北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】下御霊神社-節分,朽ち往く本線屋根部分と千年超える歴史に届かぬ補修

2025-02-05 20:25:03 | 写真
■きびしい実情
 節分という華やかな話題と共に結構本殿屋根部分とかが朽ちている様子の話題を語るのはさびしいのですが。

 下御霊神社、この社殿を見上げますと、京都というもののもう一つの姿が見えてくるのですが。それは政教分離の時代に在って、神社の存続というものを、つまり厳しい意味で考えるというものでして。政教分離、公金は使えないが文化財という。

 本殿は寛政3年こと西暦1791年に仮皇居の内侍所仮殿を移築したものということは前回触れていますが、この建物は御所の建物ということで京都市指定有形文化財に指定されています、が、屋根の部分が崩れかけているのですね。応急修理は行った。

 幣殿、廻廊、拝所も京都市指定有形文化財に指定されているのですが、やはり予算というべきでしょうか、寺町通という氏子衆が分散してしまう場所に位置していますので、どうしても氏子衆だけでは維持できない建物が多く、神社の建物は危機に曝されて。

 京都市指定有形文化財といいますと、京都市が少し支援してくれるのかというとそこまで簡単な話はありません、結局クラウドファンディングによる神輿庫修繕事業が行われたという歴史があります。公金は政教分離の関係から出せないという現実だ。

 神輿庫修繕事業については無事に完了しているのですが、江戸時代、18世紀の本殿についてはかなり傷んでいまして、これ、銅板を屋根にのせることで雨漏りだけは回避しているのですが、参拝の際にお賽銭を少し多めにしてしまうほどに、屋根に痛み。

 本殿の痛みについては、特に丸太町通り側からみますと顕著となっていまして、耐震補強とかいうまでもなく、恐らく南海トラフ地震が全割れの状態で発生した場合は京都市が震度六ということですから、ちょっと倒壊してしまうだろうなあと寂しく思う。

 寺社仏閣は数多あります京都でして、歴史が千年以上という神社も数えきれないほどあるのですけれど、だからといって公金を出せる訳が無く、その維持とともに、日本の経済成長には限界が見えてきましたので、次の災害があった場合には、と考えてしまい。

 政教分離は重要だと思います、公金を出せば新興宗教が狙ってきますのでね。それでもこう、朽ちてゆく実情というものを見てしまいますと、寂寥感を感じてしまいます。特に今後は木材高騰など、寺社仏閣の修理維持には負担が大きくなりますゆえ。

 歴史を挙げますと、そう、積雪寒冷地域などはその地域が律令制度とともに維持されているところも多いでしょうから、京都だけ特別という事は出来ないのですが、ここ京都であっても自社の維持には、という全国の過疎地域神社の問題の一端がみえてしまい。

 氏子衆、結局神社は地域が支えるほかないのですが、何ができるかといいますと、地域を盛り上げて活気づけてゆくほかないのだと。要するにこの寺町通で散策し、買いものしてランチしてディナーしてお酒のんでと、盛り上げるほかないのですよね。

 寺町も北の方に来ますと、なんといいますか観光地価格というような厳しさから少し逃れることができまして、御所の方へちかよっているのに観光地価格から離れているのは不思議にも思えるのですけれども、しかし愉しく過ごすことができならばそれはそれで。

 下御霊神社、この社殿がどのようになるのかの道筋が、なにか限界が見えているような錯覚を感じる我が国に在りまして、無理に行政用語としての成功や慣性で彩ろうとする五輪や万博準備を傍目に、飾らぬ現実を突き付けているように思えるのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】下御霊神社-節分,貞観5年こと西暦863年に御霊信仰とともに造営

2025-02-05 20:00:30 | 写真
■節分
節分ですよ節分だ。

節分という事で、下御霊神社へ参拝してまいりました。今年は節分が日曜日と重なりましたので、ちょっと混雑が凄いぞという話もあり、避けて三日に参拝しましたのですが。ここも御霊信仰とつながる歴史ある神社となっています。

桓武天皇の御世におきまして全国各地で疫病が流行したという、それは御霊の祟りであるとして、清和天皇の時代、貞観5年こと西暦863年、祇園祭の原型となります平安京の神泉苑で御霊会が催されています。神泉苑、二条城の隣に在るところ。

この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとされています。この下御霊神社はのちのち京都御所の産土神として崇敬されることになりまして、今日に至ります。一日を経た節分神事の印象はまさに祭りの後という感じではあるのですけれども。

