(東京都台東区 2004年8月18日)
数日前に尾瀬へ向かうため東国入りしたばかりだが、再び訪れた。
神田で降り、銀座線に乗り、浅草に向かう。同じ台東区の上野に訪れたことはあったが、浅草へは初めてである。同じ下町イメージでも少々違う。隅田川越しに「金の雲」を横目に見ながら雷門へ。平日ながら、やはり訪れる者は多い。仲見世を歩き、小腹を満たす。そして浅草寺境内へ入り参拝。
その後、浅草花やしき界隈の街並みを歩き、路地裏へと入る。
初老のカメラマンから声を掛けられた。何やら気に入ったアングルがあるらしい。ファインダー越しの光景を見せられる。斜陽イメージの裏通り光景。私達はいつの間にかモデルとなっていた。
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その家は、家の外に洗濯機を置いている。
そしてその横にある風呂場の窓から、残り湯を洗濯機の口に向けて浴びせかける。
ザーッ!
人々が皆起きている時間ならまだしも、季節の日の出に合わせ、その洗濯は始まる。
よって夏は四時台からである。
そして乾かされた洗濯物は、昼までに取り込まれる。
この家の事情?
お婆さんと、息子夫婦、そして子供たち。
家には一日を通して必ず誰かがいる。
何故、そんなに干し急ぐのか…。
これは私がここに住む前から続けられている習慣のようである。
そのお婆さんが最近、朝もしくは夜、その洗濯場で「死にたい…」と一人で泣きささやいていることがある。
そうすると間もなく家人が出てくる。
そうすると尚一層、その発する声が大きくなる。
私は当初、認知症?と思った。
が然し、会話するとそうでもないようである。
数年前に夫であるお爺さんが亡くなった。
それからのことである。
そのお婆さんの気持ちを、子供たちは受け止め、癒すことはできないのだろうか…。
最近そう思うようになった。
(2002年8月15日)
ビーナスラインの途中、和田峠を訪れた。
標高1600m弱。付近は曇りのせいもあってか20℃少々と歩くには快適である。
今回は車山、八島方面は次回へと持ち越しとし、峠から中山道に沿って下諏訪の街へ降りてみることとした。
日本有数の黒曜石産地の和田峠。
割ると鋭利な欠け方となるため、縄文時代には石器の材料として重宝された。付近に流れる沢を覗くと、水に洗われた石が時折姿を見せることがある。峠の茶店では、大量の黒曜石と柘榴石(ガーネット)を販売していたが、何かしら魅力が半減してしまう感じがした。
峠の茶店の人が、「麓の樋橋集落まで健脚な人でも3時間はかかるよ」と言っていた。信号交互通行の和田峠トンネルをくぐり、ジグザグな国道となるが、私はあえて急な直線山道や旧道を通ることとした。
付近の地名は「西餅屋」 中山道は和田宿から下諏訪宿の間が通常の二倍強の五里半の距離があった。そこで途中に幾つかの茶屋を設け、簡易宿(避難所)の役割を持たせたのである。西餅屋もその一つ。峠から和田宿側にも「東餅屋」があった。
(関連記事:諏訪大社秋宮 春宮 みたらいの石仏 下諏訪繭倉庫)
奈良県内は約七年振りであるが、県都へは十八年振りである。日にちにもよろうが、観光客量も隆盛で、廃れた部分は見受けられなかった。
奈良駅周辺は立体交差化工事による再開発が進んでおり、何れ由緒ある駅舎も引退するときが来るのであろう。そして、今まで訪れたことの無い、世界文化遺産の元興寺に立ち寄り、古の名残に我が波を合わせた。
元興寺は蘇我馬子が飛鳥京に建立した法興寺が前身で、和銅三年(710)平城京に遷都するのに伴って、現在地に移転し元興寺となった。平安時代になると衰退し、二つの元興寺に分離、別宗派となった。
境内には元興寺文化財研究所があり、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料を研究することを目的として設立されたものである。
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(関連記事:東大寺大仏殿 薬師寺 法隆寺 春日大社)
それは今から8年前のお盆のことである。
私はその頃まで、近隣の寺院の宅施食(お施餓鬼)の手伝いをしていた。
毎年大体回るところは決まっており、三日間寺でのお勤めと、地区の檀家数十軒を回っていた。
そしてまたお盆の季節となった。
いつものように準備をしていると、突然キャンセルが入った。
