■清凉寺栖霞観の歴史と早咲桜花
清凉寺、嵯峨の伽藍へ早咲きの桜花を求め散策して参りました。栖霞観として歴史が始まり千年以上を経た歴史とともに多宝塔に寄り添う桜花が迎える寺院です。

清凉寺、嵯峨釈迦堂。京都の嵯峨は大覚寺に程近く、観光地化された嵐山を少し隔てた山の峰々を見上げる静寂の地に造営された伽藍が続く地に建立されています。山号を五台山とし、国宝釈迦如来を祀る寺院は寛和3年即ち実に千年を遡る987年に造営されました。

桜前線の歩みが緩やかな本年は早春に首都圏北部を雪化粧が覆う寒冷の日和を運ぶ風情、他方で桜花期待する各地催事は蕾の桜木々を見上げるばかりとの風景が広がる。他方、この霊場では一足先に早咲きの桜花々が拝観の善男善女を迎えているのはご存知でしょうか。

嵯峨天皇の皇子で左大臣の源融が別荘として造営した栖霞観がこの寺院の歴史の始まりです。源融は晩年に仏教へ帰依し写経と造仏へ着手しましたが修行の途上に他界、源融の子達が悼んで造営したのが阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺で、源融の一周忌に落成しました。

釈迦如来を本尊とする清凉寺は棲霞寺の伽藍を広げ建立されています。棲霞寺は清凉寺であり清凉寺は棲霞寺、というもの。清凉寺の由来は高僧奝然によるものです。奝然、宋は五台山またの名を清凉山を訪問、釈迦如来像を謹刻、安置場所へ棲霞寺を造営しています。

三国伝来の釈迦像として本尊の釈迦如来像は国宝指定されていますが、これは古代天竺優填王が釈迦在世中に栴檀を以て創り上げた霊像を宋は台州の開元寺にて模刻させ日本へ招いたもので、仏教発祥の地の由緒ある霊像を仏教最盛地の宋で復刻した貴重なものでした。

愛宕山を五台山に見立てその山麓へ釈迦如来立像を祀る寺院は、こうした由緒ある仏像を祀る意味を有しましたが、清凉寺造営は奝然の国家安康祈念の一方で政争に揺れる事となります。奝然は清凉寺建立の途上に他界する事となり、弟子の盛算が引継ぐ事となります。

比叡山延暦寺の影響力を排し政治に専念するとの朝廷は、新たに仏教の都における拠点を必要としており、比叡山から遠く隔てた愛宕山を新しい霊場とし、この中枢に三国伝来の釈迦像を祀り、清凉寺をその拠点としようとしました。ここで延暦寺との対立が生じます。

五台山清凉寺はこの対立を乗り越え落成しました。しかし延暦寺と朝廷の対立は更に天皇と上皇の対立と重ね平安朝末期の騒擾へと繋がり、統治機構の緩みが全国の騒擾や反乱を誘発、命により鎮定に当った武装下級貴族が次第に武士、新しい統治者となってゆきます。

棲霞観跡、とも呼ばれる清凉寺は源氏物語発祥の地、とも呼ばれる寺院です。光源氏が造営したという源氏物語に描かれた六条院を示す寺院とされます。これは大覚寺の南に造営した阿弥陀三尊を祀る寺院との表現で、清凉寺河原院が位置や本尊からも当て嵌まるため。

清凉寺はこうして、阿弥陀三尊本尊とする棲霞寺と釈迦如来を本尊とする清凉寺との多文化共生を示すが如く崇敬と信仰を集める霊場として数百年に渡り荘厳美麗な伽藍を広めてゆきましたが、応仁の乱にて洛中の動乱は嵯峨へと波及し戦火から逃れられませんでした。

応仁の乱の荒廃は安土桃山時代に豊臣秀頼により寄進造営を経て1602年に漸く復興を遂げます。この縁あって大坂夏の陣による豊臣家滅亡後、豊臣秀頼墓所は清凉寺に置かれました。その後、大火に見舞われ再度荒廃し、徳川綱吉の母桂昌院により再建、今日に至る。

嵐山の喧騒、その渡月橋から天龍寺へ大覚寺へと30分程散策を愉しみますと、喧騒が途絶え静寂を迎え、大覚寺の少し手前に荘厳な楼門が聳え立ち、ふと新鮮な感慨を受ける、その場所が清凉寺です。伽藍は広く拝観者を迎え入れ、夜まで自由に立ち入る事が出来ます。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
清凉寺、嵯峨の伽藍へ早咲きの桜花を求め散策して参りました。栖霞観として歴史が始まり千年以上を経た歴史とともに多宝塔に寄り添う桜花が迎える寺院です。

