(愛知県豊橋市御園町)
東田神明社の西に存在する独立墳であり、全長約40m、墳高4mの前方後円墳である。外部施設として5世紀前半の土師質埴輪を有している。私自身も、平成3年に踏査した際に埴輪の散見を確認している。
明治時代は、辺りは田畑であり、稲を干す場所として使われていたという。墳丘上には、「御嶽社」が建つが、規模の小さな無格社も掲載されている、明治10年の『渥美郡第二部内神社誌』に社名がないことから、その後に創建されたと思われる。その御嶽社を建てる際、後円部の頂きを削平したところ、鳥文鏡と直刀が出土し、初めて古墳と分かったという。そして昭和49年に至り、周辺の区画整理が始まって古墳を取り崩して神社も移転する計画が持ち上がったが、その後保存が決まり、その際の記念碑が傍らに建てられている。
東田神明社の西に存在する独立墳であり、全長約40m、墳高4mの前方後円墳である。外部施設として5世紀前半の土師質埴輪を有している。私自身も、平成3年に踏査した際に埴輪の散見を確認している。
明治時代は、辺りは田畑であり、稲を干す場所として使われていたという。墳丘上には、「御嶽社」が建つが、規模の小さな無格社も掲載されている、明治10年の『渥美郡第二部内神社誌』に社名がないことから、その後に創建されたと思われる。その御嶽社を建てる際、後円部の頂きを削平したところ、鳥文鏡と直刀が出土し、初めて古墳と分かったという。そして昭和49年に至り、周辺の区画整理が始まって古墳を取り崩して神社も移転する計画が持ち上がったが、その後保存が決まり、その際の記念碑が傍らに建てられている。