(愛知県岡崎市下佐々木町 1983年2月訪)
「手永」とは、藩が領内に行政区画を設けたことの名称であり、その管理者として「大庄屋」を任命し、地域を支配させていた。
岡崎藩では、正保四年(1647)藩主水野忠善のとき、この手永制及び大庄屋制を採用し、明和六年(1769)藩主が本多忠粛に変わったときには、六つの手永が設けられた。その内の一つが、この「川西手永一万石大庄屋」太田家である。
他に、上野手永(中園村)岩槻家、堤道手永(中ノ郷村)長嶋家、額田手永(薮田村)神尾家、東山中手永(洞村)永井家、山方手永(六名村)斎藤家が存在した。
「手永」とは、藩が領内に行政区画を設けたことの名称であり、その管理者として「大庄屋」を任命し、地域を支配させていた。
岡崎藩では、正保四年(1647)藩主水野忠善のとき、この手永制及び大庄屋制を採用し、明和六年(1769)藩主が本多忠粛に変わったときには、六つの手永が設けられた。その内の一つが、この「川西手永一万石大庄屋」太田家である。
他に、上野手永(中園村)岩槻家、堤道手永(中ノ郷村)長嶋家、額田手永(薮田村)神尾家、東山中手永(洞村)永井家、山方手永(六名村)斎藤家が存在した。