安倍晋三のしっかりとは頭に入っていない「10年後1人当たり国民総所得150万円増」の成長戦略公約

2013-06-10 08:46:49 | Weblog

 安倍晋三は2013年6月5日昼、東京都内のホテルで開かれた内外情勢調査会全国懇談会で「成長戦略スピーチ第3弾」をテーマに講演。

 そこで「女性の活躍」、「世界で勝つ」、「民間活力の爆発」の成長戦略三本柱を掲げ、「達成すべき指標」(=KPI)を次のように掲げた。

 安倍晋三「3年間で、民間投資70兆円を回復します。

 2020年に、インフラ輸出を、30兆円に拡大します。

 2020年に、外国企業の対日直接投資残高を、2倍の35兆円に拡大します。

 2020年に、農林水産物・食品の輸出額を1兆円にします。

 10年間で、世界大学ランキングトップ100に10校ランクインします」・・・・・

 そしてもう一つ公約を「達成すべき指標」(=KPI)に加えた。
 
 安倍晋三「中でも、最も重要なKPI(達成すべき指標)とは何か。それは、『一人あたりの国民総所得』であると考えています。

 なぜなら、私の成長戦略の目指すところが、意欲のある人たちに仕事をつくり、頑張って働く人たちの手取りを増やすことに、他ならないからです。

 つまりは、『家計が潤う』こと。その一点です。

 ・・・・・・・・・・・・・

 海外経済にも恵まれて、この成長シナリオを実現できれば、一人あたりの国民総所得は、足元の縮小傾向を逆転し、最終的には、年3%を上回る伸びとなります。そして、10年後には、現在の水準から150万円以上増やすことができると考えています」――

 揚げ足を取るようだが、言っていることに少々矛盾がある。

 最初に「中でも、最も重要なKPI(達成すべき指標)とは何か」と言って「一人あたりの国民総所得」を最も重要な達成すべき指標に位置づけた。

 と言うことは、「3年間で、民間投資70兆円を回復」だとか、「2020年に、インフラ輸出を、30兆円に拡大」等々の最初に掲げた達成すべき指標の最上位に置いたことになる。

 いわばそれぞれを別々に取り組むべき指標とした上で一人当たりの国民総所得の10年後現在水準からの150万円増を最上位の指標としたのである。
 
 この時点で既に矛盾を来しているのだが、後になって、「海外経済にも恵まれて、この成長シナリオを実現できれば」と、先に列挙した「3年間で、民間投資70兆円を回復」だとか、「2020年に、インフラ輸出を、30兆円に拡大」だとかの実現を前提とした目標だと、いわば別々に取り組むべき指標の一つではなく、当然のことだが、最初に掲げた指標の結果、果実だと矛盾を軌道修正している。

 尤も、「中でも、最も重要なKPI(達成すべき指標)とは何か」と言って、「一人あたりの国民総所得」を挙げた方が、国民の収入を最重要に考えていると国民に思わせる効果はある。

 その言葉(「中でも、最も重要なKPI(達成すべき指標)とは何か」)を使わずに、最初から「海外経済にも恵まれて、この成長シナリオを実現できれば」と条件付きとしたなら、成長シナリオ自体の成功の印象を不確実視させることになるし、思わせの効果は確実に減る。

 安倍晋三は元々巧みなレトリックで実現能力があるかのように思わせる言葉の遣い方をする。意図しないままに自然と出た思わせ効果といったところなのだろう。

 「国民総所得」とは日本企業や国民が国内で得た所得と国外で得た所得の総額だそうで、当然、国外で得た所得は為替レートの影響を受ける。円安になればなる程、国民総所得は増えることになる。

 例え増えたとしても、一般国民の賃金に反映されなければ、意味を成さないし、逆に円安は輸入物価を高くして、その分相殺されることになるから、可能な限りの賃金への反映が第一義となる。

 企業は国際競争力確保の防衛意識から賃金を抑制する傾向にある。「一人あたりの国民総所得」が増えたとしても、賃金に反映する保証はない。

 いずれにしても、「海外経済にも恵まれて、この成長シナリオを実現できれば」という条件付きを当然としたとしても、そのような条件付きで「一人あたりの国民総所得」を「10年後には、現在の水準から150万円以上増やすことができると考えています」と国民に公約した。

 当然、「一人あたりの国民総所得」の公約は頭の中の重要な場所に置いていたはずだ。預金せずに大金を現金で家に置く場合、そういう身になってみたいものだが、家の中の重要な場所に置くようにである。例え押入れの隅っこに隠したとしても、そこは常に気をかけていなければならない重要な場所となる。

 ところが6月8日(2013年)、安倍晋三は東京都内6箇所で参院選の前哨戦と位置づけている都議選の街頭演説を行い、すべての街頭演説で「一人あたりの国民総所得」とは異なる150万円増を公約として訴えたという。

 《平均年収?総所得?首相「150万増」コロコロ》YOMIURI ONLINE/2013年6月9日13時19分)

 東京都葛飾区内の街頭演説。

 安倍晋三「10年間でみなさんの年収は150万円増えます」――

 要するに海外企業や外国人を含めた日本国内で生産されたものやサービスの合計額である国内総生産(GDP)や、日本企業や国民が国内外で得た所得の総額を示す国民総所得(GNI)の影響は受けるとしても、それらの数値に基づかずに年収そのものが10年間で150万円増えると約束したことになる。

 6箇所の街頭演説で、2箇所で「年収」とし、「平均年収」、「1年間の収入」、「国民の平均の所得」、「皆さんの所得」が各1箇所ずつ、計6箇所とも、「国民総所得」とはイコールで結びつかない年収や所得といった表現で説明したと伝えている。

 頭の中の重要な場所に置いておかなければならない「一人あたりの国民総所得」10年後現在水準から150万円増の公約でありながら、実際はしっかりと頭の中に入れていなかった。

 しっかりと頭の中に入れていないままに「年収」や「平均年収」、あるいは「1年間の収入」、「国民の平均の所得」、「皆さんの所得」等々と名前を変えて、これらがさも10年後に現在水準から150万円も増えるかのように熱意を込めて訴え続けた。

 何という滑稽、無責任・無認識な公約の振り撒きなのだろうか。

 菅無能元首相が民主党が敗れた2010年7月参院選前の街頭演説で、自身が打ち上げた消費税増税の低所得者対策として消費税額分の税還付を言い出し、還付対象の年収を街頭演説の行く先々で、「年収300万円とか350万円以下」、「年収200万円とか300万円」、「年収300万~400万円以下の人」などと言うことを違えた無責任を思い出す。

 どちらに無責任・無認識の軍配を上げるべきかというと、どっこいどっこいの勝負ではないだろうか。

 菅無能はその無責任・無認識ゆえに参院選に敗北した。としたら、安倍晋三も今夏の参院選敗北を同運命としてもよさそうなものだが、国民は騙され続けて参院選勝利を贈呈するかもしれない。 

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安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(1)

2013-06-09 12:38:57 | 政治

 開戦には反対だった昭和天皇が軍部の稚拙でいい加減な戦争遂行能力を戦争中に目の当たりで学習し、天皇に伝えられた戦果、情報にまでゴマカシがあったことを戦後学んだからだろう、当然、戦争を仕掛け、負ける戦争を指揮した政府・軍部の関係者に不快感を持っていたはずで、それまで参拝していた靖国神社にA級戦犯を合祀することになって、「A級戦犯合祀が御意に召さず」とそれ以来参拝を中止した、その日本の戦争に対する昭和天皇の学習能力に反して安倍晋三は「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と擁護したばかりか、侵略戦争ではないと日本の戦争を正当化し、あまつさえ日本の首相は靖国参拝をすべきだとしている、その学習能力のなさを把えて、歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を参考に2007年5月10日からブログ記事――《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1~5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》をエントリーした。

 今回は再び『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』を参考に、上記ブログと重なる個所が多分に生じるが、大日本帝国憲法に権威づけられた天皇像と異なる現実の天皇像を抽出して、安倍晋三が信じて止まない「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」で、「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする天皇像が如何に虚ろな実像に過ぎないか、昭和天皇自身も感じていたに違いない天皇像を明らかにしたいと思う。

 先ず最初に大日本帝国憲法(明治憲法)に規定している天皇の地位・権力を見てみる。読みの都合上、濁点を入れた。

 第1章 天皇

 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ
 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第11條天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第13條天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス(以上)
 
 【統治権】    「国土・国民を治める権利」
 【総攬】     「掌握して治めること」
 【統帥権】    「軍隊を支配下に置き率いる権利」
 【統治権ヲ総攬ス】 「国土・国民を治める権利を掌握し統治すること」

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の文言には天皇の絶対性に対する高らかな謳いがある。

 大日本帝国憲法は天皇を国家の元首に据え、その権力は国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、「神聖ニシテ侵スベカラズ」存在だと絶対権力者に位置づけていた。

 それらの絶対権力は政府・議会から独立した天皇個人に帰する権能とされ、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされる程に絶対性を確保していた。

 「国体の本義」は次のように謳っている。

 〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。〉――

 【現御神】【明神】(あきつみかみ)「現実に姿を現している神。天皇の尊称」(『大辞林』三省堂)
 【神裔】(しんえい)「神の子孫である天皇のこと」

 天皇は「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」るその伝統性と、「皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源」であるがゆえに、その絶対統治権を与えられているとしている。そしてこの点が外国の君主と異なるところだと。

 国家・国民の生成発展のすべてが大本の祖先と一体の天皇から発しているとする思想は安倍晋三が自著『美しい国へ』で言っている、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」の歴史認識にそっくり合致する。

 では、昭和天皇は大日本帝国憲法が規定している絶対的権力を実像としていたのだろうか。安倍晋三が言うように戦前の日本の歴史の縦糸としての役目を果たしていたのだろうか。

 「国体の本義」が描いているように現人神として日本国家・国民の「生成発展の本源」足り得ていたのだろうか。

 では再び歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を紐解いて、大日本帝国憲法その他が描く天皇の実像と異なる、その実像を虚像とする現実の天皇像が現れている個所を適宜取り上げてみる。漢字の読みと意味は『大辞林』に負う。ブログ用に少し書式を変える。解説は青文字とした。

 『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦1日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。

 小倉庫次侍従日記(昭和14年6月26日)「日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。

 平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す」

 半藤一利解説「『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている」

 『昭和天皇独白録』「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を勧めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」

 半藤一利解説「五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう」
  
 解説「上記解説を見る限り、昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、『何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問い質した』とすると、大日本帝国憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定にも関わらず、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語ることになり、どちらが実像だったのかが問題となる」

 小倉庫次侍従日記(昭和14年6月29日)「ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。(平沼)首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す」――

 【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)

 半藤一利解説「満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。『或限界以上には越えざる事』どころではなかった」
 
 解説「大本営が『或限界以上には越えざる事』とした不拡大方針に反して現地の関東軍が拡大方針であったということは大日本帝国憲法が規定している天皇の統帥権は有名無実化していたことになる。

 いや、それ以前に大日本帝国憲法が
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定している以上、昭和天皇の意向を受けた大本営の不拡大方針でなければならない。

 だが、大本営自体が天皇の統帥権の埒外で行動していたことが後に判明する。いわば大日本帝国憲法の天皇に関わる規定を蔑ろにしていた。

 大日本帝国の軍部を含めた政治権力層が、自分たちで創り出したのだから、実像としなければならない天皇の現人神としての存在性をも蔑ろにしたことになる。

 いわばその程度の扱いを受けていたことが実際の実像であり、大日本帝国憲法の規定も、現人神とする規定も、虚像を実体としていたことになる。

 このような扱いは
「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」る現人神の伝統性そのものの否定に当たり、天皇が歴史的に権力の二重性を伝統としていたことを考え併せると、昭和天皇のみに対する扱いではないことになる。

 天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を
『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。

 誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受けることはできない。

 このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、国民統治装置として機能していたものの、体制側の人間の装置とはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかった」


 小倉庫次侍従日記(昭和14年10月19日(木))「白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり」

 【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在」

 半藤一利解説「側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた」

 『西園寺公と政局』が記した天皇の発言(半藤一利解説による)「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)

 半藤一利解説「その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう」
 
 解説『天皇の態度は強烈』と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。

 本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを
『御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり』とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている」


 小倉庫次侍従日記(昭和15年1月29日(月))

