園内は御屋敷の庭のほか、茶の庭、流れの平庭、夏木の庭、築山池泉の庭など姫路城を借景にした庭園が広がっている。
庭園名の「好古園」は、当時からの園名ではなく、姫路藩校「好古堂」から名付けられたものである。
その規模と多数の城郭建造物を残すことから世界文化遺産に登録され、国宝・重要文化財に指定されている姫路城。
南北朝時代に赤松貞範が築いたのが始まりとされる。
その後山名氏、再び赤松氏その臣黒田氏と続き、黒田氏は秀吉の家臣となった。
慶長五年(1601)関ケ原の功により池田輝政が入城。
各家入城の都度、城郭は拡大していった。
元和三年(1617)伊勢桑名から本多氏、寛永十六(1639)年大和郡山から松平忠明、榊原氏等が入城し、寛延二年(1749)からは上野前橋より酒井氏が入り幕末まで続いた。
当時からの建造物は、昭和9年から39年にかけて解体修理が行われた。それにより、時代劇のロケとして使用されることが多く、訪れたことのない者にとっても見慣れた光景が目に入る。
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城下町であり、宿場町でもある姫路へはいつも窓越しから見るだけで、通り過ごしていた。
父が姫路は…とよく言っていたのを思い出す。
最盛期の石高は五十二万石、現在の人口は約54万人。播磨西部の中心地である。高架工事中の駅を降りると、姫路城までの縦方向のアーケード街。幾つかのアーケードは交差するが、この縦の商店街をメインに、人が多く歩いていた。やはり場所から場所を結ぶ道筋がポイントのようである。そして古来山陽道といわれた後の西国街道も、城の前を横切っている。城下町形成の際、移設整備されたという。また、松江に至る出雲街道の起点の地でもあり、街道の近くには藩主下屋敷庭園を再現した好古園がある。
古代播磨国府は、アーケードのある本町に存在したといわれている。そして播磨総社であった射楯兵主(いたてひょうず)神社が隣接して鎮座する。
姫路の歴史が駅から城までの間に凝縮されているといってもいいだろう。
(愛知県一宮市木曽川町黒田)
明応年間(1492~1500)相模国の五藤光正が、野府川のほとりに館を構えたのが始まりといわれている。天文初年頃には織田家家老であった山内盛豊が城代として入城する。
天文十四年(1545)には盛豊の子、一豊が城内で誕生したとされる。(岩倉城誕生説もある)
弘治三年(1557)信長勢からとされる襲撃を受け、山内氏は本城岩倉城へ引き上げる。その後は織田広良が入るが、永禄五年(1562)美濃軽海の戦いで戦死し、広良兄織田信清臣和田新助が入城する。天正十年(1582)からは織田信雄臣沢井雄重が入城。その後信雄の失脚により、一柳直盛が入り城郭が改修されたが、慶長五年(1600)直盛は伊勢神戸に転封された。
(愛媛県今治市別名)
小泉から別名へと差し掛かる。この地は昭和57年に訪れて以来久し振りの訪問となった。
別名は、大宝の頃(701~704)大三島大山祇神社の大祝(おおほうり)職であった越智安元が屋敷を構えたところである。
その後代々三島大祝を世襲し、天正五年(1577)までこの地に住していたが、世継ぎが無かったために分家鳥生大祝家に家督を譲った。
背後の山腹には、大祝家の五輪塔が並んでいる。
大祝屋敷から程近いところには、越智安元の父越智玉澄の廟とされるところに大楠が立っている。
玉澄は越智郡大領(郡司長)で、後の大祝屋敷に近いところに居を構えていた。
玉澄は大山祇神社社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社を勧請、養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)天平元年(729)には温泉郡(松山)石手寺を再建している。
天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。