■禅宗とは臨済宗とは
東山の東福寺は臨済宗の寺院なのですけれどもさて京都を散策する際に素朴な疑問を持つのは良い事なのだと思うのです。
東福寺は通天橋、そして椛、という情景が代表的なのですけれども、紅葉の際には拝観者が大量に押し寄せますので、大丈夫か、といいますとご安心を鉄筋コンクリート製、となっています。そしてもう一つ、一方通行にして洗玉澗という谷底を経由する経路を組む。
通天橋はもともと、この洗玉澗を通らなければ雲水たちが移動できなかったことから架けられた橋梁であったのですが、拝観者は四の五の言わず洗玉澗を通るのだ、という東福寺さんのご配慮という。バリアフリー禁止地帯というのも昨今めずらしいのではないか。
臨済宗の寺院である東福寺、中国の禅宗五家としまして臨済宗潙仰宗曹洞宗雲門宗法眼宗として成り立った経緯があります。日本にこの臨済宗が入ってきましたのは宋朝時代になるのですが、実は臨済宗は唐末期に成立しています。臨済宗の臨済さんについて。
警策という、坐禅修行では坐禅していますと肩をこつんとやる棒があります、いやこれ禅宗寺院で定着したのは江戸時代だともいい、だからそれほど古いものではないのですけれど、禅宗はバイオレンスな印象があった。しかし調べてみるとあながち間違いでは。
臨済義玄、この臨済さんが開いたので臨済宗というのですけれども、このひとは曹州南華県の、今の山東半島あたりに生まれまして、出家しますと最初は仏教学者の講義に熱心に聞き入り、自分なりの解釈をしようとした、と伝わっています。しかし何もなかった。
座禅修行を熱心に組むようになりました臨済さん、結局経典知識を数多身につけても出世の道具でしかなく悟りというものにはほど遠いものだと理解しまして、禅宗へ出家を転向し、この際に師事したのが黄檗宗を拓く黄檗希運さんでした。黄檗宗は宇治に多い。
黄檗希運さん、師事するまでは実に三年間ひたすら坐禅を組んでいたというもので、今風に言えば高校生活やコロナ生活に等しい長期間、しかし周りから座禅を組むならばなぜ黄檗希運さんのところに行かないのかと言われ、行っても質問できる持論がない、と。
坐禅だけでは限界か、と黄檗希運さんのところにいき、仏法について質問したところいきなり30発棒で殴られた。追い返されたのだと思い元の場所に戻ると、それではわからないのでもう一度行けと諭され、もう一度行くと30発棒で殴られた。三回目も結果は同じ。
大愚和尚という、別の禅宗高僧を紹介され、少し離れた高安という地の寺院に居ました大愚和尚のところに行きますと、臨済の落ち度があったのではなく悟りのために黄檗が計らったことではないかと怒鳴りつけ、臨済さんは漸く意味を悟り大愚さんをぶん殴った。
臨済義玄さん、漸く悟ったと大愚和尚にいわば太鼓判を押された構図で黄檗さんのところに戻りなさい二度と来るな、と山門から追い出され、黄檗さんのところに戻り事の顛末を話しますと、黄檗さんは自分の言おうとしたことを大愚和尚にいわれ立腹したという。
黄檗希運さんのこの計らいに、大愚和尚さんの分だと臨済義玄さん、お師匠さまをいきなり横面から張り倒したといい、要するに悟ったと思った先に悟りがあるのだから悟ったかを考えることよりも悟りの道を歩むことが重要だと、まあこう説いたわけなのですね。
普化という同時代の高僧盤山宝積の弟子である高僧さんと臨済さんとの対話集も、机を料理ごと張り倒したり、食事中に臨済さんに怒鳴り散らしたり棺桶を被って練り歩いたりと、ある意味凄い話ばかりなので、ちょっと分かりにくい臨済宗だ、とおもうのですよ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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東山の東福寺は臨済宗の寺院なのですけれどもさて京都を散策する際に素朴な疑問を持つのは良い事なのだと思うのです。
東福寺は通天橋、そして椛、という情景が代表的なのですけれども、紅葉の際には拝観者が大量に押し寄せますので、大丈夫か、といいますとご安心を鉄筋コンクリート製、となっています。そしてもう一つ、一方通行にして洗玉澗という谷底を経由する経路を組む。
通天橋はもともと、この洗玉澗を通らなければ雲水たちが移動できなかったことから架けられた橋梁であったのですが、拝観者は四の五の言わず洗玉澗を通るのだ、という東福寺さんのご配慮という。バリアフリー禁止地帯というのも昨今めずらしいのではないか。
臨済宗の寺院である東福寺、中国の禅宗五家としまして臨済宗潙仰宗曹洞宗雲門宗法眼宗として成り立った経緯があります。日本にこの臨済宗が入ってきましたのは宋朝時代になるのですが、実は臨済宗は唐末期に成立しています。臨済宗の臨済さんについて。
警策という、坐禅修行では坐禅していますと肩をこつんとやる棒があります、いやこれ禅宗寺院で定着したのは江戸時代だともいい、だからそれほど古いものではないのですけれど、禅宗はバイオレンスな印象があった。しかし調べてみるとあながち間違いでは。
臨済義玄、この臨済さんが開いたので臨済宗というのですけれども、このひとは曹州南華県の、今の山東半島あたりに生まれまして、出家しますと最初は仏教学者の講義に熱心に聞き入り、自分なりの解釈をしようとした、と伝わっています。しかし何もなかった。
座禅修行を熱心に組むようになりました臨済さん、結局経典知識を数多身につけても出世の道具でしかなく悟りというものにはほど遠いものだと理解しまして、禅宗へ出家を転向し、この際に師事したのが黄檗宗を拓く黄檗希運さんでした。黄檗宗は宇治に多い。
黄檗希運さん、師事するまでは実に三年間ひたすら坐禅を組んでいたというもので、今風に言えば高校生活やコロナ生活に等しい長期間、しかし周りから座禅を組むならばなぜ黄檗希運さんのところに行かないのかと言われ、行っても質問できる持論がない、と。
坐禅だけでは限界か、と黄檗希運さんのところにいき、仏法について質問したところいきなり30発棒で殴られた。追い返されたのだと思い元の場所に戻ると、それではわからないのでもう一度行けと諭され、もう一度行くと30発棒で殴られた。三回目も結果は同じ。
大愚和尚という、別の禅宗高僧を紹介され、少し離れた高安という地の寺院に居ました大愚和尚のところに行きますと、臨済の落ち度があったのではなく悟りのために黄檗が計らったことではないかと怒鳴りつけ、臨済さんは漸く意味を悟り大愚さんをぶん殴った。
臨済義玄さん、漸く悟ったと大愚和尚にいわば太鼓判を押された構図で黄檗さんのところに戻りなさい二度と来るな、と山門から追い出され、黄檗さんのところに戻り事の顛末を話しますと、黄檗さんは自分の言おうとしたことを大愚和尚にいわれ立腹したという。
黄檗希運さんのこの計らいに、大愚和尚さんの分だと臨済義玄さん、お師匠さまをいきなり横面から張り倒したといい、要するに悟ったと思った先に悟りがあるのだから悟ったかを考えることよりも悟りの道を歩むことが重要だと、まあこう説いたわけなのですね。
普化という同時代の高僧盤山宝積の弟子である高僧さんと臨済さんとの対話集も、机を料理ごと張り倒したり、食事中に臨済さんに怒鳴り散らしたり棺桶を被って練り歩いたりと、ある意味凄い話ばかりなので、ちょっと分かりにくい臨済宗だ、とおもうのですよ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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