イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

解読することと、感じること・・・(古代人は美を大切にした 9/10)

2015-06-25 | 第二章「五感と体感」

 今朝は、難解な縄文のビーナス(国宝、写真は国立歴史民族博物館のレプリカ)の図像の解釈についての記事をずっと読んでいた。記紀との関係も書かれた興味ある記事であった。しかし、最近読みながら、やたらと自分のこころの傾向が気になる。縄文の図像に関しては、諏訪地方の土器の図像など先進的な研究もあり、また学際的な研究に自分が何となく惹かれることもあり興味深々なのであるが、一方自分の中の理科系?が発動し、真善美の真の探究に夢中になりすぎ、美がおろそかになっていくのが気になるのだ。

 縄文のビーナスではないが、仮面のビーナスの場合など、足の裏に製作時に着いたと思われる布の後がついている。数千年前の縄文人の宗教や思想は充分判りえないいのだが、制作者の息遣いや五感・体感は、モノを通して意外にストレートに感じられるようにも思う。

 縄文時代も、中国の陰陽思想の原型のような思想が確実にあるようで、縄文のビーナス(縄文中期 4500年前前後)の頭のヘルメット状の図像を読み解くのも面白いのだが、ふっくらとしたお腹をはじめとする美は、おそらくそれ以上に何かがあるように思えるのだ。理詰めだと見落としてしまう大切なことが。

 かつて、私は縄文時代というとアニミズムを思い出したり、ピテカントロプスではないが直接の祖先でない人類(日本にも多分存在しただろう)からの継続的な日本歴史観、あるいは雑多な土器片(衣服等は残念ながらなかなか見つからない)を想いだし、それ故に不自由に思考してきたように思う。しかし、それはカウンセリングや傾聴と同じで、本当の理解を妨げ、根のない解釈になりがちだ。やはり、五感と体感で縄文時代の限られた糸口に接しなければならないのだろう。

 そんなことで、今日は久しぶりに縄文時代を体感すべく、動物園に行こうかと思う。

古代人は美を大切にした 9/10

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50年以上の間をとる!(古代人は美を大切にした 8/10 )

2015-06-24 | 第二章「五感と体感」

 今年になって、生き甲斐の心理学の論文を書いたり、縄文小説?を書いたり、・・・その外、今までの経験したことのないこともいくつか経験している。もちろん、その反対に15年つづいている生き甲斐の心理学関係もあり、仕事も8年続けているし、かみさんともXX年家庭生活を続けている。

 誰かが言っていたが、良いジャズは予想されることと、予想されないことがほどよく混ざって心地よいと。わたしはジャズはそれほど好きではないが、何となく言わんとしていることは判る。言語化は難しいのだが、物事がうまく美しく展開する時は神秘的なのだが、それは多くの場合、間(ま)とかタイミングが関係している。過去からの流れもあるが、それだけでなく不思議なプレゼントというようなものもある。

 ところで、間は傾聴でも大事なので個人的に意識しているほうだと思うが、それだけでないように思う。無意識の世界というか神秘的な世界とも繋がっているような気もする。

 人生にはいろいろな出来事が発生する。まったく意味が分からないようなことが起きたりする。しかし、後で考えると何かとつながるような感じのことが多い。錯覚かもしれないが、神秘かもしれない。

 例えば、8歳くらいの時、夜部屋で窓際を見たら大きな蛾が止まっていた。調べると、オオミズアオという種類の蛾であった。その時はそれで終わるのだが、50年以上たって、最近テグスに興味をもっていろいろ調べてみると、天然テグスの山繭蛾の一種にオオミズアオがあった。そして、50年以上前の驚きがよみがえってくる。当時は縄文とかテグスなど言葉すら知らなかった時代だ。しかし、五感をとおし、その異様さというか存在感は今でも生きていた。

 50年の間をおいて、ひょっこり現れたオオミズアオ。何かよく判らないが、感動的だった。

古代人は美を大切にした 8/10

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好奇心もいいけど、やり過ぎはね!(古代人は美を大切にした 7/10)