中京区寺町通丸太町下る下御霊前町、下御霊神社はこの寺町通に位置しているのですが、もともとは愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていたといいます。この時代、北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があり、今の通り。

応仁の乱勃発の地が上御霊神社ですのでやはりというかまあそうなるね的な結果となり、後に新町出水に移され、その後、天正18年こと西暦1590年、豊臣秀吉の都市整備にともない寺町通が整備されることとなりまして現在地に遷座したという。

西園寺実氏の別荘常盤井殿があった場所です。もっとも火災にはこののちも見舞われていまして、いまの社殿は天明8年こと西暦1788年、あの天明の大火で旧社殿が焼失したことをうけ、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年こと西暦1791年に移建し今に至ります

吉備聖霊として吉備真備、崇道天皇として桓武天皇の皇太子であり政争に散った早良親王、伊予親王というやはり桓武天皇の皇子、藤原大夫人という伊予親王の母である藤原吉子、藤大夫こと藤原広嗣、橘大夫こと橘逸勢、文大夫こと文屋宮田麻呂といった方々と。

火雷天神こと菅原道真が祀られています。下御霊神社の祭神は歴史上、政争に巻き込まれて亡くなった方々を祀る社殿とされていまして、いわば、政争の中に巻き込まれる事となり、憤死した偉人たちの慰霊碑、となっているわけですね。

御霊信仰と節分の追儺神事の重なりがあるものですから、まあ京都の神社では数多追儺式を行っているのですけれども、ここ下御霊神社においても執り行われている節分神事というものです。昔は日にちをずらして追儺式を行った神社も多かったようですが。

5月1日が神幸祭となっている神社でして、それが令和天皇即位式と重なることから、令和時代の祭典という、こうした位置づけを持つようにもあっているようですが。ここは文字通り寺町通のあります社殿ですが、いわゆるアーケード街の寺町通りではない。

寺町通といえば新京極通と並行しているゆえに観光客と修学旅行生、という印象があるのですけれども、不思議とこう、大きな寺社があります寺町通も、アーケードの無い場所にあってはそれほど観光客が集まることもなく、不思議な静寂があるのですが。

京都観光に日本の歴史を学ぶのであればこう、寺町通を御所の方へ歩んでみるもの好いのではないかな、と思うところですが。やはり京都というものを感じ入るほどに過ごすには、もうちょっとゆっくりしていってほしいよなあ、と思うところですね。

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ウクライナ情勢-北朝鮮人民軍派遣部隊1万1000名のうち1000名が戦死

2025-02-05 07:01:41 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ戦争
 今回の問題はこれほどの出血の見返りにロシアは北朝鮮へミサイル技術や第4.5世代戦闘機など何を供与するかによって我が国周辺情勢が激変するという事です。

 北朝鮮人民軍派遣部隊1万1000名のうち1000名が戦死したと思われる、イギリス国防省ウクライナ戦況報告1月24日付発表によれば、北朝鮮軍の死傷者は4000名に達しており、うち1000名が戦死したと分析しています。北朝鮮からの派遣後、この規模に達するまでの早さは異常といえるでしょう。

 北朝鮮軍は近くさらなる増援部隊を派遣するとも分析がいくつかの報道機関を通じて報道されていますが、人的損耗の早さから逆算しますと、この状況を年単位で継続するには人口の面で限界のある北朝鮮において大きな影響を及ぼす可能性がありますが、この点については画定する要素がすくないのです。

 一方、ウクライナ軍をロシア軍が圧倒しているのは人的リソースの消耗への耐久性であり、ウクライナ軍は無人航空機や電子戦能力で優位に立っているものの、ロシア軍の損耗を度外視した歩兵突撃、損耗の度外視には一日で一個旅団分の死傷者が出ていることをふくめ、容認しているという実情があるもよう。

 北朝鮮軍は大きな損耗を受けクルスク州から一時的に撤退している可能性がある、これは1月28日付ISWアメリカ戦争研究所ウクライナ戦況報告によるもので、27日にウクライナ軍特殊作戦部隊司令官がスカイニュース紙の取材に応じた際の発言内容を根拠としています。またクルスクでは運用にも特色が。

 北朝鮮軍は20名から60名と無人機から簡単に識別され砲兵火力の標的となる人員規模で行動していたとのことで、更に歩兵装備はロシア軍の仲では比較的優れた装備を供与されていたものの、車両が提供されないため、徒歩での移動や徒歩による物資搬送を主としていたとも報告しています。

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