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【京都幕間旅情】祇園祭山鉾巡行回想録(3)欧州明朝中東インド結ぶ祇園祭には不思議がある

2020-09-02 20:03:11 | 写真
■世界から京都に至る道の謎
 祇園祭の撮影位置陣地変換は、それはもう歩道側道裏道地下道を駆使して走り回るのですが苦労すると良い写真が残せるのですね。

 祇園祭にはいくつも不思議があるという、筆頭は山鉾。鶏鉾はギリシャ神話を描く欧州のタペストリー、山伏山は明朝の龍の描写がタペストリーに、太子山はインドムガル帝国の織物で、世界中の産物、異国の芸術品がいろいろありましてこの洛中に至りましたもの。

 大航海時代や帝国主義の時代に世界の毛織業者により織られましたタペストリーが山鉾に飾られるにはひとつひとつありまして、そして文字や描写、そして毛織物の原料と成るもの、これは誰がどう織物として仕立てたのか、どの経路を通じて京都の洛中に至ったのか。

 鎖国時代、そう不思議なのは鎖国時代に日本には来ないはずの名品が競われるように飾られている訳でして、まさか密輸も無いでしょうし、世界の国際関係や物流の整備と多文化時代にどのような経路にて、山鉾を飾るタペストリーが渡来したのか、様々領域の学問さえまだ探求の途上、といいます。

 応仁の乱。実は祇園祭は官側の八坂神社が執り行い、此処は比叡山延暦寺の影響を受けていた為に政治的に中止する事は出来たのですが、再開を町衆の両側町が願い出て実現した歴史がありまして、実のところこの頃から下町の文化、として定着してゆく事となります。

 山鉾巡行、4kmの道のりを進む神事は、ここで山鉾により町の中が祓い清められる、こうかんがえられているのですね。山鉾は山と鉾にわかれ、鉾は高いものは25mとビル八階に相当し車輪は2mもの巨大なものとなっています、対して山は細部を視てゆきますと違う。

 山、これは舞台を備えていましてご神体として人形が掲げられている、こう山鉾は区別されているのですね。描かれるものも、弁慶と牛若丸が五条橋で戦い蟷螂山ではかまきりが一生懸命からだをうごかすからくりが。船鉾などは皇后が韓国を攻めたときのものを示す。

 辻回し、山鉾巡行は10t以上の山鉾が50名の引き手により一気に回ります、これらを町内会、山鉾町が保存会として町の名前に山鉾の名前を関しまして、山鉾と同じ名前の町は実に20にのぼるとのことですが、それこそまさに、地域に根付いて山鉾を保存しています。

 豪華に飾ります山鉾は洛中を災厄から守るために神々に歓喜を祈る、こうした目的があるとともに町衆が山鉾を飾りたて、再度疾病の災厄が訪れないよう願ったものです。一切効果はあったのか、と言いますと、山鉾巡行に先立って清掃は多少予防の意味はあったのか。

 祇園祭は謎が多いともいう。山鉾のタペストリー、ここも謎でして中国にイスラム世界や欧州まで、世界中の古い美術品が数多並びます。霰天神山、この山鉾には海の神々を描くタペストリー、伯楽天山は欧州のもの、しかし江戸時代と云えば鎖国時代です、不思議だ。

 江戸時代後期に日本に入った、という以外は昭和一杯を研究してもその発祥の地はわからなかったといいます。鯉山などは9枚のタペストリーで全体を飾っていますが、江戸時代中期1793年に京都奉行所が天竺から輸入した、と記録しているのですけれども、記録はその経路までは明らかにしない。

 欧州製であり、実に江戸時代の鎖国を越えて欧州のものが日本に来ていたのですね。しかし意外と答えはあるものです、これは1966年に修復が行われた祭に、覆う赤いラシャの部分を修復にはずした際、"BB"という文字が見つかり、これはブリュッセルブラバント、を示すものと判明したという。

 ブリュッセルブラバントをしめす“BB”、当時世界の最高級タペストリーを織物としていた欧州ブラバント公国のものである、ということが初めて分かったという。そこで鯉山町かベルギー大使館に連絡を取り、更に詳細を研究したところ、ベルギーには記録がのこっていたというのですね。

 ベルギー国立美術歴史博物館が模様を分析、空と大地と海、としてトロイヤ戦争について描かれたタペストリーであることが判明し、なんでも縁飾りの特徴からニカシウスアエルツという職人によりブリュッセルで織られた1600年から1620年頃のものであると分析結果が出ました。

 ブリュッセルブラバントでは、おそらく五枚が連作され、そのうちの一枚が鯉山となっているのではないか、との専門家の推測があるようでして。これはトロイヤ戦争を示すには一枚では物語の流れからして不自然という論拠なのですが、しかしそのうち四枚を手元において一枚だけ京都に売られた、とは考えにくい。

 ブリュッセルブラバントからのタペストリー、実際連作のものは実は五枚ほどが日本に渡っていた可能性がある、これはトロイヤ戦争を描いたものであり、残りの四枚も日本に渡ったのではないか、ベルギー研究者のなかにはこう結論した方もいまして、鯉山町は全国を探すことで実際手がかりを探したとのこと。

 祇園會にあった、もう近所も近所で近い所です、実際このうち二つがありましたが、調べればあとの三枚は、なんと滋賀県と東京都と石川県にあったという。東京のものは東京都の増上寺、東京タワーの増上寺ですが、ここにあったとのことです。それも一年に三日間開帳される秘仏、徳川家康の秘仏黒本尊をまもるための壁に明治時代まで残っていた、といわれているのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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