flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

好古園

2006-12-19 00:00:56 | 城郭・城下町
 姫路城西側、西御屋敷、武家屋敷が存在した場所に当時の地割を再現し、旧御屋敷の庭を基に造営された池泉回遊式庭園。平成四年に姫路市制百周年を記念し開園したものである。
園内は御屋敷の庭のほか、茶の庭、流れの平庭、夏木の庭、築山池泉の庭など姫路城を借景にした庭園が広がっている。
 庭園名の「好古園」は、当時からの園名ではなく、姫路藩校「好古堂」から名付けられたものである。
    
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姫路城

2006-12-18 00:00:35 | 城郭・城下町

 その規模と多数の城郭建造物を残すことから世界文化遺産に登録され、国宝・重要文化財に指定されている姫路城。
南北朝時代に赤松貞範が築いたのが始まりとされる。
その後山名氏、再び赤松氏その臣黒田氏と続き、黒田氏は秀吉の家臣となった。
慶長五年(1601)関ケ原の功により池田輝政が入城。
各家入城の都度、城郭は拡大していった。
元和三年(1617)伊勢桑名から本多氏、寛永十六(1639)年大和郡山から松平忠明、榊原氏等が入城し、寛延二年(1749)からは上野前橋より酒井氏が入り幕末まで続いた。
 当時からの建造物は、昭和9年から39年にかけて解体修理が行われた。それにより、時代劇のロケとして使用されることが多く、訪れたことのない者にとっても見慣れた光景が目に入る。
        
(関連記事:姫路 好古園

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姫路

2006-12-17 00:00:25 | 街道・宿場町

 城下町であり、宿場町でもある姫路へはいつも窓越しから見るだけで、通り過ごしていた。
父が姫路は…とよく言っていたのを思い出す。
 最盛期の石高は五十二万石、現在の人口は約54万人。播磨西部の中心地である。高架工事中の駅を降りると、姫路城までの縦方向のアーケード街。幾つかのアーケードは交差するが、この縦の商店街をメインに、人が多く歩いていた。やはり場所から場所を結ぶ道筋がポイントのようである。そして古来山陽道といわれた後の西国街道も、城の前を横切っている。城下町形成の際、移設整備されたという。また、松江に至る出雲街道の起点の地でもあり、街道の近くには藩主下屋敷庭園を再現した好古園がある。
 古代播磨国府は、アーケードのある本町に存在したといわれている。そして播磨総社であった射楯兵主(いたてひょうず)神社が隣接して鎮座する。
 姫路の歴史が駅から城までの間に凝縮されているといってもいいだろう。
    

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三河荻原駅

2006-12-16 00:00:07 | RODEN-哀愁のRailway-
(名古屋鉄道西尾線 愛知県幡豆郡吉良町)
 大正4年(1915)西尾鉄道(当時)「荻原駅」として開設された駅である。
吉良町のほぼ中央に位置する駅で、町の主要施設に近い駅でもあった。然しながら、今後の設備投資による合理化のため、平成18年12月15日の終電をもって廃止、二つ隣りの西尾市「鎌谷駅」も同日廃止となった。
 先年廃止された三河線の幡豆地域区間、沿線人口に対するバス路線数、本数の少なさ、この地域の自家用車依存度と公共交通の考え方が如実に表れた結果である。
 
(関連記事:岐阜南東
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今治城 鉄御門

2006-12-15 00:30:31 | 城郭・城下町
(美須賀城 愛媛県今治市通町)
 訪れる度に変化のある吹揚城こと今治城。このときは“くろがねごもん”が築造されていた。私が初めて訪れたときには、城内には城に関する建物は一切なかったが、天守、多聞櫓、御金櫓、山里櫓、武具櫓と順に寄進により再現されていった。
 この地方の神社仏閣を見ると、人々の寄進の名が他方以上に見られる。
それは陰徳を積むためであるともいう。決して裕福な地域ではないが、収入ではなく、みんなのものと地元が栄えていくのが楽しみなのだという。
 私が今、住んでいる地域では忘れてしまった習慣が今も生き継がれている。
    
(過去記事:今治平成三年 今治城平成十七年 今治城鉄御門完成 )
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川添道 乗本

2006-12-14 18:00:32 | 街道・宿場町
(別所街道 旧南設楽郡鳳来町)
 古来は川添道と呼ばれ、豊川、宇連川沿いを通り、北設別所村方面へ向かう道の一つである。これに対し、更に内陸部を通る道を山手道といった。
住みやすく食料も豊富だったのであろう、川に面した斜面には、縄文時代の遺跡も点在している。
戦国時代には長篠の戦いにより五つの砦が築かれ、要害の地となった。
「乗本」は、近隣の地名「大海」「舟着山」に関連し、海上の船着場という意味合いの伝説を残している。然し一般的には、寒狭川と宇連川の合流点のこの地から下流は、岩場が減り水量も増えることから水運を始められる場所、“のりもと”の意味からきているようである。
近世以降、街道と川湊で栄えたといわれている。
       
