北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】東寺-観桜拝観,威風堂々五重塔見上げ平城京と遷都史-飛鳥京に藤原京を経て平城京に長岡京

2023-04-26 20:22:31 | 写真
■寺院が千年を超えるには
 東寺の五重塔はいつみても圧巻です。現在の五重塔はいろいろあって江戸時代に再建したものなのですけれども場所は最初の五重塔の場所にあるという。

 東寺、東にあるから東寺という通称のようなものではなく東寺というのが創建当初からの正式名称である、敢えて創建当時とは呼ばないけれども。寺院としての東寺は、先ず薬師三尊像を奉じる金堂から造営されたといいまして、今もご本尊は薬師如来像という。

 羅生門の東西に東寺と西寺が聳えていて、五重塔が威風堂々の姿を見せていた。いや実は五重塔といいますか高層建築物としての仏塔はこののちに平安時代を通じて、そう近代の江戸時代まで大量に造営されてゆくのですが、平安遷都の頃は抜きんでた建物でした。

 平安遷都、その背景には広く理解されているのが奈良仏教との距離感、一種の政教分離という政治介入への嫌気とする視点があるようです。ただ、冷静に首都としての奈良、平城京を見てみますと、その首都としての期間は一世紀未満であり思いの外期間は短い。

 飛鳥京に藤原京を経て平城京に長岡京と、日本の首都は今では考えられないほどに転々としていた時代がありました、聖武天皇の時代には非常に短い期間ですが大津京遷都が行われていまして、これが外交関係の緊迫化という、国の揺動期が如くといえる遷都です。

 平城京、政教分離が視座なのかと考えれば、清水寺の存在や天台宗と延暦寺の関係もありますので幾つかの要素の一つなのかもしれませんが大きな要素ではない、他方こうした中で官寺として東寺と西寺のみを洛中に置く都市計画として平安遷都は進められました。

 中華思想的、という視座を前述していますが、この関係を見ますと平安遷都の頃に寺院を排除したというものは真相ではなく、大陸の長安を擬して都市計画を進める際に、大陸のような左右対称の都市計画を求めていたのかもしれない、すると区画整理が大事です。

 藤原京などそれまでの都市計画は左右対称を目指すも失敗続きでした、藤原京は中央が山となっていまして左右対称というよりも現代の韓国ソウルの青瓦台のような立地となっていました、平城京については市街地が正方形でさえなく、長岡京で正方形となった。

 長岡京は、しかし正方形の理想的な都市計画を追い求めた結果、市域に桂川が迫るものとなりまして何度も水害に悩まされている、幾度か全域が水没するような、長岡京が首都であった期間はわずか10年なのに、洪水に悩まされており都市計画以前で失敗でした。

 西寺、当時は現存するが西寺は、という素朴な疑問は歴史に少しでも興味を持ちましてこう広大な東寺を拝観していますとどうしても抱くところですが、新幹線整備の関係で廃寺になりました、という以前にもっと前に、鎌倉時代頃に実質廃寺になっているという。

 桂川、今でこそ西寺の跡地である南区唐橋西寺町のあたりは閑静な住宅街ですが、古刹などが全くないことに気づかされます。この背景には、まあ応仁の乱や天文法華一揆や受験戦争などなどあったのでしょうが、この地域が永らく水はけが悪かった背景も大きい。

 弘法大師空海、では東寺がなぜ千年を超えて今に紡がれているかといいますと空海さんとの所縁が、実のところ大きいのかもしれません。日本全国の国分寺という地名を散策する際、その地に国分寺が現存している例は僅かであり、官寺は奈良時代に役割を終えた。

 嵯峨天皇の時代、東寺は空海さんに下賜されていまして、ここから密教寺院としての新しい東寺の役割が生まれた。言い換えれば信仰の土台を国家から民衆に溶け込む、変革と変化の受容によって、この東寺は千年を超える役割を担う事となったのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】東寺-観桜拝観,花つつむ京都最古の寺院はこの国の新しい一歩目指した平安京はじまりの地

2023-04-26 20:00:40 | 写真
■早春に満開の桜
 この春のさくら満開の早さを考えますとしょうしょう昔話のような構図となりますが。

 東寺、一仕事終えて近鉄線に乗りました際にちょっと寄り道をしてみようかなと思う際にはどうしても五重塔、京都タワーよりももう一つ先に近鉄京都駅が見えてくる頃合いに大きな存在感の堂宇はやはり心ひくものがあります。近鉄東寺駅はその最寄り駅だ。

 京都市南区九条町、延暦15年こと西暦796年に開かれました東寺、教王護国寺とも呼ばれる寺院であり、京都では最も高い木造高層建築物である五重塔が象徴的な建物です。不思議なもので、いま京都といえば玄関口は京都駅、京都駅が洛中の中央に位置している。

 羅生門、これが平安朝の平安遷都の頃となりましたらば東寺の名の通り、こちらがつまり京都駅から西側にあります東寺が、正面に当たる羅生門の東側にあったといいますので、京都はヴェゲナーの大陸移動説も驚くほどに大きく東に移動したという象徴といえる。

 平安遷都の時代、羅生門は朱雀大路、京都の中心を行く中心道路から東西に分かれていまして、そもそもこの平安京の造営は当時からわが国との重要な隣国であった唐の首都長安を模していた都市計画に基づくとされています、その関係は日本の外交関係の起点だ。