私が以前所属していた寺院組織から、どうやらその寺院に横槍を入れたようだった。
そこから手伝いは派遣されたようではあるが…。
その時間私が回る筈であったあるお宅で火災が発生。
お爺さんが亡くなられた。
火元はお施食の蝋燭の灯りであった。
配員が変わったため回る時間がずれ込み、発見が遅れたのである。
もしかしたら遅れた施食が原因かもしれない。
そして、私と縁を切ったところは全て下降の道を辿っている。
(京都府相楽郡笠置町有市字附竹 2003年8月13日)
昭和37年(1962)に開業した、RC造5階地下1階、延床面積2,640m2,京都府・奈良県境の木津川のほとりに建つ観光ホテルである。風光明媚な立地だが、昭和55年(1980)国道163号線笠置トンネル開通に伴い、それまでホテル前を通っていた国道が移転し、通行量が激減、客足も遠ざかった。その対策として、昭和58年(1983)地下1,200mから34.3度の温泉を掘削し、大光天温泉として日帰り客を狙ったが、昭和63年(1988)改装途中で資金繰りが悪化し、放置されることとなった。その後周囲の鬱蒼とした環境と人里から離れることも相俟って、心霊スポットとして扱われ、破壊が加速度的に進んだ。
然しながら、未だ休館扱いの状態で年月を経過している。
(愛知県新城市)
私が小学校の遠足で来て以来、何度か訪れている場所。
元々は地殻変動や豊川の浸食作用によってできた峡谷、景勝地笠岩と呼ばれていたものを、寛文二年(1662)桜淵から程近い、新城城主菅沼定実が桜を植えさせ、景勝地桜渕へと変わっていった。
年々上流から土砂が流れ込み、浅くなっているといわれる桜渕。
その昔、この淵の底には豊川の魚を取り仕切る竜宮があると伝えられてきた。
親孝行な少年が、病気になった母親に効くものが鯉の生き血と聞き、この桜渕の鯉をもりで刺したところ、少年もろとも引き込まれてしまった。
渕の底に着くと神様が居り、少年が理由を話すと、神様はそれは可哀想だと魚籠をくれた。その魚籠は、水の中で蓋を開けると、欲しい魚が出てくるというものだった。
少年は、この籠によって母親の病気を治すことができたという。
桜渕にはこのような伝説が伝えられている。
千ヶ滝から、高いところへと向かう。
清里の森・キープファーム(高冷地実験農場)・清泉寮・長野県立八ヶ岳自然ふれあいセンター・ポール ラッシュ記念センターの順に歩いた。
更なる広大な大地を彷彿とさせる牧場。
八ヶ岳に広がる野原で、この土地の食物を味わい、動物にも触れた避暑の一日であった。
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日本で最も高所を走る鉄道線、小海線は、最も観光客の割合が多いローカル線でもある。
付近の温度はこの時期で22℃ 雨と晴れ間の境目にかかっている様で、微妙に体感温度が違う。
避暑を求めて、東西各地からの人の波が漂う。
私もその一人である。 標高1250mの清里駅を降り、水の流れの如く低い方向へと向かった。
谷底へ下りて行くと、大門川という川が見え始める。
川を境に対岸は長野県南牧村である。
下りていくほど足場が悪くなり、滝の近くまで来ると水飛沫でドロドロにぬかるんでいた。この時期特に豊富な水量の千ヶ滝。
大門川三滝の中で、最も豪快な滝だという。落差は20mである。
水辺を後にし、次は高い方向へと向かう。
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(岐阜県不破郡関ヶ原町 2003年8月3日)
(散策順序:松平忠吉井伊直政陣跡・東首塚・田中吉政陣跡・徳川家康最後陣跡・関ヶ原町歴史民俗資料館・決戦地・関ヶ原ウォーランド・小西行長陣跡・西首塚・関ヶ原宿)
慶長五年(1600)に行われた、戦国史上最も有名で後に多大な影響を及ぼした戦の地といっても過言ではないだろう。
今は、余す所無く史跡標示が立っていて、歴史的内容に反比例して観光一色となっている。
長浜に至る北国脇往還沿いの笹尾山山麓は決戦地で、標柱が立っている。
戦死者の首塚は西と東があり、西は胴塚とも呼ばれる。旧中山道と、東海道線の間に位置する西首塚は東海道線敷設の際、人骨が出土したという。
地形的な雰囲気は、我が家近隣の“山の湊新城”に似ており錯覚さえ覚えるが、気象的には厳しく、四季をしっかり味わえる地域である。
(関連記事:丸山烽火場 不破関 中山道山中 東海自然歩道 玉 今須宿)