がない。
第1回日朝首脳会談という基本の所で外交上、当然の選択肢としなければならなかった肝心要なことを抜かすような外交能力だったからこそ、キッカケは金正日が仕掛けた2002年10月15日の5人の拉致被害者一時帰国から2009年8月まで続いた自民党政権の10年間に5人の拉致被害者とその家族の帰国以上に拉致問題を進展させることをできなくしてしまったに違いない。
6月17日(2013年)放送の日本テレビ『ネプ&イモトの世界番付!』で、日本人のマナーの良さを話題として取り上げ、その一つとして挨拶の形であるお辞儀を紹介していた。
「女好きの料理研究科」として紹介されているイタリア人のベリッシモ。
ベリッシモ「今イタリアの若者の間にお辞儀パフォーマンスが流行ってるんですね。イタリアには元々お辞儀文化はなくて、バカにしていた人たちもいたんですけども、今回この長友選手のパフォーマンス、このパフォーマンス、コマーシャルにもなってるんでねすね」
サッカーのユニフォーム姿で両手を脇に当てて丁寧に頭を深く下げてお辞儀をする長友選手と同じく両手を脇に当てて、長友選手程深く下げてはいないが、向き合って頭を下げた同じユニフォームを着た同僚選手の写真と、サッカーをしている少年選手たちが輪になる形でお辞儀をし合い、それから肩を抱き合う動画が紹介される。「携帯電話会社のCM」のキャプション。
ベリッシモ「若い人たちがフットサルしてゴールしたら、お辞儀したり、そんなものが今流行ってる」
解説「ロシアでは小学生がお辞儀をするある映像が話題になっている」
イリナ(ロシア人女性)「手を上げて道路を渡り終わった後、車に向かってお辞儀をする」
黄色い帽子をかぶった5~6人の小学生が明らかに都会とは言えない風景に見える交差点の青信号の横断歩道を渡り終わった後、車道の赤信号で停車している左右の車に向かって全員が思い思いに二度ずつ頭を下げてお辞儀をする動画が流れる。
イリナ「何て素晴らしいんだと、ロシア人は本当に衝撃を受けている」
原田泰造「これを見つけたロシア人も凄いね」
名倉潤「村尾さん、日本人のマナーが凄いというところ、あります?」
村尾信尚日本テレビニュースキャスター「マナーがいいか悪いかって言うときには基準が違うんですよね。例えば僕達は足を組むことがマナーが悪いと思ってるんですが、それは外国人から見ればね、これはマナーがいいってこととか悪いとかってこととは関係ないと思うんですよ」
パックン(アメリカ人)「(本人が)日本の大物と対談しているときに同じように普通に足を組んで(と、自分で足を組んで見せる)、まあ、アメリカでは丁寧な姿として話を聞いておりましたら、視聴者からクレームが来たんです。
こいつは何様のつもりだと。大物に向かって、その態度とはって。
アメリカではこれは(組んでいる足を手で示して)普通。目上、目下とかそういうのは関係なく、誰とでも、その座り方していい」
解説「アメリカでは例えオバマ大統領が相手でも、足を組んで話すのがマナー。 これはお互いが平等であることを示すことであるためだとか」
オバマ大統領が椅子に座って足を組んでいるのに対して外国の賓客なのだろう、相手も足を組んでいる写真を紹介する。
あくまでも一般論として述べるが、確かにお辞儀が挨拶のマナーであることは言を俟たない。丁寧にお辞儀すればする程、そのマナーは評価され、謙虚さや真面目さ、誠実さなどの自己性格の表現となる。
いわば自己の性格を如何によく見せるか、一般的にそれがお辞儀に与えている価値づけ行為であるはずだ。
だが、この謙虚さや真面目さ、誠実さなどの自己の性格を如何に見せるかの価値づけ行為は上下関係にある両者間に於いて下に位置にする者が上に位置する者に対して専ら用いる表現手段であって、その逆ではない。
このことはお辞儀の順序が常に下に位置する者が先に行うことが決まりとなっていることが何よりも証明する。上の者のお辞儀は下の者が先に行うお辞儀に対して応じる単なる反応であって、そこに親しみを込めることはあっても、自身の謙虚さや真面目さ、誠実さなどの性格を相手に如何に見せるかといった価値づけ行為の類いのものではない。
下に位置する者にとって上に位置する者の地位が上になればなる程、相手に対する敬意、と言うよりも畏れ多さに応じてお辞儀で表現する評価を受けたいと欲する自己の性格をより強く訴えることになって、お辞儀は丁寧なものとなり、頭の下げ具合も深くなる。
いわばお辞儀が上下関係にある両者間に於いて下に位置にする者が上に位置する者に対して行う、特に初対面に於いて自己を如何に見せるか、そういった価値づけ行為となっている以上、お辞儀の丁寧さの程度は地位の差を表すことになる。
逆に下に位置する者が上に位置する者に対して粗略なお辞儀をすると、あいつは満足にお辞儀もできない、不謹慎だ、何様だと批判され、評価を下げることになる。
当然、下の者はお辞儀一つで評価を下げないように相手の地位に応じて丁寧なお辞儀を心がけるようになる。
江戸時代等の封建時代、お殿様に対して下の位置にいる家臣は額を畳につけんばかりにひれ伏すようにお辞儀をするが、上の位置の殿様はお辞儀はせず、軽く頷く程度であることがお辞儀が主として上下関係に於ける下の地位の者の表現であることを象徴的に物語っている。
お辞儀が上下関係に於ける下の者の上の者に対する自己をよく見せる価値づけ行為となっているためにお辞儀がへりくだりの表現と化してしまうことが往々にして起こることになる。
このようにお辞儀が下に位置する者から始める、上に位置にする者に対する自己性格の価値づけ行為となっているのは日本人が上の者が下の者を従わせ、下の者が上の者に従う権威主義を基本的に思考様式・行動様式としているからなのは言うまでもない。
イタリアのチームに在籍している長友選手がゴールして観客席に向かって丁寧に頭を下げてお辞儀する得点したときのパフォーマンスは観客と長友選手が上下関係にあるわけではないから、一般的な上下関係に於けるお辞儀行為――下の者が自己の性格をよく見せるための上の者に対する自己性格表現から離れた行為であろう。そしてフットサルの少年達のお辞儀は元々お辞儀文化はイタリアには存在しないということだから、単に長友選手のお辞儀を真似ただけの行為であろう。
「何て素晴らしいんだ」とロシア人たちに衝撃を与えた交差点での集団下校中らしい日本の小学生たちの車に対するお辞儀は、日本では権威主義の行動性を受けて大人と子どもとの間に暗黙的な社会的上下関係が存在するとしても、車を運転している者たちと直接的には上下関係にはないだろうし、すべての運転者と面識があるとは思えないから、小学生と運転者間の上下関係からのお辞儀と言えないだろう。
だが、車を運転する者に対して、例え面識がなくても、自己性格の価値づけ行為とはなる。少なくとも日本から遠く離れたロシア人に対して「何て素晴らしいんだ」と自分たちの性格をよく見せ、高い評価を受けることができた。
但しこのお辞儀が自発的な価値づけ行為なのかどうかである。