(関連記事:鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 舟津 乗本万灯
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天龍村

2006-12-13 00:00:49 | 街道・宿場町
(1997年12月13日の日記から)
 長野県は隣接しているところでありながら、訪れたことがなかった。そこで飯田線全通60周年ということもあり、下伊那郡天龍村を訪れることにした。
天龍村は“塩の道”でもあった秋葉街道筋の長野、静岡、愛知県境にある人口二千人弱のいわゆる“国境いの村”である。昭和31年までは、平岡村、神原村であった。
この付近としては商店も多く比較的拓けていると思われたが、土地の人は「昔はもっと栄えていた」と言っていた。昭和14年に着工された平岡ダムにより過疎化が始まったが、近年は温泉掘削によって観光の村となった。
玄関口平岡駅を降りたところにあるトラス橋と水量の少ない天竜川、そして発電所が見える風景は「中部天竜」によく似ている。
 天竜川に沿ってダムへ。昭和27年に完成した中電平岡発電所は電源開発佐久間ダムとは違い、あまり観光向きではない。それでも佐久間ダム完成までの4年間は東洋一であったという。
またダム完成によってできた平岡湖は、元々「十方峡」と呼ばれた渓谷であった。
 川を離れ高所にある満島神社へ。この神社は観光地図に掲載されているわりには小ぢんまりしたお宮である。秋祭りのお練りが有名だそうだ。
お宮からは「平岡」のまちが望める。南西面は民家が建ち並んでいるが北東面は大自然である。
満島神社付近は公園となっていて、遥か彼方には遠山郷、南アルプスが望められる。
この高所では水の響きが聴こえる。それは眼下の遠山川から水を引き揚げ、斜面に建つ家に供給しているからである。そのため至るところ水音が絶えない。
 この平岡、地名の文字と反し、平らなところが殆どなく、足腰が鍛えられた。
    
(関連記事:水窪 富山村
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松阪城

2006-12-12 00:00:50 | 城郭・城下町
(2005年12月10日訪)
 天正十二年(1584)近江日野城主であった蒲生氏郷が築城を開始し、四年の歳月をかけて参宮街道の移設、城郭並びに城下町を完成させた。
天正十八年(1590)氏郷が小田原北条氏との戦いの功により会津に転封し、代わって服部一忠が入城。
文禄四年(1595)一忠は豊臣秀次事件の連座により自害している。
続いて古田重勝が入城、元和五年(1619)からは紀州藩領地となった。
天守は正保元年(1644)大風により倒壊し、それ以来天守は無い。
また、三重県伊勢地域において、天守が残存、復興したところも無い。
  
(関連記事:松阪
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長篠城 野牛郭

2006-12-11 00:00:17 | 城郭・城下町
(愛知県新城市長篠)
 昨年ののぼりまつり以来の長篠。辺りは季節の移り変わりが遅かった今年の表情を現し、何度か訪れている城跡も、また違った光景を見せていた。
  
 史跡保存館では「文人医師長篠阿部家と中津」が催されていた。
城跡南端、野牛曲輪跡で行われた試掘調査地にも向かった。
先週、現地説明会が行われたが、その説明会資料を求めようと保存館の方に聞いたところ、近くに学芸員の方がいるということで、携帯電話で呼んで下さり、ご説明いただいた。
 現在展示が催されている阿部氏が江戸時代に描き残したとされる長篠城図の遺構配置を参考に今回3地点の試掘調査が行われた。
説明会の後の浸透水や土砂流入によって、トレンチ内全てを目にすることはできなくなっていたが、A地点トレンチでは凹状遺構と柵列の杭跡が検出されたということである。
 B地点は野牛門の有無確認をし、焼け土遺構が検出、C地点ではA・B地点同様、川側の土塁有無確認を行ったが、検出できなかったようである。
川に最も近いB・C地点では野牛門等の明確な在城時期の遺構は検出されず、天正四年(1576)廃城以降の遺構、遺物が殆どで、豊川舟運が盛んであった近世、近代のものが検出された。
    

(関連記事:長篠城跡試掘調査 鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 久間山 舟津 大通寺 医王寺山 天神山 設楽原竹広
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尾張 黒田城

