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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,古地図で巡る旅を阻む土一揆と応仁の乱に廃仏毀釈と京都大改造

2024-10-16 20:00:47 | 写真
■古地図で巡る散策
 稲荷山まで登ってみようかと思ったのですが余りに人が多過ぎるところでちょっと断念です。

 伏見稲荷大社、その昔は稲荷社と呼ばれていたというのはこれまでも幾度か触れたところではありますが、東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とします稲荷信仰の御本社となっています。伏見の地名というのは明治以降この稲荷社に冠せられたという。

 稲荷社が本来の名前であったのだ、というところは驚くところではあるのだけれども、そもそもここは神社ではあったのだが、空海とそして真言密教とのつながりを持つこととなり、それは東寺の鎮守社となったという、寺社仏閣の一体化された歴史も持ち。

 東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とするゆえに元々はこの山頂にあった社殿が室町時代中期に山麓に遷座したという歴史もありますと、まずまず不思議といいますか関心度、好奇心というべきか、生まれてきますのは昔の稲荷社がどんな風景であったか。

 神仏習合がすすんだのは平安時代の空海の時代からというけれども、山城国風土記、年中行事秘抄、といった歴史書には祭神の多様化が記されていまして、宇迦之御魂大神を祀っていた社殿はいつの間にか稲荷大神として四神の総称を祀る様になっている。

 千本鳥居は神域を代表する風景ではあるのだけれど、さてこれ、少なくとも農業信仰として崇敬を集めていた時代にはその千本鳥居は無く、しかし室町時代には一応、応仁の乱より前から商売繁盛の信仰とともに当地に広がっていた風景なのだという。

 一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰、ご神体の稲荷山は三つの峰にわかれている、そしてそれはもともとの祭神が3柱であったともいえるのですが、稲荷社として勢力とを増すとともに社殿の維持費にも高騰する部分が相応にあり、すると社領を広げてゆく。

 藤尾社こと藤森神社境内までその社領は伸びていたのですが、その神域の広さとともに社殿が絢爛豪華となることは、応仁の乱の時代には一種の重要施設として機能した事を意味する。応仁の乱は陣地とした寺社が一つ一つ焼失することで戦火が広がった。

 応仁の乱より前から千本鳥居があった、というのは応仁の乱にて東軍細川勝元の足軽大将骨皮道賢が稲荷山日本人を構えた際に西軍山名宗全の度重なる攻撃により千本鳥居を含めて全て山頂まで焼失したという記録が残っているためでした。

 山名宗全にせめられたならば仕方ないといいたいところですが、記録は残っていても肝心の建物は残らなかったのでは意味がないのですが、少なくともこの戦火により風景は更地へ一変してしまった構図、応仁2年こと西暦1468年のはなしとなります。

 土一揆、もう一つ追い打ちをかけたのが文明18年こと西暦1486年の土一揆騒動でして、この際には東寺の伽藍も焼かれてしまい、それはこの時代の寺社は復興の名目に寺社領の農民に重税を課したためという事情はあるのだけれども、改めて更地となった。

 古地図で巡る旅、という楽しみ方が観光地にはあるようですが、応仁の乱の後の古地図はどうなっているのだろうか、洛中絵巻などはある程度民衆に余裕がある時代に製図されるものなのだから応仁の乱直後の古地図というのは、そもそも存在したのかなあ。

 いまの伏見稲荷大社が過去の稲荷社の姿ではない、という事は簡単に理解できます、何しろ応仁の乱で山頂まで更地になったのだから。けれどもその復興過程などではどのように変容の歩みを綴ったのかということは、神域を巡るとともにふと思うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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