自発的ではなく、教師が言ったことを機械的に忠実に守って行う教師と生徒との権威主義的上下関係が生み出した他発的なお辞儀であるとしたら、このお辞儀は車の運転者のみに見せるのではなく、学校の教師にも自己の性格をよくよく見せるための(=よりよく評価させるための)価値づけ行為ということができる。
果たしてどちらなのだろうか。
勿論、車が青信号で停まってくれて歩行者を青信号の横断歩道を無事に渡らせてくれたことに有難うを示す感謝の意味としてのお辞儀ということもある。
但し感謝自体が自己性格の価値づけ行為となる。
だが、信号のある交差点で青信号の横断歩道を渡るのは歩行者の当然の権利としてある。横断歩道の青信号に対して車道の赤信号に応じて停止ラインで停車するのは、あるいは車道の青陣号に応じて交差点に入り、右折・左折で青信号の横断歩道の少し手前で停車するのは車を運転する者の当然義務である。
歩行者は当然の権利として青信号の横断歩道を渡るのであり、対して義務として停車した車の運転者に向かって歩行者が、例えそれが感謝の印であったとしても、どのようなお辞儀をする義務も負っていないはずだ。
車の運転者にしても、信号のない横断報道ならまだしも、自身の義務としてある車道の赤信号に応じた停車に対して、あるいは青信号で交差点に入って青信号の横断歩道手前の自身の義務としてある停車に対して感謝のお辞儀をされる義務行為とは見ていないはずだ。
歩行者が自身の権利に対する車の運転者の義務を感謝の対象とした場合、権利と義務の線引き――権利は権利として主張する、義務は義務として守るというきっちりとした線引きを本来の意味から遠ざけて曖昧にする危険性が生じないだろうか。
子どもたちが大人になって車を運転するようになったとき、車道の赤信号に停車する自分たちの義務、御横断歩道手前で停車する当然の義務に対して青信号で横断歩道を渡る子どもたちの権利を当たり前の権利として認めず、自分たちの義務に感謝を示すことを求めたとしたら、滑稽であるばかりか、やはり権利と義務の線引きを曖昧にすることになるはずだ。
勿論、横断歩道が青であっても、ときにはそれを無視して車が突っ込んできて人身事故を起こす場合もあるから、注意しなければならないが、赤信号の車道の停止ライン手前で停車している左右それぞれの車の運転手に向かってまで、反対車線の車は横断歩道を渡りきった場所から距離があるにも関わらず感謝のお辞儀をするのは子供ではあっても、自身の権利は権利として主張する、あるいは相手の義務は義務として求める権利・義務のあるべき姿の追求とはならず、当然、権利意識、義務意識を自身の側からも育てることにはならないことになる。
ましてやそれが学校教師が指示した教えの忠実な再現なら、権威主義の上下関係を受けた他発性から発した自己性格の価値づけ行為となるばかりか、学校教師自体が子どもたちの権利意識・義務意識の育みを阻害する教育を行なっていることになる。
日本人が権利意識、義務意識が共に弱いと言われるのはやはり人間関係を上下関係で律する権威主義の行動性が影響しているからだろう。
上下関係にある両者間に於ける主として下に位置にする者から発する、自己の性格を如何によく見せるかの価値づけ行為とする日本人のお辞儀に対してパックンが地位の上下に関係しない、それを無視した平等な態度として足を組む態度を取り上げた。
人間が地位の上下に関係せずに平等であるという人間関係に於ける対等性自体が権利意識・義務意識を含んでいる。相互の権利を相互に認めることによって、あるいは相互の義務を相互に守ることによって人間関係に於ける平等性は成り立つからだ。
断っておくが、敬意を表して相手を敬う態度と上下関係で人間関係を現す態度とは異なる。前者は平等性・対等性を維持できるが、後者は明らかに平等性・対等性を放棄して可能となる人間関係である。
日本人は地位や収入、家柄等に関係せずに人間は対等であるという意識を獲得しなければ、しっかりとした権利意識も義務意識もいつまで経っても獲得できないように思える。
特に小学生の横断歩道を渡り切った後の停車している車の運転手に向けたお辞儀が教師が指示したお辞儀であるなら、その従属性自体が権利意識・義務意識とは無関係な場所での発揮となり、危険な教育と言う他はない。
大体が機械仕掛けで動くロボットのように見えて、子供らしさを感じなかった。いや、黙々と固まって歩く集団登下校自体に子供らしさを感じない。
テレビ番組の『ネプ&イモトの世界番付!』が日本人のマナーの良さの一つとして取り上げたお辞儀について思いつくままに書いてみた。
大阪府内33市構成の市長会会長・森山一正摂津市長が6月11日(2013年)、大阪府庁を訪問、米軍新型輸送機MV22オスプレイの訓練の一部を八尾空港(同府八尾市)受け入れを表明した橋下徹と松井一郎府知事の構想に対して口頭で抗議を申し入れたという。
森山摂津市長「いたずらに府民の不安をあおっただけで、沖縄の基地負担軽減につながっていない」(琉球新報)
勿論、この抗議に対して我が橋下徹独裁者は黙っていない。6月13日の記者会見。
橋下徹「沖縄が負担しているリスクを考えたら、(八尾市民の)抽象的な不安は、どうってことない」
量できたか。
だが、量がすべてではない。日本ではすべての種類合わせた自動車の保有台数は80000万台近くだそうだが、登録した自治体でのみ走るわけではないから、自治体別の保有台数とは別に走っている台数の多いエリア程自動車事故は多いのが一般的で、自動車の量と関係するが、北海道の場合は保有台数にしても走っている台数にしても少ないにも関わらず、飛ばしやすい直線道路が多くて、大事故が多く、人口10万人当たりの事故率は都道府県別では20位以下でありながら、死亡事故率は同じ人口10万人当たりで最高という逆の現象を示していることは自動車台数という量が決定する問題ばかりではないことを示している
いわば沖縄の訓練の量と比較したオスプレー訓練の本土一部を引き受けの量の少なさが安全を常に保証するわけではない。
だとしても、沖縄の負担を一部ではなく、等分に本土が引き受けるべきだとは考えている。
しかし橋下徹は「沖縄が負担しているリスクを考えたら」と言って、沖縄が抱えているリスクを認識している。当然、オスプレー訓練の一部本土移転は、沖縄のリスクの本土への一部分散を意味していて、受け入れる側は沖縄のリスクの一部受け入れを伴う。受け入れるについてはその覚悟が必要となる。
このことは沖縄の基地負担軽減のために1997年に始まり、今年で13回目だという北海道陸上自衛隊矢臼別演習場での沖縄米海兵隊実弾射撃訓練受け入れが証明している。6月11日(2013年)、沖縄米海兵隊の矢臼別演習場での実弾射撃訓練中に砲弾が演習場外に着弾する事故が発生。
原因は米海兵隊員の基本的な安全手順を怠った人為的ミスだそうで、矢臼別演習場が大阪市の4分の3を占める広大な土地を有していて、自衛隊では最大規模の演習場だということだが、人為的ミスが時にはその広さ=安全条件を無意味化してしまう一つの例であろう。
着弾地点は草地の広がる国有地で周囲に民家がないということだが、これが八尾空港のような周囲が住宅密集地となると話は違ってくる。
