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【京都幕間旅情】三井寺(円城寺),東西冷戦終結と"千年戦争"歴史的和解は多様性時代の先駆け

2022-02-02 20:22:40 | 旅行記
■一九九〇年:三井寺-延暦寺和解
 千年戦争と云いましても昭和や平成の頃に火炎瓶や手製ロケット弾による焼討が在った訳ではありません、共に和解を共有しつつしかし対立構造だけが残っていた。

 千年戦争の終焉。三井寺と延暦寺の対立は、平成二年に遂に和解へたどり着きました。平成二年、1990年だ。東西冷戦がマルタ会談で終結したのが1989年ですので、千年戦争はアメリカとソビエト連邦の東西冷戦が終結した後にも僅かに続いていた事となります。

 マルタ会談は、これは少し説話的に、三井寺と延暦寺の和解に際して、アメリカとソビエトも和解したのですから、という機運も在ったといいますので、ブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領の二巨頭会談が、遠回りに三井寺と延暦寺の和解に影響したといえるのか。

 三井寺と延暦寺の対立は、浄土真宗を不動のものとした蓮如が、浄土真宗の信徒多数を得たにもかかわらず、遂に近江に本願寺を建立する事がかなわなかった事から一端が見えます。寛正6年こと西暦1465年に大谷本願寺が延暦寺僧兵の焼討により焼失してしまう。

 蓮如は、宗祖親鸞の木像一つ背負い、命からがら大谷本願寺を脱出したといいますが、その親鸞木像を一時預かったのが三井寺です。そんな大切なものを預けた蓮如は、近江の地で布教活動を、時に延暦寺の僧兵や門徒に襲われ逃げつつ、続けたという歴史がある。

 本願寺再建。しかし近江の地ではなく北陸の吉崎に蓮如は向いました、その際になぜ近江に本願寺を再建しないのかという問いに、延暦寺のある近江には本願寺の場所が無い、こう答えたとされていまして、それ程に延暦寺は強く畏れられた、そこに三井寺はあった。

 画一を避けた。三井寺は延暦寺への防波堤と云う構図ではありませんが、宗教の多様性への防波堤としての役割をになったといえるのかもしれません、発展するには教条主義を経た画一よりも多様性が必要である。今でこそ認識しなければならない事であるとも思う。

 延暦寺と袂を分かち比叡山を降り三井寺と比叡山の関係が破綻したのは正暦4年こと西暦993年、時は流れ千年を経て、とは言い過ぎですが997年後の話なのですから千年と称して良いでしょう、決別から997年を経て漸く延暦寺と三井寺は和解の機会が巡ってきます。

 ブッシュ大統領はマルタ会談へイージス巡洋艦ヨークタウンにて臨み、ゴルバチョフ大統領もミサイル巡洋艦ワリャーグにて臨みましたが、延暦寺と三井寺の和解は琵琶湖に巡洋艦やたまに大津駐屯地沖を航行する水陸両用車などは関係なく、空飛ぶお座主が実現した。

 智証大師円珍一一〇〇年大遠忌が三井寺にて執り行われることとなりました。その際に三井寺にて法要を勤めたのが、時の延暦寺座主山田恵諦、1987年の比叡山開山一二〇〇年に際してローマカトリックのフランシスアリンゼ枢機卿らを招き平和祈願を行った座主です。

 山田恵諦座主、この方の視点は考えさせられる事も多く、多様性といいますか、延暦寺のいま、そうした視点に留まらず、世界のこれから、こうしたものを考える際には、哲学、確たる論理の核が必要なのですが、重みある言葉は多く足も軽く空飛ぶお座主といわれた。

 多様性、そして和解できぬものはない、三井寺を拝観すると共に広い御山を巡りますと、なにか今の世界の視点論点へも気づかされることがあります。しかしそれにしても広い、観音堂までを巡りますと起伏もあり、しかしそれでいて最盛期よりも今は大分狭いという。

 明治時代の廃仏毀釈と神仏分離により、三井寺周辺の幾つかの神社はかつて三井寺の山内であったという。そして寺領は明治建軍とともに大津歩兵第九連隊兵営などに接収されていたりします。しかしそれでなお広く、京都散歩と同じほどに大津散歩も、愉しいものだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】三井寺(円城寺)延暦寺との千年戦争と本願寺蓮如受け入れた信仰への多様性

