■京都東山歴史街道をあゆむ
京都には久遠の縁を紡ぐ社殿は多いものですが実際今も続く様子を見ますと歴史の流れは大きくとも続く絆はあるものだとある意味安心します。
瀧尾神社。ここは京都市東山区本町に所在します神社で、主祭神としまして大己貴命をまつりまして、そして大国主命と弁財天と毘沙門天との三神を祀る村社です。創建年は不詳とされていますが平安朝末期の歴史書源平盛衰記に記されており平安遷都暫くの後に遡る。
貴船神社、この名を聞けば鞍馬の山々とともに佇む静かな社殿を思い浮かべるでしょう、しかし、自際に行くとなりますと何しろ距離がありますし、中々に思い立っても歩みにはつながりません、しかし、ここ瀧尾神社には、貴船神社奥の院が移築されているのですね。
武鶏社としまして、洛東聲ノ谷にありました社殿がその始まりなのですが、残念ながらこの社殿は応仁の乱、その騒擾とともに焼失しまして、少し近い日吉坂に遷座します、武鶏社という名はこの遷座とともに多景社と改まりまして、天正時代まで、崇敬を集めました。
多景社。なるほど音の韻は武鶏社のままではあるのですが、天正年間になりますと天正14年の西暦1586年に関白豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営する事となりまして、多景社はまたの遷座となります、しかし、現在位置への遷座は豊臣秀吉の寄進とともに画くとして進む。
瀧尾神社、神社の名前は宝永年間の西暦1704年頃に幕府により普請工事が行われまして、その際に多景社は瀧尾神社へと改まりました。方広寺大仏殿などは盛者必衰の歴史を体現するがごときではありますが、瀧尾神社は遷座した事で新しい縁を、結ぶこととなります。
下村彦右衛門正啓、大丸百貨店創始者です。享保年間の西暦1717年に伏見京町呉服店大文字屋を拓いたのですが、ここから洛中へ毎日行商へ向かう際にここ瀧尾神社へ参拝していたという、1726年に大坂心斎橋筋、1728年に名古屋本町、店舗を広げる事となりまして。
大丸屋、大丸となりました後にも瀧尾神社との縁は続きまして、天保年間の西暦1839年には遂に2500両、現在でいう5億円を寄進し、これにより本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎、現在に至る社殿が整備される事となりました。この際に貴船神社の旧社殿を拝領したという。
九山新太郎。本殿には江戸時代後期の彫り物職人、九山新太郎の彫像した8mもの木彫りの龍が在りまして瀧尾神社の象徴となりました。ただ、これは面白い話がありまして、今も続く彫物師九山家の彫像、当時としては破格の迫力で広く知られたというのですが、凄い。
龍の瀧尾神社、大丸の寄進と共に掘られた彫像は今にも動き出しそうで、当時、いや動くぞ、動いていた、と評判になり実際月夜の晩に水を呑む龍に驚いた氏子もいたとかで、一頃は神社により龍彫像が逃げ出さないように、と金網で囲っていた時代もあるといいます。
高島屋。さて大丸と云えば高島屋がライバルという印象がありますが、創業時から張り合う事も多い両社は幕末には高島屋が新政府側に附いた事に対抗し、大丸は幕府側に附きます。すると、ここはかの鳥羽伏見の戦い、その戦跡即ち維新の激戦地に程近いのですね。
応仁の乱にて社殿を焼かれた歴史がある当社ですが、しかし幸いにして維新の動乱にも焼かれる事無く、社殿の内八棟は京都市指定有形文化財へ指定されています。もしかすると、水の聖獣でもあります巨大な木彫りの龍が戦火から、社殿と氏子を護ったのでしょうか。
麒麟が来る、ではありませんが、瀧尾神社は麒麟に獏や鳳凰に尾長鳥、十二支や鶴に犀の彫像が回廊には並びます。明治維新から大正昭和平成令和と時代は永く続きますが、実は大丸との御縁も強く続くという事で、縁を長く紡ぐ社殿ということで、歴史を感じます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