2015-06-23 | 第一章「意識と知覚」

 最近は、写真の可愛いヒメジョオンを見ても、大湯遺跡の日時計を想ってしまう。大湯遺跡の石棒と円管は男女合体をイメージし、神秘や再生をイメージさせる。どなたかがパソコンをはじめ家電製品についている起動スイッチのマークもそうだと言われていたが、納得してしまう。

 次の写真は昨日とったもので、久しぶりに家の近くを散策した。夏至なので本当は早朝と夕方の日の出と日の入が見たかったのであるが、寝坊し起きたときには驚くほと日は高く上がっていたし、日の入は仕事でそれどころでなかった・・・残念。

 しかし、梅雨の合間のまあまあ晴れている夏至の散策は、色とりどりの季節を感じる花で満ちていた。

     

 梅雨は、じめじめして嫌だと言う人も多いが、慰めもある季節だ。

 さて、今日は、縄文のビーナスについて写真を観たりして、縄文の国宝級の美について妄想していた。縄文のビーナスは2-3年前に初めてみてから2-3度は見ているが本当にうっとりするようだ。豊かな女性の美に溢れ、平安感がおとずれる。

 しかし、これを眺めているといろいろ疑問も湧いてくる。着物を着ていたのではないか?それはどんなものか?頭のヘルメット状の部分の意味するものは何か?無文字文化だったかもしれないが図で何かを伝えようとしているのでは?意味するものは何か?

 頭頂部の大きな渦巻は北極星を中心にした北の星ぼしの軌跡か?あるいは水流のようなものか?あるいは月の出かたを意味しているのか?世界的に図像の解釈をされている学者・研究者もいてうきうきする説に感激もするが、自分は基本的な理解ができていないようで、何かむなしさを感じてしまう。

 疑惑感は好奇心や心の遊びにつながる大切な感情だと思うが、ネガティブに流れると無力感に繋がってくるようだ。バランスも必要なのだろう。時には、縄文以外のことにも関心を持つことも大事だ。ヒメジョオンの花が大湯遺跡の日時計に見えたら、ちょっとお休みがいいかもしれない。

古代人は美を大切にした 7/10

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好奇心もいいけど、やり過ぎはね!(古代人は美を大切にした 7/10)

2015-06-23 | 第一章「意識と知覚」

 最近は、写真の可愛いヒメジョオンを見ても、大湯遺跡の日時計を想ってしまう。大湯遺跡の石棒と円管は男女合体をイメージし、神秘や再生をイメージさせる。どなたかがパソコンをはじめ家電製品についている起動スイッチのマークもそうだと言われていたが、納得してしまう。

 次の写真は昨日とったもので、久しぶりに家の近くを散策した。夏至なので本当は早朝と夕方の日の出と日の入が見たかったのであるが、寝坊し起きたときには驚くほと日は高く上がっていたし、日の入は仕事でそれどころでなかった・・・残念。

 しかし、梅雨の合間のまあまあ晴れている夏至の散策は、色とりどりの季節を感じる花で満ちていた。

     

 梅雨は、じめじめして嫌だと言う人も多いが、慰めもある季節だ。

 さて、今日は、縄文のビーナスについて写真を観たりして、縄文の国宝級の美について妄想していた。縄文のビーナスは2-3年前に初めてみてから2-3度は見ているが本当にうっとりするようだ。豊かな女性の美に溢れ、平安感がおとずれる。

 しかし、これを眺めているといろいろ疑問も湧いてくる。着物を着ていたのではないか?それはどんなものか?頭のヘルメット状の部分の意味するものは何か?無文字文化だったかもしれないが図で何かを伝えようとしているのでは?意味するものは何か?

