■木更津航空祭大編隊祝賀飛行
木更津駐屯地創設45周年航空祭、記念式典に続き観閲飛行準備の号令が掛かりました。
CH-47の列線を背景に観閲飛行へ向かう要員//第1ヘリコプター団、長官直轄部隊時代の編成は第1ヘリコプター団、その隷下に団本部と本部管理中隊、第1ヘリコプター隊、第2ヘリコプター隊、ヘリコプター野整備隊、特別輸送飛行隊、という編成でした。当方が初めて木更津航空祭を撮影した際の編成です。
三機編隊の離陸、CH-47の編隊離陸は迫力が凄い//部隊編制は、団本部と本部管理中隊は隷下にLR-1連絡偵察機を装備、第1ヘリコプター隊は第1飛行隊と第2飛行隊、第2ヘリコプター隊は第3飛行隊と第4飛行隊、という2個飛行隊編成で、CH-47輸送ヘリコプターとOH-6D観測ヘリコプターを装備していました。
青空を示す航空科部隊旗が快晴の下で眩しい//ヘリコプター団の特別輸送飛行隊は当時AS-332L輸送ヘリコプターを運用していまして、政府要人の特別輸送を任務とする飛行隊です。AS-332L輸送ヘリコプターは第1ヘリコプター団のみ装備されていますが、これは元々ヘリコプター団が特別輸送任務に当ったため。
CH-47の列線、これだけ並ぶ大型輸送ヘリの迫力は世界でも見れるところは限られる//その後、本部管理中隊にはLR-1連絡偵察機が新型のLR-2連絡偵察機へ、特別輸送飛行隊はAS-332L輸送ヘリコプターからEC-225輸送ヘリコプターへ、機種転換を受けています、AS-332Lの改良型がEC-225でして、加えてLR-1連絡偵察機は2016年まで現役でした。
京葉工業地帯の工場群を背景に//木更津駐屯地祭へ当方が初めて足を運んだのは2006年、そして今回掲載している木更津駐屯地際は2013年、この中で非常に大きな部隊改編が行われていまして、長官直轄部隊から中央即応集団へ、UH-60JA多用途ヘリコプターのヘリコプター団配備等も行われています。
編隊指揮官が搭乗するOH-6が離陸する//自衛隊とヘリコプター団の関係、というものまで、一つ遡ってみてみる事としましょう。第1ヘリコプター団の歴史は陸上自衛隊ヘリコプター部隊史と緊密に関係しており、いわば自衛隊航空史の縮図を第1ヘリコプター団史に見る事が出来るといっても過言ではない。
OH-6は陸上自衛隊航空を支えた観測ヘリコプター//自衛隊創設当時は1950年代半ば、航空機と云えば回転翼航空機よりも固定翼航空機が基本の時代であり、実は自衛隊にも連絡機や観測機と固定翼機の保有数の方が回転翼航空機よりも多く、ここからヘリコプター増勢を続け、現在の陸上自衛隊航空体系が育まれました。
現在運用されるのは改良型のOH-6D//ヘリコプター導入は、旧陸軍にはカ号観測機オートジャイロと共に生産を担当した萱場工業は終戦間近に横浜工業専門学校と協同でヘリコプター特殊蝶番レ号を試作、初飛行前に横転大破し、飛行に至っていません、萱場工業は戦後ヘリプレーン1型を開発しています。
CH-47の編隊離陸は次々に//しかし、歴史は繰り返すといいますか、このヘリプレーン1型も地上試験中に横転していまして飛行には至りませんでした。航空史を視れば1930年代に無尾翼近距離戦闘機かつをどり計画を進めており、これは先進的な無尾翼ラムジェットエンジン方式の航空機でした。
陸上自衛隊では冷戦後の改編連続期を経て現在、大編隊指揮を担える指揮官が減っているとのこと//世界航空史を視れば、1939年にシコルスキー技師がヘリコプター研究機をアメリカにおいて初飛行させています、しかし、1923年に固定翼機補助揚力として回転翼を上部に付けたオートジャイロが開発され日本も導入、将来的に回転翼航空機の誕生が見込まれています。
