今朝は、難解な縄文のビーナス(国宝、写真は国立歴史民族博物館のレプリカ)の図像の解釈についての記事をずっと読んでいた。記紀との関係も書かれた興味ある記事であった。しかし、最近読みながら、やたらと自分のこころの傾向が気になる。縄文の図像に関しては、諏訪地方の土器の図像など先進的な研究もあり、また学際的な研究に自分が何となく惹かれることもあり興味深々なのであるが、一方自分の中の理科系?が発動し、真善美の真の探究に夢中になりすぎ、美がおろそかになっていくのが気になるのだ。
縄文のビーナスではないが、仮面のビーナスの場合など、足の裏に製作時に着いたと思われる布の後がついている。数千年前の縄文人の宗教や思想は充分判りえないいのだが、制作者の息遣いや五感・体感は、モノを通して意外にストレートに感じられるようにも思う。
縄文時代も、中国の陰陽思想の原型のような思想が確実にあるようで、縄文のビーナス(縄文中期 4500年前前後)の頭のヘルメット状の図像を読み解くのも面白いのだが、ふっくらとしたお腹をはじめとする美は、おそらくそれ以上に何かがあるように思えるのだ。理詰めだと見落としてしまう大切なことが。
かつて、私は縄文時代というとアニミズムを思い出したり、ピテカントロプスではないが直接の祖先でない人類(日本にも多分存在しただろう)からの継続的な日本歴史観、あるいは雑多な土器片(衣服等は残念ながらなかなか見つからない)を想いだし、それ故に不自由に思考してきたように思う。しかし、それはカウンセリングや傾聴と同じで、本当の理解を妨げ、根のない解釈になりがちだ。やはり、五感と体感で縄文時代の限られた糸口に接しなければならないのだろう。
そんなことで、今日は久しぶりに縄文時代を体感すべく、動物園に行こうかと思う。
古代人は美を大切にした 9/10