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【日曜特集】築城基地航空祭二〇一三【3】第8航空団F-2&F-15戦爆連合(2013-10-27)

2017-04-02 22:44:22 | 航空自衛隊 装備名鑑
■F-2&F-15戦爆連合編隊飛行
 築城基地航空祭二〇一三、F-2戦闘機とF-15戦闘機の云わば戦爆連合編隊の飛行展示です。

 築城基地第8航空団は1977年、F-4EJ戦闘機の導入を開始します。これはF-86戦闘機を運用する第10飛行隊を解散し、この要員を以てF-4EJを運用する第304飛行隊を新編しました。F-86戦闘機からF-4EJへの機種転換、昼間戦闘機から全天候戦闘機への改編だ。

 F-4ファントムはF-104戦闘機の後継機として導入が開始されたもので、三菱重工によるライセンス生産が実施、144機が航空自衛隊へ導入されました。F-4ファントムは1959年にアメリカ海軍の空母艦載機として誕生、海軍の要請で高い運動性能を備えた戦闘機でした。

 当時、世界の戦闘機はミサイル万能論が幅を利かせており、空戦機動を度外視したミサイル運用重視の機種が主流となりつつありましたが、F-4ファントムは海軍空母航空団からの要望で格闘性能が求められ、結果的に設計に余裕が大きくなり自衛隊では今も現役です。

 ファントムは、イギリスをはじめアメリカの同盟国や友好国へも多数が供与され、実に5000機以上が生産されました。操縦士とレーダー要員の2名が搭乗、これにより長距離戦闘と視程外射程の中射程空対空ミサイルの運用能力を有し、広大な日本の空の守りを固めた。

 ファントムとセイバー、当時の第8航空団はF-4ファントムを運用する第304飛行隊とF-86セイバーを運用する第6飛行隊が並んでいた訳で、片や朝鮮戦争時代の老兵、片や現在も防空の第一線を担当する戦闘機、ちょっと想像してみますと、不思議な印象が拭えません。

 F-86は支援戦闘機、という任務に当時運用されていました。F-86は優秀な戦闘機でしたが、F-104戦闘機配備開始により超音速戦闘機の時代が自衛隊に到来、F-4戦闘機により視程外戦闘が可能となった中で、亜音速の昼間戦闘機F-86では出来る事も限られるのは確かです。

 支援戦闘機は、要撃戦闘に当たると共に近接航空支援任務に当たるという運用区分で、具体的には爆弾を搭載し対艦攻撃や近接航空支援任務を主眼とするものです、近接航空支援ならば超音速性能よりも亜音速性能と運動性能がその精度を左右しますから適任でしょう。

 航空自衛隊はF-86戦闘機を支援戦闘機に区分転換し、対艦攻撃任務へ充てていましたが、この攻撃方法として訓練されたのが反跳爆撃です、これは第二次世界大戦中に日米が試験的に導入し、その後米軍が本格的な運用を行い、対艦攻撃へ高い命中精度を発揮したもの。

 反跳爆撃、爆弾を海面上低空飛行しつつ投下した場合、海面に幾度も跳躍し艦船の上部構造物へかなり正確に命中させる事が出来ます、河川の水面に石を投げ込み水切りをする遊戯がありますが、反跳爆撃は正にこの方法を爆弾で実施したもの、簡単ですが効果は高い。

 第二次世界大戦中の攻撃方法を冷戦時代の1960年代から1970年代にかけて実施するとは、とあきれられるかもしれませんが、実はこの方法、1982年のフォークランド紛争にてアルゼンチン空軍がA-4攻撃機で多用しまして、イギリス海軍水上戦闘艦へ戦果を挙げました。

 フォークランド紛争のアルゼンチン空軍の攻撃はフランス製シュペルエタンダール攻撃機からのエクゾセミサイル攻撃による防空駆逐艦シェフィールド撃沈が有名ですが、A-4攻撃機による防空駆逐艦コヴェントリーとフリゲイトアンテロープ撃沈は反跳爆撃が採られた。