2022-02-02 20:00:38 | 旅行記
■比叡山延暦寺焼討の指揮所
 千年戦争という信仰上の対立を前回紹介しましたが対立は平安朝の頃から戦国時代を経て近年まで続きます。

 織田信長が元亀2年こと西暦1571年に比叡山を焼討した際、織田信長が指揮を執ったのはここ三井寺だという。寺社仏閣には容赦ないという印象が後世にある織田信長ですが、名古屋の熱田神宮はじめ織田信長が寄進した建物は数多く現存し、不思議に思う事がある。

 延暦寺焼討、その指揮を執ったのが同じ天台宗系の三井寺であり、そして三井寺には織田信長が修繕した建物も現存しているので、やはり無差別攻撃ではなく相手は選んでいたといえます。そして三井寺では織田信長は歓待されたという。茶菓子などもだされたもよう。

 不思議に思ったのは寺院焼討の武将を茶菓子で歓待したということで、一見忖度したのかとも考えた事もありましたが、歴史を知れば首肯する、何度も延暦寺に焼討され、七度ほど全焼していたのですから、今度はこちらがながめる番だ、こう考えたのかもしれない。

 金堂、今の三井寺では拝観料を収めれば国宝を間近に拝観する事も出来まして、ここまで近寄れて、写真はご遠慮をとのことでしたが、万人を受け入れる寺院の空気と云うか雰囲気には、なにか親しみを感じまして、観光客ではなく寺を知るには京都より大津、と思う。

 唐院が一段高く塀に囲まれ一郭を構成していまして四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂、唐より伝来した様々な経典や仏具を収める。幾度も焼討された三井寺にあっても、こうしたものはその都度門徒により運び出され、魂の部分は破壊を免れたというから凄い。

 三井寺。不死鳥の寺と云われる通り幾度もの戦火から復興した寺院ですが、言い換えれば何度も焼かれた事を示します。源平合戦が昨今、大河ドラマの題材となり注目を集めていますが、この源平合戦に際しても、その先の鎌倉時代の揺動期にも戦火に見舞われた。

 弁慶の引き摺り鐘。三井寺にはかの武蔵坊弁慶が比叡山僧兵として三井寺を攻撃した際に引き摺り持ち帰ったとされる鐘があります、この鐘は長らく延暦寺にあったといいまして、そして実はもう少し後の鎌倉初期の鋳造といいますが、伝承と共にいまも残っていまして。

 藤原道長や白河上皇が帰依した三井寺は、最盛期には今の長野市の善光寺もその末寺とした程の勢力を誇り、武家からも源氏が幾度も戦勝祈願を行っています。この頃の比叡山は朝廷へも強訴を繰り返す頃でしたので、三井寺も容赦なく、しかし源氏により再興される。

 源頼政が治承4年こと西暦1180年に以仁王と共に平家打倒へ以仁王の挙兵を行った際は三井寺僧兵も協力し、しかし挙兵が失敗した事から今度は平重衡と平忠度の軍勢に攻撃され伽藍など600以上を焼討されています。その復興は平家滅亡後、源頼朝により行われた。

 源平合戦に介入した結果の焼討、こうした歴史もあるのですが、しかし焼討の半数は比叡山延暦寺の門徒や僧兵によるものでした。弁慶の引き摺り鐘というものが伝承されるのもこうした所以があるのですね。しかしこの対立は不思議にも日本の仏教に多様性を生んだ。

 蓮如。本願寺中興の祖というべき蓮如も、比叡山延暦寺により云う度も本願寺を焼かれています。織田信長の石山本願寺焼討が有名ですが、この石山というのは滋賀県の東海道本線もある大津市内の石山は関係ない、いまの大阪城のある丘陵地が石山と呼ばれていた。

 蓮如に話を戻しますと、蓮如が宗祖親鸞の教えを説いて延暦寺に幾度も攻撃を受けた際、蓮如を匿い、そして近江の地で布教活動を地下でつづけた際に仏具や仏典を預かったのが、他ではない三井寺であったという。対立はあっても画一を避けた、そんな歴史もあるのですね。

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