
世の中が好きな人ばかりでだったらなぁ・・・と、昔は思っていたが、最近はちょっと変わってきた。嫌いという感情の不思議な意味である。そして、嫌いな人を理解していくと、ちょっと自分が変わっていくように感じる。
さて、1368年前に生まれ1311年前に亡くなった女帝、持統天皇はおそらく、嫌いな人との共生が実に爽やかだったんだろうな・・・と思う。ひょっとしたら、嫌いな人を好きになるようなノウハウまで持ってたんでは・・・とさえ思う。極端な言い方かもしれないが、敵をも愛せた人のように感じている。
持統天皇の幼い頃は母系社会であったので、母と祖父との関係も大きかっただろう。その中で、父(天智天皇)と藤原鎌足による祖父の謀殺(非常に悲惨)の影響は計り知れない。現に、その影響で母は狂ってしまう。そんな厳しい幼年期を送るが、当時の謀略蔓延の政界の中での立派に生き抜く。
壬申の乱の時は、天武天皇10人の奥さんの中でただ一人、天武天皇と共に吉野に逃げる。そんな決断力を持つ方だった。さらに、壬申の乱以降は天武天皇だけでなく、祖父や母を抹殺した張本人、藤原鎌足の長男である不比等と手を組む。そして、壬申の乱の時の敵までも、律令制政治の建設のため味方と同様に登用していく。実に和をもって尊しとした方である。
なぜ、そのようなことができたかのだろうか。これは、人間観そのものの問題でもあり、宗教、哲学の領域である。私はカトリック信徒なので、敵を愛する理性的な愛は知っているが、持統天皇はどうだったのだろうか?
当時は、今以上に国際的だったようだ。日本古来の思想の他、中国から、仏教、道教、儒教、その後の政策で抑えられたかもしれない思想も入っていたかもしれない。その中には拝火教とかキリスト教も中国にあったかもしれない。
ただ、差し当たり日本書紀などの記述から見ると、持統天皇は仏教の影響が大きいように思う。
日本で初めて火葬されたのは道照である。彼は遣唐使として中国に渡り、三蔵法師で有名な玄奘三蔵から直接、当時の最先端の法相教学を学ぶ。法相教学は、仏教の深層心理学と言われる唯識論を展開していて、私も個人的に興味がある。なお、玄奘三蔵が長安にお経を持ち帰るのが645年で大化の改新の年、そして持統天皇が生まれた年なのは不思議である。
そして、道照は日本では飛鳥法興寺で広めるが、持統天皇との関わりも深かったのではないだろうか。その影響か持統天皇も日本の天皇として初めて火葬となる。火葬は持統天皇以降も文武天皇、元明天皇等と採用されていく。
嫌いな感情は湧き起るのは自然であり、別に悪いことでもなんでもない。そして、それに引きずられるのではなく、相手の立場を賛同しないまでも深く理解し、生き甲斐の心理学でいう受容をしていくことは大切だと思う。そして、受容力は努力で身につけることもできると思う。自分も努力しなければ。
歴史から自分を知る 7/10