2006-12-10 00:00:50 | 城郭・城下町

(愛知県一宮市木曽川町黒田)
 明応年間(1492~1500)相模国の五藤光正が、野府川のほとりに館を構えたのが始まりといわれている。天文初年頃には織田家家老であった山内盛豊が城代として入城する。
天文十四年(1545)には盛豊の子、一豊が城内で誕生したとされる。(岩倉城誕生説もある)
弘治三年(1557)信長勢からとされる襲撃を受け、山内氏は本城岩倉城へ引き上げる。その後は織田広良が入るが、永禄五年(1562)美濃軽海の戦いで戦死し、広良兄織田信清臣和田新助が入城する。天正十年(1582)からは織田信雄臣沢井雄重が入城。その後信雄の失脚により、一柳直盛が入り城郭が改修されたが、慶長五年(1600)直盛は伊勢神戸に転封された。

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別名 -べつみょう-

2006-12-09 01:30:34 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県今治市別名)
 小泉から別名へと差し掛かる。この地は昭和57年に訪れて以来久し振りの訪問となった。
別名は、大宝の頃(701~704)大三島大山祇神社の大祝(おおほうり)職であった越智安元が屋敷を構えたところである。
その後代々三島大祝を世襲し、天正五年(1577)までこの地に住していたが、世継ぎが無かったために分家鳥生大祝家に家督を譲った。
背後の山腹には、大祝家の五輪塔が並んでいる。
大祝屋敷から程近いところには、越智安元の父越智玉澄の廟とされるところに大楠が立っている。
 玉澄は越智郡大領(郡司長)で、後の大祝屋敷に近いところに居を構えていた。
玉澄は大山祇神社社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社を勧請、養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)天平元年(729)には温泉郡(松山)石手寺を再建している。
天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。
    

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袖切橋

2006-12-08 01:00:47 | 街道・宿場町
(1991年12月23日の日記から)(旧宝飯郡一宮町上長山)
 「城山くずれ」の遺跡、袖切橋を調べていたところ、ある古老に会った。
お耳が遠いようなので、紙に書いてお聞きした。そうすると「うちの裏だ」ということで付いていくことになった。
そしてこの古老は、上長山の最長老93歳の白井音平さんということがわかった。
袖切橋の道は昔、足山田城まで道(馬道)が続いていたそうだが、現在は白井家二軒に行くだけの私道となっている。
石橋の袖切橋、現在は幅1.5m、簡易舗装され数個の石材が水路下手の道路脇に残されている。水路は以前、武将が橋下に潜んでいたということで、ある程度深かったと思われるが、現在は浅くなり、道路下には暗渠管が通してある。
白井さんからは次のように語って頂いた。「江戸末、明治初頃までこの橋で転んだとき、自分の着物の袖を切って橋に置いていった。また宝川合戦の折、秋山新九郎が橋の下で身を隠しているとき、鎧の袖が敵方に見つかりその場で首を斬られ、斬った首が白井さんの先祖が居た家(橋上手の竹薮辺り)の縁の下に飛び込んできた」ということである。
その後白井家が新九郎を地の神として祀ったが、粗末にすると障りがあるということで、元禄二年に石垣を組み、その上にキチンと祀り直したそうである。
 通説に次の説がある。武田方の武将が重傷で橋下に潜んでいたところ、鎧の袖が見つかり、付近の住民「道善」の看護を受け、温かい心遣いに感激し、白井家の守護を誓い絶命したといわれる。「道善」は寛永二年に亡くなり、末裔が現在でも毎年盆火を灯して供養している。
と二説が若干異なっている。
敵方にすぐ殺されるか、村人に救われてから他界するかの違いだが、どちらも異説とは言い切れない。このように偶然説話が伝わってきたのは、前者の説が実際に存在して、目に見えない力が働いて私たちを通じて世に知らせようとしたのではないか?と非科学的ではあるが、そのような感覚が生じ、そのように理解した。
 ここで仮にではあるが、現在のところとして結論を出しておくことにする。
二説あるということは、いつまで費やしても形になりそうもなく、些か強引だが次のようにすると辻褄が合う。
 通常、戦の中弱っている武士を村人が見かけたとすると、驚いてその場から離れてしまうものだが、それをその場で看護したという勇気ある良心で武将は感激し、その家の守護を誓ったが、その後「道善」がその場から離れている間に敵方の武士が来て鎧の袖を見つけ首を斬られてしまった。その場面をある村人が陰から見ていたのではないだろうか、それ以来供養のためその場所で転んだとき、着物の袖を置くようになり、道善の家で武将の御霊を丁重に祀ったのではないだろうか。

 ちなみにこの橋下の水路は、宝川の上流から引いた水を村の田畑を潤すために掘られた水路であったということである。今は使われなくなってしまったが、この場所に伝わる歴史と共に残されている。
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クルマ社会の結末

