■仁和寺と院の御所での議定
今年は思った以上に桜前線が早かったもののその後の涼しい季節とで不思議な情感でしたが、いよいよ今年の桜花の話題も今回までとなります。
仁和寺、御室桜とともにしかし花見に終わらせるには勿体ない程の歴史を秘めているものでして、たとえば太平洋戦争主戦交渉の秘密の舞台となっていた寺院でもあります、しかしそれ以前に、大日本帝国という巨大な今の日本のひな形を形成する舞台でもあった。
古代日本が中世日本に進んだのは、そりゃあ誇大が有れば中世が在るのは当然だろう、と思われるかもしれませんが天然痘の流行により滅びかけた日本が、一つの中央集権国家に拡大してゆくのは、実はかなり難しい道程と政治改革を経ていた、そこに仁和寺があった。
律令制度以上に日本が一つの国家として機能する為には専制政治を経る必要があり、ここでいわば限られた地域の直接統治と広い地域の限られた統治関係ではなく、日本という国そのものを統治するには、前者の場合は天皇親政が有り得たのですが後者は難しい点が。
陣定、じんのさだめ、と読むのですがPCですとジンの定めという名探偵コナンか寺町三条のBARのような響きの変換になってしまう、律令国家から摂関政治時代に掛けて国家権力の安定化とともに、天皇親政では、決済する項目が多くなり過ぎる問題が当然生じます。
摂関政治の時代には摂関が中心として合議する陣定という機関が設けられていました。一応制度としては専制政治の時代ではあるのですが、親政は概略を示すのみとして、多くの決定は陣定の合議により確定していました。そしてこの陣定は専制政治の独裁色を薄める。
陣定という制度は摂関政治を経て院政の時代でも維持されるのですが、院政に際しては議定という院の御所での合議制度が中央での陣定と類似した、というよりも上皇宣下とともに退位した天皇がその統治機構をそのまま院政に管理替えした、制度が存在しています。
律令政治の時代には、官長と代官という統治機構があり、代官の裁量は思いのほかひろかった、無論これは前述の通り律令国家そのものが専制国家のような行政能力を有さなかった為という背景を踏まえるべきなのですが、ここに陣定と議定という制度が構築された。
議定、興味深いのは陣定は官僚機構を中心に専制国家的制度を構築するのですが、議定については公卿の内の限られた貴族とともに院近臣という一種の閣僚機構、そして法親王というようなかたちで当時勢力を誇った仏教界と幅広い人材から合議制枠組を構築しました。
仁和寺の寛助門主などは法関白と呼ばれているのですが、院政の時代に入りますと摂関政治の陣定よりも様々な視座から合議が進められた。ただ、興味深いのは院政というものの定着したイメージ、天皇の上に上皇という二重権力では、必ずしもなかった事が興味深い。
内覧という、内乱ではなく、摂関政治の陣定は院政時代の議定と相互補完関係を構築していまして、院の議定は朝の陣定とともに内覧という調整を経て具体化されており、そして陣定は常設機構となっていましたが、議定は有事の際に臨時招集された非常勤枠組だった。
仁和寺の僧侶、政教分離という単純な現代的視座に基づくのではなく、非常勤枠組に寺院を含めた意見の集約組織を常設の官僚機構の補完的枠組みに取り入れて国家機能の大型化に対応する、今の視座ではなく千年以上前に取り組まれた事を考えれば十分先進的です。
御室桜を愛でるとともに、いま日本は戦後史から次の時代を想定せざるを得ない状況で右往左往している印象が否めないのですが、千年以上前、日本は思い切った改革を幾度か経て今の日本のひな形を形成していた、そうした一種の歴史浪漫に思いを馳せた次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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今年は思った以上に桜前線が早かったもののその後の涼しい季節とで不思議な情感でしたが、いよいよ今年の桜花の話題も今回までとなります。
仁和寺、御室桜とともにしかし花見に終わらせるには勿体ない程の歴史を秘めているものでして、たとえば太平洋戦争主戦交渉の秘密の舞台となっていた寺院でもあります、しかしそれ以前に、大日本帝国という巨大な今の日本のひな形を形成する舞台でもあった。
古代日本が中世日本に進んだのは、そりゃあ誇大が有れば中世が在るのは当然だろう、と思われるかもしれませんが天然痘の流行により滅びかけた日本が、一つの中央集権国家に拡大してゆくのは、実はかなり難しい道程と政治改革を経ていた、そこに仁和寺があった。
律令制度以上に日本が一つの国家として機能する為には専制政治を経る必要があり、ここでいわば限られた地域の直接統治と広い地域の限られた統治関係ではなく、日本という国そのものを統治するには、前者の場合は天皇親政が有り得たのですが後者は難しい点が。
陣定、じんのさだめ、と読むのですがPCですとジンの定めという名探偵コナンか寺町三条のBARのような響きの変換になってしまう、律令国家から摂関政治時代に掛けて国家権力の安定化とともに、天皇親政では、決済する項目が多くなり過ぎる問題が当然生じます。
摂関政治の時代には摂関が中心として合議する陣定という機関が設けられていました。一応制度としては専制政治の時代ではあるのですが、親政は概略を示すのみとして、多くの決定は陣定の合議により確定していました。そしてこの陣定は専制政治の独裁色を薄める。
陣定という制度は摂関政治を経て院政の時代でも維持されるのですが、院政に際しては議定という院の御所での合議制度が中央での陣定と類似した、というよりも上皇宣下とともに退位した天皇がその統治機構をそのまま院政に管理替えした、制度が存在しています。
律令政治の時代には、官長と代官という統治機構があり、代官の裁量は思いのほかひろかった、無論これは前述の通り律令国家そのものが専制国家のような行政能力を有さなかった為という背景を踏まえるべきなのですが、ここに陣定と議定という制度が構築された。
議定、興味深いのは陣定は官僚機構を中心に専制国家的制度を構築するのですが、議定については公卿の内の限られた貴族とともに院近臣という一種の閣僚機構、そして法親王というようなかたちで当時勢力を誇った仏教界と幅広い人材から合議制枠組を構築しました。
仁和寺の寛助門主などは法関白と呼ばれているのですが、院政の時代に入りますと摂関政治の陣定よりも様々な視座から合議が進められた。ただ、興味深いのは院政というものの定着したイメージ、天皇の上に上皇という二重権力では、必ずしもなかった事が興味深い。
内覧という、内乱ではなく、摂関政治の陣定は院政時代の議定と相互補完関係を構築していまして、院の議定は朝の陣定とともに内覧という調整を経て具体化されており、そして陣定は常設機構となっていましたが、議定は有事の際に臨時招集された非常勤枠組だった。
仁和寺の僧侶、政教分離という単純な現代的視座に基づくのではなく、非常勤枠組に寺院を含めた意見の集約組織を常設の官僚機構の補完的枠組みに取り入れて国家機能の大型化に対応する、今の視座ではなく千年以上前に取り組まれた事を考えれば十分先進的です。
御室桜を愛でるとともに、いま日本は戦後史から次の時代を想定せざるを得ない状況で右往左往している印象が否めないのですが、千年以上前、日本は思い切った改革を幾度か経て今の日本のひな形を形成していた、そうした一種の歴史浪漫に思いを馳せた次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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