それを国政政党の共同代表者という地位にありながら、「抽象的な不安」で片付ける。
訓練の一部受け入れを言うだけではなく、矢臼別演習場での沖縄米海兵隊実弾射撃訓練受け入れが象徴的に示すように訓練の一部受け入れは沖縄のリスクの一部受け入れを意味すること、沖縄のリスクの公平な負担を言うべきだろう。
だとしても、沖縄が基地に関する負担軽減の核としている認識は普天間飛行場の県外移設であって、各訓練の一部本土受け入れではない。この点が橋下徹の最大の認識の間違いであろう。
自民党の7月参院選公約が「米軍普天間飛行場の日米合意に基づく名護市辺野古への移設を推進」とするのに対して自民党沖縄県連の同参院選地域版公約(ローカルマニフェスト)は「米軍普天間飛行場の県外移設を求める」と明記しているそうだ。
理由は「辺野古移設を主張しては選挙に勝てない」からだそうだが、この理由自体が沖縄が総意とする負担軽減の核が米軍普天間飛行場の県外移設であることを物語っている。
当然、沖縄は普天間基地の県外移設を沖縄の負担軽減の象徴としているはずだ。
橋下徹は沖縄のこの総意としている負担軽減の核、負担軽減の象徴に反して訓練の一部沖縄県外移転のみの提言で、さも大した提言をしたかのように得意になっているが、この大きなズレは沖縄から見た場合はケチな提言でしかないはずで、雑魚の考えと言われても仕方がないだろう。
勿論、安倍政権にしても訓練の一部本土移転を以って沖縄の負担軽減を果たせるかのような態度を取っているが、それが沖縄が望む核とし、象徴としている負担軽減とは大きなズレがあることに変りはない。
真に沖縄の基地負担軽減を望むなら、普天間基地の県外移設しかないだろう。
逆に普天間基地の辺野古移設はいくら訓練の部分的本土移転を果たそうとも、沖縄に対する負担継続を意味し、象徴することになるはずだ。
安倍晋三 毎日新聞のコラムで元外務省の田中均氏が、安倍政権の外交政策について語っています。
安倍晋三が自身のフェイスブックで拉致問題について田中均元外務審議官を批判していることをマスコミ報道で知ったので、安倍晋三のフェースブックにアクセスしてみた。次のように発言している。6月12日午後5時頃の投稿らしい。
このインタビューを読んで、私は11年前の官房副長官室での出来事を思い出しました。
拉致被害者5人を北朝鮮の要求通り返すのかどうか。
彼は被害者の皆さんの「日本に残って子供たちを待つ」との考えを覆してでも北朝鮮の要求通り北朝鮮に送り返すべきだと強く主張しました。
私は職を賭してでも「日本に残すべきだ」と判断し、小泉総理の了解をとり5人の被害者は日本に留まりました。
... 予想通りその判断は毎日新聞や一部マスコミからも批判的に報道されました。
しかし、その後 田中均局長を通し伝えられた北朝鮮の主張の多くがデタラメであった事が拉致被害者の証言等を通じ明らかになりました。
あの時田中均局長の判断が通っていたら5人の被害者や子供たちはいまだに北朝鮮に閉じ込められていた事でしょう。
外交官として決定的判断ミスと言えるでしょう。それ以前の問題かもしれません。
そもそも彼は交渉記録を一部残していません。彼に外交を語る資格はありません。
要するに田中均が毎日新聞のコラムで話した安倍政権の外交政策が面白くないから意趣返しをした。
意趣返しと表現したのは安倍晋三が田中均の発言に、いつもの遣り方で直接的に満足に答えていないからだ。
安倍晋三が言っている毎日新聞の記事から、安倍政権の右傾化と飯島訪朝について批判している箇所を参考引用し、安倍晋三の田中批判が意趣返しでしかないことを証明する。未読の方で全文を読みたい場合はリンクを付けておいたから、アクセスして頂きたい。
《守主義と歴史認識:/1 右傾化、日本攻撃の口実に 田中均氏に聞く》(毎日jp/2013年06月12日)
記者「諸外国で日本の右傾化に懸念が強まっていると聞きます」
田中均「外国での国際会議などで、日本が極端な右傾化をしているという声が聞こえる。一方、安倍政権ができ、アベノミクス効果などで日本も政治の停滞を抜け出すのではないかという期待の声もある。しかし、安倍晋三首相の侵略の定義や河野談話、村山談話をそのまま承継するわけではないという発言や、麻生太郎副総理らの靖国参拝、日本維新の会の橋下徹共同代表の従軍慰安婦についての発言などで、いわゆる右傾化が進んでいると思われ出している」
記者「安倍首相は批判が出るとブレーキはかけますね」
田中均「侵略の定義とか、村山談話、河野談話、憲法96条の改正などで現実的な道をとろうとしていると思う。しかし、あまりそれを繰り返すと、根っこはそういう思いを持っている人だということが定着してしまう。参院選までは抑えるけど、それ以降はまた出てくるのではないかとの印象を生んでいる。それが日本の国益のためにいいかと」
記者「飯島勲内閣官房参与が訪朝しました。米韓への事前の説明が不十分だったと指摘されています」
田中均「私が北朝鮮と交渉した時もそうだが、日本の課題があるから、すべてを他の国に相談してやっていくということではない。拉致問題は極めて重要で、日本が自ら交渉し解決していかなければならない。だが、核、ミサイルの問題は日本だけでは解決できず、関係国との関係を損なわないようにうまくやっていかなければならない。小泉純一郎元首相が常に言っていたように、拉致と核、ミサイルを包括的に解決するのが日本の政策なのだと思う。飯島さんの訪朝がスタンドプレーだとは言わないが、そう見られてはいけない」(以上)
田中均は最初に「いわゆる右傾化が進んでいると思われ出している」と外国の見方を伝えているが、外国の見方に何ら批判も否定も加えていないのだから、外国の見方を使った彼自身の安倍政権に対する右傾化批判であろう。
安倍晋三の戦前日本肯定・占領時代の戦後日本否定の思想の持主だということは既に定着している。国体護持(=戦前型天皇制維持)を戦後の日本の指導者達も欲求していたのだから、占領時代がなければ日本は民主化を果たすことができなかったはずだが、そのような戦前から戦後に至る経緯を無視しているからこそ、日本の戦争の侵略性の否定や「河野談話、村山談話をそのまま承継するわけではない」といった発言、「事実上占領軍が作った憲法だった」と制作主体の面からの日本国憲法否定の発言等を安倍晋三は口にすることができる。
安倍政権は飯島訪朝の目的を拉致・核・ミサイル問題等の包括的解決だと言っているが、北朝鮮側からしたら、核・ミサイル問題の交渉相手国はアメリカであって、日本を交渉相手とはしていないのだから、包括的解決を目的としていたはタテマエに過ぎない。日本が北朝鮮相手にできることは拉致問題と、それが解決した場合の戦争賠償と経済援助の話し合いのみである。
議題に載せたとしても満足な議論に発展することはないと分かっている包括的解決を口にしてタテマエを前面に押し出すこと自体が、既に真の目的である拉致問題の行く末を物語っていた。
秘密外交はその秘密が維持されてこそ、外交の目的に近づくことができる。その秘密が飯島が北朝鮮の地についた途端に暴露されたのだから、その時点で失敗が運命づけられたことになる。
