新年には、先日ブログで書かせていただいた映画、「ステキな金縛り」も楽しんだが、もうひとつ借りたDVDで「ドレスデン」も観て感動した。私は、典型的な戦後育ちで「戦争を知らない子供たち」である。父母や祖父母、親戚縁者も厳しい戦争を体験したが、その大変さは何かピンとこなかった。
しかし、ドレスデンの空襲の映像を観て、父母や祖父母もこうした危機を乗り越え、さらに食糧難などを乗り越えたのだと今更ながら感じ入った。自分が生まれたのも、良く考えてみれば父母や祖父母が生きていたからだし、2代、3代と遡れば、さらに自分の生命が貴重な(極めて低い確率で生じる)存在であることが推察できる。
これは、ルーツだけでなく、一日の生活を振り返っても、様々な商品やサービスの恩恵が多くの見知らぬ人のお陰であることに気付く。それを提供している人は、時には、見知らぬ習慣や宗教を信じている人だったり、場合によれば、想像できない環境の中で提供してくれたものかもしれない。
話は変わるが、生き甲斐の心理学では、愛の原型という概念が大切にされている。人それぞれの成育史の中で、その人独自の、≪これが私のベストと感じる愛の経験≫ができ、それが人生を意識的にも無意識的にも大きく左右するというものだ。Aさんは、4歳のときに絵を描いて母からほめられたことが原型に。Bさんは、6歳の時に大失敗をしたが、何も言わず温かい夕食を用意してくれた祖母が愛の原型に・・・・
どれが良いか悪いか・・・それは簡単には言えない。それぞれの微妙な事情があるからだ。
さて、昨日の続きの話をしたい。心の健康度を測る世界で愛用されている、プロセススケールの話だ。昨日の≪感情と個人的意味づけ≫は横綱級の尺度であるが、もうひとつ、今日は≪体験の解釈≫(7つの尺度のうちの5番目)の話をしたい。
人は、非常に多様な人たちに囲まれて生きている。その中で思い込みが強く、自分の狭い愛の原型に固執(無意識の場合もある)、一面的な愛しか視野に入らない場合がある。本来は他人は他人、自分は自分なのであるが、人により、一面的に頑なに自分の愛に固着する場合もあるが、他人の微妙に違う愛も多面的に理解できる人もいる。
一般に、思い込みが強く、構成概念(思い込み)があたかも事実として見られるような時は≪体験の解釈≫は低である。その反対に、柔軟で現実の様々な現象には深い意味があり、体験を柔軟に検討することができるのが高。愛の場合であれば、多面的な愛が理解できるのが高だともいえよう。
昨日の鸕野(うの)皇女も、女帝になり権力を握る中で、わが子、草壁皇子いとしさで、大津皇子をはじめ、競争相手をどんどん謀略で追い詰めるが、厳しい政治の世界ではやむを得ないという見方もできるが、一面的な愛しか見えなかった悲劇(プロセススケールが低)の可能性もある。
こうした≪体験の解釈≫の尺度も、過去の自分の成育史の中で、高だった時期、低だった時期を考え整理していくと、いろいろ身の助けになると思う。
信じる 8/10