京都には久遠の縁を紡ぐ社殿は多いものですが実際今も続く様子を見ますと歴史の流れは大きくとも続く絆はあるものだとある意味安心します。
瀧尾神社。ここは京都市東山区本町に所在します神社で、主祭神としまして大己貴命をまつりまして、そして大国主命と弁財天と毘沙門天との三神を祀る村社です。創建年は不詳とされていますが平安朝末期の歴史書源平盛衰記に記されており平安遷都暫くの後に遡る。
貴船神社、この名を聞けば鞍馬の山々とともに佇む静かな社殿を思い浮かべるでしょう、しかし、自際に行くとなりますと何しろ距離がありますし、中々に思い立っても歩みにはつながりません、しかし、ここ瀧尾神社には、貴船神社奥の院が移築されているのですね。
武鶏社としまして、洛東聲ノ谷にありました社殿がその始まりなのですが、残念ながらこの社殿は応仁の乱、その騒擾とともに焼失しまして、少し近い日吉坂に遷座します、武鶏社という名はこの遷座とともに多景社と改まりまして、天正時代まで、崇敬を集めました。
多景社。なるほど音の韻は武鶏社のままではあるのですが、天正年間になりますと天正14年の西暦1586年に関白豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営する事となりまして、多景社はまたの遷座となります、しかし、現在位置への遷座は豊臣秀吉の寄進とともに画くとして進む。
瀧尾神社、神社の名前は宝永年間の西暦1704年頃に幕府により普請工事が行われまして、その際に多景社は瀧尾神社へと改まりました。方広寺大仏殿などは盛者必衰の歴史を体現するがごときではありますが、瀧尾神社は遷座した事で新しい縁を、結ぶこととなります。
下村彦右衛門正啓、大丸百貨店創始者です。享保年間の西暦1717年に伏見京町呉服店大文字屋を拓いたのですが、ここから洛中へ毎日行商へ向かう際にここ瀧尾神社へ参拝していたという、1726年に大坂心斎橋筋、1728年に名古屋本町、店舗を広げる事となりまして。
大丸屋、大丸となりました後にも瀧尾神社との縁は続きまして、天保年間の西暦1839年には遂に2500両、現在でいう5億円を寄進し、これにより本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎、現在に至る社殿が整備される事となりました。この際に貴船神社の旧社殿を拝領したという。
九山新太郎。本殿には江戸時代後期の彫り物職人、九山新太郎の彫像した8mもの木彫りの龍が在りまして瀧尾神社の象徴となりました。ただ、これは面白い話がありまして、今も続く彫物師九山家の彫像、当時としては破格の迫力で広く知られたというのですが、凄い。
龍の瀧尾神社、大丸の寄進と共に掘られた彫像は今にも動き出しそうで、当時、いや動くぞ、動いていた、と評判になり実際月夜の晩に水を呑む龍に驚いた氏子もいたとかで、一頃は神社により龍彫像が逃げ出さないように、と金網で囲っていた時代もあるといいます。
高島屋。さて大丸と云えば高島屋がライバルという印象がありますが、創業時から張り合う事も多い両社は幕末には高島屋が新政府側に附いた事に対抗し、大丸は幕府側に附きます。すると、ここはかの鳥羽伏見の戦い、その戦跡即ち維新の激戦地に程近いのですね。
応仁の乱にて社殿を焼かれた歴史がある当社ですが、しかし幸いにして維新の動乱にも焼かれる事無く、社殿の内八棟は京都市指定有形文化財へ指定されています。もしかすると、水の聖獣でもあります巨大な木彫りの龍が戦火から、社殿と氏子を護ったのでしょうか。
麒麟が来る、ではありませんが、瀧尾神社は麒麟に獏や鳳凰に尾長鳥、十二支や鶴に犀の彫像が回廊には並びます。明治維新から大正昭和平成令和と時代は永く続きますが、実は大丸との御縁も強く続くという事で、縁を長く紡ぐ社殿ということで、歴史を感じます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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