失敗を包括的解決というタテマエで取り繕うとした。
当然、成算は日本側のみの思惑で終わったことになる。日本側が思い描いた成算は北朝鮮側は成算としていなかった。このことを見通すことができずに米韓に報告することもせずに秘密外交に及んだ。要するに軽挙妄動と批判されても仕方のない秘密外交であった。
田中均の飯島訪朝は「スタンドプレーだとは言わないが、そう見られてはいけない」と言って、見られていることを前提とした、あるいは見られかねないことを前提としたスタンドプレー紛いだという批判は軽過ぎる。
対して安倍晋三はフェイスブックで、田中均の安倍政権右傾化批判、飯島訪朝スタンドプレー紛い批判にそうでないことを知らしめる反論で以て応えるべきを、まともに応えずに11年前の出来事を持ち出して正当とは言えない批判で外交失格者に貶めようとしている。
これを意趣返しと言わずに何と言ったらいいのだろうか。
安倍晋三は北朝鮮と約束して、いわば国家と国家の約束で実現させた拉致被害者の一時帰国を自身の判断で永久帰国に変えたことを誇っているが、国と国との約束を破ってまでもして一時帰国を永久帰国に変えるなら、なぜ最初から日本に戻す原状回復を求めなかったのだろうか。
日本から北朝鮮に不法に拉致・誘拐されたのである。それが明らかとなり、被害者が北朝鮮に存在していることが判明した以上、原状回復が犯罪捜査上の常識であって(拉致解明と解決は日本国家による犯罪捜査・事件解明に当たる)、拉致から10年20年経っている関係から、被害者の在り様――その人生と生活を日本で10年20年とそのまま生活していたならこうであったろうという状況に可能な限り戻す原状回復があって初めて、被害者が味わった精神的苦痛、精神的外傷体験を回復できる契機とすることができるはずである。
だが、小泉と安倍晋三はなぜか一時帰国を選択した。日本に永久に帰すという選択肢がなかったはずはないから、原状回復を押し通すだけの外交力がなく、北朝鮮が求めるままに一時帰国を選択したということなのだろうか。
1回目となる小泉・金正日日朝首脳会談を2002年9月17日平壌で開催、約1か月後の2002年10月15日に5人の拉致被害者が一時帰国を果たすが、国と国との約束を違えて一時を永久に変え、永久帰国としたために北朝鮮の「約束違反」という反発を買って、家族の帰国は親の帰国から1年半後の2004年5月22日の小泉首相の2度目の訪朝を待たなければならなかったし、小泉と共に帰国を果たすことができた。
安倍晋三は田中均が一時帰国を果たした5人の拉致被害者を「北朝鮮の要求通り北朝鮮に送り返すべきだと強く主張し」、もしその「判断が通っていたら5人の被害者や子供たちはいまだに北朝鮮に閉じ込められていた事でしょう」と批判しているが、5人の被害者とその子どもたちは既に存在していることを北朝鮮が証明し、その情報を日本側が把握し、誰の目にも明らかとなった客観化した事実となっているのである。
例え北朝鮮に帰したとしても、その客観的事実に変りはない。それを最終的に原状回復という形で日本に帰国させることができずに「いまだに北朝鮮に閉じ込められ」た状況に野放しにしておいたなら、、最初から原状回復を実現できなかったことが既に証明していることだが、日本の外交無能力を曝す客観的事実としかならない。
安倍晋三が「その後 田中均局長を通し伝えられた北朝鮮の主張の多くがデタラメであった事が拉致被害者の証言等を通じ明らかになりました」との批判は田中均の問題ではなく、北朝鮮の人間性の問題だが、言っているとおりに北朝鮮がウソを並べ立てることに平気な国であっても、北朝鮮との一時帰国という国と国との約束を破ったことが北朝鮮の日本に対するウソの並べ立てに正当性を与えたはずだ。
なぜなら、誰でもが殆どそうであるように自分のウソをウソとしないからで、自分のウソをウソとしないままに相手のウソに自分のウソを対抗武器とすることを正当化させる。
北朝鮮は当時(それ以後もそうだが)経済的窮地に立っていて、金正日は経済的窮地の打開策として日本の戦争賠償と経済援助を必要としていたからこそ、5人の拉致被害者の生存とその家族の存在を認めたのである。
そのことを最大のチャンスとして、日本の戦争賠償と経済援助を外交カードに5人の拉致被害者とその家族以外の拉致被害者とその家族の存在確認と帰国に道を開くことができないままに10年の時を過ごし、現在に至っている。
いわば外交無能力から最大のチャンスを生かし切ることができなかった。一時帰国の約束を破って永久帰国とした安倍晋三の外交オンチな発案が影響していないとは決して言えない。
安倍晋三はお門違いにも外務官僚を批判する前に自身の外交能力の無能を責めるべきだろう。
拉致被害者が帰国した年の2002.10.25(金曜日)にアップロードした自作HP「市民ひとりひとり」《第55弾 拉致雑感》に「金正日に一時帰国ではなく原状回復を求めよ」と題した記事を載せ、それを2007年9月22日当ブログ記事――《拉致問題・麻生は福田より小泉・安倍を批判せよ-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の文中に再度紹介した。
2002年のときの認識と少し違いが出ているが、参考までに下記に
「金正日に一時帰国ではなく原状回復を求めよ」
日本人拉致が金正日が言うように「特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って行った」もので、自身が何ら関与していなかったということが真正なる事実であるなら、特殊機関のすべての行動に対して最終責任を負うべき立場にある北朝鮮国家の最高責任者である金正日が自らの職務上からも、誠実さという点、あるいは人道的観点からも、まずなすべきことは、生存者5人とその家族に謝罪し、その上で5人を拉致した場所に送り返す速やかな原状回復を行うことであろう。原状回復とは、日本人に戻すということをも意味するのは当然なことで、5人は日本という場所・国で日本人に戻った上で、自らの進退を決するべきである。それが純粋に本人の意志で決定される保証を確保されなければならない必要上、原状回復は5人の家族を伴った状態のものでなければならないだろう。
謝罪すべき直接的な対象は小泉首相ではなく、拉致された5人と日本の家族であって、それをしないだけではなく、原状回復の〝ゲ〟の字も口に出さないというのは、自らの関与があったからに他ならない。
日本政府にしても小泉首相自身にしても、勿論外務省も、“原状回復”の要求をほのめかすことすらせず、特に日本政府拉致調査団は5人に帰国の意思を確かめながら、北朝鮮で生まれ育った子どもたちへの配慮を理由に早期帰国には慎重姿勢だったと、そのままを調査結果として伝えるだけでは、子どもの使いの域を出ないお粗末さである。マッカーサー元帥がかつて日本の政治は13歳の子ども程度だと言ったが、それ以来今もって成長していないようである。