 アルゼンチン空軍はイギリス海軍フリゲイトアーデントも反跳爆撃とロケット弾攻撃により撃沈しており、イギリス海軍の防空戦闘によりA-4攻撃機3機を失ったものの戦果は大で、イギリスでは第二次大戦中のマレー沖海戦以来の失態であると海軍が批判されたほど。

 マレー沖海戦、太平洋戦争海戦劈頭にわが軍の南方作戦を遮断するべく展開したイギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスを海軍航空隊の陸上攻撃機部隊が航空攻撃により撃沈した海戦です。しかし、いつまでも反跳爆撃には頼れない。

 航空自衛隊は1971年に国産初の超音速機としてT-2高等練習機を初飛行させました、1976年には初の飛行隊第4航空団第21飛行隊編制完結、そこでT-2高等練習機を原型として新たに支援戦闘機を開発、国産空対艦ミサイルを搭載し対艦攻撃に充てる方針を定めます。

 築城基地へF-4ファントムが配備開始された1977年、T-2高等練習機を原型とするF-1支援戦闘機が完成し、1977年から1978年までに三沢基地第3航空団第3飛行隊のF-86Dを機種転換、1979年から1980年までに第3航空団第8飛行隊のF-86Dを機種転換しました。

 F-1支援戦闘機は第8航空団第6飛行隊へ1980年から1981年にかけF-86Dを機種転換、ここに築城基地におけるF-1支援戦闘機の歴史が始まった訳です。一方、第8航空団第6飛行隊は日本最後のF-86飛行隊であったため、実はF-86のまま80年代を迎えた事になる。

 80式空対艦誘導弾ASM-1は三菱重工が開発した国産空対艦ミサイルで、F-1支援戦闘機へ2発を搭載、射程40kmを発揮し支援戦闘機の対艦攻撃に際し、敵艦対空ミサイル等防空網の射程外から攻撃する事が出来、反跳爆撃はこうしてミサイルへ切り替えられた訳です。

 1981年、築城基地に航空総隊直轄部隊として飛行教導隊が新編されます、これはソ連機の運用を模して仮設敵に当たる教官部隊で、MiG-21戦闘機に擬したT-2高等練習機を装備し、実戦部隊を鍛える部隊、1983年には新田原基地へ移駐しましたが、こうした変化もあった。

 F-1支援戦闘機は、搭載するアドゥーアエンジンに対して搭載兵争が大きく、運動性能に難点があるなど指摘される事がありますが、想定されるソ連艦隊を攻撃する際にF-86Dから500ポンド爆弾を反跳爆撃で叩きつけるよりはF-1でASM-1を使用した方がよいでしょう。

 1990年、F-4ファントムを運用していた第304飛行隊が最新鋭のF-15戦闘機へ機種転換を迎えます、F-15イーグル配備、こうして第8航空団はF-15戦闘機を運用する第304飛行隊とF-1支援戦闘機を運用する第6飛行隊の二個飛行隊を基幹とする編成になります。

 F-15イーグル配備として、航空団の能力を大きく向上させた第8航空団ですが、その後東西冷戦の終結、その後のソ連崩壊により安全保障情勢は大きく転換しました、米ソの対立の下での勢力均衡が破綻し、地域紛争が増大、特に朝鮮半島情勢が悪く動き始めたのです。

 北朝鮮による核開発疑惑が1990年代に入り顕著となり、1993年には日本海への初の弾道ミサイルノドン発射実験が実施、朝鮮半島情勢がいつ朝鮮戦争休戦協定破棄による再発へ至るか、こうした警戒と共に朝鮮半島に最も近い築城基地にも徐々に緊張は高まりました。

 2003年、第8航空団は軽装甲機動車の受領を開始、これは北朝鮮特殊部隊の浸透を警戒するもので、航空自衛隊では最初に軽装甲機動車を受領した航空団です。また、日米共同開発により完成したF-2支援戦闘機の築城配備が2004年より2006年にかけ開始されました。

 F-2支援戦闘機は2006年に第6飛行隊への配備を完了、こうしてF-1支援戦闘機の運用が終了しました。当方が撮影に展開したのは2013年ですが、F-15戦闘機第304飛行隊とF-2支援戦闘機第6飛行隊の二機種装備による第8航空団が、編制を整えるに至った次第です。

北大路機関:はるな くらま
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