月に一回のペースで江の島の近くの腰越の勉強会に通っている。昨日も、快晴で片瀬江ノ島から腰越まで散歩しながら向かった。
普段は、トンビが眼につくが、昨日は鳩が何故か多いようだった。勿論トンビも眼を光らせていたが。
さて、最近、南海トラフなどの関心が高まったこともあり、地震の際の脱失のための情報が目に付くようになった。時折みかける海抜表示。緊急時のための看板など。とはいえ、そういうときは逃げればイイネ!と昨日などは気楽に考えたものだが、かつて、20歳台のときに海岸の異常に高い防波堤などを見ると、恐怖感に苛まれた時期があった。
これは、将来の不安が異常に膨らんだ経験だと思うが、それゆえに平和に昼食をとっている今がどこかに消えてしまう。昨日だと、鳩とにらめっこをする余裕もなく、鳩も何か邪眼?を感じて逃げ出してしまうようなものだ。
これは、将来の不安だが、過去の不安に生きる人もいる。私も一時そういう経験をしたが、ある事件を過剰にとらわれてしまい、罪悪感、劣等感、疑惑感などが噴き出すようだ。
そして、将来の不安や過去の不安に生きているときは、どちらも共通点があるように思っている。心理療法の世界ではアイデンティティの問題を学びなるほどと思ったりする。私の場合だと、①自分は何に為に生きているか?など考えていない状態だ。目先の問題に追われたりするなか、自分のアイデンティティを見失い、過去や将来の不安の中に逃げ込んでしまう。
ある意味心地よいのかもしれないが、変なのだ。
自分が何のために生きているか?生き甲斐は何かがはっきりすると、例えば過去のことで無益な劣等感や罪悪感はどこかに吹き飛ぶ。そんなバカバカしい将来や過去のことより、自己実現の現場、今が大事だと思うようになるからかもしれない。
写真の鳩は、シャッターを押した次の瞬間飛び立って海の方向に去ってしまった。ノアの方舟で陸地を目指した鳩が希望を象徴するようであった。
時間と空間の旅 ④ 6/10