宗教の目的=(頂上)はひとつとすると、
登山口から頂上に辿り着く迄の道中の環境や、地形の違いがその宗教の通り方の違いである。
登り方、登る方向が違うということは、立っている位置、そこから見える面が違うということであり、周囲から、いろいろな角度・位置から見つめることによって、客観視することができる。
一箇所に留まっていては、宗教を解く上での説得力に乏しい。
目標に向かっている感触が感じられないということは、霧の中の尾根上にいるということ。
その霧は頂上を見つめることを遮る気体、つまり、その団体の倫理観である。
ということは、頂に達するための道も無ければ、案内も矢印もないのである。
(あっても朽ちている)
道は示す方向、案内や矢印は其の方へ導き教える人ということ。
明るく楽しい幸せな方向を求めるのは当然であり、道をつくる人、矢印をたてる人、案内をする人…といっぺんにというわけではないが
築かれていくものなのである。
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登山口から頂上に辿り着く迄の道中の環境や、地形の違いがその宗教の通り方の違いである。
登り方、登る方向が違うということは、立っている位置、そこから見える面が違うということであり、周囲から、いろいろな角度・位置から見つめることによって、客観視することができる。
一箇所に留まっていては、宗教を解く上での説得力に乏しい。
目標に向かっている感触が感じられないということは、霧の中の尾根上にいるということ。
その霧は頂上を見つめることを遮る気体、つまり、その団体の倫理観である。
ということは、頂に達するための道も無ければ、案内も矢印もないのである。
(あっても朽ちている)
道は示す方向、案内や矢印は其の方へ導き教える人ということ。
明るく楽しい幸せな方向を求めるのは当然であり、道をつくる人、矢印をたてる人、案内をする人…といっぺんにというわけではないが
築かれていくものなのである。
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