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【京都幕間旅情】北野天満宮-梅花祭,浄妙院での謹慎を経て怨霊に-清涼殿落雷事件への長い道

2024-02-28 20:24:41 | 写真
■太宰府配流その先に
 梅花祭とともにしかし単に花を愛でるだけでは風流を実感するところまで至らずやはりその先と源流にある歴史を知りたい。

 北野天満宮、梅花が美しいのですがその背景には祭神となられました菅原道真公、配流先の太宰府で没した元右大臣を慰霊するという社殿でもあります。太宰府、あそこは酷い街だ二度と行きたくはない最悪だ、という印象は今行きますと九州には全くありません。

 太宰府配流、しかし現実はといいますと今の太宰府の街並みからは想像できないところがあったようです。先ず配流ですので太宰府への移動は全て自費で移動しなくてはなりません、いや配流ではなく左遷、と反論があるのかもしれませんが実態を見てみると。

 左遷か配流か、ですが太宰府には菅原道真に仕事がありませんでした、先ず官職が大宰員外帥といい、員外、という称号なのです。大宰府という地名は今こそ定着していますが、大宰というのは重要な行政機関であるものの、九州以外にはおかれていない制度でして。

 吉備国大宰、という役所が置かれた記録はあるのですが一時的なものであり、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、この9国を治め且つ離島地域、壱岐、対馬、奄美の離島地域を所管する、その長官には大宰権帥という官職の官僚が補職された。

 大宰員外帥、すると今風に言えば名ばかり管理職なのか、といわれますともう少しひどく、俸給と従者が認められませんでした。何より仕事がなく実質的に大宰府浄妙院での謹慎、というものが実態であったようで、これは左遷というのでは余りに、まさに配流だ。

 浄妙院での謹慎を経て怨霊に。太宰府配流から菅原道真が没したのは2年後、です。浄妙院といいますと今は祠がありますが、当時の浄妙院は放置された荒れ寺という様相であったようで、先ず壁が無かった、その上で雨漏りが。南国九州とはいえ冬は越せぬ。

 清涼殿落雷事件が有名ですが、菅原道真没したのちの、怨霊の仕業ではないか、と心当たりある方が夜眠れなくなるようなことは幾つか起きていまして、実際菅原道真薨去から清涼殿落雷事件までは実に27年間もありました、ただ27年間が平穏では無かった。

 菅原高視放免、実はこの菅原道真配流は、菅原道真その一人だけを配流したわけではなく一族郎党全員様々な場所に配流されているのですが、菅原道真没後3年を経て嫡子高視が放免され帰京を許されています、官職は大学頭、これで皆ひと段落と思ったのだけれど。

 藤原菅根死亡はその5年後でした、敦仁親王立太子に際し菅原道真が春宮侍読として推挙し、蔵人頭まで出世するのですが昌泰の変に際し内裏に向かった宇多法皇を追い返した官僚といい、その後に醍醐天皇治世下で参議となりますが、落雷に打たれ死んだ。

 藤原時平、藤原北家出身で左大臣として活躍し、しかし昌泰の変では菅原道真を配流に追い込んだ張本人とされています。この方は藤原菅根死亡の翌年に病死します。実はこのひと、習志野訓練場の近くにある二宮神社では祭神と祀られていて驚いたものです。

 二宮神社参拝の際に藤原時平を改めて別の角度から知る機会になったと喜んだものですが、大鏡、北野天神縁起絵巻、扶桑略記、今昔物語、大和物語、十訓抄、どれをみても好色とか下品とか引きこもりとか、散々書かれていました。没したのは39歳で早逝だ。

 清涼殿落雷事件はこうした幾つもの出来事の先に発生しまして、それまでに菅原氏由緒の場所にはいくつもの神社が創建され、慰霊を試みていたのですが、大事件と言える清涼殿落雷事件を経て、この地に北野天満宮が造営され、人々の集いの場となりました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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