編隊離陸の後方は激しい突風に曝され、文字通り後塵を拝する//草創期のヘリコプターは、着弾観測や対潜哨戒に負傷兵輸送と様々な用途を研究し、1940年代には既にソナーを搭載し空中から検聴する対潜ヘリコプターの研究も開始、アメリカ軍では朝鮮戦争時代には既に航空救難に急患輸送や山岳戦空輸支援等に活用しています。
成田空港に程近い木更津駐屯地からは時折国際線の大型旅客機が頭上をゆく//新しい装備体系ヘリコプター、日本は自衛隊創設に先立ち1952年の保安隊時代に保安隊航空学校を浜松に創設しています、この保安隊航空学校は1954年自衛隊創設に際し、航空自衛隊創設式典を実施している航空自衛隊始まりの部隊ですが、陸上航空の始まりでもある。
航空機の価格としてこのAH-1S対戦車ヘリコプターやCH-47輸送ヘリコプターの価格はボーイング737-800旅客機やエアバスA-320旅客機よりも若干高価だ//1954年の防衛庁設置法により保安隊が陸海空自衛隊へ改編されると共に、保安隊航空学校より分れ、陸上自衛隊航空学校が創設されています、後に航空自衛隊は飛行教育集団と現在の航空教育集団へ発展しました。即ち陸上自衛隊航空学校起源は自衛隊創設前まで遡る。
LR-1連絡偵察機とLR-2連絡偵察機の離陸、LR-1は昨年最後の一機が除籍され今日では貴重な情景だ//陸上自衛隊航空学校は航空自衛隊発足と共に浜松駐屯地から新設の明野駐屯地、ここは明野陸軍飛行学校で戦時中は新鋭試作機評価試験と実戦試験により本土防空を担った明野教導飛行師団の拠点で陸軍航空総本山の一つでしたが、ある意味、本場へ拠点を移しました。
EC-225要人輸送ヘリコプターの地上展示機//航空学校は、陸上自衛隊航空の強化と共に分校を建設していまして、1959年に霞ヶ浦分校を霞ヶ浦駐屯地に新編、1964年に仙台岩沼分校を岩沼駐屯地に、これは現在の北宇都宮分校に当たる分校ですが、新編しています。航空科の学校の規模から航空重視が垣間見える。
大編隊が離陸し編隊を組み終えて祝賀飛行までの時間は地上展示航空機を散策する貴重な時間といえる//第1ヘリコプター団に話を戻しますが、1959年に航空学校霞ヶ浦分校へ航空学校第1ヘリコプター隊が新編され、陸上自衛隊はこの第1ヘリコプター隊を直轄部隊としたわけです、当時はH-19ヘリコプターやH-21ヘリコプター等今は保存機も珍しい機種が主力でした。
S-92ヘリコプター、警視庁航空隊の機体だ//1959年創設の霞ヶ浦第1ヘリコプター隊は、自衛隊初のヘリコプター部隊として成長を続け、師団飛行隊や方面航空隊として陸上自衛隊航空の増勢支援も含め重責を担ってきましたが第1ヘリコプター隊増強改編が決定、1968年に第2ヘリコプター隊が創設されました。
S-92はUH-60と同程度の調達費用でV-107規模の空輸能力を付与する事が主眼の航空機、UH-60はC-130輸送機へ搭載する要求から設計がコンパクトであるためS-92はこの制限を取り払った設計だ//木更津とヘリコプター部隊の関係ですが、アメリカ空軍が旧海軍木更津飛行場に進駐しアメリカ空軍木更津基地として運用していましたが、自衛隊創設後の1959年に航空自衛隊木更津基地が第1補給処を置き、東京湾臨海の日米共用飛行場として運用を開始しています。
CH-47の大編隊が行く、その狭間に1機の国際線旅客機が飛行する様子が見える//アメリカ空軍木更津基地ですが、横田基地と立川基地へ統合方針が定まり、1968年に陸上自衛隊へ移管される事となりました、この頃に横田基地拡張工事が行われ旧陸軍福生飛行場に起源をもつ横田基地は米軍有数の国外戦略拠点へ発展した訳ですがこれは別のはなし。
