北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】妙顕寺,桜満開の情景は綾小路大宮御坊と天文法華の乱そして二条第妙顕寺城と紡がれる歴史

2023-04-12 20:22:45 | 写真
■さくら見上げ歴史を想う
 寺院故に厳正な気持ちも込めつつの花見といいますか観桜の拝観に際してここは人の気が薄いのが心地よい。

 妙顕寺、さくらの名所というのではなく日蓮宗の深い歴史とともに見上げる桜の色合いを感じる場所というべきなのでしょうか。天台宗との対立から三度にわたり京都を追われ、三度にわたり赦されているという日像さんのお寺であり、京都で最初の日蓮宗寺院だ。

 六老僧という、日蓮には愛弟子の六人が全国に教えを広めていましたが、実は日像さんはこの六老僧には含まれていません、日蓮没年で12歳といいますから当然といえば当然なのですけれども、しかし六老僧には日像さんの実兄で師の、日朗が列せられていました。

 綾小路大宮御坊、日朗さんと日像さんの書簡のやり取りに、この綾小路大宮御坊というものが出てきまして、天台宗の新興宗派監視が厳しい最中にもこうして密やかに布教は行っていたという、ただ、建武元年こと西暦1334年に後醍醐天皇より綸旨を賜ることに。

 後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となりましたので、京都における地位は確たるものとなります。ただ、開かれた場所は現在の寺院とは異なることが全てを示すように、実はそのあとも茨の道を進む、なにしろ建武の親政を経て後醍醐天皇も後に移ろうのですからね。

 光厳上皇の院宣を受けまして早速暦応4年こと1341年に、四条櫛笥という下京区のほうに移ることとなります、が院宣があっても院宣は院宣、嘉慶元年こと1387年に延暦寺衆徒に攻撃を受け伽藍が破壊されてしまいます。破壊は徹底しており、容易に再建は難しい。

 若狭国小浜に寺院は一時避難することとなったのですが、幕府から救いの手が延ばされます、それは明徳4年こと西暦1393年に将軍足利義満の支援を受け、三条坊門堀川という今の二条城の南側あたりに伽藍を再建することとなり、名もその際に妙本寺と改めます。

 足利義持は応永18年こと西暦1411年に自らの祈願寺と位置づけ庇護の対象としました。ただ、その墨書が乾かぬ応永20年こと西暦1413年、寺はまたしても延暦寺宗徒の攻撃を受け破壊、永正18年こと西暦1521年、足利義稙の命にて二条西洞院に再建された。

 妙本寺の名は16世紀初頭のいつごろかに妙顕寺に戻されています。妙顕寺として新しい道を歩もう、という天文5年こと西暦1536年、今度は天文法華の乱で伽藍を破壊され、この頃には既に幕府も弱体化していた為、妙顕寺は今度は大阪の堺へ疎開することとなる。

 天文法華の乱では日蓮宗寺院の多くは京都を脱出することとなりましたが、後奈良天皇は天文11年こと1542年に法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は徐々に京都へと戻り始めるのですが妙顕寺が京都に戻りましたのは少しあと、天文17年こと1548年の事です。

 二条西洞院に再建されました妙顕寺ですが相当立地が良かったと見える。今度は天正12年こと西暦1584年に、天下人となった羽柴秀吉の命により今の場所へと移転します、その妙顕寺跡地には二条第妙顕寺城が造営されまして、場所を譲った為に多くの寄進を受けた。

 二条第妙顕寺城に場所を譲り当地に移転したのちは、そのまま当地にあり続けています、それは天明8年こと西暦1788年にありました、天明の大火により焼失しているのですが、幕末の動乱では焼けることなく堂宇を令和の現代まで受け継ぐことができたという幸い。

 裏千家今日庵と表千家不審菴がこの堂宇を囲むようにありますこの一角は、京都の市街地にあって、観光寺院ではなく観光バスさえ受け付けない街中に立地しています。そこは複雑で厳しいお寺の歴史とは風情を変えまして、とても静かに当地にあり続けるのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】妙顕寺,桜が彩る豊臣秀吉の定宿は日蓮さんの教えを広めよとの言葉を守った日像さんの堂宇

2023-04-12 20:00:50 | 写真
■さくらと日蓮宗大本山
 上京の街中に豊臣秀吉が定宿としました御寺が、当時とは場所を遷しているのですけれども静かにたたずんでいまして桜の季節には心が休まる堂宇がある。

 妙顕寺、みょうけんじと読むのですが、ここは上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町、洛中の、というよりは文字通り市街地の只中に位置します、それでも山門の先に見える本堂と驚くほどの広い伽藍は日像さんという日蓮さんの高弟により創建されました寺院です。

 上京区妙顕寺前町、街中の大寺という風情は、日蓮宗大本山寺院という相応の格を有する御山でしてその山号は具足山、創建は元亨元年こと西暦1321年のことでした。この時代は日本に新しい思想哲学を持ち込みました禅宗、変化というものが生まれていた時代だ。

 京都のこの位置に妙顕寺が造営されました背景には、民草という、民衆は勝手に生えてくるものという一種差別的で搾取の対象であった時代に民衆を主役に据えての信仰というものが熱意とともに支持された歴史を、いま振り返るようでまた興味深いものなのですね。

