(中山道五十番 岐阜県瑞穂市美江寺)
寛永十四年(1637)に開設された宿場であるが、それ以前は天正十七年(1589)豊臣秀吉の命により問屋場が設けられたところから始まる。
美江寺の語源は、養老元年(717)当地に建立された美江寺による。伊賀国から十一面観音を移したところ、氾濫していた付近の水が治まり、美しい江となったところから名付けられたともいう。永正三年(1503)応仁の乱で荒廃していた美江寺を再興した美濃守護土岐氏臣、当地城主和田氏が斎藤道三に攻められ、美江寺本尊は天文十八年(1546)に稲葉山城下に移された。その後、永禄十年(1567)に織田信長が美江寺に観音堂を改めて建立し、現在に至っているという。宿の南西、犀川のほとりにある十一面観音堂が美江寺の跡という説と、美江神社境内にある美江寺観音が美江寺跡である説の二説がある。
美江神社の前にある庄屋和田家や、造酒屋布屋など往時の建物が随所にみられる。また、旧巣南町の特産であるバラ、富有柿の畑が美江寺宿を囲むように広がっている。
(関連記事:河渡宿 美濃 赤坂宿)
寛永十四年(1637)に開設された宿場であるが、それ以前は天正十七年(1589)豊臣秀吉の命により問屋場が設けられたところから始まる。
美江寺の語源は、養老元年(717)当地に建立された美江寺による。伊賀国から十一面観音を移したところ、氾濫していた付近の水が治まり、美しい江となったところから名付けられたともいう。永正三年(1503)応仁の乱で荒廃していた美江寺を再興した美濃守護土岐氏臣、当地城主和田氏が斎藤道三に攻められ、美江寺本尊は天文十八年(1546)に稲葉山城下に移された。その後、永禄十年(1567)に織田信長が美江寺に観音堂を改めて建立し、現在に至っているという。宿の南西、犀川のほとりにある十一面観音堂が美江寺の跡という説と、美江神社境内にある美江寺観音が美江寺跡である説の二説がある。
美江神社の前にある庄屋和田家や、造酒屋布屋など往時の建物が随所にみられる。また、旧巣南町の特産であるバラ、富有柿の畑が美江寺宿を囲むように広がっている。
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