■福井は霞ヶ城探訪記
天守閣を維持できている城郭というものは何か風情というだけではない特別なものを湛えている印象があるのですが、街の人たちが大事にしている故でしょうか。
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霞ヶ城、福井県坂井市丸岡町霞には柴田勝豊が天正時代に造営した城郭があった。この城郭は戦国時代の後には江戸時代に丸岡藩の藩庁となり城郭は維持され、今日にも天守閣が往時の情景を残している。そんな城郭へ暑さが漸く凪を迎えた頃合いに探訪しました。
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丸岡藩の藩庁が置かれたことから丸岡城として知られる城郭は、戦国時代に城を護る大蛇が霞を吐いて敵から城郭を隠して守ったという逸話から霞ヶ城ともいわれていまして、白山神社はじめこのあたりは蛇にまつわる伝承が多いなあと考えさせられるところです。
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現存十二天守閣、日本には数多城郭が造営されましたが天守閣という象徴的建造物を冠するようになったのが安土桃山時代以降、そしてその後の江戸時代という太平の時代を迎えるにあたりまして城郭は行政施設となり、数は限られるものの威容を誇るように。
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天守閣は多数造営されるものの、明治時代の廃藩置県と西南戦争など動乱と、そしてしばらくの安定期を経て太平洋戦争における本土空襲などにより大半が破壊されてしまい、残ったものがわずかに全国で12のみ、丸岡城はその数少ない現存十二天守閣のひとつ。
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永平寺から直通バスがあるのか。福井県にて前々から曹洞宗総本山の永平寺を拝観したいと願いつつ、時間や交通手段や予定などで中々果たせなかったところを漸く実現しましたが、驚いたのは福井駅から直通バスが運行されていたことです。勿論乗りますよ。
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福井駅から永平寺まで、えちぜん鉄道でその先はタクシーか徒歩か、バスは多分あるのだろうけれども、と難渋していましたらば直通特急バスがあり、有難いと拝観実現したのですが、それと同じくらい驚いたのは本数は少ないものの丸岡城へバス路線が有ったこと。
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独立式望楼型二重三階構造を有する天守閣が、しっかりと存在感を放っていまして、そうこの城郭を見上げるのは前回の小松基地航空祭前日以来という。丸岡城国宝化推進室を坂井市が設置したのが十年前の2013年、さてさてそのための史学の学術研究がすすむ。
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柴田勝家、北陸の虎と呼ばれた武将の甥である柴田勝豊が天正4年こと1576年に当地に城郭を拓いたのが最初という。緊要地形というよりも丸岡は北国街道を監視する適地にあり、城郭は地域防御拠点ではなく戦略交通網全般へのプレゼンスを発揮する役割に。
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織田信長が本能寺で討たれ、その後継者を探す清須会議が清須城にて開かれますと、柴田勝家は湖北の長浜城をその勢力圏に収めることとなり、柴田勝豊は長浜城主となり丸岡城を後にすることとなり、柴田勝家は城代として安井家清を配し、城郭を維持しました。
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北ノ庄城、福井駅の近くにある遺構なのですが、柴田勝家は賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れますとこの北ノ庄城で最後の防衛を試みるものの叶わず討たれ、豊臣秀吉は丹羽長秀の所領に加賀国江沼と能美二郡としてここ丸岡を加えます、石高は60万石となった。
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丹羽長秀、実は織田信長の最後から数年を経て、このひとは積寸白という、要するに寄生虫にやられて亡くなるのですが、兵站畑と工兵畑で非常に有能とされ織田信長に重用されたものの、野戦の華々しい戦果にばかり注目される戦国史では目立たないのが寂しい。
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徳川家康は丹羽長秀の死後十数年を経て勃発した関ケ原の戦いにて、西軍に与した丹羽家家臣青山宗勝を当時の丸岡城主から改易し家康は次男結城秀康を入城させ本多成重、松平忠直、福井藩の城郭として位置づけられてゆきますが、一国一城令の時代となります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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天守閣を維持できている城郭というものは何か風情というだけではない特別なものを湛えている印象があるのですが、街の人たちが大事にしている故でしょうか。