「歌会始 御製
「西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに」

 半藤一利解説「第2次大戦のゆくえを憂う歌である」
  
 解説『世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに』。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。

 明らかに反戦歌である。調べてみたが、題名が
『迎年祈世』(年を迎え、世を祈る)となっている。

 だが、軍部・政府は日本をアジアの支配者の位置に置いた
「栄ゆかむ世をこそ』と祈っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している」 

 小倉庫次侍従日記(S15年2月3日(土))「夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。

 後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる」

 半藤一利解説「斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として『ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・』戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。

 当然、陸軍は『聖戦』を冒涜するといきり立ったのである。『なかなかうまいことをいう』と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
  
 解説「天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、物の見事に両者の立場の違いを証明している。

 斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には平和願望を押し通す力ばかりか、議会の斎藤除名を止める力もない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在・現人神であることをも証明している」

 
 小倉庫次侍従日記(昭和15年9月19日(木))「朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。

 議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(いんきょ「許すこと。許可」)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05

 ・・・・・・・

 会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)

 半藤一利解説「9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、『今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか』と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
 
 この日の御前会議ですべてが決したのである」
 
 解説「半藤氏が解説している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる『立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」(06.7.13.『朝日新聞』朝刊/『侍従長の回想』)とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示となる。

 もし昭和天皇の言っている通りの天皇像が実像だとすると、大日本帝国憲法その他で保障している絶対性は意味を失い、虚像と化す。

 現実にも日記で見てきたとおりに憲法その他で保障している天皇の実像が虚像であることからすると、天皇は憲法その他に反する自身の虚像性を実像と暴露することによって自身の存在性に整合性を与えたことになる。

 
「議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許せられず」は虚像を虚像としたくない精一杯の抵抗と見る他ない」

 小倉庫次侍従日記(昭和15年9月27日(金))「本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる」

 【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」
 【渙発】「詔勅を広く発布すること」

 『木戸日記』に記された9月24日の天皇の言葉(半藤氏解説)よる)「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」

 詔書の一節(半藤氏解説)よる)「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
   
 解説「自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」としていることは天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」「統治」との間に乖離が存在することを示している」

 小倉庫次侍従日記(昭和15年10月12日(土))「聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき」

 半藤一利解説「天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる」
 
 解説「確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない虚像であることを浮かび立たせているばかりか、安倍晋三が言っているのとは違って天皇が日本の歴史の縦糸とはなっていないことを炙り出している」

 小倉庫次侍従日記(昭和S16年1月9日(水))「常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり」

 半藤一利解説「5年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。例えば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある」

 『西園寺公と政局』「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」

 【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」

 半藤一利解説「大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが『中国一挙論』とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の『日本は支那を見くびりたり』はそのことを衝いている」

 解説「大日本帝国憲法や『国体の本義』が謳っている絶対性を担わせた天皇像に反して実質的には世俗権力に従属した天皇の無力だけが浮かび上がってくる。

 安倍晋三が言うように日本の歴史の中心者の姿はどこにもない。

 もし戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、
「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。

 いわば軍は終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで策を失い、力をなくして天皇に縋るしかなく、そのことが天皇が相対的に力を回復したから出せた“英断”といったところなのだろう。

 軍が力を残していたら、出せなかった“英断”というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなければならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の“英断”に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく」


 小倉庫次侍従日記(昭和16年5月8日(木))「〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄」

 半藤一利解説「この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった」

 松岡外相「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」

 半藤一利解説「天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に『外相をとりかえた方がいいのではないか』と洩らしたという」

 解説「松岡という男は戦術・戦略を語って、その勝算如何から日本の進路をどうすべきか天皇に進言すべきを、勝算という秤を用いずに『信義』を最重要価値として日本の運命を鼻息の荒さだけで秤にかける外交にもならないことを言っている。

 この程度の男が当時の日本の外交を担っていた。この点松岡の頭の程度は安倍晋三の頭の程度と双子の関係にあると言えるはずだ。

 また天皇に関して言うと、日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたことを示している」


 小倉庫次侍従日記(昭和16年6月22日(日))「松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)」

 半藤一利解説「独ソ戦
(昭和16年6月22日、ドイツがソ連に侵攻)をうけて松岡拝謁が終わったあと、木戸を呼んでいった言葉が『木戸日記』にある」

 『木戸日記』の記された昭和天皇の発言「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」

 半藤一利解説「松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである」

 解説「昭和天皇が「国力に省み果たして妥当なりや」とここまで客観的・合理的に情勢を把握、戦局拡大を懸念していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった無力な存在をここでも曝している」

 《安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(2)》に続く

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安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(2)

2013-06-09 12:28:01 | Weblog

 小倉庫次侍従日記「昭和16年7月2日(水)漸10・05-12・00御前会議(東1の間。独ソ開戦に伴う重要国策に付、決定ありたるものなり。政府発表)

 半藤一利解説「この7月2日の御前会議こそ、大日本帝国がルビコンを渡ったとき、とのちに明らかとなる。一方でドイツの快進撃に呼応して対ソ戦を準備しつつ、その一方で、対米英戦争を覚悟し南部仏印進駐を期待する。南北の強攻策である。決定された『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』の、『目的達成のため対米英戦を辞せず』の一行がまぶしく映ずる。
    
 解説「いよいよ戦争遂行政策は佳境に入ってきた。「目的達成のため対米英戦を辞せず」。ここには戦後証明されることになる「国力に省み果たして妥当なりや」『木戸日記』に記された天皇の懸念は一切反映されていない。

 このような日本の戦争を安倍晋三は擁護している」


小倉庫次侍従日記「昭和16年7月22日(火)杉山参謀総長(11・08-11・35)。内大臣思召(1・07-1・35)」

 半藤一利解説「この日、杉山総長に細かく問いつめたことが『杉山メモ』に書かれている。結論の〈総長所見〉の部分のみを引用」

 杉山参謀総長所見「本日の御下問によれば徹頭徹尾武力を使用せぬことに満ち満ちて居られるものと拝察せられる。依って、今後機会を捉へて此の御心持を解く様に申し上げ度き考えなり。南か北かそれは如何にやるか逐次決意を要する点等々を段々と御導き申しあげる必要ありと考ふ。本件は一切他言せざる様」

 半藤一利解説「これによっても、天皇が南進(南仏印進駐)にも北進(ソ連攻撃)にも意の進まなかったことがはっきりしている。しかし日本は、この6日後、南仏印への進駐を開始した」
   
 解説「上記『総長所見』が奇しくも天皇の置かれた存在性――その実像=虚像をものの見事に物語っている。「徹頭徹尾武力を使用せぬ」ようにとの天皇の意向を斟酌・検討するのではなく、自分たちの計画を絶対前提として、その計画に天皇の意向を馴染まさせていこうと画策する、天皇を従の立場に置いた天皇との関係性は大日本帝国や『国体の本義』が謳う天皇の存在性を明らかに無効としている。

 いわば天皇はついていく存在となっている。但し
「立憲国の天皇は憲法に制約される」を理由としているからではないのは明らかである。意に満たないことには口出しをしているのであって、それが有効な力を持ち得ない立場に立たされているに過ぎない。大人たちが子供の意見を先入観から取り上げないのを慣習としているのと似た構図を天皇を取り巻く人間たちが天皇に対して慣習としているかのようである」

  小倉庫次侍従日記(昭和16年7月29日(火))「本日、日本軍、仏印に平和進駐す」

 半藤一利解説「前日の28日に陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。『好機を捕捉し対南方問題を解決する』という国策決定にもとづく軍事行動である。アメリカは、ただちに在米日本資産の凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な経済制裁でこれに対応している」

 海軍軍務局長岡敬純少将(半藤氏解説による)「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」

 解説『無血進駐』とは言うものの、『大部隊』(=武力)を背景とした『無血進駐』である。『武力を使用せぬ』ようにとの天皇の『御心持を解く』とした7月22日から1週間経過した7月29日の決行である。この時点では『御心持を解』く努力をしたかどうかはっきりしないが、次に挙げる8月5日の日記の半藤氏解説によって天皇の置かれている状況のすべて分かる」

 小倉庫次侍従日記「昭和16年8月5日(火))木戸内大臣御召(10・25-11・20)。稔彦(なるひこ)御対顔。(11・25-12・20)。

 半藤一利解説「東久邇宮稔彦王との対面のさい、なかなかに際どいことが天皇の口から漏れでている。『東久邇宮日記』にある」

 『東久邇宮日記』に記された昭和天皇の言葉「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」

 解説『仕方なく許可した」は立憲君主の立場上「意に満ちても満たなくても裁可する」とした原則に反する意志決定であろう。

 と同時に
「どうもほんとうのことを自分にいわない」が天皇の存在性――実像がどこにあるかをすべて物語っている。天皇は自分が国策決定の蚊帳の外に置かれていることを自ら暴露したのである。

 大日本帝国憲法は天皇を日本国の中心に据えながら、その中心たる天皇への求心力は国民を補足して有効とはなっていたが、天皇の下にあって国家権力を動かす者たちには何ら中心とはなり得ていなかった。

 戦前の天皇制が憲法が描く政治的な天皇制とその政治性を剥いだ非政治的な天皇制と、二重の天皇制に象(かたど)られていたということだろう。政治的な天皇制は国民向けのもの、国民統治の装置としての役目を担い、非政治的な天皇制は実際に政治を動かしている者たちの政治性を天皇に纏わせることで、天皇の政治とし、それで以て国を動かし、国民を動かしてきた。

 そしてその二重性は律令の時代から日本の天皇制を覆って日本の歴史・伝統・文化としてきた。

 だが、安倍晋三は
「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と見当違いなことを言っている」

 小倉庫次侍従日記「昭和16年9月5日(金))「近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり」

 半藤一利解説「改めて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる」

 天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 

 杉山「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」

 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4カ年の長きに亘ってもまだ片づかんではないか」

 杉山「支那は奥地が広いものですから」

 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3カ月と申すのか」

 半藤一利解説「杉山総長はただ頭を垂れたままであったという」

 解説「ここまで追及できても、国策に反映することができない「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とする、あるいは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とする憲法の姿とは逆説状況の底に天皇は沈んでいる。

 天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制すべく利用し、国民に天皇を無条件に信じ、無条件に従う対象とさせ、尚且つ政治を動かしている者たちの政治性を天皇に纏わせることで、天皇の政治とさせるについては都合上、御伺いは立てたり、意見を述べさせたりはするが、政治的役目はそこまでを限度ととしている国策への非反映といったところではないだろうか」


 小倉庫次侍従日記(S16年10月17日(金))「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下(4・45-4・47、侍従長侍立)。及川海相御召(4・56-4・57)内大臣(5・04-5・33)」

 半藤一利解説「東条大将に大命降下。『東久邇日記』にある」

 『東久邇日記』(半藤氏解説による)「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首相に推薦し、天皇がなぜ御採用になったのか、その理由がわからない」

 半藤一利解説「木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだね』と感想をもらした」
   
 解説「逆に『陸軍の開戦論者』を勢いづかせる危険をも孕む諸刃の剣となりかねないことは考えなかったのだろうか。策士、策に溺れたのではないのか。

 それにしても
「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下」(4・45-4・47)とたった2分で済ませている。東条の決意、あるいは時局の見通しを聞くこともなく、形式的な「組閣大命降下」で終わったのだろう。「及川海相御召」にしても(4・56-4・57)のたったの1分」

 小倉庫次侍従日記(昭和16年11月5日(水))第7回御前会議(東一の間臨御、10・35-0・30、休憩、再開1・30-3・10)」

 半藤一利解説「この日の御前会議で、11月末までに日米交渉妥結せずとなった場合、大日本帝国は『自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意』という『帝国国策遂行要領』を決定する。武力発動の時期は12月初頭と決められた。

 7月、9月そして11月と、3回の御前会議を経て、〝辞せず〟が〝準備〟になり、そして遂に〝決意〟まで、日本は駆け上がってきた。いや、転げ落ちたてきたというべきか。ぬきさしならぬ道を、ただひとすじに、である」

 小倉庫次侍従日記「S16/12月1日(月)本日の御前会議は閣僚全部召され、陸海統帥部も合わせ開催せらる。対外関係重大案件、可決せらる」 
 
 半藤一利解説「開戦決定の御前会議の日である。

 『杉山メモ』に記されている天皇の言葉は、「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」

 杉山総長の感想は「童顔いと麗しく拝し奉れり」である。

 解説「忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策』が無効となった」

 小倉庫次侍従日記(昭和16年12月8日(月))「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む。前12・00(正午)防空下令、夕刻警戒官制施かる」 

