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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

旧一宮町域における詳細不明城跡について

2006-10-27 00:00:49 | 城郭・城下町

(旧一宮町現豊川市)
西原地区城館跡 (トップ写真遠景)
 西原字松葉には、「堀の内」という通称地名と共に、堀が残されている。
この堀は次第に埋められ、成徳寺境内の一部を残すのみとなっているが、西原東側の旧外(よそ)川(現灌漑排水路)までと、後述する南側金剛寺方面に延びている痕跡がみられる。
 平安後期、三河守護大江定基がこの地に居住したと伝えられ、西原館と称されているが、鎌倉時代以降もこの地に豪族が存在したことも考えられ、南の金剛寺境内からはその時代の陶器及び山茶碗、土鍋等も出土している。
 金剛寺境内にも、堀、土塁遺構の一部が残されており、一般に金剛谷城と称されているが、最初の西原館を含んだ一つの城であったとも推測できる。
 また、古老の伝承には、西原西側の進雄神社にも城があり、その城主が西原南側の木戸の城(篠田屋敷か)へ戦いを仕掛けた。というものがある。
(進雄神社境内には宝篋印塔の一部が残されている)
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鎗殿城跡 
 東上字白楽、本宮山から舌状に伸びる台地端部に位置する。
1975年若返大学発行「一宮町のむか志ばなし」には槍出城とし、大隅鞍武居城としている。
戦後開墾が行われ、明確な遺構は残存していないが、溝状の堀、低い土塁と北側に堀切の役目を成す地形が見受けられる。
近い将来、城跡内を国道151号線バイパス建設が予定されており、その際には学術的検証が行われることであろう。

勝川城跡  
 東上字勝川の城山に勝川城跡が存在したと言われている。
現在は本宮パークゴルフ場となっており、城山も一部を除き削平されてしまったが、城に関連すると思われる宝篋印塔が残っている。
城が築かれる以前からこの地には勝川寺という寺院が存在した。
南北朝の頃、この寺院境内を利用した、同じ台地上にある鎗殿城の砦の役割をした城が築かれたのではないかと想定している。

松原城跡 
 近隣段丘端、上長山字東水神平に位置する本宮長山城と同一説もあるが、その館城であったであろうと考えられる。
場所は松原地内字嶋川原の素盞鳴神社付近。
この辺りは文安四年(1447)七月の洪水によって豊川の流路が大きく変わり、旧宝飯・八名郡境であった松原、豊津(日下部)の境を流れていた豊川が、現在の流路に変わった頃までははっきりと存在したであろうと思われる。
城主不明というところは、本宮長山城の関連であるために現在まで伝わらなかったのであろうと考えられる。
因みに城主は熱田大宮司系長山氏、この地に移り住んでから苗字を長山に改めたといわれている。 (また一説には室町幕府管領細川高国の子細川高頼が当地に来て長山氏と姓を改めたともいう。そして高頼の子高元が今川氏に属し、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで戦死、廃城になったともいう)

日下部城跡 
 
豊津字釜ノ口、豊津神社付近と推定する。
1976年小学館発行「探訪日本の城3東海道」には、この地が松原城跡かとしているが、旧日下部村地内であるこの地を日下部城跡とみることが妥当であろう。
文安四年(1447)七月の洪水による豊川流路変遷までは、旧豊川左岸に位置し、八名・宝飯郡境の要害の地に城を構えたと思われる。
城主は後の砥鹿神社神職草鹿砥氏である日下部氏であろうといわれ、また付近の通称字に「堀口」という地名も残されている。

コメント (2)
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