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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,美しい梅花の先に菅原道真公と天神信仰の中心地で考える昌泰の変

2024-02-28 20:00:31 | 写真
■菅原道真公を祀る社殿
 寒い冬の戻りという割にはここのところ強風がものすごくいよいよ梅花の季節も風により強制的な終幕が近いこの頃です。

 梅の名所は天満宮、今出川通を京都府警上京警察署の向かい側に鎮座しています北野天満宮はその大鳥居から参道が続き、そして楼門へ本殿へ至る参道の道々には梅花と、そして西方には梅園が、ちょうどこの季節には梅花の美しさをみせているところで。

 北野天満宮、その歴史は無実の罪により配流となり、配流先の太宰府で没した菅原道真公を弔う、ことで当時頻発していた災害や不審死をどうにか祟らないでほしいと願う為に創建されたことは良く知られています。すると、菅原道真公に興味が湧くのですね。

 菅原道真公を祀る社殿、此処北野天満宮は菅原道真公と天神信仰の中心地であり、天暦元年こと西暦947年に創建されました。宇多天皇に重用された官僚、醍醐天皇の時代には右大臣にまで上り詰めました。宇多天皇といえば寛平の治の行革で知られる天皇さん。

 宇多天皇の寛平の治、平安朝の行政は摂政の系譜に在った藤原基経が清和天皇と陽成天皇と光孝天皇そして宇多天皇と四代の天皇に仕えるとともに実務を取り仕切り、事実上初の関白となります。宇多天皇は先ず藤原基経薨去を受け若手起用に乗り出します。

 藤原時平、源能有、菅原道真、藤原保則、こう若手起用といいますと語弊がありますか、実際には藤原基経の藤原北家嫡流のみによる政治を改め、藤原北家からは藤原時平を重用するとともに幅広い人材を起用し、そして行政改革に乗り出した、ということ。

 遣唐使廃止による冊封体制や朝貢関係等への一体化からの離脱、類聚国史編纂による歴史問題の明確化、問民苦使派遣による地方政治の規律強化、昇殿制の制定による文官登用制度への世襲から実力主義への転換、この行政改革はその後の日本史に影響が大きい。

 法皇宣下、しかし宇多天皇は譲位により天皇を退位すると東寺での受戒を経て仁和寺に出家し法皇となられます。そして仁和寺からの院政、この際に勅令を以て菅原道真公の大納言除目を発布し、藤原北家の藤原時平に続く第二位の官職を賜れたのですが。それはそれ。

 斉世親王、太宰府配流の要因となりました無実の罪というのは宇多法皇の皇子である斉世親王を菅原道真が天皇に即位させようとした、というもの。大納言となりました礼に普通の事ではないか、と思われるかもしれませんが時の醍醐天皇、その弟でもあったという。

 醍醐天皇に退位を強いるのではないかという嫌疑とともに、この斉世親王さんは菅原道真の三女菅原寧子と結ばれていまして、つまりは斉世親王さんは婿という係累となっていた。いやそもそも即位させようとしていないのでしょうが、ケシカラン、ということ。

 昌泰の変、こうした背景で進んでいました。院政の時代ですので醍醐天皇と宇多法皇の御世であったのですが、宇多法皇は高野山や比叡山と熊野詣を熱心に行っていまして、いまならば特急くろしお、特急こうや、日帰りが可能なのかもしれませんが、当時はそれは。

 熊野詣は当時特急くろしお等は運行されておらず当然オーシャンアローも運行されていない、つまり往復で一か月程度を要する行幸となりまして、これは時の権力者が相当安定した時期でなければ首都である京都を空けられないというのが当時の熊野詣という。

 菅原道真配流、この一報が宇多法皇に上奏された際には時すでに遅く、直ぐ内裏に向かうものの内裏の門扉は既に閉ざされ醍醐天皇に問うことも出来なかった、昌泰の変はこうして起こりまして、美しい梅花の先には、こうした悲しい歴史があったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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