 小倉庫次侍従日記(昭和16年12月25日)「香港、本夕降伏を申出で、7・30停戦を命ぜらる。陸軍9・40上聞す。

 常侍官出御の際、平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど、仰せありたり」

 半藤一利解説「驚きの発言である。

 天皇は南洋の島々を平和回復後に『日本の領土となる』といっている。此時点では勝利を確信していたのか。
    
 解説「まだアメリカと本格的な戦闘状態に入っていない、石油禁輸・屑鉄禁輸・在米資産凍結、何よりも軍事力の格差がどう響くか分からない状況下で、緒戦の「大戦果を収む」だけでその気になったのか」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年1月9日(金))「本日午后4・00、首相拝謁の願出あれば、その機会に申上げをし然るべき旨伝ふ。首相拝謁の際、申上げたるものと察す」

 半藤一利解説「この日の東条拝謁時の、天皇の面白い発言が『東条内閣総理大臣機密記録』に残されている」

 『東条内閣総理大臣機密記録』に記された昭和天皇の言葉「米英等に於て作曲されたる名曲〈例えば蛍の光の如し〉をも、今後葬り去らんとするが如き新聞記事ありし処、如何処理しつつありや」

 東条英機(慌てて)「そんな小乗的なことはしません」
    
 半藤一利解説「1年後には『そんな小乗的なこと』をした」

 解説「東条英機は1年後に天皇の意向を無効とした。昭和天皇のこの無力は大日本帝国憲法も『国体の本義』も実像としていない。大日本帝国憲法や『国体の本義』などの外の世界で虚像とすることになる。

 現在アクセスできない状態になっているが、インタネット上に次のような記述がある。

 〈1943(昭和18)年1月13日には、内務省と情報局が『ダイアナ』や『私の青空』『オールド・ブラックジョー』『ブルー・ハワイ』など米英音楽1,000曲を敵性音楽としてリストアップし、演奏を禁止した。中でもジャズは「卑俗低調で、退廃的、扇情的、喧騒的」として徹底的に排斥された。代わって巷には、『加藤隼戦闘機』(空中戦の軍神といわれた加藤建夫少将を称えた歌)、『お使いは自転車に乗って』の流行歌が流れた。〉」


 小倉庫次侍従日記「昭和17年2月15日(日))「午后7・50、シンガポールにて敵軍無条件降伏す。5・50の参謀総長は同上の件上奏。ラヂオは10・10分、大本営発表を放送す」

 半藤一利解説「紀元節までに攻略する。それが作戦発動当初の予定であった。やや遅れてこの日に英軍降伏となったが、実は日本軍の弾薬は底をつきかけていた。ゆえに軍司令官山下奉文中将は戦闘継続を恐れていた。巷間伝わる敵将パーシバルに『イエスか、ノーか』と居丈高に迫ったという話は故意に、つまり戦意高揚のために作られたもの。山下自身はのちのちまでその話は嫌悪していたのである」

 解説「日本の戦争の実体がここに現れている。南太平洋に於いて戦果を次々とあげていた日本軍の戦勝は次第に暗転していく」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年4月18日(土))「帝都各所に初めて爆弾、焼夷爆投下せらる」

 半藤一利解説「後の侍従長、藤田尚徳の『侍従長の回想』に、この日のドゥリットル・B25爆撃機16機による、日本本土空襲に際しての宮中の狼狽ぶりが実写されている」

 『侍従長の回想』

 侍従「陛下、空襲です。お退りください」

 天皇「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣〔嶋田繁太郎〕がやってきて、空襲に来ても夕方だろうといっていた」

 侍従「いや、いま東京を空襲しているのでございます。おやはく・・・」
 
 半藤一利解説「侍従が誰かは不明。小倉侍従ではないようであるが」

 解説

『小倉庫次侍従日記』「昭和16年12月8日」「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む」から4カ月余経過したのみで初めての空からの侵入を安々と許して空爆させる。しかも目視可能な昼間に正々堂々の爆撃を受ける。長期戦化し、防御体制が次第に崩されてからの侵入を許すというなら話はわかるが、初めての飛来であるにも関わらず簡単に侵入を許す見事な防空体制。天皇の「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」が早くも怪しくなってきた、

 そして1カ月もかからないうちの昭和17年5月7日のコレヒドール島陥落。この陥落から1カ月後の昭和17年6月7日のミッドウェイ海戦敗北。半藤氏は小倉日記にはこの記載はないと解説している」


 半藤一利解説「この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた機動部隊の主力である空母4隻を喪失した。小倉日記にはその記載はなく、不機嫌な天皇の姿のみ見える」

 『木戸日記』6月8日天皇発言「今回の損害は誠に残念であるが。軍令部総長には之により指揮の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置いた」

 半藤一利解説「私が調べたところでは、軍令部は損害は空母2隻と天皇に嘘の報告をしていることが分かった。軍は国民を欺すと共に、大元帥陛下をも欺していたのである」
    
 解説「開戦から半年で戦果を捏造しなければならない。この捏造は軍部が必勝を確約して戦争に突入していったことの裏返しとしてあるゴマ化しであるはずである。あるいは杉山陸軍参謀総長の「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」が大言壮語であったことの裏返しとしある情報操作であったはずだ。

 だとしても、日本の国家・国民・国土を統治する、且つ軍隊を統帥し、
「神聖ニシテ侵スベカラズ」の絶対性を備えた現人神が捏造し、操作した情報を受け取るとは見事な逆説としか言い様がない。

 何度でも言うが、そのような天皇を安倍晋三は
「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」としている、その滑稽さも見事である」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年6月9日(火))「御製御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり」
 
 半藤一利解説「ミッドウェイ海戦の戦果は初め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である」

 解説「最早何も言うことはない。これ以降も軍部に不利となる捏造情報が天皇にもたらされる。天皇は国民共に騙される存在となった。大日本帝国憲法や『国体の本義』に書いてある天皇像が実像ではなく虚像であることを露見させることとなった。天皇は薄々感じ、戦後、はっきりと知ることになったはずだ。

 昭和天皇が京都で語った戦争観を取り上げている昭和17年12月11日付の日記で終えることにする』


 小倉庫次侍従日記(昭和17年12月11日(金))「伊勢神宮御参拝の為め、京都へ行幸。本日は御参拝前なるを以て、拝謁その他、御行事は一切願わず。陸軍上聞(7・00尾形)常侍官候所出御(7・10-8・57)明朝朝御発に付、御格子を御早く願いたり。

 本夜、常侍官出御の節、左の如き思召、御洩らしありたり」

 天皇「(一)戦争は一旦始めれば、中々中途で押へえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦を始めるときは、余程慎重に考へなければならぬ。大山〔巌〕元帥は日露の役の際、自分の軍配の上げ方を見て呉れと言つたそうだが、卓見だと思う。今は大山が居ない。戦争はどこで止めるかが大事なことだ。

 (二)自分は支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである。且つ、自分が得て居る情報では、始めれば支那は容易なことではいかぬ。満州事変の時のようには行かぬ。外務省の情報でも、海軍の意見でもそうであった。然し参謀本部や陸軍大臣杉山〔元〕の意見は、支那は鎧袖一触ですぐ参ると云ふことであった。これは見込み違いであった。陸軍が一致して強硬意見であったので、もう何も云ふことはなかった。

 (三)閑院さん〔閑院宮載仁(ことひと)〕の参謀総長で今井〔清〕が次長であり、石原莞爾が作戦部長であつたが、石原はソヴィエト怖るるにたらずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変わった。

 (四)大東亜戦争の始まる前は心配であった。近衛のときには、何も準備出来ていないのに戦争に持って行きそうで心配した。東条になってから、十分準備が出来た。然し、12月8前に輸送船団が敵に発見されたと云ふことで、駄目かと思ったが良かった。

 (五)支那事変で、上海で引っかかった時は心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来ているのも、陸軍は知らなかった。引っかかったので、自分は兵力を増強することを云った。戦争はやる迄は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於て、戦は中々やめられぬことを知った。(この点は度々繰り返し仰せらる。誠に国家将来の為、有難き御確信を得られたものと奉答す。)

 (六)自分の花は欧州訪問の時(20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊)だったと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり、花であった。(と御述懐あり。今後に花のあるのものと考ふる旨、申上ぐ。)

 小倉庫次侍従日記「本夕かかる仰せありたるは、誠に御異例のことなり。確り他言すべからざることを、尾形武官、戸田侍従二人と誓ふ」

 【鎧袖一触】「(鎧の袖を一振りする程度で)簡単に敵を打ち負かすこと「

 半藤一利解説「戦勢が傾き出した時の天皇の心のうちがまことによく出ている。この京都の夜の天皇と侍従たちのとの語らいについて、侍従武官『尾形健一大佐日記』にわずかにある。

 『尾形健一大佐日記』「本夜は珍しく過去の歴史、満州事変後の政務、戦争等に関する御感想を御洩らしあり。戦争を始むるは易く終るは困難なり。御言葉の中に陸軍の戦争指導、戦争準備に関し重要相当機密の御感想を御漏らしあり」

 半藤一利解説「軍人だけあって、『此に詳細は記し得ず』と尾形大佐は筆を擱いた。今回その全容が初めて明らかになったわけである。それにしても、20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊が「自分の花であった」と振り返る姿は痛々しい。
    
 解説「天皇は(四)「東条になってから、十分(戦争の)準備が出来た」と言っているが、それがいくら万端遺漏ない準備であっても、軍事力や国力、工業力の格差を計算しない準備なら、その万端さ・遺漏のなさは簡単に相対化を受け、万端でも遺漏ないものでもなくなる。

 こういったことを抜きにした戦争観なのだから、蚊帳の外での繰言に過ぎない。統帥権者としての自覚がなかったということよりも、現実にも統帥権者でなかったことは痛い程に自覚していたはずで、そのような扱いは受けていないし、儀式や行事の場面ではあったろうが、現実政治の場面では自身も演じたことはない統帥権者であったのだから、蚊帳の外に置かれた存在として繰り言を言う他に方法はなっかったということであるはずだ」


 前記当ブログの最後に次のように書いた。(一部書き直し。)

 〈文藝春秋掲載の『小倉庫次侍従日記』は上記8月14日で終っている。半藤利一氏の解説も合わせた全体を通して窺うことができる事柄は大日本帝国憲法に位置づけられた確固とした天皇の権力・地位に反した軍部・政府に従属した天皇の姿である。その姿は一般国民と同様に情報操作の対象とされるまでに軽い扱いを受けていた。情報操作・情報捏造に於いても天皇を蚊帳の外に置き、軍部・政府が天皇を国民共々騙していた。

 天皇がその当時は気づかなかったとしても、大本営発表の戦果や国の重要政策を含めて天皇自身に上奏された情報の数々が上奏者に都合よく捏造・操作したものだったことを戦後も情報の届かない孤島に閉じ込められていたわけではなく、戦後に学ばなかったはずはない。自身の愚かさも学習したことだろう。「立憲国の天皇は憲法に制約される」として開戦責任を回避したのは敗戦の翌年のことで、まだ満足に学習しなかった可能性も考えられる。
 
 それから20年30年と年数の経過と共に多くを学んだはずである。あの戦争は何だったのか。どのような国策のもとに遂行されるに至ったのか。そこで自分は何をなしたか、なさなかったか。自分は何者だったのか、どのような存在だったのか。

 言葉を替えて言うなら、何が“真”で、何が“虚”であったかということだろう。そして殆どが虚に満ちていたことを学んだに違いない。天皇自身も“虚”の場所に置かれ、“虚”の存在とされていたが、A級戦犯となった者、その他が聖戦だとか東亜新秩序だとか、アジア解放だとか八紘一宇だとかの“虚”を演出した。戦争遂行政策そのものが“虚”で成り立っていた。

 国を無惨に破壊し、国民に多大な犠牲を強いたそのような“虚”の主たる演出者を靖国神社に合祀する。天皇の名で犠牲になった国民と天皇の名で国民に犠牲を強要した側のA級戦犯が区別なく、そう区別なく合祀された。それは新たな“虚”ではないか。

