昨日は日曜日で多摩動物公園の近くのカトリック高幡教会に行った。高幡教会はカトリックの教会ではあるが、自然を大事にしていてステンドグラスは実に少ない。しかし、窓から見える木々の緑(秋は紅葉する)は、至福の時間を与えてくれる。
さて、私はこの3年くらいだろうか縄文病に取りつかれているようだ。美術家が縄文土器の美しさに惹かれたり、数千年前の縄文の天文学に惹かれたり、様々なきっかけで縄文病にとりつかれるようだが、私の場合は、生き甲斐の心理学から自分の生育史(アラスカ体験やカトリックの幼児洗礼をうけた)ということから繋がっている。
キリスト教徒は日本人の1%程度であり、実に少ない。しかし、今の私には何故かしっくりしている。そして、日本文化を知れば知るほどしっくりするようでもある。それは何故か。どうも、1%もいるキリスト教徒は、それなりに歴史的にも霊性でも大きな理由があるのではないかと思い至ったのだ。
一つは遺伝子研究の成果で、現世人類(ホモサピエンスで北京原人などとは違う)は20万年くらいの歴史があり、5-6万年前にアフリカから世界に散らばり現在に至ったという説が殆ど定説になったこと。さらに、最近の考古学の研究が深まり、例えば5000年前のアイスマンが殆ど当時の姿でアルプスで発見されたり、日本でも中里貝塚や三内丸山遺跡などの新発見が相次いだこともある。
縄文時代は、旧約聖書の時代(3000年まえごろから)、荘子・老子の中国文明の時代より遡る西アジアのメソポタミア文明(9000年くらい前から、文字を持つ文化としては今のところ最古)よりはるか前の15000年くらい前からの文化だ。当時としては定住への画期的発明、縄文土器が見つかっているので証明されるのだ。そして、縄文文化は4大文明とは違って、農耕で発展した文化(植物を選択的に栽培することで、富の蓄積を計ったりする)ではないことも特徴的である。なお、狩猟・漁撈・採取文化はアラスカなど北米でも最近まで存続している。それは豊かな自然ゆえに可能な文化でもある。
縄文文化は狩猟・漁撈・採取文化で定住生活を営み、深い精神性を持った文化なのだ。そして、文字が残されてはいないが、現生人類、同根説から考えると、メソポタミア文明(キリスト教にも大きな影響を与えた)の最古の文字遺産や日本の考古学、言語学、比較宗教学等をつなげることで、日本人の基層文化が随分判ってくるのではないか、そんな夢(妄想)なのだ。
仏教と日本の縄文文化との関係も当然あるだろうが、西アジアで発展してきたキリスト教と縄文文化も深いところで繋がっているのではないか。一人ひとりを大切にし、80:20の法則(なんとなく農耕的)で切り捨てたりしないキリスト教。それは、何百種もの植物、動物、魚などを季節に合わせて食し自然と共存共栄関係にあった縄文時代の思想と通じているのではないか。