映画のような一幕、しかし、自衛隊が協力している映画を除けば高価なCH-47の大編隊が飛行する様子はCG以外中々見られない//1968年、陸上自衛隊木更津駐屯地が航空自衛隊木更津基地に隣接して創設され、霞ヶ浦第1ヘリコプター隊の移駐が行われました、木更津飛行場は戦時中九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機の基地でしたがロケット戦闘機秋水の試験も実施、航空施設は充実しています。
輸送ヘリコプターの大編隊というと映画ゴジラvsビオランテやガメラ大怪獣空中決戦を思い出す//木更津移駐に先立つ同年春に、第1ヘリコプター隊は新編の第2ヘリコプター隊を以て第1ヘリコプター団へ拡大改編を受け、木更津駐屯地正門には高々と第1ヘリコプター団と掲げられ、陸上自衛隊航空の新しい拠点として木更津はその名を轟かせる事となりました。
編隊が大きく旋回を完了しこちらへ向かう//名を轟かせた第1ヘリコプター団ですが、ヘリコプターを運用すればエンジン音も周辺に轟きます、しかし元々木更津は木更津海軍航空隊の街であり謂わば軍都、臨海部にありましたし、古くからの住民は米軍以上に自衛隊、ヘリコプター団を好意的に迎えたとのこと。
この写真に写る輸送ヘリだけでも空挺大隊を空輸可能だ//立川飛行場へ移駐したアメリカ軍ですが、他方、置き土産と云いますか迷惑なものも一つありました、有事の際、移駐したのがヴェトナム戦争中の1968年ですので第二次朝鮮戦争か第三次世界大戦を意味するのでしょうか、再度使うべく格納庫区画一部返還しなかった。
大編隊の祝賀飛行、いよいよ木更津駐屯地上空へ飛来する//2006年に初めて撮影に展開した際には物凄く邪魔な場所に1968年以降放置された廃墟格納庫が並んでいましたが、米軍区画、完全に忘れられた施設廃墟がありました。ただ、2013年には更地、返還された模様、これが米軍再編の施設返還成果の一つなのかと思いました。
北大路機関:はるな くらま
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木更津駐屯地創設45周年航空祭、記念式典に続き観閲飛行準備の号令が掛かりました。
CH-47の列線を背景に観閲飛行へ向かう要員//第1ヘリコプター団、長官直轄部隊時代の編成は第1ヘリコプター団、その隷下に団本部と本部管理中隊、第1ヘリコプター隊、第2ヘリコプター隊、ヘリコプター野整備隊、特別輸送飛行隊、という編成でした。当方が初めて木更津航空祭を撮影した際の編成です。
三機編隊の離陸、CH-47の編隊離陸は迫力が凄い//部隊編制は、団本部と本部管理中隊は隷下にLR-1連絡偵察機を装備、第1ヘリコプター隊は第1飛行隊と第2飛行隊、第2ヘリコプター隊は第3飛行隊と第4飛行隊、という2個飛行隊編成で、CH-47輸送ヘリコプターとOH-6D観測ヘリコプターを装備していました。
青空を示す航空科部隊旗が快晴の下で眩しい//ヘリコプター団の特別輸送飛行隊は当時AS-332L輸送ヘリコプターを運用していまして、政府要人の特別輸送を任務とする飛行隊です。AS-332L輸送ヘリコプターは第1ヘリコプター団のみ装備されていますが、これは元々ヘリコプター団が特別輸送任務に当ったため。
CH-47の列線、これだけ並ぶ大型輸送ヘリの迫力は世界でも見れるところは限られる//その後、本部管理中隊にはLR-1連絡偵察機が新型のLR-2連絡偵察機へ、特別輸送飛行隊はAS-332L輸送ヘリコプターからEC-225輸送ヘリコプターへ、機種転換を受けています、AS-332Lの改良型がEC-225でして、加えてLR-1連絡偵察機は2016年まで現役でした。
京葉工業地帯の工場群を背景に//木更津駐屯地祭へ当方が初めて足を運んだのは2006年、そして今回掲載している木更津駐屯地際は2013年、この中で非常に大きな部隊改編が行われていまして、長官直轄部隊から中央即応集団へ、UH-60JA多用途ヘリコプターのヘリコプター団配備等も行われています。