2006-12-07 18:00:17 | 天祐語録
 自動車が引き起こす様々な悲劇。
もはや戦争による被害規模を超えている。
人はその凶器にもなりうる自動車の運転に慣れた途端、鎧を着たかのように気持ちが大きくなることがある。
そして自動車工業界が牽引する極限のコスト削減意識と労働条件。
よって労働者の意識レベル低下、モラル低下、地域民意の低下、治安悪化を招く。
それらは周辺工業都市を見れば明らかである。
 私は自動車を運転しないと決めた日から、徒歩あるいは公共交通機関を使っている。
車が無いと生活できない、無いことは考えられないと人は言う。
事業者や過疎地、高齢者、障碍者の自動車利用は必要としても、それ以外で自動車が本当に必需であろうか。
学生時代、誰もが自転車や鉄道バスを駆使して通っていた筈であるのに。
家族みんなで…というならばまだしも、一人ずつしか乗車していないのに起こる渋滞。
人間の10倍以上もの占有面積の自動車。
私はそれら運転手から、歩行者は邪魔だ、車が優先だと言われたことがある。
駅から徒歩数分でありながら、何年も電車に乗ったことがないであるとか、そこまでのゴミ出しだけに車、角の自販機まで車、信じられないが現実である。
 環境を第一に考える時代だとすれば、私は自動車利用が最も矛盾した行動だと考える。
自動車が普及するようになってから、山、里、街の境界線が曖昧となった。
自然が開発され、生態系が乱れ、エネルギー消費、二酸化炭素排出が始まった。
 各々が好きなときに自由に行動するようになってから、地球と人類終焉の秒読みは始まっている。
(写真は国道151号バイパス竹広開削地)
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へんろ道 日高

2006-12-07 00:00:19 | 街道・宿場町
(愛媛県今治市)
 日高地区小泉に建つ、四国八十八ヵ所巡礼五十六番札所である真言宗金輪山泰山寺。弘仁六年(815)暴れ川であった当時の蒼社川を鎮めるため、弘法大師が人を集め堤防を築かせ、「土砂加持」法要を行って寺を建立したのが始まりという。
 絶え間なく“お遍路さん”が姿を見せ、東の方へ流れ歩いていく。
泰山寺の裏手には、鏝絵(こてえ)と呼ばれる漆喰(しっくい)の彫り絵がある奥の院の龍泉寺がある。鏝絵は、左官職人が色漆喰を使い表現した芸術の一つであり、龍泉寺堂宇には壁鏝絵と十一面観音の赤く丸い鏝絵が掲げられている。
       

(関連記事:へんろ道別宮(南光坊) へんろ橋(蒼社川))
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今治 二日目

2006-12-06 00:00:43 | 漂い紀行
 糸山の朝を迎えた。外はまだ白々としているが、次第に青色を呈し始めてきた。
しまなみ方面へとも考えたが、旧市内を巡ることにした。
宿泊先から送って頂き、一先ず駅へと向かう。
私がまだじっくりと訪れたことのない、日高地区「小泉」へ向かってみることにした。
隣りの片山、別名へは訪れたことがあったが、この地はまだなかった。然し、以前通りかかったときに見た田畑は減り、住宅が建ち混んでいた。
そして四国八十八ヵ所第五十六番札所泰山寺へ。
写真で見た光景とはどこか違う。境内を拡大し伽藍を新しくしたためのようである。
奥の院の龍泉寺、藤棚の大熊寺、三嶋氏の居住した大祝屋敷、そして五輪塔群へと足を運んだ。
南に下って、以前も訪れた越智玉澄廟に立つ大楠を巡り、また市街地へと戻った。
 桟橋でバスを降り、港で一休み。鉄御門再建中の吹揚城を通り、御厩通、城東方面へ。
そして蒼社川河口天保山から東門橋へと溯る。コンクリートで歩道専用の東門橋は、元は へんろ橋という木造沈下橋で、その横には鳥生川(御物川)の合流点と、松並木がある。
父が生前、子どもの頃の風景を思い出して描いたクレヨン画。それと脳裏の中で見比べてみる。
橋は変わり、建物が建ち、緑が少なくなっている。
ここから少し溯った「祇園さん」と親しまれるお宮、そして蒼社橋を渡ると「かんべさん」と呼ばれる鴨部神社と東禅寺の薬師さん。父が生前語っていたところばかりである。
私にも父とこの場所を歩いた思い出はあるが、何故だろう、私の目頭が熱くなった。
きっと父が私の体を通して、感動しているのだろう。
 そして最後に、父の生家があったところを通り、瀬戸内の味、鯛めしを食した後、今年の今治の地を離れた。
      
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