-宝飯郡と設楽郡の境に選ばれた川-
飛鳥時代まで、愛知県東三河地方は穂國と呼ばれていた。
白鳳時代に入って、国郡里設置により三河國穂評となり、大宝律令施行後の和銅六年(715)五月、国郡に二字の好字を用いるという詔(みことのり)によって寶飫(ホオ)郡と改められた。
その後、飫の字を飯と誤り、寶飯郡と書き読まれる様になったといわれている。
この地方が穂國という一地方の中心地域であったため、郡域が大変広大であった。
そのため、周辺の郡の規模に近づけることとなり、平安時代の記録「民部省 延喜式 頭注」によると、延喜三年(903)八月十三日、「割寶飯郡、置設楽郡」という記述が見える。
そのとき、雀部(ささべ)郷(宝飯郡一宮町)と賀茂郷稲置(いなぎ)里(新城市稲木・川田)の間に流れている川を郡境と定め、境川と呼ぶ様になったのである。
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※境川データ…(1)二次河川
(2)合流先…豊川
(3)河川種別…砂防・普通河川(上流3,500m)一級河川(下流450m)
(4)水源所在地…新城市川田字本宮道
(5)河口所在地…左岸:新城市川田字八幡前/右岸:一宮町東上字上河原
(6)流路延長…3,950m
(関連記事:垢離取 さるおと)
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/libberfile/sakaigawa.htm )
飛鳥時代まで、愛知県東三河地方は穂國と呼ばれていた。
白鳳時代に入って、国郡里設置により三河國穂評となり、大宝律令施行後の和銅六年(715)五月、国郡に二字の好字を用いるという詔(みことのり)によって寶飫(ホオ)郡と改められた。
その後、飫の字を飯と誤り、寶飯郡と書き読まれる様になったといわれている。
この地方が穂國という一地方の中心地域であったため、郡域が大変広大であった。
そのため、周辺の郡の規模に近づけることとなり、平安時代の記録「民部省 延喜式 頭注」によると、延喜三年(903)八月十三日、「割寶飯郡、置設楽郡」という記述が見える。
そのとき、雀部(ささべ)郷(宝飯郡一宮町)と賀茂郷稲置(いなぎ)里(新城市稲木・川田)の間に流れている川を郡境と定め、境川と呼ぶ様になったのである。
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※境川データ…(1)二次河川
(2)合流先…豊川
(3)河川種別…砂防・普通河川(上流3,500m)一級河川(下流450m)
(4)水源所在地…新城市川田字本宮道
(5)河口所在地…左岸:新城市川田字八幡前/右岸:一宮町東上字上河原
(6)流路延長…3,950m
(関連記事:垢離取 さるおと)
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/libberfile/sakaigawa.htm )