 「A級戦犯合祀が御意に召さず」は人間として天皇として多くの〝虚〟を学び、学ばされた結果の自然な感情の行く末でなければならない。

 もし「A級戦犯合祀が御意に召」して合祀された後の靖国神社をも参拝したとしたら、大日本帝国憲法が規定する天皇の地位と権力の“虚”、戦争中の天皇のありようの“虚”、天皇制の実体・日本の戦争の実態、その“虚”を何も学習しなかったことになる。

 昭和天皇が「A級戦犯合祀が御意に召さ」なかったということなら、A級戦犯合祀前の天皇の靖国差参拝は、国のため・天皇のためという〝虚〟の犠牲となった一般兵士を追悼する参拝ということになる。

 片やわが日本の美しい国家主義者・安倍晋三総理大は臣今以て戦後A旧戦犯容疑を受けて巣鴨プリズンに拘留され釈放された侵略戦争加担者である岸信介おじいちゃんの膝に美しい孫として抱かれ、自己正当化のために日本の戦争は自存自衛の戦争だった、アジア解放の戦争だったとする美しい日本ばかりを聞かされて御坊ちゃん育ちしたのか、“真”と“虚”を学ぶ合理的な客観的認識性を身につけるに至らなかったのだろう、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と彼らを“真”とする擁護を行い、それと同じ解釈で「侵略戦争の定義は定かでない。政府が歴史の裁判官になって単純に白黒つけるのは適切でない」と戦前の日本の戦争そのものを“真”とする一方向のみの欲求に立った擁護を行っている。

 「国のリーダーたるもの、国のために戦った人に追悼の念を捧げるのは当然。次の総理もその次の総理も靖国に参拝してほしい」とする、天皇の「A級戦犯合祀、御意に召さず」とは真っ向から反する戦争正当化からの靖国思想信奉者にふさわしい靖国参拝首相義務化衝動にしても、戦前の日本の戦争を“真”としたいのと同じ文脈にある欲求としてある。

 安倍晋三の「A級戦犯合祀が御意に召」した靖国参拝は「国のために戦った人」と戦死者全体を指しているものの、追悼の主たる対象は戦争遂行者の側に立ったA級戦犯、その他の戦争指導者ということになる。戦争肯定は一般兵士の肯定であるよりも、より優先的に戦争指導者の肯定へと向かうからである。

 何も学ぶことができなかった愚か者たち。

 まさに安倍晋三が言う「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする天皇像は虚像そのものでしかない。 

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勉強で難関突破の最高学府東大野球部員たちの特別コーチ桑田真澄から考えることを求められる滑稽な倒錯

2013-06-08 09:53:15 | 教育

 東大野球部の特別コーチに就任した元巨人桑田真澄の部員たち対する指導方法を伝えた6月3日(2013年)月曜日放送のNHKクローズアップ現代『“最弱”チームは変われるか ~桑田と東大野球部~』は何よりも日本教育の姿を示唆している。 

 六大学野球の中でも他の大学と違って推薦入学がなく、勉強の力一つで日本の大学入試の中でも最難関中の最難関を突破して天下の東大に合格、野球部に入部した勉強のできる、言ってみれば日本の教育を最大限に活用し、その恩恵を最大限に体現している、それなりに頭脳優秀な部員たちに桑田真澄が“考えて野球をする”ことを求めているのだから、そのことが例え滑稽な倒錯を描いていたとしても、そこに自ずと日本の教育の姿が投影されていることになる。

 その他にも桑田真澄の自らの経験に基づいた数々の言葉はスポーツ指導はどうあるべきか、部員たちはスポーツにどういう姿勢で臨むべきか、さらには社会問題となっているスポーツ指導に於ける体罰問題等々、色々な示唆を炙り出している。 
 
 東大野球部は現在負け続けて56連敗、3年近く勝ち星がない状態だという。桑田真澄は原因の一つにピッチャーが打たれても悔しがらない、打者が凡退しても悔しがらない選手たちの闘志のなさ――悔しがらないことを当たり前としたプレーに置いている。

 要するに、頭の中で考えたことだが、ピッチャーが早い回早々に相手打者に鮮やかなヒットを打たれでもしたら、またか、と敗戦を予想して瞬間的に脱力し、打者の方も凡打に終わると、いつもの結末を予想して瞬間的に脱力する。既に負け試合を予想しているから、脱力が瞬間的なものであっても、そこから抜け出ることができずに自分の気づかないところで脱力が続くことになって、惰性で試合をこなしていく結果、いつまでも負け試合を繰返すことになる。

 いわば負けることを当たり前とする心理を染み付かせているということなのだろう。

 そこで桑田真澄はそれなりに頭脳優秀な集団である東大野球部員たちに一人ひとりが変わることを求めた。

 桑田真澄「みんな一人一人が変わらないと、100連敗すると思うよ。勝負の世界って厳しいよ。

 (他大学は)今年も東大には楽勝、負けないって思っているよ。アウトになって悔しがる人がいない。“よし打ち取ったぜ”、自信満々に降りてくる人がいない。

 そんなチームに誰が負ける?結果を変えるには誰が変わらないといけないんですか?」

 部員たち「自分です」

 このぐらいの答は分かるらしい。だが、問われて変わるのではなく、頭脳優秀な集団である以上、なぜ勝てないのかを自ら問い、自ら答を出していかなければならないはずだが、自らが受けた日本の教育の力を以てして、それができない。

 勿論、東大だけではないことは桑田真澄の言葉が教えてくれる。
 
 桑田真澄「野球界も脈々と受け継がれた伝統といいますか、常識がありまして、それがなかなか変えきれないんですよね。

 超管理野球といいますか、日本の野球って管理野球なんですね。

 指導者、監督、コーチが言ったこと以外をすると殴られたり、どなられたりするわけですよね。そうしますと、言われたこと以外やらないほうがいいわけですよ。

 ですから、考えなくてもこれやれって言ったら、ハイ、これやれ、ハイってやるのが日本の野球界の弱点でもあったんですね。

 でも実際僕、長年プレーしてきて、野球選手はどういう要素が必要かといいますと、自分で考えて行動できる選手じゃないといい選手にはなれないですね。

 なぜか日本の野球は指示待ちのスポーツだと皆さん思われてるんですけど、監督ができるのってメンバー決めてサイン出すだけなんですね。

 あと、グラウンドで考えて行動、動く、プレーするのは選手ですから、ふだんから自分で考えて行動できるという習慣をつけとかなきゃいけないんですね。

 これが日本の野球界の一番の弱点だと僕は思ってます」――

 「これやれって言ったら」、「ハイってやる」教育形式は日本の暗記教育の形式そのものである。知識・情報の伝達と受容が暗記教育の形式を取っているから、スポーツ指導の場面に於いてもそれが現れるのは極く自然なことと見なければならない。

 要するに日本の野球は、他のスポーツにも通じるはずだが、監督や指導者の指示を自身の運動神経や身体能力を介して忠実に反復していくことで成り立たせているということであろう。

 別の言い方をすると、日本の野球に必要な要素は監督や指導者の指示と指示に対する選手、部員たちの忠実な反復能力、自身の運脳神経と身体能力等であって、考える力を必要要素としていないスポーツということになる。

 だからこそ、「グラウンドで考えて行動、動く、プレーするのは選手ですから、ふだんから自分で考えて行動できるという習慣をつけとかなきゃいけないんですね」ということを求めなければならないことになる。

 インターネットで見つけた記事だが、《落合博満&桑田真澄の体罰に対する考えがスゴイ!殴ることで証明されるもの、指導者の力量不足》NAVER まとめ)に次のような記述がある。

 〈ドイツの子供たちは、試合前のミーティングで、コーチの指示に対して必ず説明を求めてきます。

 「なぜこのシステムで戦うのか」 「なぜこの戦術をとるのか」。

 それに対してコーチは、システムや戦術の意図をきちんと説明します。

 そうやって納得させないと、ドイツの子供たち(ヨーロッパの他の国の子供たちもそうなのでしょうが)は動かないのです〉――

 誰のいつの文章か、書いてない。

 ドイツの子どもたちは上から言われたことを言われたとおりに忠実に反復する形でコーチが説明したシステムや戦術の意図通りに動くわけではない。「なぜ」と問うこと自体が既に頭の中で「考える」行動を起こしていることを示しているからだ。

 「なぜ」と問い、答に納得した身体的行動(=プレー)はその答から最大限の成果を得るために一人ひとりが常に考えた行動を取ることになる。取らなければ、答に納得した意味を失うことになる。

 当然、意図しなくても集中力は自然と高めることになる。

 答に納得しない場合、考えたプレーを心がけたとしても、監督の意図と自身の意図との間に食い違いが生じて、チグハグなプレーとならざるを得ないはずだ。

 言われたことを言われたとおりにプレーして、例え試合に勝ったとしても、試合の中身、一人ひとりのプレーの中身を自ずと違ってくる。

 桑田真澄が練習に於ける効率性と集中力を求めたことも、考えることの要求に当たる。

 東大野球部員の1日の練習メニューは朝6時半から全体練習、午後はポジションごとのトレーニング、さらに自主練習が続き、1日12時間以上も肉体を酷使しているという。

 井坂肇投手(4年生)「前までの時間では勝てないんだから、もっとやるしかない。練習量イコール上達」――

 身につく練習と身につかない練習というものがある。如何に身につく練習をするか、練習を如何に実戦に結びつけるか、中身が問題となる。当然、効率性と集中力を課題としなければならないはずだが、頭脳優秀でありながら、そこまで考えないで、とにかく練習を沢山やることだけを考える。

 効率性と集中力を出すことのできる練習を編み出すに力となる教育でないなら、教育の意味を失う。そういった教育でありながら、個人的資質から教育の力を生かし切れていないということなのだろうか。

 だが、桑田真澄の言葉は個人の問題ではなく、全体的な問題であることを窺わせる。

 桑田真澄「みんな見ていると(練習を)やりすぎ。やり過ぎると内容が薄くなっていく。短時間集中型、超効率的な練習をしないと。東大なんだから」――

 「東大なんだから」、考えないとダメだと頭脳優秀を前提として言っているが、その前提を生かし切れていない滑稽な倒錯状態にあった。

 桑田真澄「練習やり過ぎて疲れて、普段から(体格で)劣るのにもっと劣る。疲労が抜けないで次の練習をしても上達しない」――

 桑田真澄「とにかく真面目すぎてですね、練習のやり過ぎっていう印象がありますね。本当に野球が好きで真面目なんだなって思いますよね」

 国谷裕子キャスター「どんな間違った練習をしていたのか」

 桑田真澄「間違いじゃないんですけど、常識を疑うということも…先ほども言いましたけど、野球界ではやっぱり長時間練習したらうまくなるという常識があるんですね。

 僕も2歳からずっと野球やってまして、長年やってますけど、じゃあ量と時間でうまくなるかっていうとうまくならないんですよね。どれだけ質の高い内容のある練習をするか、これがポイントだと思いますので、彼らは量と時間をすごく真面目でやってるんですけど、上達しないというのは何かが違うんじゃないかという話を彼らにもしましたし、僕ももう確信してるんですよね」――

 国谷裕子キャスター「体力的・技術的にも低いレベルだと人一倍練習するのは自然では?」 

 桑田真澄「そうですね。でもですね、野球っていうスポーツは、体力と技術だけの勝負じゃないんですね。

 頭も必要なんですね。頭を一番使える集団でありますから、この3つのバランスを取って戦っていこうということなんですね」


 国谷裕子キャスター「体力を消耗しているときに練習を重ねたりするとどうなるのか」

 桑田真澄「集中力がまずないんですよね。体が疲れてますので、全力でプレーするということができなくなるんですよね。そうすると、7分とか8分の力でプレー・練習しますから、それを脳と体が覚えてしまうんですね。

 ですから、いつまでたってもいい動きができない。全力で筋肉を使っていくってことを忘れてしまう。全力、そして集中してっていうことも大事なんですね。

 よく体で覚えろって言いますけど、僕は故障にもつながったり、70、80%の力で動いたのを覚えてしまうんじゃないかなと思ってます」――

 桑田真澄の発言はやはり「頭も必要なんですね。頭を一番使える集団でありますから」と、考える必要性の訴えとなっている。頭脳優秀な集団であるはずの東大野球部員たちの側からすると、その頭脳優秀に反して頭を使って考えることの必要性を桑田真澄から訴えられる滑稽な倒錯状態を呈していることになる。