日本の主権を侵害されてまで、国民が暴力的に拉致・誘拐されたのである。5人の希望や都合で実現する形式の帰国ではなく、あくまでも金正日に原状回復を認めさせ、その実施をもって国交正常化交渉開始のあくまでも前進的条件とすべきだろう。つまり、原状回復は国交正常化交渉開始に向けた糸口――第一歩でしかなく、解明に向けた真相の進展に応じて、第二歩・第三歩とし、日本の家族を含めた日本側のすべてが十二分に納得したことをもって最終条件とする国交正常化そのものの交渉に入るべきではないだろうか。〉――
安倍晋三は最先端の医療技術開発の司令塔機能の付与を目的とした米国国立衛生研究所(NIH)の日本版創設を目論んでいる。
そのキッカケは第1次安倍内閣を投げ出す原因となった持病の潰瘍性大腸炎だと本人は言っている。
日本記者クラブ講演「成長戦略スピーチ」(2013年4月19日)
安倍晋三「私は、潰瘍性大腸炎という難病で、前回、総理の職を辞することとなりました。
5年前に、画期的な新薬ができて回復し、再び、総理大臣に就任することができました。しかし、この新薬は、日本では、承認が25年も遅れました。
承認審査にかかる期間は、どんどん短くなってきています。むしろ、問題は、開発から申請までに時間がかかってしまうことです。国内の臨床データの収集や治験を進める体制が不十分であることが、その最も大きな理由です。
どこかの大学病院で治験をやろうとしても、一か所だけでは病床数が少ないので、数が集まらない。別の病院の病床を活用しようとしても、データの取り方もバラバラで、横の連携がとりにくい。結果として、開発などに相当な時間を要してしまいます。
再生医療のような未踏の技術開発は、成果につながらないリスクも高く、民間企業は二の足を踏みがちです。そのため、新たな分野へのチャレンジほど、進歩は遅れがちです。
こうした課題に19世紀に直面した国がありました。アメリカです。
19世紀後半、多くの移民が集まり、コレラの流行が懸念されました。民間に対応をゆだねる余裕もなく、国が主体となって研究所をつくってコレラ対策を進めました。ここから、時代を経て、『アメリカ国立衛生研究所/NIH』が生まれました。
国家プロジェクトとして、自ら研究するだけでなく、民間も含めて国内外の臨床研究や治験のデータを統合・集約する。そして、薬でも、医療でも、機器でも、すべての技術を総動員して、ターゲットとなる病気への対策を一番の近道で研究しよう、という仕組みです。
その結果、NIHは、心臓病を半世紀で60%減少するなど、国内の疾病対策に大きな成果をあげています。さらに、現在、ガンの研究所やアレルギーの研究所など、全部で27の研究機関・施設を抱え、2万人のスタッフを擁して、世界における医療の進歩をリードしています。
日本でも、再生医療をはじめ、『健康長寿社会』に向けて、最先端の医療技術を開発していくためには、アメリカのNIHのような国家プロジェクトを推進する仕組みが必要です。いわば『日本版NIH』とも呼ぶべき体制をつくりあげます」――
世界経済フォーラム JAPAN Meeting オープニング・セッション(2013年6月11日)
安倍晋三「前回私は、潰瘍性大腸炎という持病のせいで、総理を辞めざるを得ませんでした。2007年のことです。
2009年になると、アサコールという、画期的な新薬が手に入るようになりました。
このアサコールというクスリは、ヨーロッパなどでは、もっと早くから出回っていました。
日本では、新薬の認証に、とても長い時間がかかります。外国でできた画期的な新薬を使えば、症状を改善できるかもしれないと思っても、日本のお医者さんはなかなか使えません。
これを、ドラッグ・ラグといいます。
これも、強いドリルで打ち破らなければいけない岩盤の一つです。
いま私は、日本版NIHをこしらえ、それぞれの役所の下で個別に研究するのでなく、新しいクスリを、一点集中的に国家資源を投入していく、研究機関で開発させようとしています」――
両発言を見て、色々な疑問点が浮かぶ。調べたところ、アメリカ国立衛生研究所(NIH)の設立は1887年である。遅れること127年かかって、やっと研究開発拠点施設の設立を思いつく。安倍晋三が素晴らしいと言うよりも、日本の政治全体の国民の生命(いのち)に対する創造性の問題であるはずだ。
安倍晋三にしても、本人が言っているとおりなら、自身が経験して思いついたのだから、経験しなければ思いつかないということになり、政治家としての創造性が問題となる。
外国で一般的に使用可能な薬が日本で認証が遅れて使用可能となるまでの時間のズレを言う「ドラッグ・ラグ」に触れているが、そういった現状を許してきた、あるいは野放しにしてきたのはあくまでも政治の責任であって、“政治ラグ”とも言うべき不作為が障害の役割を演じていた「ドラッグ・ラグ」であって、安倍晋三も政治家の一人として関わってきたはずだから、今更素晴らしいとは言えない。
安倍晋三が「5年前に、画期的な新薬ができて回復し、再び、総理大臣に就任することができました。しかし、この新薬は、日本では、承認が25年も遅れました」と言っていることは、30年前に外国で承認された薬が、あるいは外国の製薬会社によって日本に30年前に承認申請した薬が日本で5年前に承認されたということを意味するはずだ。
いわば日本に於いて「ドラッグ・ラグ」問題は30年も前から存在していたことになる。この遅れは如何ともし難い。
但しこの5年間で「承認審査にかかる期間は、どんどん短くなってきてい」るが、「国内の臨床データの収集や治験を進める体制が不十分であることが」原因となって、「開発から申請までに時間がかかってしまう」と言って、政治の責任よりもむしろ製薬会社から治験の委託を受けている大学等の医療機関の問題だとしている。
そして臨床データの収集や治験を進める体制の具体的な欠陥例として、「どこかの大学病院で治験をやろうとしても、一か所だけでは病床数が少ないので、数が集まらない。別の病院の病床を活用しようとしても、データの取り方もバラバラで、横の連携がとりにくい。結果として、開発などに相当な時間を要」することを挙げている。
だとしても、医療機関の体制の問題だけで片付けることはできない。そういった体制を長年日本の医療体制の一つの姿としてきたことは、そのことによって国民の生命(いのち)に関わる利益を奪ってきたことは政治の責任であるはずだ。
外国で使うことのできる薬が日本で使うことができない。あるいは使うことができても、保険が効かず、多額の医療費を必要として、生活を圧迫しているといった話をよく聞く。そういった国民の不利益を長年放置してきた。そして今なお放置して、現在に至っている。
12年前の2001年3月4日の「朝日新聞」朝刊に次のような記事が載っている。
50代半ばにリウマチになった60代後半の女性が杖を突かなければ歩けない程に全身の関節が痛むリュウマチに悩まされ、その痛みを和らげるために2000年に米国で承認された薬を個人輸入して使うことにしたが、薬が成田に到着すると、輸入報告書や医師の証明書を厚労省に届けて通称「薬監証明」を貰い、それを税関に持っていって通関手続きを済ませて、やっと手に入る。それをかかりつけの病院に持って行って、医師に注射して貰って、やっと関節の痛みを和らげることができ、人間らしい生命(いのち)を回復する。