清凉寺、嵯峨釈迦堂。京都の嵯峨は大覚寺に程近く、観光地化された嵐山を少し隔てた山の峰々を見上げる静寂の地に造営された伽藍が続く地に建立されています。山号を五台山とし、国宝釈迦如来を祀る寺院は寛和3年即ち実に千年を遡る987年に造営されました。

桜前線の歩みが緩やかな本年は早春に首都圏北部を雪化粧が覆う寒冷の日和を運ぶ風情、他方で桜花期待する各地催事は蕾の桜木々を見上げるばかりとの風景が広がる。他方、この霊場では一足先に早咲きの桜花々が拝観の善男善女を迎えているのはご存知でしょうか。

嵯峨天皇の皇子で左大臣の源融が別荘として造営した栖霞観がこの寺院の歴史の始まりです。源融は晩年に仏教へ帰依し写経と造仏へ着手しましたが修行の途上に他界、源融の子達が悼んで造営したのが阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺で、源融の一周忌に落成しました。

釈迦如来を本尊とする清凉寺は棲霞寺の伽藍を広げ建立されています。棲霞寺は清凉寺であり清凉寺は棲霞寺、というもの。清凉寺の由来は高僧奝然によるものです。奝然、宋は五台山またの名を清凉山を訪問、釈迦如来像を謹刻、安置場所へ棲霞寺を造営しています。

三国伝来の釈迦像として本尊の釈迦如来像は国宝指定されていますが、これは古代天竺優填王が釈迦在世中に栴檀を以て創り上げた霊像を宋は台州の開元寺にて模刻させ日本へ招いたもので、仏教発祥の地の由緒ある霊像を仏教最盛地の宋で復刻した貴重なものでした。

愛宕山を五台山に見立てその山麓へ釈迦如来立像を祀る寺院は、こうした由緒ある仏像を祀る意味を有しましたが、清凉寺造営は奝然の国家安康祈念の一方で政争に揺れる事となります。奝然は清凉寺建立の途上に他界する事となり、弟子の盛算が引継ぐ事となります。

比叡山延暦寺の影響力を排し政治に専念するとの朝廷は、新たに仏教の都における拠点を必要としており、比叡山から遠く隔てた愛宕山を新しい霊場とし、この中枢に三国伝来の釈迦像を祀り、清凉寺をその拠点としようとしました。ここで延暦寺との対立が生じます。

五台山清凉寺はこの対立を乗り越え落成しました。しかし延暦寺と朝廷の対立は更に天皇と上皇の対立と重ね平安朝末期の騒擾へと繋がり、統治機構の緩みが全国の騒擾や反乱を誘発、命により鎮定に当った武装下級貴族が次第に武士、新しい統治者となってゆきます。

棲霞観跡、とも呼ばれる清凉寺は源氏物語発祥の地、とも呼ばれる寺院です。光源氏が造営したという源氏物語に描かれた六条院を示す寺院とされます。これは大覚寺の南に造営した阿弥陀三尊を祀る寺院との表現で、清凉寺河原院が位置や本尊からも当て嵌まるため。

清凉寺はこうして、阿弥陀三尊本尊とする棲霞寺と釈迦如来を本尊とする清凉寺との多文化共生を示すが如く崇敬と信仰を集める霊場として数百年に渡り荘厳美麗な伽藍を広めてゆきましたが、応仁の乱にて洛中の動乱は嵯峨へと波及し戦火から逃れられませんでした。

応仁の乱の荒廃は安土桃山時代に豊臣秀頼により寄進造営を経て1602年に漸く復興を遂げます。この縁あって大坂夏の陣による豊臣家滅亡後、豊臣秀頼墓所は清凉寺に置かれました。その後、大火に見舞われ再度荒廃し、徳川綱吉の母桂昌院により再建、今日に至る。

嵐山の喧騒、その渡月橋から天龍寺へ大覚寺へと30分程散策を愉しみますと、喧騒が途絶え静寂を迎え、大覚寺の少し手前に荘厳な楼門が聳え立ち、ふと新鮮な感慨を受ける、その場所が清凉寺です。伽藍は広く拝観者を迎え入れ、夜まで自由に立ち入る事が出来ます。
北大路機関:はるな くらま
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