■歴史を知る程に出会い
知る事への好奇心と得た知識の体系化は日常の中で習慣としておきますと世の中の見え方が変わってくる。
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等持院、臨済宗天龍寺派の寺院です。芙蓉池を中心とした回遊式庭園が、枯山水の方丈南庭と二面性が日常の思考体系に深みを加えさせるような、どきり、という新鮮味を醸します。しかしもう一つ、どきりとするのは最近の歴史研究の進展というものでもあるのだ。
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足利直義、足利尊氏の実弟ですがこの等持院のもと、等持寺として造営したのは足利直義という説もある。元弘の乱で後醍醐天皇に呼応し北条氏から離反するとともに足利尊氏につき従い鎌倉幕府を撃ち滅ぼし建武の新政において後醍醐天皇を支えたひとときの忠臣で。
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夢中問答集という、夢窓疎石との禅問答の対談集を著すとともに武家歌人としても知られ勅撰和歌集風雅和歌集には二十六の和歌が収められ、そして崩御した後醍醐天皇の法要を執り行うべく足利尊氏とともに嵐山の地に天龍寺を造営したものの晩年に恵まれなかった。
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室町幕府執事高師直との間での行政改革に対立が生じ、これが観応の擾乱に発展、実兄と対立する事となる一方で騒擾により等持寺は焼失、駿河の薩埵峠の戦いで敗れ捕えられた後に蟄居先の鎌倉で不可解な最後を遂げた人物です、実弟は盟友から反逆者となった事に。
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観応の擾乱、等持院の歴史はこの騒擾とともに書き換えられたのではないかという研究が戦後に入り難太平記、師守記といった資料などから導き出されているという。室町時代は応仁の乱はじめ波乱万丈ではありましたが、ここ等持院もまだまだ知らない事は多い。
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1808年の火災により大きな損害を被った等持院、明治時代まで等持院の庭園は荒廃したままということでして、しかし庭園の配置などは開山のころの色彩を再現しているという。ただ、衣笠山、もともとは北山を象徴する衣笠山を借景とした壮大な庭園だったのですが。
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衣笠山は見えなくなりました、これは広小路にあった立命館大学が当地に移転した際に大学キャンパスの大きな建物が等持院と衣笠山の間を遮ってしまったためでして、ただし大学の建物が堂宇を見下ろすことのないように高い木々が植えられ視界を遮ってはいる。
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西園寺家、立命館大学なんてことをと一瞬考えるのですけれども、もともとこの地域一帯は立命館大学の創始者である西園寺公望公の西園寺家が所領としていた立地、仁和寺には西園寺公望の扁額が掲げられています、それも歴史をみれば足利尊氏の前の時代から。
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藤原家の系譜にあります西園寺家は、源平合戦が一段落し壇ノ浦で平家が滅亡し鎌倉幕府が勢力を延ばした時代に、平家の西海貿易基盤を受け継ぐことで繁栄を極めました、幕府は政治的安定を重視しとくに鎌倉から遠い西海の交易政策まで手が回らなかったかたち。
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西海貿易で得た利益は朝廷の祭事はじめ貴族の財政基盤となりまして、もちろん国家的行事や朝廷祭事には鎌倉幕府へ多額の費用負担を求めていたのですが、平時における殿上人の財政的基盤までは幕府の管轄外、こうして西園寺家は影響力を強めていったのですね。
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等持院は、考えればその立地に室町幕府の影響力を以て確保した土地という。その北辺が西園寺公望公の立命館大学に戻ったという構図ですので、なんとも歴史の不思議といいますか、日本史の奥深さ、鰻の寝床の如く摩訶不思議なり、そんな感想を持ってしまう。
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足利将軍家の菩提寺と西園寺家の所領跡地に佇む西園寺公望創始の大学は、これは穿った見方なのですけれども、足利将軍家にこの一帯は元々は、と意地の張り合いをしている様にも見えてしまうのは、歴史を知った故の新しい視座、というべきなのかもしれませんね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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知る事への好奇心と得た知識の体系化は日常の中で習慣としておきますと世の中の見え方が変わってくる。
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等持院、臨済宗天龍寺派の寺院です。芙蓉池を中心とした回遊式庭園が、枯山水の方丈南庭と二面性が日常の思考体系に深みを加えさせるような、どきり、という新鮮味を醸します。しかしもう一つ、どきりとするのは最近の歴史研究の進展というものでもあるのだ。
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足利直義、足利尊氏の実弟ですがこの等持院のもと、等持寺として造営したのは足利直義という説もある。元弘の乱で後醍醐天皇に呼応し北条氏から離反するとともに足利尊氏につき従い鎌倉幕府を撃ち滅ぼし建武の新政において後醍醐天皇を支えたひとときの忠臣で。
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夢中問答集という、夢窓疎石との禅問答の対談集を著すとともに武家歌人としても知られ勅撰和歌集風雅和歌集には二十六の和歌が収められ、そして崩御した後醍醐天皇の法要を執り行うべく足利尊氏とともに嵐山の地に天龍寺を造営したものの晩年に恵まれなかった。
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室町幕府執事高師直との間での行政改革に対立が生じ、これが観応の擾乱に発展、実兄と対立する事となる一方で騒擾により等持寺は焼失、駿河の薩埵峠の戦いで敗れ捕えられた後に蟄居先の鎌倉で不可解な最後を遂げた人物です、実弟は盟友から反逆者となった事に。
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1808年の火災により大きな損害を被った等持院、明治時代まで等持院の庭園は荒廃したままということでして、しかし庭園の配置などは開山のころの色彩を再現しているという。ただ、衣笠山、もともとは北山を象徴する衣笠山を借景とした壮大な庭園だったのですが。
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衣笠山は見えなくなりました、これは広小路にあった立命館大学が当地に移転した際に大学キャンパスの大きな建物が等持院と衣笠山の間を遮ってしまったためでして、ただし大学の建物が堂宇を見下ろすことのないように高い木々が植えられ視界を遮ってはいる。
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西園寺家、立命館大学なんてことをと一瞬考えるのですけれども、もともとこの地域一帯は立命館大学の創始者である西園寺公望公の西園寺家が所領としていた立地、仁和寺には西園寺公望の扁額が掲げられています、それも歴史をみれば足利尊氏の前の時代から。
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藤原家の系譜にあります西園寺家は、源平合戦が一段落し壇ノ浦で平家が滅亡し鎌倉幕府が勢力を延ばした時代に、平家の西海貿易基盤を受け継ぐことで繁栄を極めました、幕府は政治的安定を重視しとくに鎌倉から遠い西海の交易政策まで手が回らなかったかたち。
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西海貿易で得た利益は朝廷の祭事はじめ貴族の財政基盤となりまして、もちろん国家的行事や朝廷祭事には鎌倉幕府へ多額の費用負担を求めていたのですが、平時における殿上人の財政的基盤までは幕府の管轄外、こうして西園寺家は影響力を強めていったのですね。
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等持院は、考えればその立地に室町幕府の影響力を以て確保した土地という。その北辺が西園寺公望公の立命館大学に戻ったという構図ですので、なんとも歴史の不思議といいますか、日本史の奥深さ、鰻の寝床の如く摩訶不思議なり、そんな感想を持ってしまう。
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足利将軍家の菩提寺と西園寺家の所領跡地に佇む西園寺公望創始の大学は、これは穿った見方なのですけれども、足利将軍家にこの一帯は元々は、と意地の張り合いをしている様にも見えてしまうのは、歴史を知った故の新しい視座、というべきなのかもしれませんね。
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