 いずれにしても、桑田真澄は頭脳優秀集団の東大野球部員を相手とした考えることの必要性をこの番組の一貫したテーマとした。

 果たして東大野球部員は自分たちの頭脳優秀に応じて桑田真澄が提示したテーマに他大学と比較して劣る身体能力と劣る運動神経を武器に的確に答を出すことができるのだろうか。

 練習が効率性と集中力を眼目とすることができずに時間量に於いても運動量に於いても過ぎて体力を消耗することが集中力喪失の原因となる。当然、動きが練習でも実戦でも惰性となる。

 ただでさえ他大学と比較して劣る身体能力と劣る運動神経を尚更に自分たちから劣化させることになって、他大学との格差を広げることになる。

 このことを避けるためにはいくら激しい練習であっても、一つ一つの練習を短時間に集中的に行い、それらの練習の合間により短時間の休憩を取って、可能な限りの体力の回復を図り、次の練習にかかることが効率性と集中力の維持に欠かすことのできない要素となる。

 実は、〈これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。〉と冒頭前置きして、2007年2月13日――《運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》と題したブログ記事の中で、「集中力」と言う言葉は使っていないが、休憩が体力回復と精神的余裕の形成に欠かすことができないことを書いた。

 そしてその格好の例としてボクシングの試合を取り上げて次のように説明した。

 〈ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。〉――

 体力を消耗すると集中力を欠き、精神的余裕も失っていくことは断るまでもない。

 上記ブログには書かなかったが、最近考えている弱小集団の野球部の練習は、1日は投手以外はボールとバットに一切触れさせないで、身体能力を向上させるウエイトトレーニングやランニング等のみを休憩を挟んで時間をかけて行う方法がある。

 一つの練習を時間をかけて集中的に行うことで身体にギリギリの負荷をかけてから休憩を挟むことで体力を回復させて、次の練習にかかる遣り方を用いて集中力の維持を図り、体力のみならず、精神的な忍耐力を養っていく。

 次の1日は練習時のような正規のフリーバッテイングやキャッチボール等は行わず、試合前の軽いバッティングや守備練習のみを行なって紅白試合に入る。

 少ない守備機会と少ない打撃機会が否応もなしに集中力を求めることになる。打者が1日満足な打撃を見せることができなかったなら、否でも欲求不満に陥ることになるだろう。

 当然、翌々日の紅白試合では一層の集中力を発揮しなければならないことになる。

 紅白試合を行う選手全員が試合を通して集中力を高め得たとき、紅白試合は他校と行う公式戦と変わらない濃密な内容の試合となるはずだ。

 このような1日置きの練習によって他者と劣る身体能力と運動能力の格差、そして集中力を可能な限り縮めていく。

 この方法が例え無効であっても、選手は自ら考えて、力の向上を図っていかなければならない。

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橋下徹の沖縄オスプレー飛行訓練の八尾空港一部受け入れは参院選に向けたイメージ回復策か

2013-06-07 10:09:13 | 政治

 国民新党代表代行、幹事長等を務めた下地幹郎代表の沖縄県地域政党「そうぞう」と沖縄県米軍普天間飛行場の同県名護市辺野古への移設推進を盛り込んだ政策協定を今年5月(2013年)に締結した日本維新の会共同代表の橋下徹が6月3日、記者会見で沖縄配備のアメリカ軍新型輸送機「オスプレイ」の飛行訓練の一部を沖縄の負担軽減を目的に大阪の八尾空港で受け入れる検討を進めていることを、近く菅官房長官に伝える考えを明らかにしたと次の記事が伝えている。

 《橋下氏 オスプレイ訓練一部を大阪で》NHK NEWS WEB/2013年6月3日 23時13分)

 橋下徹「沖縄の基地負担を軽減する話として、オスプレイの飛行訓練の一部を、本州で受ける方向性を検討してもらえないかとしっかり伝える。

 訓練飛行のルートで大阪の八尾空港を使えないか検討しているところで、僕らが具体的に大阪のことを言わないと無責任になる。

 (但し)防衛政策や安全保障上、きちんと検討し精査したわけではないので、実現できるかどうかは分からない。政府やアメリカ軍でなければ判断できないので、政府にボールを投げるレベルだ」

 要するにあくまでも普天間基地本体の辺野古移設の姿勢の上に立って、オスプレーの訓練の一部を八尾空港受け入れの考えを示したということなのだろう。

 〈八尾空港は国土交通省が管理しており、滑走路は2本。陸上自衛隊中部方面航空隊や大阪府警、大阪市消防局のヘリコプターが配備されているが、定期便は就航していない〉と「MSN産経」が伝えている。
 
 因みに橋下徹が地域政党「そうぞう」と普天間の辺野古移設の政策協定を結んだ際、在沖縄米軍幹部に風俗業の活用を勧めたことを自ら明らかにし、そのことが批判の騒動を広げたと同「MSN産経」が伝えている。

 では、八尾空港の周辺環境はどのような状況にあるのだろうか。次の記事から見てみる。

 《オスプレイ:「大阪で訓練」に地元反発 八尾は米軍使えず》毎日jp/2013年06月05日 13時40分)

 〈想定される八尾空港(同府八尾市)は市街地にあって、危険性が高いと防衛省内でもみられている。頭越しに提案される地元も猛反発しており、実現性は疑問視されている。〉――

 〈空港には陸上自衛隊八尾駐屯地が隣接し、周囲には住宅密集地が広がる。周囲約1キロ内には小中高校と支援学校が計11校ある。2002年以降、離着陸の失敗や陸自ヘリの敷地内への墜落など事故が計5件起きた。〉

 防衛省関係者「危険性では普天間と変わらない。陸地の住宅地に囲まれた空港での訓練は危なすぎる」

 記事は橋下徹と松井一郎日本維新の会幹事長と田中誠太八尾市長の発言も伝えている。

 6月3日記者会見。

 橋下徹「政府で検討してもらわないと。一応ボールを投げてみるというレベルだ。できるかどうか正直わからない」

 6月4日記者会見。

 松井一郎「日本全体で沖縄の基地負担軽減に協力しようと、みんな言っている。受け入れを検討のテーブルに乗せることは自然な話だ」――

 田中八尾市長「何の説明もない。安全性が確認されていないと思っており、受け入れられない」

 記事は訓練基地選定は日米間の協議事項で地元首長の了解は制度上は不要としていると紹介しているが、同時に別の防衛省関係者の了解必要の声も伝えている。

 別の防衛省関係者「地元が『受け入れない』と言えば難しい。今回は根回しもないようだ」

 小川和久軍事アナリスト・静岡県立大特任教授「地元の説得が受け入れの前提であり、技術的、軍事的な議論以前の問題で、進め方が拙い」――

 八尾空港は日米地位協定に基づく「共同使用施設」ではなく、現状で米軍は使用できないが、日米間の協議など手続きを踏めば使用は可能となると解説。

 但し地元が反対を貫いた場合、沖縄のオスプレー反対を押し切ってオスプレーを強行搬入し、強行訓練を開始したのと同じ強行姿勢を示すことになるはずだ。

 記事は最後に八尾空港がオスプレーの訓練基地として持ち上がった経緯を解説している。

 〈今回の構想の発端は沖縄の地域政党「そうぞう」の下地幹郎代表(前衆院議員)の提案だった。日本維新傘下の地域政党・大阪維新の会とそうぞうが5月1日に政策協定を結んだ際、下地氏が橋下氏に「本州で100日程度訓練を受け入れを」と持ち掛け、検討が始まった。今回は政党幹部としての提案というが、維新内にさえ「実現はあり得ない」という声が出ている。【深尾昭寛、野口武則、近藤諭】〉――

 要するに八尾空港の周辺環境を把握した上で八尾空港オスプレー一部訓練受け入れを発案したのかどうか分からない。八尾市長に話を通してもいない。

 尤も世界一危険と言われる、住宅地が周辺に密集した普天間基地でオスプレーの訓練が可能なら、八尾空港にしても訓練は可能という考えは成り立つ。

 当然、普天間と同様に八尾空港でも地元住民の反対を押し切ってが一部訓練受け入れの条件となる。

 6月6日午前、都内で橋下徹、松井一郎、下地幹郎、安倍晋三、菅官房長官が雁首を揃えて会談。《橋下氏 飛行訓練受け入れ提案》NHK NEWS WEB/2013年6月6日 12時5分)

 橋下徹「本州でしっかりと負担を分かち合うため、まずは大阪の八尾空港を検討のテーブルにあげてほしい。日本政府とアメリカ軍でしっかり検討してもらいたい」

 橋下徹は日米地位協定の見直し等を盛り込んだ要請書も手渡したという。

 安倍晋三「沖縄の負担の軽減は全国で考えるべき課題だ」

 会談後の橋下徹と菅官房長官の発言。

 橋下徹「大阪の八尾空港に限らず、本州の各地の空港を対象に検討を進めていけばいいのではないか。実現が可能かどうかは分からないが、その可能性ばかりを考えていては、沖縄の基地負担の軽減は100年たっても200年たっても進まない」

 菅官房長官、「橋下氏らの提案は検討する。沖縄に集中している基地負担の軽減は、訓練の移転をはじめ日本全国で分かち合っていくことが極めて大事だ。去年9月の日米間での合意に基づいて日本国内の沖縄以外の場所で飛行訓練の可能性について検討しており、そういう意味でも歓迎したい」――

 一つはっきりしたことはオスプレー飛行訓練の一部八尾空港受け入れ検討を通して安倍政権と日本維新側が沖縄基地負担軽減の姿勢一致をアピールすることができたということである。

 安倍政権としたら党本部の普天間辺野古移設推進に反して沖縄自民党が普天間基地の県外移転を参院選の公約とする姿勢を示していて、そのようなねじれが炙り出すことになる政権自体に対する不都合なイメージを沖縄基地負担軽減の姿勢をアピールできることでカバーし得るメリットがあるし、日本維新の会側にしても全国的に見た場合、橋下徹の慰安婦発言でダメージを受けた党のイメージを、沖縄基地の負担軽減を考えているんだなという印象を与えることでカバーできるメリットが生じる。

 但し橋下徹の普天間基地の移設に関わるこれまでの姿勢を見た場合、違った様相を見せることになる。

 2009年9月の政権交代を受けて民主党鳩山政権が普天間の「国外最低でも県外」を模索して四苦八苦しながら迷走を繰返し始めていた頃の2009年11月30日朝、当時大阪府知事だった橋下徹は個人的見解としながらも、普天間移設先として関西国際空港を検討対象とすることと嘉手納基地の騒音軽減対策としての訓練の一部受け入れを視野に関空の軍民共用化や神戸空港の活用を検討事項に挙げている。

 橋下大阪府知事「あくまで個人的な意見だが、政府から正式に話があれば、基本的に(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」(毎日jp

 そして任期を3カ月余り残して 2011年10月31日に大阪府知事を辞職、2011年12月19日に大阪市長に就任。2012年2月14日、大阪維新の会は総選挙用公約に当たる全国版「維新版・船中八策」たたき台を発表。

 普天間移設問題に関して次のように記述している。

 〈2006年在日米軍再編ロードマップの履行
 同時に日本全体で沖縄負担の軽減を図る更なるロードマップの作成着手〉――

 〈2006年在日米軍再編ロードマップの履行〉とは自民党時代に米国と取り決めた普天間の辺野古移設のロードマップのことで、一旦は掲げた普天間移設先としての関西国際空港検討対象を1年と3カ月余りであっさりと撤回したことを意味する。
 
 2012年2月14日にたたき台を公表してから約4カ月半後の2012年7月5日に維新八策改訂版を発表している。

 そこでは叩き台で示した〈2006年在日米軍再編ロードマップの履行〉は削除され、〈日本全体で沖縄負担の軽減を図るさらなるロードマップの作成〉とのみ記述、再び県外移設の姿勢へと転じている。

 普天間の辺野古移設から県外移設へとクルクルと変わる猫の目さながらのせわしなさで回帰したのである。 

 だが、こうも終始一貫しないのも珍しい。普天間の県外移設勢力にとっては好ましい態度変更だが、ホントかいなと疑いたくなる、信用できない印象を与えかねない。

 そして2012年8月31日公表の大阪維新の会を全国展開するための次期衆院選挙用マニフェスト(選挙公約)「維新八策最終案」でも、沖縄基地問題に関して、〈日本全体で沖縄負担の軽減を図るさらなるロードマップの作成〉のみの記述にとどめている。