以前は夫に起こして貰わなければ朝のベッドから起き上がることができなかったが、現在では一人で起き上がることができ、杖なしで買い物にも出かけることができる。
保険も効かないから、年間200万円もかかかる。だが、こういった福音はある程度裕福な家庭ではないと手に入れることはできない。福音を手に入れるも入れないも、カネ次第の格差が生じることになる。
要するに国民の生命(いのち)の維持に政治は無策であり続け、今なお無策な状態にある。新薬承認の問題だけではない、その他生命(いのち)の障害となっている様々な医療問題を含めて、日本の政治全体の創造性が関わり、長年に亘って培養してきた貧弱な医療事情であるはずだ。
安倍晋三一人、蚊帳の外にいたわけではない。
そしてここに来て安倍晋三が日本版NIE設立の構想を打ち上げた。安倍晋三自身も関わってきたこのような日本の政治全体の国民の生命(いのち)に関する貧しい創造性から見た場合、アメリカ国立衛生研究所に似た組織をつくる実行能力は発揮ことができたとしても、組織を十全且つ効率的に機能させるソフト面の仕組みをつくる実行能力は100%確信することはできない。
省庁のタテ割りの弊害を長年言い続けていながら、今以てタテ割りを排除できず、官僚組織の至る場所で巣食わせているのと同じようにである。
このことも日本の政治全体の創造性が関わってきたタテ割りの延命であるはずである。
安倍晋三は2013年6月5日昼、東京都内のホテル開催の内外情勢調査会全国懇談会で「成長戦略第3弾」を発表したものの、成長戦略の柱とした各政策の公表が「新鮮味に欠ける」とか、「想定の範囲内」、「踏み込みが欠ける」とかの理由で株の失望売りにつながり、6月5日の東京株式市場での日経平均株価が大きく値下がりした。
そして安倍晋三はたった4日後の6月9日日曜日の「日曜討論」で、「成長戦略第3弾」では一言も触れていない「思い切った投資減税」を打ち出した。
司会「これまでの打ち出された成長戦略の中身、これが様々なこの国の既得権を見直す構造改革につながっていかないんじゃないとか、こういう踏み込み不足だという指摘もあります。こういう指摘にどう応えます?」
安倍晋三「あの、常にどこまでいけばこの改革は終わるだろうというものはないんだろうと思うんですね。まあ、これは、もう、すうっと改革はその時々の状況に合わせて、状況に合わせていかなければいけません。
例えば農業の問題。民間の皆さんが今まで農業に参入していなかった方々がですね、えー、農業に参入しやすい状況を作っていきます。
例えば今まで農地を集約するといっても、担い手がですね、飛び地のように持っていたんですね。これを土地として集約するにはどうしたら良いか。これをいわば県が主体となって農地を集約して、土地を集めていって非常に生産性を高めていく。
これを企業の皆さんに借りて頂いて、リース方式でどんどん借りていただいてですね、積極的に農地に参入して頂く。これは私は大きな変化だと思います。
しかしこれで十分だとは思っていません。さらに我々は全力を尽くしていきたいし、そして私たちはそうした政策をどんどん集めていくことによってですね、10年間ですね、10年間で国民総所得、いわば日本人の稼ぎをですね、一人あたり150万円まで増していきたい」――
安倍晋三はこれまでにアベノミクスの3本目の矢としている「民間投資を喚起する成長戦略」を3回に亘って発表している。
第1回目は4月月19日午後の日本記者クラブ、「成長戦略に向けて」と題して行なっている。
第2回目は5月17日、「成長戦略第2弾スピーチ」と題して日本アカデメイアの会合で行なっている。
第3回目は6月5日、内外情勢調査会の会合で「成長戦略第3弾スピーチ」と題して発表。
司会はアベノミクスの中身が既得権打破の構造改革に繋げるには踏み込み不足という指摘があるが、その指摘にどう応えるのか問い質した。
対して安倍晋三は5月17日第2回目発表の成長戦略に羅列した、もう前々から言われていて、未だ実現していない「農地集約の構造改革」と民間企業の農業への参入の効果を改めて説明した上で、10年間で国民総所得を一人当たり150万円まで増やすと約束している。
要するに踏み込み不足という指摘の存在に対して何らまともに答えていない。
矛盾はこの一つではない。
「改革はその時々の状況に合わせて、状況に合わせていかなければいけません」と言っているが、そう言う以上、これまで3回に亘って発表した「成長戦略」の各政策は「その時々の状況に合わせて」練り上げた政策ということになって、踏み込み不足などあってはならないはずだが、そう言う指摘があること自体、「その時々の状況に合わせ」たことと矛盾することになる。
いわば踏み込み不足という指摘自体が「その時々の状況に合」っていない成長戦略ではないかという指摘であって、自身の政策立案との矛盾を無視して、「その時々の状況に合」っている政策として、既に第2回目に公表した政策を例に挙げて自己正当化の強弁を働かせたことになる。
しかし第3回目の「成長戦略第3弾」発表後、株価が下がり、為替が円安に大きく触れたこと、内閣支持率がすこじずつ下がり始めていることに不安を感じたからだろう、6月5日の「成長戦略第3弾」を発表4日後の6月9日日曜日にテレビ番組で「思い切った投資減税」を打ち出すことになったに違いない。
この投資減税はさらに2日後の6月11日の「世界経済フォーラム JAPAN Meeting オープニング・セッション」の会合でも言及している。
安倍晋三「『三本の矢』で、どんな日本をつくりたいのか。それを、ご説明いたします。
日本がじっとしていると、世界経済には貢献できません。
小さくなると、世界には、マイナスの効果を与えることになります。
日本は、なんといっても、ドイツと、英国を、合わせたより大きな国であります。
そんな国が、小さくなると、世界に悪影響を与えかねません。それこそ、近隣窮乏化のそしりを免れなくなります。
逆に、少しずつでも大きくなっていきますと、みんなに、いい影響が及びます。世界との、ウィン・ウィン関係ができてきます。
経済をもう一度強くして、世界にもっと貢献できる日本をつくる。それが、私が目指す政策であります」――
安倍晋三が打ち出す成長戦略政策に対する市場評価に応じて株価や為替レートが影響を受けて上下に触れるが、何よりもアメリカが発表する各経済指標に応じて、その影響をより大きく受けている。
これはアベノミクスだけの問題ではない。断るまでもなく、以前からの傾向としてある。
アベノミクスも所詮アメリカ経済というお釈迦様とその手のひらの中で踊る孫悟空との日米経済関係にある。単に勇ましい言葉を並べ立てるだけでは片付かないはずだが、既に「成長戦略」として発表した各政策をここでも再度並べ立てている。
