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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

縄文人は邪悪とどう向き合ったか?(五感・体感と縄文 2/10)

2015-07-09 | 第二章「五感と体感」

 この紫陽花の写真、望遠で撮ったのだが後で観てみると、小さな昆虫まで写っていた。また、気にしてみると、紫陽花に細かい虫食いの跡もあったりし、自然の様相の一端が現れているのに驚いた。

 さて、今日は、縄文小説を書いていて、山繭の蛾のことを考えていた。小学生のころ、多分今頃だったか、窓をあけていたこともあり、大きな蛾が部屋の中に入っていて机の上に羽を広げていた。夜、部屋に入って電気をつけて気が付き、驚いて退治した思い出がある。私にとっては邪悪な蛾をやつけたわけであるが、蛾にとっては邪悪な人間にやられたということになるだろうか。

 縄文時代は、食べ物などは恐らく決して貧しくはなかったと思うが(遺跡から、大きな海の幸、山の幸の骨が出土されたり)、やはり、厳しく危険な環境の中で生き抜いたので、恐ろしい獣など恐怖の感情が湧き起こるケースが日常的だったと思う。そんな時、縄文人はどのように湧き起こる感情をコントロールしたのだろうか。これは現在でも通じる問題であるが、科学文明(決して全てが良いわけでない)が発達していなかったことは確実で、どのような宗教・アイデンティティを持っていたかが鍵だと思う(現代も一見安全な世界に見えるが、私はどうかなと思う。科学文明は先の3.11もあり頼りない)。

 そして、私がとても気になるのは、邪悪なもののとらえ方、解釈の仕方である。現代でもそうだが、邪悪なものを排除し対決していこうというスタンスは世の名では一般的。一方、邪悪なものをいったんは受容し(賛同するのと違う)、その中から心を通わせ邪悪なものの変容させる。そんな神秘的なスタンスもあると思う。

 縄文時代にもっとも恐れられていた狼や熊。動物園で観れば楽しいが、近くに出てきて犠牲者を出したりすれば、狼や熊は邪悪そのものに観えるだろう。

 

 そんな時、邪悪とむじゃきに戦うか、自己の内面に向き合い理解につとめるか。縄文人はどのようなスタンスを基本的にとったのだろうか。わたしは後者をとったのではと推察している。

五感・体感と縄文 2/10

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