 頭頂部の大きな渦巻は北極星を中心にした北の星ぼしの軌跡か?あるいは水流のようなものか?あるいは月の出かたを意味しているのか?世界的に図像の解釈をされている学者・研究者もいてうきうきする説に感激もするが、自分は基本的な理解ができていないようで、何かむなしさを感じてしまう。

 疑惑感は好奇心や心の遊びにつながる大切な感情だと思うが、ネガティブに流れると無力感に繋がってくるようだ。バランスも必要なのだろう。時には、縄文以外のことにも関心を持つことも大事だ。ヒメジョオンの花が大湯遺跡の日時計に見えたら、ちょっとお休みがいいかもしれない。

古代人は美を大切にした 7/10

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ふたつの風の又三郎・・・(古代人は美を大切にした 6/10)

2015-06-22 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 縄文時代と一見関係なさそうな、宮沢賢治の童話であるが、どういうわけか縄文時代に首ったけの私にとって、賢治は宝の山のように見える。縄文時代の人はどんな服をきているか?例えばそんな疑問に、博物館や考古学者はアンギン等しかあげない(手堅い)。縄文土器や土製品の装飾品から、もう少しデザイン性の衣服も想像されたりする方もいらっしゃるが。しかし、私は、世界の民族衣装を考えたうえで、また人間のもつ本能にからめて、あり得ないと思っていた。

 賢治の童話にグスコーブドリの伝記があるが、その中でてぐす工場の話があり、絹糸以外にも蛾から糸を採取できることを知った。ネットでいろいろ調べると、縄文時代の釣り糸は未発見だが、テグスではないかと推定している方もいらっしゃる。漁撈(縄文時代の大きな柱の一つ)の中心の針と糸、針は見つかっているが糸は不明のようだ。こんな基本的なことも発見されていないのだ。しかし、植物から作る糸は多分使い物にならないのではと思う。次の写真は蜘蛛の糸に雨水がついて糸がよく判る写真であるが、不思議なことに雨水は意識できるが糸は見えにくい。縄文時代の釣りの糸はどうだったか、興味のあるテーマである。

そして、テグスが一番近いかもしれないと推察する。そして、テグスが釣り糸等で普及していれば、織物技術はあるのでテグスの着物もあったかもしれない。そんな風にいろいろ妄想してしまう。

 さて、昨日は読書会に参加させていただいたが、宮沢賢治の「風野又三郎」であった。その前は「風の又三郎」この二つの作品は、各々27歳ごろ、そして35際ごろの作品で、一見似ているが内容はかなり違う作品である。何故、このように二つ書いたのかはとても気になるところであった。

 つまらない比較で恐縮だが、二つの小説の出だしだけはかなり似ている。

 

 どっどどどどうど どどうど どどう、

 ああまいざくろも吹きとばせ

 すっぱいざくろもふきとばせ

 どっどどどどうど どどうど どどう     「以上 風野又三郎」

 

 どっどど どどうど どどうど どどう、

 青いくるみも吹きとばせ

 すっぱいかりんもふきとばせ

 どっどど どどうど どどうど どどう    「以上 風の又三郎」

 

 因みに、ざくろはせいぜい弥生時代に輸入された植物。一方、くるみもかりんも多分縄文時代以前のようだ(かりんはWikipediaでは不明となっている)。
 また、おなじどっどどでも、7年の歳月のためか風の又三郎はリズミカルで、一度聴くと覚えてしまえる。やはり、ずっと味がある。
 
 私は、個人的には理科の先生の説明を聴いているような風野又三郎が好きなのであるが、文学的には、五感や体感的な奥行を考えると圧倒的に風の又三郎が優れている。これは、おそらく新進気鋭の農学者でもあった賢治が、知的興味に溢れる気象の話にのめり込み、防衛機制の知性化により感情が荒くなり、文学的には面白くなくなってしまったのかもしれない。しかし、賢治にとって、文学的に劣ると感じた風野又三郎も残したのは何だろうかとも考えてしまう。もちろん、単純に残っていただけかもしれないが、知的な風の大循環の話などは真善美の真をくすぐるところがあったかもしれない。まあ、よく判らないが。
 
 賢治の視点は非常に柔軟だと思う。普通だと例えば自分の長所やお得意のところに対して拘ってしまうことが多いが、意外に拘らず、ぱっと視点を変えられる力があるようだ。そこが賢治の賢治らしいところかもしれない。二つの作品を読み比べることで、何か人の防衛機制とか、いろいろ心理学の勉強もできる気がする。

古代人は美を大切にした 6/10

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