安倍晋三「国際的なまちづくりには、外国人でも安心して病院に通える環境が必要です。外国人がコミュニケーション容易な医師から診療が受けられるようにし、トップクラスの外国人医師も日本で医療ができるよう制度を見直します」
この制度への見直しは6月5日の「成長戦略第3弾スピーチ」で既に発表した政策である。
安倍晋三「職住近接の実現もまた、大都市に住む人には課題です。マンハッタンでは、昼間と夜間の人口に、ほとんど差はありません。街の中心部での居住を促進するため、容積率規制も変えます」――
これも6月5日の「成長戦略第3弾スピーチ」で発表した政策。
安倍晋三「外国からの直接投資です。2020年までに、外国企業の対日直接投資残高を、いまの2倍、35兆円に拡大します。今日の為替相場で換算すると、3070億ドル以上になります」――
これも6月5日の「成長戦略第3弾スピーチ」で発表した政策。
安倍晋三「3年間で、国内民間投資の水準を、70兆円、6000億ドル以上に戻します」
これも6月5日の「成長戦略第3弾スピーチ」で発表した政策。
「踏み込む不足」という市場評価があるにも関わらず、そのことに直接反論して市場を納得させる努力を果たさずに既に発表して約束した政策を再び持ち出して何度でも同じ言葉を繰返して約束することになると、言葉で一生懸命成功を約束する状況に陥ることになる。
無意識下に気づいていて、そうでないことを示すことと、「踏み込み不足」を解消するためにだろう、3回に分けて発表した「成長戦略」に入れていなかった「設備投資減税」を新たな成長戦略として打ち出さざるを得なくなった。
安倍晋三「日本の習慣として、次の年に手掛ける税制改革は、前の年の年末に決める、というのが、これまでの通例でありました。
今年は秋に決めることにします。思い切った投資減税や、新陳代謝をうながす税制など。私の成長戦略に切れ目はありません」――
年末まで待てないから、「秋に決める」ということもあるだろが、それ程に待てないなら、「成長戦略第3弾」発表で加えてもいい政策であるはずだが、加えなかったのは「踏み込む不足」と評価されたことと、言葉で並べ立てている成功の約束に新たに一枚加えて確かにしたい思いも働いたに違いない。
茂木経産相、麻生副総理兼財務相、甘利経済再生担当相が一致して「設備投資減税」を言い出し、大合唱の様子を呈していることも、成功を思わせる効果となる。
安倍晋三は「チャレンジ、オープン、イノベーションと、私は成長戦略を3つのコンセプトで説明しました」と前置きして――
安倍晋三「しかし、いちばん大切なのは4つ目の言葉、『アクション』なのです。
成長戦略は作文ではありません。官僚たちがお得意の作文。私は行動で1つ1つを示していきます。
わたしは、今年からの3年を、集中的な改革の期間と位置付けています。
この改革は、回転ドアみたいに、毎年トップが変わるような政治体制ではやり抜けません。
3年に一度の半数を改選する参議院議員選挙が7月後半にやってきますが、負ける訳にはいきません。
そして、選挙が終わったら、いよいよアクションです。国民に実感を与え、世界にも、日本はほんとうに変わったと思って貰えるように、やり抜くつもりであります」――
「3年に一度の半数を改選する参議院議員選挙が7月後半にやってきますが、負ける訳にはいきません」。要するに「踏み込み不足」をふっ飛ばして参院選に是が非でも勝利するために言葉で約束をする政策としてなりふり構わずに打ち出したバラ撒き政策「設備投資減税」だと見ることができる。
この見方は次の記事も取り上げている。
《安倍首相:設備投資減税を指示 党内には戸惑いも》(毎日jp/2013年06月11日 07時00分)
「設備投資減税」について、〈自民党は早ければ8月下旬にも党税調の論議を開始する方向だが、党内では「具体策がない中で『前倒し』だけが独り歩きしている」との戸惑いも出ている。〉――
財務省幹部「首相官邸が(設備投資減税に)前のめりになっている」
バラマキ政策に具体策などあろうはずはない。
記事。〈経済再生を参院選の争点に据えたい首相にとって「アベノミクス」への期待をつなぎ留める必要があるためだ。成長戦略の評価が芳しくないことから、「次の一手」を急いでいるとみられる。〉――
参院選に勝利するために、もう、なり振り構っていられなくなった。執念と言えば執念と言えるが、いくら選挙のためとは言え、具体策もなく、言葉だけの約束で成功を思わせることは許されるはずもない。
「投資減税の規模や手法によっては、法人税の税収が大きく減少することになりかねない」(税制調査会の幹部)と財政規律とのバランスの面から懸念する声も出ていると「NHK NEWS WEB」は伝えている。
いわば財源の満足のいく手当を講じつつ内容を具体的に詰めてから公表する当たり前の手順を踏んで公表した「設備投資減税」ではなかった。
そうではない以上、言葉だけの約束となる。
一昨日の当ブログで、安倍晋三が「一人あたりの国民総所得」を一人あたりの年収と間違えて街頭演説したことを、菅無能元首相が消費税増税を打ち出し、低所得者対策として消費税額分の税還付を言い出したものの、街頭演説の行く先々で還付対象の年収を違えたことと同列に置き、「しっかりと頭に入っていなかった」と批判したが、「設備投資減税」発表の手順の違いも菅無能の満足に内容を詰めずに発表した消費税増税の手順と同列に置くことができる。
言葉だけの約束の上塗りと言ってもいい、なり振り構わないバラマキ政策の「設備投資減税」であることに間違いはない。
オバマ米大統領と習近平中国国家主席の米中首脳会談が7、8日(2013年6月)の2日間、米カリフォルニア州パームスプリングズ近郊の保養施設サニーランズで開催された。
両首脳会談はロシアのサンクトペテルブルク20カ国・地域(G20)首脳会合開催の9月に予定されていたが、米側が早期の会談を提案、中国側が迅速に応じた結果、今月の開催となったものだと「MSN産経」記事が伝えている。
会談時間は2日間で計約8時間。他の首脳会談と比較したこの8時間という異例な長さが儀礼的意味合いを一切排除し、如何に双方が相手国を国際秩序維持とそれぞれの国益確保に欠かすことのできない重要な国家に価値づけているかを見て取ることができる。
対して米国から見た場合の日本の価値はどのくらいか。
2012年12月26日に二度目の首相に就任した安倍晋三は昨年12月の衆議院選挙直後のオバマ大統領との電話会談で1月訪米で調整を進めることを確認し合ったというが、アメリカの「財政の崖」問題や二期目の大統領就任式が1月下旬に予定されていたことから断られ、2月の訪米となった。
要するにオバマ大統領は日本を忙しさを押してでも会わなければならない必要性を与える相手と見ていなかった。
アメリカ側が安倍晋三を受け入れるに当たって準備に時間を取られるとしても、オバマ大統領自身の拘束時間は討議内容のレクチャーを受ける時間と、多分、会談前にトイレに行って小便をする時間と会談そのものに要する時間ぐらいのものだろうから、必要性さえ感じたなら、作って作れない会談時間ではなかったはずだ。