編隊指揮官が搭乗するOH-6が離陸する//自衛隊とヘリコプター団の関係、というものまで、一つ遡ってみてみる事としましょう。第1ヘリコプター団の歴史は陸上自衛隊ヘリコプター部隊史と緊密に関係しており、いわば自衛隊航空史の縮図を第1ヘリコプター団史に見る事が出来るといっても過言ではない。
OH-6は陸上自衛隊航空を支えた観測ヘリコプター//自衛隊創設当時は1950年代半ば、航空機と云えば回転翼航空機よりも固定翼航空機が基本の時代であり、実は自衛隊にも連絡機や観測機と固定翼機の保有数の方が回転翼航空機よりも多く、ここからヘリコプター増勢を続け、現在の陸上自衛隊航空体系が育まれました。
現在運用されるのは改良型のOH-6D//ヘリコプター導入は、旧陸軍にはカ号観測機オートジャイロと共に生産を担当した萱場工業は終戦間近に横浜工業専門学校と協同でヘリコプター特殊蝶番レ号を試作、初飛行前に横転大破し、飛行に至っていません、萱場工業は戦後ヘリプレーン1型を開発しています。
CH-47の編隊離陸は次々に//しかし、歴史は繰り返すといいますか、このヘリプレーン1型も地上試験中に横転していまして飛行には至りませんでした。航空史を視れば1930年代に無尾翼近距離戦闘機かつをどり計画を進めており、これは先進的な無尾翼ラムジェットエンジン方式の航空機でした。
陸上自衛隊では冷戦後の改編連続期を経て現在、大編隊指揮を担える指揮官が減っているとのこと//世界航空史を視れば、1939年にシコルスキー技師がヘリコプター研究機をアメリカにおいて初飛行させています、しかし、1923年に固定翼機補助揚力として回転翼を上部に付けたオートジャイロが開発され日本も導入、将来的に回転翼航空機の誕生が見込まれています。
編隊離陸の後方は激しい突風に曝され、文字通り後塵を拝する//草創期のヘリコプターは、着弾観測や対潜哨戒に負傷兵輸送と様々な用途を研究し、1940年代には既にソナーを搭載し空中から検聴する対潜ヘリコプターの研究も開始、アメリカ軍では朝鮮戦争時代には既に航空救難に急患輸送や山岳戦空輸支援等に活用しています。
成田空港に程近い木更津駐屯地からは時折国際線の大型旅客機が頭上をゆく//新しい装備体系ヘリコプター、日本は自衛隊創設に先立ち1952年の保安隊時代に保安隊航空学校を浜松に創設しています、この保安隊航空学校は1954年自衛隊創設に際し、航空自衛隊創設式典を実施している航空自衛隊始まりの部隊ですが、陸上航空の始まりでもある。
航空機の価格としてこのAH-1S対戦車ヘリコプターやCH-47輸送ヘリコプターの価格はボーイング737-800旅客機やエアバスA-320旅客機よりも若干高価だ//1954年の防衛庁設置法により保安隊が陸海空自衛隊へ改編されると共に、保安隊航空学校より分れ、陸上自衛隊航空学校が創設されています、後に航空自衛隊は飛行教育集団と現在の航空教育集団へ発展しました。即ち陸上自衛隊航空学校起源は自衛隊創設前まで遡る。
LR-1連絡偵察機とLR-2連絡偵察機の離陸、LR-1は昨年最後の一機が除籍され今日では貴重な情景だ//陸上自衛隊航空学校は航空自衛隊発足と共に浜松駐屯地から新設の明野駐屯地、ここは明野陸軍飛行学校で戦時中は新鋭試作機評価試験と実戦試験により本土防空を担った明野教導飛行師団の拠点で陸軍航空総本山の一つでしたが、ある意味、本場へ拠点を移しました。
EC-225要人輸送ヘリコプターの地上展示機//航空学校は、陸上自衛隊航空の強化と共に分校を建設していまして、1959年に霞ヶ浦分校を霞ヶ浦駐屯地に新編、1964年に仙台岩沼分校を岩沼駐屯地に、これは現在の北宇都宮分校に当たる分校ですが、新編しています。航空科の学校の規模から航空重視が垣間見える。
