■古代から中世へあゆむ
仁和寺の御室桜は低い木々の遅咲きという観桜が春の桜花の季節の幕引きを思わせるとともに、今年早めでしたが例年であれば憲法記念日が近くなった頃に咲いていたものでした。
光孝天皇の勅願により9世紀後半に造営されました仁和寺、驚くべきことに大日本国憲法制定よりも1000年と少しだけ前の寺院となります。ただ、ここの御寺の寛助さんなど、憲法制定よりもはるか前、国家体制を醸成する最中に影響力を及ぼした方がいたのですね。
慣行の成文化、確たる概念が成文化されている刑法や民法や刑訴法などなどを見ていますと理念としては理解していても実感がわかない制定権力ですが、いま国際法に目を向ければ、そもそも国際法そのものが国家慣行の成文化の過渡期を歩んでいる最中故分りやすい。
正統性と正当性の議論ではありませんが、日本の今の制度を考える際、結局のところ大本は大日本帝国憲法であり、日本国憲法は第93回帝国議会において、憲法改正、という方式を経て現在の日本国憲法になったものであり、たたき台には大日本国憲法が在ったのです。
明治憲法や大日本帝国憲法、呼び方は幾つかあるのですが、日本の憲法を考える際に、もちろん英米法と大陸法にローマ法という手順をふまなければならない事は言うまでもないのですが、律令制度から武家諸法度までを通じた、長い歴史は意外と顧みられていない。
桜咲く仁和寺にて、なぜそんなことを提示するかというと、実は仁和寺は日本の統治機構の変容期に幾度か出てくる寺院であり、意外にも昭和史に出てくる一方、院政の舞台ともなった場所でもあり、我が国のcommon senseの原型原点に繋がるような場所でもある。
律令国家、護憲という呼称の遥か昔ですが、日本は律令国家制度定着の過程で天然痘大流行という国家的危機に曝されています、右大臣と左大臣が同時に死亡する様な救いようのない状況において、いわばスリムな国家構造に結果的ではあるけれども収斂しています。
奈良時代の天然痘は、日本が国としての自我を共有する過程において大流行し、これも首都とその周辺が最大の感染地となったことから手の打ちようがなく、貿易手段は知識不足から大仏建立に国分寺造営などなど、人の密集する事を繰り返しこれが逆効果となった。
日本の特殊性は、欧州各国の市民革命や立憲主義が、どの国でも似た条件と似た地理関係、そして全欧での安全保障の同一性、これは例えばナポレオン戦争や英仏百年戦争にドイツ三十年戦争と、全欧的危機が生じれば確実に無関係の国が無いという意味で共通が在った。
特殊性というには、地理的な隔絶がある点を無視して、今の法体系の法源を考える事に少々無理があるのではないかな、と思うのです。ここで、律令制と中世日本への変容というもの、その為の制度構築の背景が憲法制定過程へcommon senseの面で影響が有るよう思う。
中世の国家システム、日本の場合は律令制度が天然痘パンデミック下での限られた統治機構を原型として形成されました、島国なのに外国、というような価値観、驚くなかれこれは江戸時代まで影響を及ぼしている、つまり幕藩体制の下地といえるものがありました。
律令制度の律令国家と地方の関係は、統治機構の麻痺を背景に一種連合国家的な、若しくは中華思想の概念を内政に取り込んだような様式で形成された、反論は多いでしょうが解釈次第では同意の得られそうな概念です。しかしこれを専制政治へ移行せねばならない。
専制政治といいますと2020年代には気分の良くない政治制度かもしれませんが、今話すのは1010年以上前の時代です、逆に専制政治により国の統治の及ぶところと及ばないところが境界線となり、境界線を曖昧としては外交よりも外寇により国が大変な事となる時代だ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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仁和寺の御室桜は低い木々の遅咲きという観桜が春の桜花の季節の幕引きを思わせるとともに、今年早めでしたが例年であれば憲法記念日が近くなった頃に咲いていたものでした。
光孝天皇の勅願により9世紀後半に造営されました仁和寺、驚くべきことに大日本国憲法制定よりも1000年と少しだけ前の寺院となります。ただ、ここの御寺の寛助さんなど、憲法制定よりもはるか前、国家体制を醸成する最中に影響力を及ぼした方がいたのですね。
慣行の成文化、確たる概念が成文化されている刑法や民法や刑訴法などなどを見ていますと理念としては理解していても実感がわかない制定権力ですが、いま国際法に目を向ければ、そもそも国際法そのものが国家慣行の成文化の過渡期を歩んでいる最中故分りやすい。
正統性と正当性の議論ではありませんが、日本の今の制度を考える際、結局のところ大本は大日本帝国憲法であり、日本国憲法は第93回帝国議会において、憲法改正、という方式を経て現在の日本国憲法になったものであり、たたき台には大日本国憲法が在ったのです。
明治憲法や大日本帝国憲法、呼び方は幾つかあるのですが、日本の憲法を考える際に、もちろん英米法と大陸法にローマ法という手順をふまなければならない事は言うまでもないのですが、律令制度から武家諸法度までを通じた、長い歴史は意外と顧みられていない。
桜咲く仁和寺にて、なぜそんなことを提示するかというと、実は仁和寺は日本の統治機構の変容期に幾度か出てくる寺院であり、意外にも昭和史に出てくる一方、院政の舞台ともなった場所でもあり、我が国のcommon senseの原型原点に繋がるような場所でもある。
律令国家、護憲という呼称の遥か昔ですが、日本は律令国家制度定着の過程で天然痘大流行という国家的危機に曝されています、右大臣と左大臣が同時に死亡する様な救いようのない状況において、いわばスリムな国家構造に結果的ではあるけれども収斂しています。
奈良時代の天然痘は、日本が国としての自我を共有する過程において大流行し、これも首都とその周辺が最大の感染地となったことから手の打ちようがなく、貿易手段は知識不足から大仏建立に国分寺造営などなど、人の密集する事を繰り返しこれが逆効果となった。
日本の特殊性は、欧州各国の市民革命や立憲主義が、どの国でも似た条件と似た地理関係、そして全欧での安全保障の同一性、これは例えばナポレオン戦争や英仏百年戦争にドイツ三十年戦争と、全欧的危機が生じれば確実に無関係の国が無いという意味で共通が在った。
特殊性というには、地理的な隔絶がある点を無視して、今の法体系の法源を考える事に少々無理があるのではないかな、と思うのです。ここで、律令制と中世日本への変容というもの、その為の制度構築の背景が憲法制定過程へcommon senseの面で影響が有るよう思う。
中世の国家システム、日本の場合は律令制度が天然痘パンデミック下での限られた統治機構を原型として形成されました、島国なのに外国、というような価値観、驚くなかれこれは江戸時代まで影響を及ぼしている、つまり幕藩体制の下地といえるものがありました。
律令制度の律令国家と地方の関係は、統治機構の麻痺を背景に一種連合国家的な、若しくは中華思想の概念を内政に取り込んだような様式で形成された、反論は多いでしょうが解釈次第では同意の得られそうな概念です。しかしこれを専制政治へ移行せねばならない。
専制政治といいますと2020年代には気分の良くない政治制度かもしれませんが、今話すのは1010年以上前の時代です、逆に専制政治により国の統治の及ぶところと及ばないところが境界線となり、境界線を曖昧としては外交よりも外寇により国が大変な事となる時代だ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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