しかも安倍晋三との日本時間2月23日午前2時過ぎからの日米首脳会談はホワイトハウスで開催。そこまで行く拘束時間はほぼゼロに等しい。会談時間は約1時間50分だったというから、1月の首脳会談であっても差し支えなかったはずだ。
日米首脳会談の約1時間50分に対して米中首脳会談が延べ2日、約8時間という会談時間の長さから見る、アメリカの日中それぞれの国に対する価値づけの差は安倍晋三にしたら当然、無視できない、気になる価値づけとなる。
マスコミも「米中2強時代の幕開け」とか、「霞む日本の立ち位置」とかの価値づけを行なっている。
こういった価値づけに対して安倍晋三や菅官房長官は中国のアメリカに対する存在感に対抗した日本のアメリカに対する存在感をアピールする必要からの発言が続いた。
《官房長官「米は日本の立場踏まえ対応」》(NHK NEWS WEB/2013年6月10日 12時15分)
6月10日午前記者会見。
菅官房長官「アメリカと中国が相互に関与を進めていくことは、地域や国際社会の平和と安定の観点から歓迎したい。
日本とアメリカは、米中首脳会談の前に、緊密に意思疎通を行っており、アメリカ側は、わが国の立場を踏まえながら対応したと理解している。引き続き、日米同盟の強化に努めるとともに、中国との間では、個別の問題が関係全体に影響を及ぼさないよう、戦略的互恵関係の原点に立ち戻るようにしたい」――
前段の「アメリカと中国が相互に関与を進めていくことは、地域や国際社会の平和と安定の観点から歓迎したい」は事実だとしても、儀礼的な意味合いを含んでいるはずだ。
この米中関係の進化が――会談で米中の戦略的協力関係の強化が打ち出されたというが、――日本の存在感を相対的に低下させるものなら、例え「地域や国際社会の平和と安定」に寄与しようが、歓迎どころではなくなるからだ。日本が存在しなくても米中二カ国で「地域や国際社会の平和と安定」構築の力となることを意味することになる。
後段の「日本とアメリカは、米中首脳会談の前に、緊密に意思疎通を行っており、アメリカ側は、わが国の立場を踏まえながら対応したと理解している」は情けない話だが、日本のアメリカや中国に対する存在感のアピールとは無縁の、対米依存を暴露する発言以外の何ものでもない。
如何なる国家も自国国益を最優先・最大事項として行動する。いくらアメリカが日本と緊密に意思疎通を行い、日本の立場を踏まえて中国に対応しようとも、そのためにアメリカが自国国益を犠牲にするわけではないのは断るまでもないことである。
いわばアメリカがどれ程に日本の立場を踏まえて中国に対応しようとも、自国国益を基準とした対日配慮であって、対日配慮はアメリカ国益に組み込む必要度と重要度に応じて生きることになるが、常にアメリカ国益が優先される相対化の力を受けることになることは国際関係に於ける道理であって、そうである以上、日本はアメリカの国益を背景として日本の国益を図ることになるアメリカ仲介で中国と対峙するのではなく、自らの力にって直接的に中国と対峙して日本の国益を確保する自助外交が何よりも要求されているはずだ。
であるにも関わらず、菅官房長官はアメリカが自国国益を優先させる道理を弁えもせずに、「アメリカ側は、わが国の立場を踏まえながら対応したと理解している」と頼った発言をしている。
例えば日中の国益が衝突する尖閣問題についての両首脳の対応を次の記事――《米中首脳会談:尖閣巡り平行線 オバマ氏が対話解決要請》(毎日jp/2013年06月10日 11時21分)が伝えている。
ドニロン米大統領補佐官(国家安全保障担当)の会談後の紹介だという。
オバマ大統領「事態の沈静化と、軍事行動ではなく外交的な対話による解決を求める」
習主席「国家主権と領土の統一を断固として守る。関係国が責任ある態度で挑発ともめごとを起こすのをやめ、対話を通じて問題を解決する路線に戻ることを望む」――
尖閣問題でオバマ大統領がどれ程に日本の立場を踏まえて対応したか、領土紛争や軍事衝突が発生した場合によく使われる常套句を使って要請したのみで、その程度が分かる。少なくとも現在のところ、尖閣問題という日本の国益をイコールアメリカの国益としていないということである。
対して習主席は以前と変わらない中国国益を正面から主張している。
安倍晋三がどのように日本の存在感をアピールしているか見てみる。《首相 日米同盟基軸の外交を強調》(NHK NEWS WEB/2013年6月9日 15時39分)
6月9日のNHK「日曜討論」
米中首脳会談で戦略的な協力関係の強化が打ち出されたことについて――
安倍晋三「中国は世界戦略で当然、米中関係をよくしていこう、米中で接近してオバマ大統領と信頼関係を築こうとすると思う。その方向は間違っていないし、世界の平和と安定にとってはいいことだろうと思う。
(アメリカと中国の接近を懸念する見方に)日米関係は同盟関係であり、第7艦隊の拠点が日本にあるからこそ、アメリカはアジアのプレゼンスを守ることができる。これは決定的な差と言ってもいい。アメリカが、日本から上海に基地を移すということはありえない」――
前段は菅官房長官発言の前段と同じで、儀礼的な発言であろう。後段は、米中接近の見方に対して日米同盟関係を持ち出して日本の対中、対米存在感をアピールしている。
いわば日本とアメリカは切っても切れない同盟関係にあり、中国とは違う、中国にしてもアメリカから日本を切り離すことはできないと同盟関係を糧に米国に対する日本の必要性を強調している。
確かにアメリカにとって中国は軍事的には気を許すことのできない、常に警戒してかからなければならない、経済の力が強大な軍事力を支えている経済的・軍事的大国であって、そのためにも日米同盟関係の維持を日本のみならずアメリカも自国国益としている。
だが、日米中、それぞれの国益は日米の同盟関係のみで決まるわけではない。アメリカは中国を中国に対する軍事的警戒をコントロールして関係を深めていかなければならない自国国益確保上の大国と位置づけているからこそ、あるいはその軍事的警戒をコントロールすること自体が自国国益確保の一つの方策につながる大国と見ているからこそ、オバマ大統領は戦略的な協力関係の強化を必要とし、そのための今回の2日間、延べ8時間に亘る米中首脳会談を設定したはずだ。
いわばアメリカの国益からしたら、日米の同盟関係も相対化の力学に曝されることになる。日米の同盟関係を最優先の国益として対中行動を決めるわけではない。外交関係は常に国益をリトマス試験紙とするということである。
「アメリカが、日本から上海に基地を移すということはありえない」が不変の事実だとしても、決してそれだけで国益というものが片付く問題ではない。
だが、安倍晋三は単細胞にも日米同盟に頼って、それだけで片付くかのようにアメリカの日本に対する存在感の証明とした。
その外交能力の貧弱さは見事と言う他ない。「世界に勝つ」とか、「地球儀を俯瞰するように外交を進めたい」を常日頃からの常套句としているが、安倍晋三の外交能力の貧弱さを見た場合、明らかに言葉だけの外交能力だと、その正体を曝すことになる。