 いわば普天間の県外移設の姿勢を堅持してる。総選挙用マニフェストなのだから、猫の目は見納めとなるはずだが、「維新八策最終案」2012年8月31日公表から1カ月も経たないうちの2012年9月23日の大阪維新の会第2回政策公開討論会。

 橋下大阪市長「(沖縄県名護市辺野古以外の)代替案が僕にはない。(県内移設の場合には大阪)維新の会として県民にお願いに行く」(別毎日jp

 猫の目は見納めではなかった。このようにコロコロと政策を変える政治家としての無節操をどう表現したらいいのだろうか。

 大阪維新の会第2回政策公開討論会から5日後の2012年9月28日に日本維新の会を正式に発足させている。

 そして前述したように今年5月に下地幹郎代表の沖縄県地域政党「そうぞう」と沖縄県米軍普天間飛行場の同県名護市辺野古への移設推進を盛り込んだ政策協定をに締結したのに続いて、普天間基地の辺野古移設を前提とした態度で6月3日、沖縄の負担軽減を目的に八尾空港への沖縄オスプレー飛行訓練一部受け入れ検討を記者会見で公表、6月6日午前、安倍晋三、菅官房長官と会談、受け入れ検討を提案し、現在に至っている。

 八尾空港受け入れ検討が真に沖縄の基地負担軽減を目的としていると言ったとしても、普天間の基地本体の移転に関しては県外だ、県内だとコロコロと態度を変える終始一貫しない無節操を示してきた中でのことで、基地負担軽減のみが終始一貫しているからといって、基地本体無節操を免罪し、解消することが果たしてできるだろうか。

 普天間の基地本体を県外移転できない身代わりとして残された基地負担軽減への熱意ということをあり得るし、慰安婦発言のダメージを払拭するための沖縄基地負担軽減のクローズアップということもあり得る。

 後者だとすると、既に触れたように参院選に向けたイメージ回復という意味合いも出てくる。

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安倍晋三はバラ色の成長物語を語る前に実体経済を動かせ

2013-06-06 10:05:18 | 政治

 昨日、2013年6月5日昼、安倍晋三が東京都内のホテルで開催の内外情勢調査会全国懇談会で「成長戦略スピーチ第3弾」と銘打って講演した。

 そこでの発言は首相官邸HP――安倍総理「成長戦略第3弾スピーチ」(内外情勢調査会/2013年6月5日)に依った。
  
 先ず、「私の経済政策の本丸は、三本目の矢である成長戦略です」と言って、「成長戦略」を日本経済回復と発展の主力エンジンに置いた。

 これは当たり前のことを当たり前に言ったに過ぎない。断るまでもなく、実体経済に直接的に関与する政策となるからだ。

 そして「私の目指す成長の姿」を次のように描いている。

 安倍晋三「その要諦は、民間のあらゆる創造的な活動を鼓舞し、国籍を超えたあらゆるイノベーションを日本中で起こすことです。

 高品質のものづくり、きめ細かなサービス、統合されたシステム、繊細なオペレーション。日本企業の持つ様々な『可能性』を解き放ち、世界に展開することにより、世界の発展に貢献する」――

 なぜ日本企業は自らが持つ「可能性」を自らの力を以てして解き放つことができず、政治の助けを頼まなければならないのだろう。可能性解放には各種規制緩和が必要だからと言うなら、業態に応じて緩和を必要とする規制は分かっていることになり、政治の助けを待たずに自らが必要とする規制緩和を業態に応じて政治に働きかけて獲得、自身の力で自らが持つ可能性を解放し、発展の道を辿る自律的選択を行わないのだろうか。

 あくまでも親方日の丸で政治の働きかけを待つ。ここに問題があるのではないだろうか。

 企業自身が政治を動かしてまで自ら発展しようとする自律性を持たなければ、政治がどのような規制緩和を行おうと、規制緩和の範囲内の可能性の解放にとどまることになる。

 その規制緩和が時代の変化や世界の経済活動の変化等に応じて緩和でなくなり、新たな規制へと姿を変えたとき、再び政治の規制緩和を待たなければならないことになる。

 結果、いつまでも親方日の丸から抜け出すことはできない。

 安倍晋三「4月の有効求人倍率は、0.89倍まで回復。これは、4年9か月ぶりの水準。リーマンショック前の水準に戻りました』――

 この有効求人倍率の内訳は、「NHK NEWS WEB」記事によると、建設業が17.1%、宿泊業、飲食サービス業が15.8%、教育、学習支援業が13.6%等となっていて、確かに宿泊業、飲食サービス業は円安の影響があるだろうが、最も増加率の高い建設業は東日本大震災の復興に負うところが大きいはずだ。

 だが、被災地では復興事業の担い手不足や資金不足が深刻化していて復興が思うようには進んでいない状況にあるという。

 特に人で不足は前々から言われていたことで、こういった状況自体が安倍政権の言っていることの勇ましさに反して政策実行能力の不足を物語っている。

 にも関わらず、言うことの勇ましさは変わらない。

 安倍晋三「今こそ、日本が、世界経済復活のエンジンとなる時です」

 経済復活は世界の二番手であっても、三番手であってもいい。成長の果実を国民に実感させることが先決問題であるはずだ。

 安倍晋三「日本は、『瑞穂の国』です。

 自立自助を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば、村の人たちみんなで助け合う伝統文化。『頑張った人が報われる』真っ当な社会が、そこには育まれてきました。

 春に種をまき、秋に収穫をする。短期的な『投機』に走るのではなく、四季のサイクルにあわせながら、長期的な『投資』を重んじる経済です。

 資本主義の『原典』に立ち戻るべきです。

 目先の利益だけで動くマネーゲームではなく、しっかりと実体経済を成長させて、その果実を、広く頑張った人たちに行き渡らせる。これが、アベノミクスの狙いです」――

 相変わらずの底の浅い単細胞の歴史認識となっている。日本は支配権力層による一般国民に対する搾取の歴史を長い期間抱えていた。村に於いても豪農を支配者として貧農を搾取対象とする支配と被支配の構造にあった。

 そのため搾取対象とされた貧農はいくら働いても、働いただけの報酬を得ることは難しかった。当然、「『頑張った人が報われる』真っ当な社会」は支配者の地位にある者に限られた社会であって、搾取対象者には無縁の社会でしかなかった。

 そして豪農を除いた農村の貧困は戦後まで続き、生活苦から食い扶持を減らすための身売り、人身売買、堕胎を伝統とすることになった。

 「短期的な『投機』」を否定しているが、円安・株高が短期的な投機に助けられているものでありながら、何を言っているのだろう。

 安倍晋三の底の浅い歴史認識は続く

 安倍晋三「ここで、一つの言葉をご紹介したいと思います。

 『彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富める者も貧しき者もない。―これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。』

 これは、幕末の江戸の人々の生活を、初代の駐日米国公使タウンゼント・ハリスが、その日記で描写した一節です。

 当時の江戸は、人口100万人を超える世界の一大都市でありました。1800年時点では、ロンドンも北京もパリも、100万人に満たなかったと言われています。

 外国から食糧を輸入していなかった日本が、なぜこれだけの都市人口を抱えることができたのか。

 日本研究の大家であるトマス・C・スミス博士は、農業生産性の大幅な向上を指摘しています。さらに、時代が進むほど、生産性の向上により、農民の収入が増えていったと分析しています。

 つまり、生産性の向上が、収入を増やし、それが次なる生産性の向上につながっていった。『産業資本』の見事な『好循環』が、そこにはありました」――

 安倍晋三の頭の中には幸せなことに駐日米国公使タウンゼント・ハリスが訪れた江戸時代に四公六民とか五公五民とかの搾取の構造を取った年貢制度に関わる知識・情報は存在しないらしい。

 江戸時代、土地持ちの裕福な農民から農地を借りて生産に携わる小作農民の小作料は多くは現物納で土地持ちの農民に収め、土地持ちの農民から集めた米なりを年貢率に従って村単位で藩なり、幕府なりに年貢として収めた。

 小作農民の現物納小作料率は一般的に6割を超えていて、その高率な小作料率が寄生地主制度発展の前提となっていたとされていて、農村に於ける格差社会構築の原因となっていたという。

 そしてこの格差の構造は第二次大戦後の農地改革による小作地解放まで、その是正を待たなければならなかった。

 いわば年貢と年貢に応じた高額な現物納小作料率が強制労働という形を取ることになって可能とした「農業生産性の大幅な向上」ということであろう。

 そして「農業生産性の大幅な向上」の裏で農業では食えない多くの小作人が農地を捨て、生まれ故郷を捨てて都会に生活を求めて農村から逃げる“走り百姓”が多発し、そのことがまた都会の治安悪化を招いた。

 決して物理的にも精神的にも豊かな生活の上に築くことのできた「農業生産性の大幅な向上」ではなかった。

 だからこそ、人身売買や堕胎、間引きといった農村を主とした慣習は第二次大戦後も続くことになった。

 安倍晋三は単細胞人間にふさわしく、歴史認識のズレた、底の浅い理念を尤もらしげにに披露したあと、成長戦略の柱となる政策を並べている。

 以下の各政策の羅列は《成長戦略 「1丁目1番地」の行方》NHK NEWS WEB特集/(2013年6月5日 23時40分)に頼った。
  
▽インターネットを使った市販薬販売の解禁

▽最新の医療技術を利用すると全額自己負担になる「混合診療」に関連し、最新の医療技術を使った医療費の一部
 が保険適用となる「先進医療」の範囲拡大

▽地域に1社の巨大な電力会社が発電・送電・小売りを独占する今の電力システムについて、小売りの完全自由化
 や発送電分離を進める

▽老朽化した道路や空港などのインフラ整備に民間の資金を活用する

▽「国際戦略特区」を創設して、国際的なビジネス環境を整備し、世界中から技術や人材、資金を集める都市をつ
 くる

▽一般的に国の経済規模を示す「GDP=国内総生産」に企業が海外で行う経済活動で得た利益などを加えた1人当
 たりのGNI=国民総所得を10年後に現在の水準から150万円増やすことを目指す(以上)

 これらの成長戦略の柱とした各政策の公表が「新鮮味に欠ける」とか、「想定の範囲内」だとかの理由で株の失望売りにつながり、6月5日の東京株式市場での日経平均株価が大きく値下がりしたとマスコミは伝えている。 

 となると、勇ましく成長戦略を打ち上げたのは安倍晋三一人のみで、その勇ましさは株の売買で成長戦略に応える市場には伝わらなかったことになる。

 実体経済が確かな足取りで少しでも実感できていたなら、打ち上げた政策が少しぐらい新鮮味に欠けていたとしても、想定の範囲内だったとしても、言っていることの信頼をそれなりに獲得でき、次への期待に繋げることができたはずだが、実体経済の裏打ちがないから、話だけの先行と受け取られたといったところだろうか。

 安倍晋三一人だけの勇ましさは次の発言で最高潮に達する。

 安倍晋三「3年間で、民間投資70兆円を回復します。

 2020年に、インフラ輸出を、30兆円に拡大します。

 2020年に、外国企業の対日直接投資残高を、2倍の35兆円に拡大します。

 2020年に、農林水産物・食品の輸出額を1兆円にします。

 10年間で、世界大学ランキングトップ100に10校ランクインします」――

 そして次のように念を押す。

 安倍晋三「どんなに素晴らしい成長戦略でも、作文のままで終わらせてはなりません。

 いよいよ、『行動』の時です。

 危機的な状況を突破するためには、『次元の違う』政策が必要。私は、そのように申し上げてきました。

 であるならば、政策のみならず、その進め方においても、『次元の違う』やり方が不可欠である、と考えます」――

 言っていることの矛盾に気づいていない。

 先ず第一番に、「危機的な状況を突破するためには、『次元の違う』政策が必要」と言っているが、市場評価は「新鮮味に欠ける」、「想定の範囲内」であって、「『次元の違う』政策」と見ていなかったのだから、安倍晋三自身が「成長戦略スピーチ第3弾」と銘打って謳った政策は自分一人で「『次元の違う』政策」と見ていたことになる矛盾である。