 東寺というのは迎賓館に当たる位置づけの建物であったという説があり、これは日本の外交関係において、中国を意識しつつ、中国から距離を置かなければならないという、何か日本の現代外交と似た関係のようなものがありました。東寺はその舞台でもあった。

 中華思想と冊封体制、日本が国家として中央集権体制を構築してゆくとともに外国という概念と外交という概念を意識し始めた際、日本という立ち位置を考えるうえでいわゆる大国の衛星国という位置、中華思想の概念と国家の価値観が差し障ることに気づかされる。

 迎賓館的な位置づけでの造営と千百年前の中国首都を擬した首都建設は、いわば大陸と日本を互角たらしめたい、という一種願いのような気概とともに造営されたものといえます。これは遣隋使遣唐使と中国との関係を結ぶ中で冊封体制から距離を置いた点に表れる。

 遣唐使の時代に合って、あれは朝貢外交以外何物でもない一方で、隣国新羅のような冊封体制の国との差異を唐に求めるなど、飛鳥時代奈良時代にこうした独立性を求める意思は形成されていたようで、この指針は唐以外の国の使者を厚遇し優位を示す事となります。

 渤海や新羅などからの使者を厚遇することで国内的には朝貢を受けているような、小中華思想的な枠組みを模索していたのが奈良時代の日本であり、大陸の鴻臚寺のような迎賓施設としての地位を東寺の立地、羅生門の東西に位置する建物に求めていたといえます。

 聖武天皇の時代、天皇の装束は神官を束ねる白装束に大陸風の冠を身につける装束が正装となったといい、外交と国内統治を装束に反映させていたことが理解できます、ただ九世紀初頭の光仁天皇は装束が中国の皇帝を示す黄色の装束に代わり、大陸的となった。

 正倉院、奈良にはこの当時の装束が、劣化してはいるものの残っていまして日本が国家としての意識を持つようになりますと、その自我として国際関係、特に周辺国との関係に悩むようになったことがわかります。これは技術などは欲しいが冊封下には入りたくない。

 平安遷都の頃、この東寺は羅生門を挟む西寺とともに文字通り都の玄関口にあり、渤海などからの使者を接遇した施設であった。これがいつしか寺院となるようになったという。もっとも、東寺の創建には諸説があり、これはその説の一つでもあるのですが、ね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】榛名さんの総監部グルメ日誌:京都-京都駅,アイリッシュパブでスーダン邦人救出成功を祝う

2023-04-26 07:00:52 | グルメ
榛名さんの総監部グルメ日誌
 パブやスタンドで呑むビールというのは瓶ビールや缶ビールとは全くの別物なのですよね。それも気分が良ければなおの事おいしい。

 自衛隊がやった、やってくれた、スーダン邦人輸送任務の成功は思い起こせば1999年の第1空挺団誘導隊訓練以来丁寧に運用研究と実証訓練に法整備と作戦研究に法改正と外務省や政府との調整を積み重ねに重ねて初めて成功した果実といえる、こんな日は乾杯しよう。

 マンインザムーンという、こんなお店は全国どもにでもチェーン展開しているかと思い伽、東京にあるだけで京都を中心に展開しているアイリッシュパブが京都駅前にもあります。ここで、難しい事を考えずに駅前で一杯ひっかけようという時にはお勧めできるところ。

 フィッシュアンドチップス、タラの揚げ物とポテトフライを、いやタラとポテトを一緒に揚げたイギリスとかのパブで定番の付け合せをビールとともに頂きます、本場のはもっとアブラギットリらしいのだが、何分イギリスに行ったのは随分昔のことですので、ねえ。

 名探偵ポアロ、ポアロさんが、イギリスに食べ物はありますが料理はありません、と皮肉っていたのですが事件を解決した頃には深夜、他の店が閉まっているところをヘイスティングス大尉に屋台に案内され、こういう時に食べると、いいものですね、という台詞が。

 サクサクのフィッシュアンドチップスは猛烈にアツアツなのですが、これを冷えたビールで流し込むと、こみ上げる幸せな気分が、良いものですよ。こう思うのはスーダン邦人輸送、アフガンの時のような見合わせか、それ以外の懸念する結果を危惧していたのです。

 ティアーオブザサン、というブルースウィリス主演の映画、20年くらい前の元々ダイハード4にしようとした脚本の、米軍がクーデターに揺れるアフリカ某国で急激な情勢悪化を背景に海軍特殊部隊を米国市民反故に投入する映画を、少し前にDVDでみたもので。

 黒ビールに切替えてもう一杯、時間はあるようで無いのだけれども、するすると入ってゆくのだからビールは不思議だ。ここはアイリッシュウィスキーも、それからアイリッシュコーヒーなんていう洒落たものもありまして、ビールはちょっとな、という人にやさしい。

 増えたなあ、世界のお客様、こう思うのは日本に来てまでアイリッシュパブなのかねえ、と思いつつ、ここの外国人連中に京都駅なら、くらま、あのお店の田楽を食べさせてみたらどんな反応だろう、とふと思ったりもする。煩わしさと雑音の心地よさが京都なのだ。

 京都駅の、天一さんのラーメンを近鉄の高架下へ頂きに行く際に、へえっこんなお店が、と気づきましたのが御縁でして、チャージ料なしのキャッシュ引換で座りのみも立ち飲みもできるという、京都駅の近鉄側の片隅にこんな空間が、ちょっと気分の良い日の祝杯にお勧めです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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