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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷がどのように変容を辿ったのか愛染寺と浄安寺と西光寺と

2024-10-16 20:22:36 | 写真
■豊臣秀吉の楼門寄進
 稲荷社を象徴する壮大な楼門はかの豊臣秀吉が寄進したもの。

 伏見稲荷大社がどのように変容を辿ったのか、大きな起点は、やはり豊臣秀吉なのかなあ。天下餅という、織田がつき-羽柴がこねし天下餅-座りしままに食ふは徳川、なんて信長と秀吉と家康の三者三葉を謳った歌がありますが、京都では秀吉の人気が。

 豊臣秀吉はこの近くに伏見城を造営した際、大病に冒された母の大政所の平癒を祈願したのが稲荷社でして、神威成って病気平癒が実現、この際に秀吉は楼門を造営して寄進するとともに稲荷社その際大規模な寄進をしています。秀吉はこういう事が多い。

 京都大改造を行いました秀吉は御土居を筆頭に多くの公共物や寺社仏閣の再建を主導、この際に京都は応仁の乱からの復興を漸く終えた、という表現が当て嵌まりまして、そう、楼門もようやく、今に至る優美なすがたとともに当地に再建されたということ。

 楼門は天正17年こと西暦1589年に豊臣秀吉により再建された重要文化財です。ただ、本殿の、これも重要文化財なのですが再建されたのは明応3年こと西暦1494年に再建されたもので、土一揆からそれほど時を経ていない中にあの五間社流造を再建している。

 内拝殿、曲線が妙に美しい、参拝の際にはここで賽銭を投じて柏手を叩くのですけれども、ここは明応年間の再建よりはもう少し後の造営となりまして、外拝殿が天保11年こと西暦1840年に再建されているというので、この際に神域の様相が大きくかわって。

 仙洞御所を後水尾上皇が下賜されたというのは御茶屋、とこう神域の社殿の歴史を少し紐解きますと、応仁の乱では更地になったものの、そのあとの本殿復興は、直ぐにと今の感覚では言えないものの応仁の乱のあった15世紀中には実現しているのだ、と。

 愛染寺、浄安寺、中世の稲荷社の歴史を紐解きましたものの、もう一つ今とは根本から風景が変容しているものとしまして、神域に寺院が複数並んでいたという。これらは廃仏毀釈の際にすべて失われていましたが、稲荷山は神仏習合の聖地でもあった構図で。

 赤い鳥居、応仁の乱の時代にはすでにあったと前述しましたが、千本鳥居と同一なのかは議論の余地があるようでして、この背景には神仏習合と関係が出てきます、こういいますのも江戸時代の大御所さま、浄土宗に帰依に帰依していました。

 浄安寺も浄土宗寺院なのですが、浄土宗は民衆信仰を集めており承認も例外ではない、そして満願成就、結願の礼として赤い鳥居を奉納することが為されたといいますので寺院とともに鳥居、これぞ神仏習合、千本と言わず膨大な数を揃えるようなったとも。

 廃仏毀釈、伏見稲荷大社はこの際に社領を四分の一まで削られてしまいましたが、この際に愛染寺や浄安寺と、続いて造営された西光寺といった寺院もご本尊共々破却されてしまったといい、これにより大きく姿を変容した事もわすれてはなりません。

 鳥羽伏見の戦い、もう一つは幕末動乱の際に錦の御旗が示され一気に日本は内戦へと戊辰戦争へ進んでゆくのですが、この鳥羽伏見の戦いでの戦火の直撃は幸い免れることは出来たものの、社領全体で見れば大きな被害に見舞われ、風景は一変してしまう。

 伏見稲荷大社参拝、歴史と共に巡ればおぼろげにもかつての姿が見えてくるのではないかと、いつもよりも空を見上げつつ神域を巡ったのですが、長い歴史とともに変化の幅もやはりものすごく、稲荷社の歴史の奥深さを改めて感じることと、なったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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