大編隊が離陸し編隊を組み終えて祝賀飛行までの時間は地上展示航空機を散策する貴重な時間といえる//第1ヘリコプター団に話を戻しますが、1959年に航空学校霞ヶ浦分校へ航空学校第1ヘリコプター隊が新編され、陸上自衛隊はこの第1ヘリコプター隊を直轄部隊としたわけです、当時はH-19ヘリコプターやH-21ヘリコプター等今は保存機も珍しい機種が主力でした。
S-92ヘリコプター、警視庁航空隊の機体だ//1959年創設の霞ヶ浦第1ヘリコプター隊は、自衛隊初のヘリコプター部隊として成長を続け、師団飛行隊や方面航空隊として陸上自衛隊航空の増勢支援も含め重責を担ってきましたが第1ヘリコプター隊増強改編が決定、1968年に第2ヘリコプター隊が創設されました。
S-92はUH-60と同程度の調達費用でV-107規模の空輸能力を付与する事が主眼の航空機、UH-60はC-130輸送機へ搭載する要求から設計がコンパクトであるためS-92はこの制限を取り払った設計だ//木更津とヘリコプター部隊の関係ですが、アメリカ空軍が旧海軍木更津飛行場に進駐しアメリカ空軍木更津基地として運用していましたが、自衛隊創設後の1959年に航空自衛隊木更津基地が第1補給処を置き、東京湾臨海の日米共用飛行場として運用を開始しています。
CH-47の大編隊が行く、その狭間に1機の国際線旅客機が飛行する様子が見える//アメリカ空軍木更津基地ですが、横田基地と立川基地へ統合方針が定まり、1968年に陸上自衛隊へ移管される事となりました、この頃に横田基地拡張工事が行われ旧陸軍福生飛行場に起源をもつ横田基地は米軍有数の国外戦略拠点へ発展した訳ですがこれは別のはなし。
映画のような一幕、しかし、自衛隊が協力している映画を除けば高価なCH-47の大編隊が飛行する様子はCG以外中々見られない//1968年、陸上自衛隊木更津駐屯地が航空自衛隊木更津基地に隣接して創設され、霞ヶ浦第1ヘリコプター隊の移駐が行われました、木更津飛行場は戦時中九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機の基地でしたがロケット戦闘機秋水の試験も実施、航空施設は充実しています。
輸送ヘリコプターの大編隊というと映画ゴジラvsビオランテやガメラ大怪獣空中決戦を思い出す//木更津移駐に先立つ同年春に、第1ヘリコプター隊は新編の第2ヘリコプター隊を以て第1ヘリコプター団へ拡大改編を受け、木更津駐屯地正門には高々と第1ヘリコプター団と掲げられ、陸上自衛隊航空の新しい拠点として木更津はその名を轟かせる事となりました。
編隊が大きく旋回を完了しこちらへ向かう//名を轟かせた第1ヘリコプター団ですが、ヘリコプターを運用すればエンジン音も周辺に轟きます、しかし元々木更津は木更津海軍航空隊の街であり謂わば軍都、臨海部にありましたし、古くからの住民は米軍以上に自衛隊、ヘリコプター団を好意的に迎えたとのこと。
この写真に写る輸送ヘリだけでも空挺大隊を空輸可能だ//立川飛行場へ移駐したアメリカ軍ですが、他方、置き土産と云いますか迷惑なものも一つありました、有事の際、移駐したのがヴェトナム戦争中の1968年ですので第二次朝鮮戦争か第三次世界大戦を意味するのでしょうか、再度使うべく格納庫区画一部返還しなかった。
大編隊の祝賀飛行、いよいよ木更津駐屯地上空へ飛来する//2006年に初めて撮影に展開した際には物凄く邪魔な場所に1968年以降放置された廃墟格納庫が並んでいましたが、米軍区画、完全に忘れられた施設廃墟がありました。ただ、2013年には更地、返還された模様、これが米軍再編の施設返還成果の一つなのかと思いました。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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