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何百種類の動植物と日常的に接していた縄文時代。彼らの五感・体感はどうだったのだろうか。素晴らしい蒸し器に使ったと思われる深鉢や、素晴らしいご馳走が並んだと思われる大振りの浅鉢を見ると、どうしても空想の世界に誘われる。
特に私は20年以上U先生の比較宗教学や比較文化論の影響をうけた生き甲斐の心理学を学んでいて、五感に関わる世界にとても興味がある。そんなことで自分の生育史上の五感、喜怒哀楽、真善美についてはいろいろ研究し楽しんでいる。こうした自分自身の研究が縄文時代の解釈と繋がって、例えば縄文人の味覚について何か分かればとも思うが、それはまだまだ未知の世界である。
私だけでないかもしれないが、五感に対する感受性は低くなり、例えば食べられるか食べられないかを判断するときに、賞味期限表示で見て決めたりする。昭和30年台などの古き良き?時代などでは、そんな表示もなければプラスチック包装など無いにひとしかった。眼で見て、臭いを嗅いで、味を確かめて判断した。
さて、巻頭の写真だが伊豆半島の奥石廊に行ったときのもの。伊豆半島は幼いころからよく行ったが、高校生の時、西伊豆を友達と春に旅行したことが思い出深い。旅程は地図を見てえいやと決めたいい加減さもあり、ある日は昼から歩き始め、夕方には着くはずが日がくれてもつかず、とぼとぼと途方に暮れながら歩いた。運よく軽トラと出会い、暖かい好意で目的地まで運んでくれて、本当に助かった。民宿で腹をすかせた友人たちと夕食にありついたときの嬉しさは何とも言えなかったが、味覚の記憶という意味では、翌朝民宿を発つときに頂いた、酸っぱい夏みかんの味が今でも忘れられない。民宿を出た時の夏みかんと青空とのコントラストも素敵だった。
柑橘類といえば、高村幸太郎の「レモン哀歌」を思い出す。この詩は千恵子の最後を看取る時の詩であるが、題名が哀歌とあり表面的には哀しい感情かと思わせるが、決してそういうではなく、むしろ深いところの喜び(慈愛)を歌ったものだと思う。感情は喜怒哀楽と言葉で表されるが、湧きおこる感情をうまくとらえてそれを喜怒哀楽に当てはめることは、結構難しい作業だ。
さて、縄文時代に柑橘類はどうだったのだろうか。橘を思いつくが、南の方の木で伊豆半島にはありそうだが、関東はどうだろうか。もう一つユズがある。縄文時代に自生していたかは定かでないが、耐寒性が橘よりあり関東でも自生し、縄文人も楽しんだかもしれない。そして、ユズを噛んで一句のような愛の詩もあったかもしれない・・・
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1/10 今ここと縄文時代 ((五感と縄文時代 1/10)
この記事は「生き甲斐の心理学」ーCULLカリタスカウンセリングの理論 ユースフルライフ研究所主宰 植村高雄著 監修2008年第3版 を参考にしています。
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森裕行