 当然、「『次元の違う』政策」でなければ、「『次元の違う』やり方」は存在しないことになる。

 百歩譲って、「新鮮味に欠ける」、「想定の範囲内」といった世間の評価は間違っていて、実際に「『次元の違う』政策」だと認めたとしても、「どんなに素晴らしい成長戦略でも、作文のままで終わらせてはなりません」と言い切る以上、政策遂行の方法論は確立していなければならないはずだ。

 だが、「『次元の違う』やり方が不可欠である、と考えます」と言って、「やり方」の確立は今後のこととしている。

 確立していないまま、「素晴らしい成長戦略」と断言することはできない。

 確立していてこそ、「作文のままで終わらせてはな」らないことの確約が可能となる。

 底の浅いズレた歴史認識と言い、そういった発想ができる程度の低い認識能力と言い、約束だけを先行させる、それゆえに具体策が乏しい、勇ましいだけの政策の羅列と言い、確かな足取りをなかなか実感できない実体経済の動向と言い、そういった諸々の要素で成り立たせた「成長戦略スピーチ第3弾」の安倍晋三の約束事である。

 約束事に必要とする確実性や信頼性よりもバラ色の成長夢物語といった不確実性・不信頼性の印象を強くした。

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安倍晋三の「世界に勝つ」思想を背景として第5回アフリカ開発会議で対等なパートナーシップを訴える欺瞞

2013-06-05 07:41:07 | Weblog

 20年前に日本主導で始まったアフリカ開発会議(TICAD)の第5回会議が6月1日から3日間、横浜市で開催された。この会議でアフリカが日本にとっての援助対象国という位置づけから投資や貿易の相互交通性を持たせた対等なパートナーへの位置づけへと変化したという。

 それだけアフリカが、格差問題や貧困問題を内包させていながら、政治的・経済的に力をつけてきたことを意味する。

 大体が今回の会議のテーマ自体が「躍動のアフリカと手を携えて」となっていって、対等なパートナーシップ(友好的な協力関係)を両者関係に置いている。

 当然、安倍晋三も6月1日のオープニングスピーチで対等なパートナーシップの位置づけを謳うことになる。

 安倍晋三「日本とアフリカは、いまや、『よきパートナー』であることさえ超え、より多く、『コ・マネジャー(共同経営者)』です。『コリーグ(同僚)』であって、『コ・ワーカー(仕事仲間)』なのです。互いに成長し合い、それによって、世界を成長させる仲間になりました。

 ・・・・・・・・・

 より一層、ダイナミックなアフリカへ向け、ハンド・イン・ハンド、手に手を携えて、いっしょに駆け抜けよう。アフリカの未来は、明るく、日本とパートナーシップを組むアフリカは、もっと明るいのである」――

 要するに安倍晋三は日本とアフリカとの間のウィン・ウィンの関係(互恵関係)の幕開きを高らかに宣言した。直径2メートルもあるような大きなくす玉を割って色取々の色紙の紙吹雪と共に「日本とアフリカはウイン・ウインの関係」と大書した垂れ幕をこれ見よとばかりに世界に向けて披露したといったところなのだろう。

 だがである。5月17日(2013年)、日本アカデメイアで「成長戦略第2弾スピーチ」と題した講演は「世界に勝つ」をテーマとしていた。

 日本の優れたシステムや技術を「日本から世界に展開する」と言い、「世界の技術や人材、資金を日本の成長に取り込む」と、日本と世界との発展的な相互依存関係の構築によるウィン・ウィンの関係(互恵関係)を謳いながら、「世界で勝って、家計が潤う」と宣言している。

 「世界に勝つ」とは日本を世界の頂点に置くことの謂(いい)であるのは断るまでもない。共に勝ってウィン・ウィンの関係を築く対等性を目指すのではなく、ウイン・ルーズの関係(日本一人勝ち)のみを目指す、日本を頂点に置いた世界との上下関係性を宣言したのである。

 さらに、「人材も、資金も、すべてが世界中から集まってくるような日本にしなければ、『世界で勝つ』ことはできません」と、「世界に勝てる大学改革」を謳うことで、ウィン・ウィンの関係(互恵関係)とは正反対のウイン・ルーズの関係(日本一人勝ち)を求めている。

 さらに「意欲と能力のあるすべての日本の若者に留学機会を実現させ」、「国際的な大競争の時代にあって、『世界に勝てる』人材を育成していきたい」と提唱しているが、そこには「世界に通用する」とする相互性を置いたウィン・ウィンの関係への視点はなく、あくまでも世界に勝つことを目標としたウイン・ルーズの関係への視点に囚われている。

 かくこのように安倍晋三が思想とする日本を頂点に置いた世界との上下関係性からのウイン・ルーズの関係欲求からしたら、第5回アフリカ開発会議のオープニングスピーチで言っている日本とアフリカとのあるべきだとする「よきパートナー」の対等関係、「コ・マネジャー(共同経営者)」の対等関係、「コ・ワーカー(仕事仲間)」の対等関係、「互いに成長し合い、それによって、世界を成長させる仲間」という対等関係等々に基づいたウィン・ウィンの関係は前者の関係欲求に反するがゆえに否定要素としなければならない関係性でなければならない。

 だが、自らが欲求する「世界に勝つ」ウイン・ルーズの関係性を隠して、堂々と対等なパートナーシップを求めるウィン・ウィンの関係性を宣言した。

 今や世界は日本に対して互恵関係を許すことはあっても、日本が「世界に勝つ」ことを許す状況にはない。過去に於いて戦争を手段として一度は目指したものの、許すことはなかった。

 しかし安倍晋三の中では「世界に勝つ」を自らの思想としている。でありながら、対等なパートナーシップを基盤としたウィン・ウィンの関係性を口にする。

 このご都合主義は欺瞞に彩られている。

 このような欺瞞に彩られたご都合主義は他にも見ることができる。日本の戦争の侵略性を否定する歴史認識を自らの思想としながら、安倍内閣として植民地支配と侵略を認めている村山談話を引き継ぐとしている姿勢を代表例として挙げることができる。

 このようなご都合主義にこそ、安倍晋三の人となりを見て取ることができる。決してどこまでも通用するご都合主義には見えない。

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政治による官僚の悪しき慣習是正不能と他予算でも慣行化の反映としてある未だ続く復興予算流用

2013-06-04 03:13:54 | 政治

 あれだけ問題となった東日本大震災の復興予算の流用が未だ続いていることを次の記事が伝えている。

 《復興予算、雇用でも流用 被災地以外に1千億円》asahi.com/2013年6月3日8時0分)

 2011年度の復興予算で2千億円の事業費がついた、臨時や短期間の仕事に就いて貰い、生活を支える目的の厚生労働省担当の「震災等緊急雇用対応事業」。

 このうち915億円が東北や関東などの被害が大きかった9県が運営する雇用対策基金に配布、11~12年度に計約6万人が雇用され、その約8割を被災者が占めていて、適正に使用されていたと書いている。

 だが、 残る1085億円は被災地以外の38都道府県の基金に配布、朝日新聞による対38都道府県調査で11~12年度の被雇用者数は計約6万5千人にのぼるが、被災者はそのうち3%のみの約2千人。いわば被災者以外が97%の約6万3千人。

 記事は、〈「ウミガメの保護観察」や「ご当地アイドルのイベント」など震災と関係のない仕事ばかりで、大切な雇用でも復興予算のずさんな使われ方が続いている。〉と解説しているが、被災地以外での雇用支援となっているのだから、勢い震災と関係のない仕事ばかりとなるのだろう。

 事業を計画したものの、全額を被災地での利用で満たすことができず、止むを得ず被災地以外で消化したということは許されないはずだ。官僚は厳格な事業計画の立案、立案した事業計画に対する厳格な予算算出、算出予算の厳格な運用を伴わせた計画事業の厳格な執行を常なる役目としているはずだからだ。

 事業計画の立案から事業執行までの一連の流れを厳格に履行できたとき、予算のムダの排除のみならず、官僚の仕事自体のムダも排除できる。有効な予算の利用と有効な役目の執行が可能となる。
 
 だが、それができていなかった。昨年10月に野田政権下で問題が噴出していたにも関わらず、また自民党が国会で厳しく追及していたにも関わらず、依然として流用が続いていたということは官僚が自らの役目を厳格に遂行できていないということであって、この役目の遂行不能は復興予算に限って現れるということはないはずだから、他の予算でも巣食っている遂行不能――官僚による予算のムダな消費とムダな仕事の創出――であり、そうである以上、官僚の悪しき慣習となっていて、その反映として現れている復興予算流用と見なければならない。

 但し何よりも問題としなければならないことは官僚に対して監督する立場にある政治が監督できずに是正不能としている官僚の悪しき慣習だということであるはずだ。

 政治の側は常にムダの徹底的排除と言いながら、依然としてムダを野放しにしている。

 予算のムダは仕事のムダ(労働のムダ)を伴う。前者のみならず、後者も軽視できない。日本のホワイトカラーの労働生産性の低さに貢献している官僚の労働のムダでもあるはずだ。

 安倍内閣は年金支給総額の伸び抑制や社会保障費の見直しを言い出しているが、先ず行うことは口にした通りの予算のムダの排除を実現させることだろう。

 参考までに。

 2012年10月12日ブログ記事――《復興予算流用は復興予算だけのことなのか、一種の錬金術として慣用化していないか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍晋三は矛盾した論理の国会答弁やその他の発言で自らの歴史認識を曖昧にするゴマ化しを働いてきた

2013-06-03 09:02:55 | Weblog

 ――安倍晋三が、歴史家自体が歴史認識を異にするにも関わらず歴史認識は歴史家に任せるべきだと言っていることはマヤカシそのもので、外国や自国民と向き合っている国家権力者の立場にある以上、自身の歴史認識が問題にされるのであり、問題としなければならないはずだが、そのことに気づかない愚か者となっている――

 安倍晋三は相変わらず歴史認識は歴史家に任せるべきだと、自己都合の欺瞞に満ちた詭弁を駆使している。6月1日(2013年)土曜日の日本テレビ「ウェークアップ」。司会の辛坊治郎が首相官邸を訪れて、安倍晋三に歴史認識、その他についてインタビューした。

 辛坊治郎(橋本慰安婦発言について)「恐らく同じ思いをするところと違うところと両方おありだと思いますが――」

 安倍晋三「勿論、あのー、橋下さんとは自民党、安倍内閣の立場は違いますが、歴史認識については、ファクトを含めてですね、歴史家に任せるべきだというのは第1次政権から実は私はずっと言ってきて、言ってきてるんですね。

 あのー、これは神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間が、えー、その発言をすべきではない、もっと謙虚であるべきだと。

 また、そういう議論をすることそのものが政治問題化・外交問題化するんですね。それはやはり避けるべきだというのが私の考えです」――

 安倍晋三は同一の発言を国会答弁等で繰返している。

 歴史認識に関わる発言は政治問題化・外交問題化するから避けるべきだとする政治上の危機管理は問題化する以前に問題化しないように努める危機管理であって、問題化した場合、折角の危機管理を有効活用できなかったことの証明となる。

 有効活用できなかったとはその危機管理の無効化を意味する。役に立たなかった危機管理だったということになる。

 果たして安倍晋三は自ら掲げた危機管理を有効活用できているのだろうか。現在も役に立っている危機管理となっているのだろうか。

 既にその答は出ている。安倍晋三の歴史認識発言が中韓との間で外交問題化・政治問題化している。いわば役立てることができなかった危機管理として無効化させた。にも関わらず、問題化後にまで自ら無効化させた危機管理を持ち出している。

 この合理的認識能力の欠如は――頭の程度は如何ともし難い。

 2013年5月16日の当ブログ記事――《安倍晋三の歴史認識が日中・日韓関係に於ける外交関係構築の基本的要件を踏まえることができない理由 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に、日本の首相の歴史認識が日中・日韓関係に於ける外交関係構築の欠かすことのできない基本的要件となっていゆえに歴史家に任せた歴史認識ではなく、自身の歴史認識を明らかにする必要があると書いたが、今回は異なる視点から、「歴史認識は歴史家に任せるべきだ」と言っていることの正当性・合理性を検証してみたいと思う。

 安倍晋三が歴史認識に関わる自身の発言は慎むべきだとしている理由は、実際には日本の戦前の戦争の侵略性を否定する歴史認識発言や、「A級戦犯は国内法的には犯罪人ではない」といった歴史認識発言を行なっているが、「神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間がその発言をすべきではない、もっと謙虚であるべきだと」としているところにある。

