(和田城 上和田古屋敷 愛知県岡崎市上和田町南屋敷 1982年訪)
南北朝時代、下野国の新田義貞臣宇都宮泰藤が、この和田郷に移り住んだのが始まりという。
泰藤の孫、泰道のとき、姓を宇津と改めている。そして泰道の子泰昌のとき、加茂郡松平に移って松平氏臣となっている。泰昌から五代を経た永禄六年(1563)忠俊のとき、三河一向一揆が起き、所縁の地であるこの和田に、改めて砦を築き奮戦している。(織田方の上和田砦は、北西側の字城前に位置する)
その後、越前国大窪藤五郎某が当地に来て、大窪の姓を忠俊に託し、忠俊からは姓を大窪を名乗り、後にに大久保と改めたという。現在城跡付近には「大久保氏一族發跡地」の碑と、「和田城用心壕跡」の碑が建てられている。
上和田村には、鎮守として「糟目犬頭神社」があったが、矢作川の洪水により、和田十二郷の一つである南隣りの宮地村に移された。その地は、松平氏に仕え、三河三奉行となった、本多作左衛門重次が享禄三年(1530)に出生した地でもあり、碑が建てられている。
また、犬頭神社の社伝には、「上和田城主宇都宮泰藤は貞和二年壬辰五月当社に於いて鷹狩す、時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す、樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす、率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す、泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず、亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す、泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として糟目神社に合祀す」というものがあり、更には、宇都宮泰藤が新田義貞の首を京都より取り返し、首塚として祀ったと伝える祠がある。
(由緒の刻まれた、越前国産の石材を用いた鳥居)
南北朝時代、下野国の新田義貞臣宇都宮泰藤が、この和田郷に移り住んだのが始まりという。
泰藤の孫、泰道のとき、姓を宇津と改めている。そして泰道の子泰昌のとき、加茂郡松平に移って松平氏臣となっている。泰昌から五代を経た永禄六年(1563)忠俊のとき、三河一向一揆が起き、所縁の地であるこの和田に、改めて砦を築き奮戦している。(織田方の上和田砦は、北西側の字城前に位置する)
その後、越前国大窪藤五郎某が当地に来て、大窪の姓を忠俊に託し、忠俊からは姓を大窪を名乗り、後にに大久保と改めたという。現在城跡付近には「大久保氏一族發跡地」の碑と、「和田城用心壕跡」の碑が建てられている。
上和田村には、鎮守として「糟目犬頭神社」があったが、矢作川の洪水により、和田十二郷の一つである南隣りの宮地村に移された。その地は、松平氏に仕え、三河三奉行となった、本多作左衛門重次が享禄三年(1530)に出生した地でもあり、碑が建てられている。
また、犬頭神社の社伝には、「上和田城主宇都宮泰藤は貞和二年壬辰五月当社に於いて鷹狩す、時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す、樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす、率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す、泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず、亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す、泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として糟目神社に合祀す」というものがあり、更には、宇都宮泰藤が新田義貞の首を京都より取り返し、首塚として祀ったと伝える祠がある。
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