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霞ヶ城、福井県坂井市丸岡町霞には柴田勝豊が天正時代に造営した城郭があった。この城郭は戦国時代の後には江戸時代に丸岡藩の藩庁となり城郭は維持され、今日にも天守閣が往時の情景を残している。そんな城郭へ暑さが漸く凪を迎えた頃合いに探訪しました。
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丸岡藩の藩庁が置かれたことから丸岡城として知られる城郭は、戦国時代に城を護る大蛇が霞を吐いて敵から城郭を隠して守ったという逸話から霞ヶ城ともいわれていまして、白山神社はじめこのあたりは蛇にまつわる伝承が多いなあと考えさせられるところです。
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現存十二天守閣、日本には数多城郭が造営されましたが天守閣という象徴的建造物を冠するようになったのが安土桃山時代以降、そしてその後の江戸時代という太平の時代を迎えるにあたりまして城郭は行政施設となり、数は限られるものの威容を誇るように。
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天守閣は多数造営されるものの、明治時代の廃藩置県と西南戦争など動乱と、そしてしばらくの安定期を経て太平洋戦争における本土空襲などにより大半が破壊されてしまい、残ったものがわずかに全国で12のみ、丸岡城はその数少ない現存十二天守閣のひとつ。
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永平寺から直通バスがあるのか。福井県にて前々から曹洞宗総本山の永平寺を拝観したいと願いつつ、時間や交通手段や予定などで中々果たせなかったところを漸く実現しましたが、驚いたのは福井駅から直通バスが運行されていたことです。勿論乗りますよ。
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福井駅から永平寺まで、えちぜん鉄道でその先はタクシーか徒歩か、バスは多分あるのだろうけれども、と難渋していましたらば直通特急バスがあり、有難いと拝観実現したのですが、それと同じくらい驚いたのは本数は少ないものの丸岡城へバス路線が有ったこと。
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独立式望楼型二重三階構造を有する天守閣が、しっかりと存在感を放っていまして、そうこの城郭を見上げるのは前回の小松基地航空祭前日以来という。丸岡城国宝化推進室を坂井市が設置したのが十年前の2013年、さてさてそのための史学の学術研究がすすむ。
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柴田勝家、北陸の虎と呼ばれた武将の甥である柴田勝豊が天正4年こと1576年に当地に城郭を拓いたのが最初という。緊要地形というよりも丸岡は北国街道を監視する適地にあり、城郭は地域防御拠点ではなく戦略交通網全般へのプレゼンスを発揮する役割に。
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織田信長が本能寺で討たれ、その後継者を探す清須会議が清須城にて開かれますと、柴田勝家は湖北の長浜城をその勢力圏に収めることとなり、柴田勝豊は長浜城主となり丸岡城を後にすることとなり、柴田勝家は城代として安井家清を配し、城郭を維持しました。
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北ノ庄城、福井駅の近くにある遺構なのですが、柴田勝家は賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れますとこの北ノ庄城で最後の防衛を試みるものの叶わず討たれ、豊臣秀吉は丹羽長秀の所領に加賀国江沼と能美二郡としてここ丸岡を加えます、石高は60万石となった。
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丹羽長秀、実は織田信長の最後から数年を経て、このひとは積寸白という、要するに寄生虫にやられて亡くなるのですが、兵站畑と工兵畑で非常に有能とされ織田信長に重用されたものの、野戦の華々しい戦果にばかり注目される戦国史では目立たないのが寂しい。
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徳川家康は丹羽長秀の死後十数年を経て勃発した関ケ原の戦いにて、西軍に与した丹羽家家臣青山宗勝を当時の丸岡城主から改易し家康は次男結城秀康を入城させ本多成重、松平忠直、福井藩の城郭として位置づけられてゆきますが、一国一城令の時代となります。
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