 妙顕寺、本尊には三宝尊を奉じています。塔頭寺院が九院あるという、ここも一つの寺町を形成している寺院であり、久本院と十乗院に泉妙院と法音院と恵命院そして善行院に本妙院と實成院と教法院、本妙院は黄海こそされていませんが拝観自由という寺院です。

 妙顕寺には庭園があり、拝観することもできるのですが、この日は堂宇に手を合わせて拝むということとしまして、しかし気取らずに堂宇とその間を桜吹雪の花弁とともに巡る京都の古刹というのは気持ちが良い。なにしろ貴重な晴れの日の時間での散策なのだから。

 龍華の三具足という日蓮宗の洛中三寺院がありまして、妙顕寺、妙覚寺、立本寺、という。立本寺も遊興の場ではないと注意書きがありますが、ここは徒歩で30分ほど、もう少し先か、桜並木の名所といえる場所でして、息をのむような極彩色が山内を包むのです。

 妙顕寺、この寺院は日像さんという僧侶が開いたもので、日像さんは齢12のころ、今際の際に日蓮の枕元に呼ばれ京都で日蓮の教えを広めよとの遺命を受け、創建した寺院です、と説明しますと、ふうんと思われるだけでしょうが、あの当時の京都での布教は命がけ。

 三黜三赦の法難、日像さんは何度も天台宗の妨害を受けまして、実に三度も京都を追放されています、これを三黜三赦の法難という、因みに読みはさんちつさんしゃ。経一麿、日蓮さんの没年のころには経一麿という幼名でしたが、25歳のときに日像と名を改めます。

 元亨元年こと西暦1321年、三度目の京都追放を赦された際に後醍醐天皇より寺領を賜ることとなり、今小路に寺院を開きます、ここは今では京都市上京区大宮通上長者町の、昔大黒屋が深夜まで営業していたあたりから、ほか弁のお弁当屋さんが頑張っているあたり。

 四海唱導や四条門流とも呼ばれる寺院ですが、実はあまたある日蓮宗寺院にあって京都における最初の寺院がここ妙顕寺だという。もっとも、お寺はなくともお堂、いや集会所のような場所が綾小路大宮にあったといいまして、日蓮の教えをひそかに広めていました。

 日蓮宗は忌憚のない論理を場をわきまえるという一種阿りのような文化とは関係なく広めますので、敵は多い。しかし民衆に分け入って、それまで民草、つまり勝手に増える生えてくるとして無視されていた大衆の中を泳ぐように信仰を広めるべく布教していた点は。

 三黜三赦の法難でも、当時までは無視されるだけであったとさえいえる民衆はいきなり主役として信仰を支えることがありましたので大変な支持が生まれます。それが転じて、今の伽藍に繋がるものだ、歴史というものの奥深さを感じる拝観の道路となりましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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政府-三菱重工と反撃能力整備に3781億円契約,12式地対艦誘導弾能力向上型と高速滑空弾など量産と開発

2023-04-12 07:01:01 | 先端軍事テクノロジー
■臨時情報-反撃能力整備
 日本の防衛のかなりのリソースをつぎ込み政府が整備を目指す反撃能力について大きな一歩です。

 防衛省は4月11日、政府が進める新しい段階の防衛力である“反撃能力”について三菱重工との間で3781億円の契約を発表しました。これは今年度より量産を開始する12式地対艦誘導弾能力向上型の予算とともに潜水艦発射型誘導弾の開発、そして高速滑空弾の量産の予算が盛り込まれており、2030年の当初計画を大幅に前倒しし量産が開始されます。

 潜水艦発射型誘導弾、584億円が計上されます。これは潜水艦への発射装置に関する技術提案が公示されているもので、当初はトマホークミサイルの潜水艦運用を想定しているのかとも考えられましたが、三菱重工が新規開発することとなりました。現在海上自衛隊の潜水艦はやや旧式のハープーンを搭載しており、大幅に射程を伸ばした装備で代替されます。

 高速滑空弾、この開発には1194億円が計上されます。もともとこれは安倍政権時代の前防衛大綱に明示された島嶼部防衛用極超音速滑空弾として開発が進められていたもので、MLRS大隊の一部を高速滑空弾大隊により代替します。もっともこの施策が提示された時点でMLRSの減勢が始まっており、まさかMLRSを全廃するとは思いませんでしたが。

 高速滑空弾は射程500㎞のブロック1を先行開発し、続いて2030年代に射程を2000㎞以遠に延伸したブロック2を開発配備する計画であり、日本のロケット技術が応用され高高度まで飛翔した後に滑空体を高高度で切り離し、超音速よりも一段速い極超音速まで加速し相手の迎撃を困難とさせるもの。政府は開発とともに完成の前倒しを要請している。

 12式地対艦誘導弾能力向上型は現在、専守防衛の観点から射程を200㎞程度に抑えている地対艦ミサイルの射程を大幅に延伸するもので令和3年度より開発が進められています。当面量産するものは射程900㎞台のもので、将来的に改良型で2000㎞程度まで射程を延伸するとのこと。新開発の潜水艦発射型誘導弾もこのミサイルの派生型となる見込みです。

 反撃能力整備としては、先行してトマホークミサイル400発を調達する閣議決定を行い予算は国会で了承されました。続いてこれは新年度予算に基づく三菱重工との契約になりますが、従来では考えられないほどの射程をもつ地対地誘導弾の量産開始と新型開発の開始であり、厳しい新安全保障状況を背景に日本の防衛力整備方針転換に驚くばかりです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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