■誉れとは死生観とは命とは
紅葉が深紅の鮮やかさを湛える頃合いには逆に難しくなる視点なのかもしれませんが考えさせられる寺院という京都に数多ある寺社仏閣の一を前に。
養源院、血天井で有名になっているのですが、確かによくよく見てみますと、天井は撮影禁止ですのでしっかりと確認できないところが何とも言えないのですが、手形といわれれば手形のようにみえますし、足跡といわれれば足の形状を保っているようにも。
伏見城の戦いで戦死した東軍の兵士たちを、そのまま伏見城の破壊を免れた櫓などに安置していまして、実はこの伏見城の戦いが全員戦死と生存者自決の後に落城した二日後に関ケ原の戦いが勃発しています。伏見から関ケ原まで東海道本線でも二時間近くかかる。
血天井が残される事となりました背景には、実はここ養源院、元和5年こと西暦1619年に落雷による火災で焼失していまして、その際に再建へ伏見城の廊下、血の跡の残る板材を用いて追悼にと用いられたものであり、徳川氏の菩提所として資金援助を受けた見返り。
名探偵コナン、札幌のススキノでお世話になった、という声を聴きますが、有名な名案内コナンとは関係のない。一番印象的だったのはこの作中の修学旅行に際して地天井が何か恐ろしいもののように扱われていた、という点です。ただ、そう考えるものなのか、と。
鳥居元忠らは討ち死にしているのですが、実は討ち取った鈴木重朝、関ケ原戦役ののちには浪人にこそなっているのですが、伊達政宗に仕えることとなっています。そして慶長11年こと1606年には徳川家康に直臣3000石として召抱えとなっているのですね。
徳川家康お抱えののちに鈴木重朝さん、水戸徳川家徳川頼房の旗本として取り立てられていまして、もともとは雑賀衆という鉄砲傭兵団からの出世でしたので、考えてみれば西軍の先鋒がいろいろあって旗本となったのですから、これはもうかなりもの、といえる。
血天井も、激戦の戦跡というものではあるのですが、遺体安置として放置されるよりも安置したまま関ケ原戦役の混乱のまま手つかずであったもので、結果的に酷い扱いを受けていたわけではない、そして討ち死には結果としては悲劇でも武家の誉れであった、と。
武家の誉れ、これこそそもそも討ち取った鈴木重朝自身が重用されている通りであり、戦法度から逸脱さえなければ勝敗の多寡は関係ない、という認識があったのではないか。いや逆に考えれば日本の場合は敗者への認識が、明らかに安土桃山時代と後の時代が違う。
敗者への認識ですが、誉、という名前は煙草の銘柄以上に現代では認識されないこととなっているのではないか。日本が最後に経験した第二次世界大戦では敗者に対する扱いは酷いものでしたし、その酷い扱いを行う事こそが正義のようにまかり通っている構図も。
太平洋戦争では東京裁判とニュルンベルク裁判という過程がありましたが、敗者への扱いは明治維新ののちのもの、いや徳川家は結局生き延びたという反論もあるのでしょうが、やはり賊軍と定義づけられた方々のその後は無残無惨というほかないような結果が。
俵屋宗達の躍動感ある襖絵などが迎えてくれるこの養源院さん、美術の寺院と理解しても良さそうなのですが紛れもなく山門の真横に“血天井”と大書された寺院でもあり、これがけっかてきに、なにか得体のしれないおどろおどろしい寺院のように認識されている。
誉れとは、死生観とは、命とは。実のところこの養源院は、こうした時代とともに変わってしまうには惜しい価値観の移ろいを認識させる文化財として位置づけられていると思うのですが、血天井の扱いはそうではなく、表面だけの拝観押し売りが残念なのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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紅葉が深紅の鮮やかさを湛える頃合いには逆に難しくなる視点なのかもしれませんが考えさせられる寺院という京都に数多ある寺社仏閣の一を前に。
養源院、血天井で有名になっているのですが、確かによくよく見てみますと、天井は撮影禁止ですのでしっかりと確認できないところが何とも言えないのですが、手形といわれれば手形のようにみえますし、足跡といわれれば足の形状を保っているようにも。
伏見城の戦いで戦死した東軍の兵士たちを、そのまま伏見城の破壊を免れた櫓などに安置していまして、実はこの伏見城の戦いが全員戦死と生存者自決の後に落城した二日後に関ケ原の戦いが勃発しています。伏見から関ケ原まで東海道本線でも二時間近くかかる。
血天井が残される事となりました背景には、実はここ養源院、元和5年こと西暦1619年に落雷による火災で焼失していまして、その際に再建へ伏見城の廊下、血の跡の残る板材を用いて追悼にと用いられたものであり、徳川氏の菩提所として資金援助を受けた見返り。
名探偵コナン、札幌のススキノでお世話になった、という声を聴きますが、有名な名案内コナンとは関係のない。一番印象的だったのはこの作中の修学旅行に際して地天井が何か恐ろしいもののように扱われていた、という点です。ただ、そう考えるものなのか、と。
鳥居元忠らは討ち死にしているのですが、実は討ち取った鈴木重朝、関ケ原戦役ののちには浪人にこそなっているのですが、伊達政宗に仕えることとなっています。そして慶長11年こと1606年には徳川家康に直臣3000石として召抱えとなっているのですね。
徳川家康お抱えののちに鈴木重朝さん、水戸徳川家徳川頼房の旗本として取り立てられていまして、もともとは雑賀衆という鉄砲傭兵団からの出世でしたので、考えてみれば西軍の先鋒がいろいろあって旗本となったのですから、これはもうかなりもの、といえる。
血天井も、激戦の戦跡というものではあるのですが、遺体安置として放置されるよりも安置したまま関ケ原戦役の混乱のまま手つかずであったもので、結果的に酷い扱いを受けていたわけではない、そして討ち死には結果としては悲劇でも武家の誉れであった、と。
武家の誉れ、これこそそもそも討ち取った鈴木重朝自身が重用されている通りであり、戦法度から逸脱さえなければ勝敗の多寡は関係ない、という認識があったのではないか。いや逆に考えれば日本の場合は敗者への認識が、明らかに安土桃山時代と後の時代が違う。
敗者への認識ですが、誉、という名前は煙草の銘柄以上に現代では認識されないこととなっているのではないか。日本が最後に経験した第二次世界大戦では敗者に対する扱いは酷いものでしたし、その酷い扱いを行う事こそが正義のようにまかり通っている構図も。
太平洋戦争では東京裁判とニュルンベルク裁判という過程がありましたが、敗者への扱いは明治維新ののちのもの、いや徳川家は結局生き延びたという反論もあるのでしょうが、やはり賊軍と定義づけられた方々のその後は無残無惨というほかないような結果が。
俵屋宗達の躍動感ある襖絵などが迎えてくれるこの養源院さん、美術の寺院と理解しても良さそうなのですが紛れもなく山門の真横に“血天井”と大書された寺院でもあり、これがけっかてきに、なにか得体のしれないおどろおどろしい寺院のように認識されている。
誉れとは、死生観とは、命とは。実のところこの養源院は、こうした時代とともに変わってしまうには惜しい価値観の移ろいを認識させる文化財として位置づけられていると思うのですが、血天井の扱いはそうではなく、表面だけの拝観押し売りが残念なのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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