 「神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間」とは安倍晋三自身を指しているはずである。いわばそのような人間がその絶対性を利用して自らの歴史認識を強制すべきではない、「もっと謙虚であるべきだ」と言っている。

 大体が自分の頭の程度を弁えもせずに自身を神に擬(なぞら)えること自体、傲岸不遜に当たることに気づかない。

 4月26日(2013年)午前の衆院内閣委員会で赤嶺政賢共産党議員の歴史認識に関わる質問に対しても同じ答弁をしている。

安倍晋三「歴史というのは一般論として言うと、確定するのは難しく、長い年月をかけて専門家の手によって新たなファクトが掘り起こされていくこともあるのだから、専門家・歴史家に委ねるべきであって、私が政治家として神の如くに判断することはできない」――

 この発言の前に侵略に関わる歴史認識に関しては歴史家に任せるべきだと答弁している。

 安倍晋三「村山談話は曖昧な点がある、特に侵略という定義についてはこれは学会でも定まっていない。それは国と国との関係に於いて、どちら側から見るかということに於いて違う」

 赤嶺議員「日本の過去の戦争はどちら側から見るかで評価が違うのか。中国や韓国から見ると侵略だが、日本から見ると、違うということなのか」

 安倍晋三「いわゆる村山談話は戦後50年を期に出されたものであり、戦後60年にっ亘っては、当時の小泉内閣が談話を出している。我が国はかつて多くの人々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた。その認識に於いては安倍内閣としては歴代内閣共通の立場、同じ立場だ。その上に於いて、然るべきときに21世紀にふさわしい未来志向の談話を発表したいと考えており、そのタイミングと中身については考えて行きたいと先般、そのように答弁した。

 いずれにせよ、韓国や中国を始めとする近隣諸国の国々は日本にとっても重要なパートナでもあり、これらの国々との関係教科を引き続き努力していくと共に地域の平和と反映に積極的に貢献をしていく所存だ。

 歴史認識の問題については、基本的に私が先般述べたことは政治家がとやかく言うべきではなく、歴史家や専門家に委ねることが適当だろうと考えている。

 私は歴史認識に関する問題が外交問題、政治問題化されることは勿論、望んでいない。歴史認識については政治の場に於いて議論することは結果として外交問題、政治問題に発展をしていくわけで、だからこそ歴史家・専門家に任せるべきだろうと判断している」――

 侵略の定義は学会でも定まっていない、どちらの国から見るかでも定義が違ってくるということなら、歴史家・専門家に侵略の定義を任せたとしても、定めることはできないことになる。

 勿論、侵略の定義だけではなく、他の歴史認識に関しても、歴史家・専門家の思想的立場や国の立場に応じて異なることになり、一つに纏めることは不可能ということになるし、実際にも不可能な状態にある。

 このことは、インターネット上で調べて色分けしたのだが、田中正明や渡部昇一、林房雄といった歴史家、思想家が日本の戦争の侵略性を否定しているのに対して遠山茂樹や大江志乃夫、林健太郎等の歴史家が侵略性を肯定していることからも証明できる。

 林健太郎に関しては「Wikipedia」に次のような記述がある。

 〈保守派の論客であると評価される一方で、以下の様な意見を表明していた。

 1930年代以降の日本の行為は、国際聯盟規約やパリ不戦条約、民族自決主義など当時既に確立していた国際法、国際倫理に反し、侵略と呼ぶほかはない。

 大東亜戦争は日本の他国支配の維持・拡大のための戦争であり、侵略行為の過程で他国との武力衝突を引き起こしたのであり、これを自衛とは言わない。先に自ら殴っておいて、殴り返されたことを以って「自衛行為」とは言えないのと同様である。

 アジア解放を掲げながら、日本は中国・韓国を解放しなかった。〉――

 要するに「侵略という定義についてはこれは学会でも定まっていない。それは国と国との関係に於いて、どちら側から見るかということに於いて違う」と前半で言っていることは歴史家・専門家ばかりではなく、一般的にも様々に異なる意見が存在するのだから、正しいことになる。だが、これを論理的に正しいとすると、歴史認識は「歴史家・専門家に任せるべきだ」は前半の正しさに反して矛盾した論理となる。

 異なる歴史認識を持つ歴史家・専門家に定義の統一を任せる矛盾である。

 安倍晋三は矛盾した論理の国会答弁やその他の発言で自らの歴史認識を曖昧にするゴマ化しを働いてきたのである。「歴史認識は歴史家に任せるべきだ」と言っていることの正当性・合理性はどこにもない。

 歴史認識を歴史家や専門家に任せることができない以上、一国の首相は自らの歴史認識によって外国や自国国民に対峙するしかない。

 勿論、歴史認識ばかりではない。人権意識に関しても同じことを言うことができる。行動は自らの思想に拠って立つ。

 安倍晋三が戦前の日本の侵略性を否定する歴史認識に立っている以上、アジアの国々ばかりか、アメリカに対しても首相の資格を失うことになる。

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安倍政権の脱北者中国経由北朝鮮強制送還のラオス政府に抗議しない態度から占う拉致解決の本気度

2013-06-02 05:56:00 | 政治

 中国を経由してラオスに逃れた脱北者9人が5月28日、ラオス政府によって違法入国者として脱北のコースをそのまま逆にとって中国を経由して北朝鮮に強制送還されたという。

 《韓国外務省 新聞情報把握せず》NHK NEWS WEB/2013年5月30日 17時46分)

 記事題名は韓国の有力紙「東亜日報」が5月30日、9人の中に日本人拉致被害者の女性の息子がいたと報道したことに対する韓国外務省の反応に由来する。

 東亜日報記事はその女性を「1970年代に29歳のとき姿を消して2006年に拉致被害者として認定された」と特定していて、「NHK NEWS WEB」記事は鳥取県米子市の自宅を出たまま行方不明になった松本京子さんを指していると見られると解説している。

 チョ・テヨン韓国外務省報道官(5月30日記者会見)「知らないので、説明する内容もない」

 記者「日本政府から事実関係について問い合わせがあったか」(解説文を会話体に直す)

 チョ・テヨン韓国外務省報道官「確認する」

 報道官は日本メディアから同じ趣旨の質問が繰返されたが、「知らない」の一点張りだったという。

 記事には書いてないが、人道問題が絡んでいるから、安倍晋三の歴史認識発言に端を発した日韓関係冷却からの突き放した態度ではないはずだ。

 脱北者団体によると、中国経由ラオスへの脱北はラオスが強制送還する心配のない安全なルートだとされていて、今回のラオス政府による強制送還は異例だとしていると記事は解説している。

 このラオス政府の5月28日強制送還に対してアメリカに本部を置く国際的な人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチが2日後の5月30日に直ちに反応、脱北者が北朝鮮に強制送還されれば危害を加えられることは予想できたと声明を発表し、ラオス政府の対応を非難、中国経由の送還であることから、「中国は難民認定の義務を果たさず、人権を無視した」と中国を併せて非難、北朝鮮に対して「9人が国から逃げたことについて報復や危害を与えないよう保障しなければならない」と9人の安全を保障するよう強く求めたと、《人権団体 脱北者強制送還のラオスを厳しく非難》NHK NEWS WEB/2013年5月30日 15時29分) が伝えている。

 時事通信社が5月30日、ラオス外務省当局者に電話取材して9人の脱北者の中に日本人拉致被害者の女性の息子が存在したのか確認したところ、「承知していない」と回答したという。

 ラオス政府は承知していたとしても、「承知していない」と答えるだろう。問題を大きくしないためだけではなく、一旦北朝鮮に強制送還した以上、北朝鮮が9人をラオスに戻すことはあり得ないから、9人に関しては一切がラオス政府の手から離れて、もはやどう動かすこともできないからだ。

 中国政府に確認したとしても、「承知していない」と答えるだろうし、北朝鮮は否定するのは分かり切っている。

 5月31日に国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が北朝鮮に戻れば9人の身に危害が加えられる恐れがあるとして中国とラオスの措置に深い失意を表明。《脱北者9人の送還に「失望」=国連》時事ドットコム/2013/06/01-01:08)

 〈OHCHRによると、9人は全員が孤児で、このうち5人程度が未成年という。その上で、「北朝鮮に送還されれば、厳しい処罰や虐待を受ける可能性が高い」(報道官)と指摘。危害を受ける恐れがある国に送還しないとする難民保護の原則が尊重されなかったとした。〉と記事は書いている。

 対して日本政府の対応。《ラオスの脱北者に拉致被害者息子か~韓国紙》日テレNEWS24/ 2013年5月30日 16:56)

 5月30日朝の記者会見。

 菅官房長官「そうした報道があったことは承知しております。拉致被害者の安否にかかわる情報については、普段から情報収集に努めており、本件についても関係国と連絡を取るなど、事実関係について、今、鋭意確認中であります」

 記事解説、〈菅官房長官はこのように述べ、外交ルートを通じて、ラオスや韓国など関係国に事実関係を確認していることを明らかにした。 〉・・・・・

 《「拉致被害者の子」報道 慎重に調査》NHK NEWS WEB/2013年5月30日 12時15分)

 記事題名の「慎重に調査」は韓国政府の動向を伝えたもので、日本政府のではない。松本京子さんの兄の孟氏の発言を紹介したあとで最後に、付け足しというわけではないだろうが、菅官房長官の同じ5月30日午前の発言を伝えている。

 松本孟氏「けさ、日本政府から、事実関係を調べているという連絡があった。今のところ、韓国の新聞だけの話なので何とも言えません。政府には、事実関係を解明してほしいし、仮に事実であれば一刻も早く妹が日本に帰れるようお願いしたい」

 菅官房長官「拉致被害者の安否に関わる情報については、ふだんから情報収集に努めており、報道についても関係国と連絡を取るなど、事実関係を今、鋭意確認中だ。すべての拉致被害者が生存されているという前提の下で情報収集・分析を行っている」

 なぜ日本政府は第一番に人道的観点からラオス政府に直ちに抗議しなかったのだろうか。強制送還された9人の中に日本人拉致被害者の関係者が入っていなければ問題はないというわけではあるまい。

 もし問題はないと見ているなら、9人の脱北者を日本人拉致被害者の観点からのみ見ていて、人権の観点からは見ていないことになり、何人(なんぴと)もその人権は尊重されるべきだとする人権感覚が疑われることになる。

 日本とラオスは1955年3月に外交関係を樹立、58年が経過している。抗議できない関係ではないはずだ。

 日本人拉致被害者の関係者が存在するしないに関わらず、人権尊重の観点から強制送還を抗議することによって、次の強制送還を阻止する手立てとし、その手立てを生かすことによって次の人権無視――非人道的措置を防ぐことが可能となる。

 そのように脱北者の脱北を守る=人権を守る手立てを講ずることによって、守ることができた脱北者の中から日本人拉致被害者の情報が韓国政府経由等で手に入る偶然に恵まれる可能性も生じる。

 勿論、脱北者の中に拉致被害者の関係者が存在していたなら、有力な手がかりが手に入る重要な機会となる。

 逆に強制送還が続いたなら、脱北者の中に仮に日本人拉致被害者の情報を持っていたとしても、持っているという情報はもたらされることはあっても、それがどのような情報内容なのか、具体的な点までは殆どの場合、確認できない状態――未確認情報と化すことになるはずだ。

 当然、日本政府は人権擁護を優先事項として、日本人拉致被害者に関係する情報獲得への期待のためにも脱北者の強制送還に反対の抗議を声を上げ、その保護に動かなければならない。ラオス政府に対してだけではなく、中国当局の北朝鮮強制送還にも反対し、常に抗議の声を上げなければならない。

 だが、日本政府は脱北者の中に日本人拉致被害者の関係者が存在していたのかいなかったのかの事実確認のみに動いて、ラオス政府の脱北者強制送還に対して今以て優先事項とすべき抗議の声を上げていない。これでは拉致解決の本気度がどの程度か窺い知ることができるというものである。

 岸田外相が6月1日、アフリカ開発会議(TICAD)出席のため来日中の潘基文国連事務総長と横浜市で会談している。

 岸田外相「安倍晋三首相は自分の政権で完全に解決する決意だ」(MSN産経

 すべきことをせずに決意だけ勇ましく語る。

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