■五〇年に一度の大修理
京都幕間旅情、第二夜は清水寺春の夜間特別拝観情景を前回に続き紹介しましょう。
清水寺の印象、この奥の院から描写されているといっても過言ではない。奥の院からは本堂の美しい屋根の軽寿が見えまして、二重の檜皮屋根が一つの屋根を一層に二層を含める独特の形状となっています。室町時代からこの本堂の屋根の曲線は維持されていまして。
技巧溢れた屋根の形状、少々半世紀に一度の修理により見えなくなっているのは残念ではありますが、夜景にて組まれた足場の木々を眺めれば、一風昼間の修繕風景とは異なる印象が、ある。そして足場の狭間から屋根の形状が見え、此処が張り替えられる訳ですね。
本堂の片隅には出世大黒、大黒様が祀られています。大黒様は崇敬を集めたことで出世大黒と称せられるようになっているのですが、これは参拝者が大物になっただけでなく、室町時代に参詣道の入り口に安置された大黒様が現在の本堂の隣に移ったという歴史がある。
出世大黒、これは参道から様々な数奇を経て本堂の隣へ隣と移設され、本堂に達したことで出世した、という由来となっています。夜には少々参詣が難しい場所ではありますが、室町時代に安置場所を出世し本堂の隣に至った、やはり大志を抱き参拝したいものですね。
本堂の舞台は子安塔と山を拝むことができます。山岳寺院の山を拝む場所、お山の角度を造営に際して緻密に計算したことが伺えるのですが、その工夫は残念ながら今日誰が設計したかは伝わらず、美しい情景を崇敬の場所とする設計者の心の温もりだけが伝わります。
子安塔は高さ15m、先ほどの三重塔の半分の高さで、しかし外見は重なり、半分の高さの子安塔が山を一層引き立てているようです。子安塔は夜間特別拝観では公開されていません、昼間の参拝では少々小ぶりの印象をうけるのは足を運んだ際の感想、というもの。
朱色の建物は遠く遠景に大きな仏塔との印象を強く与え、なるほど遠景に観るべきかのかもしれません。室町時代には仁王門のとなりにあり、奈良時代に皇室の子安を願い千手観音が安産を祈願する場所でした。修復した後に明治時代、現在の場所へ移っています。
本堂裏手には地主神社が広がります。夜間特別拝観では参詣する事ができないのは残念ですが、縁結びの御利益で有名な神社ですね。創建は京都盆地がまだ湖の時代で神話の時代に創建されたといわれます。清水寺の前から地主神社があり奈良時代の様式をとった社だ。
社殿には大国主尊が祀られていまして、その前に恋いの石などが置かれています。この石はいつごろからこの場所にあるかは不詳ですが、室町時代にはすでにあり、江戸時代の文献には大勢にぎわったとも。拝殿、四方聖獣の蒼龍をまつり、京都の東の鎮守を担います。
鎌倉時代の逸話では地主神社の拝殿から音羽の滝へこの蒼龍が夜な夜な抜け出し、水を頂いていたともいわれます。このころから音羽の滝はあった、ということでしょうか。音羽の滝はいまも滾々と水を湛える、清水寺の名前の由来となったのが音羽の滝の清水です。
音羽の滝、三本の水流があり、もともと一本の滝であったようですが、鎌倉時代にはすでに三本の滝となっていたという。その前には記録がありません。滝行にあたる音羽の滝であったのですが、参拝の人々が多く滝行を行うために三本に分かれたともいわれています。
今日では音羽の滝は水を願掛けとともに頂く場所となっていますが、滝行をへて昔は本堂へ石段を登り、33回行う修行を行っていたという。観音様の三十三観音にあわせて滝行と本堂参拝を行っていましたが、今日では飲む事で成就、といわれています。楽になった訳ですね。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
京都幕間旅情、第二夜は清水寺春の夜間特別拝観情景を前回に続き紹介しましょう。
清水寺の印象、この奥の院から描写されているといっても過言ではない。奥の院からは本堂の美しい屋根の軽寿が見えまして、二重の檜皮屋根が一つの屋根を一層に二層を含める独特の形状となっています。室町時代からこの本堂の屋根の曲線は維持されていまして。
技巧溢れた屋根の形状、少々半世紀に一度の修理により見えなくなっているのは残念ではありますが、夜景にて組まれた足場の木々を眺めれば、一風昼間の修繕風景とは異なる印象が、ある。そして足場の狭間から屋根の形状が見え、此処が張り替えられる訳ですね。
本堂の片隅には出世大黒、大黒様が祀られています。大黒様は崇敬を集めたことで出世大黒と称せられるようになっているのですが、これは参拝者が大物になっただけでなく、室町時代に参詣道の入り口に安置された大黒様が現在の本堂の隣に移ったという歴史がある。
出世大黒、これは参道から様々な数奇を経て本堂の隣へ隣と移設され、本堂に達したことで出世した、という由来となっています。夜には少々参詣が難しい場所ではありますが、室町時代に安置場所を出世し本堂の隣に至った、やはり大志を抱き参拝したいものですね。
本堂の舞台は子安塔と山を拝むことができます。山岳寺院の山を拝む場所、お山の角度を造営に際して緻密に計算したことが伺えるのですが、その工夫は残念ながら今日誰が設計したかは伝わらず、美しい情景を崇敬の場所とする設計者の心の温もりだけが伝わります。
子安塔は高さ15m、先ほどの三重塔の半分の高さで、しかし外見は重なり、半分の高さの子安塔が山を一層引き立てているようです。子安塔は夜間特別拝観では公開されていません、昼間の参拝では少々小ぶりの印象をうけるのは足を運んだ際の感想、というもの。
朱色の建物は遠く遠景に大きな仏塔との印象を強く与え、なるほど遠景に観るべきかのかもしれません。室町時代には仁王門のとなりにあり、奈良時代に皇室の子安を願い千手観音が安産を祈願する場所でした。修復した後に明治時代、現在の場所へ移っています。
本堂裏手には地主神社が広がります。夜間特別拝観では参詣する事ができないのは残念ですが、縁結びの御利益で有名な神社ですね。創建は京都盆地がまだ湖の時代で神話の時代に創建されたといわれます。清水寺の前から地主神社があり奈良時代の様式をとった社だ。
社殿には大国主尊が祀られていまして、その前に恋いの石などが置かれています。この石はいつごろからこの場所にあるかは不詳ですが、室町時代にはすでにあり、江戸時代の文献には大勢にぎわったとも。拝殿、四方聖獣の蒼龍をまつり、京都の東の鎮守を担います。
鎌倉時代の逸話では地主神社の拝殿から音羽の滝へこの蒼龍が夜な夜な抜け出し、水を頂いていたともいわれます。このころから音羽の滝はあった、ということでしょうか。音羽の滝はいまも滾々と水を湛える、清水寺の名前の由来となったのが音羽の滝の清水です。
音羽の滝、三本の水流があり、もともと一本の滝であったようですが、鎌倉時代にはすでに三本の滝となっていたという。その前には記録がありません。滝行にあたる音羽の滝であったのですが、参拝の人々が多く滝行を行うために三本に分かれたともいわれています。
今日では音羽の滝は水を願掛けとともに頂く場所となっていますが、滝行をへて昔は本堂へ石段を登り、33回行う修行を行っていたという。観音様の三十三観音にあわせて滝行と本堂参拝を行っていましたが、今日では飲む事で成就、といわれています。楽になった訳ですね。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)