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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】観亀稲荷神社,京都祇園迷宮小路の奥に火除祈願芸事成就の静かな社殿が佇む

2019-07-10 20:07:51 | 写真
■祇園の小路を曲りに曲り
 京都を散策する、さて先日祇園で在りました五軒が焼けた火事がありましたが、四条通を少し隔てたところに、火除け祈願の社殿があります、こちらの散策話題を。

 観亀稲荷神社、享保年間1718年頃に創建された京都では比較的新しい神社です。京都の祇園町は新橋南通東大路西入ル、恐ろしく複雑な街中に鎮座する社殿は八坂神社から鴨川の方へ少し入った処に在るのですが、その道程は皆様迷宮散策の末の到達をお勧めしたい。

 火之迦具土神と宇迦之御魂神を祀る観亀稲荷神社は祇園の迷路のような小路を幾度か曲がり切りますと至る朱色の境内です。情景はこの通りでして、それほど壮大という訳でも平安遷都に遡るような歴史深いという訳でもありません。しかし散策の目的地としてお勧め。

 京都、という響きと共に皆様が思い浮かべられる風景はどういったものがあるでしょうか、京都五山筆頭の壮大な伽藍か古刹の苔生した風情か連綿と続く京長屋か丹精込めた庭園か近代的なビル群か、はたまた京阪阪急か舞鶴基地の護衛艦ひゅうが筆頭の第3護衛隊群か。

 祇園の街中、ここは21世紀にあって日本の多くの街路が清廉で美しく便利で何も面白味のない退屈で非人間的な恐るべき画一化された街並みへ再開発の美名と共に破壊されてゆく中に、迷路然とした個性溢れる情景を維持しています。阿呆行政に騙されない風情という。

 京都迷宮案内、というドラマ作品がありますが、それ以上に祇園のこの界隈は迷路然としており、成程散策を少し重ねるだけで曖昧模糊としつつその街路は我がものと出来ます。故に祇園散歩は小路と眺望不便な街並みの最中を巡る時の流れこそが奥深く、また楽しい。

 観亀稲荷神社、元々の始まりは江戸時代、膳所藩二代藩主本多俊次へ御所警護を任じられた際に朝廷より下賜された近江国膳所藩の京都藩邸であり、本多俊次の拝命した御所警護の大任は膳所藩代々の責務となります。膳所といえば京阪石山坂本線沿線で洛中から近い。

 本多俊次は徳川四天王筆頭酒井忠次の孫に当る人物であり、酒井忠次その人も神社から歩いて十数分という知恩院先求院を墓所として眠る戦国武将です。膳所藩は本多家の後に変遷へて本多家が再入府した歴史があり、譜代大名で近江国では彦根藩に続く大藩でした。

 本多康命、本多康慶の子にあたる5代藩主本多康命は御所警護に併せ郡山藩と淀藩に亀岡亀山藩と隔月での御所火ノ番という防火の責務も担う事となり、御所に火の手及んではとの重責から膳所藩茶臼山とこの藩邸に火除の秋葉様を祀った事が、観亀稲荷神社の始り。

 遠州秋葉山秋葉権現を膳所茶臼山に勧請し、分祀の形で藩邸に秋葉様を祀ったのですが、創建当時は祇園にも緑まだ多くのこり、創建の神事を進める最中に拓いた竹林から亀が現れ、宮大工たちを驚かせたことから、この神社を観亀神社、とした由来があるとのこと。

 火之迦具土神とは古事記によれば、日本列島を生んだ伊邪那岐と伊邪那美命の子として生を受けた火の神ですが出産の際に伊邪那美命を自らの炎で殺めてしまい、伊邪那岐により十拳剣天之尾羽張により殺され、散った鮮血と倒れた体から十六の神々を生んだという。

 江戸時代は観亀神社とあった観亀稲荷神社ですが、火除けと共に祇園の地では芸事上達の御利益もあるとされる。明治時代、廃藩置県が行われた事で膳所藩邸も京都府に接収される事となり、観亀神社は宇迦之御魂神の神霊を勧請することで観亀稲荷神社となりました。

 祇園の迷路のような道々、ただ、散策を重ねますと風情と共に馴染みの暖簾と出会う小気味の良い小路、観亀稲荷神社はその只中に在ります。付近は祇園白川や新橋というまた歴史の舞台遺構が溢れ、曖昧模糊とした京都風情を満喫するには良い風情を湛えています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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