先日、長篠城野牛郭と鳶ヶ巣山、本久中貝津の集落を歩いた。そして久間山へ登りかけたが、夕刻で見えづらくなったため、断念して篠原へと向かい帰路についた。
次のこの日は、宇連川文化橋を渡り、姥ヶ懐及び三枝氏兄弟墓標へと向かい、谷下川沿いに道を遡ってみた。そして乗本を南下し、中貝津から舟津、中山へ向かおうとしたが、鳶ヶ巣山と中山の間の山が気になり登ってみた。
辺りは第二東名予定地となっているため、杭が打たれ、伐採予定の木々には印が施されている。急で滑り易い斜面を、木を伝いながら登る。途中、ロープや梯子が掛けられているところもあった。
頂上は台のようになっており、中山より長篠城が近くに見える。「五砦」以外にも簡易的な何かがあったかのかもしれない。もしくは中山陣砦の一部であったとも考えられる。
頂きから下方へ階段状を成しており、そこに植林がされている。尾根を更に登ってみると、どこまでも伐採マーキングが続いていた。
中山へ向かおうと引き返した途端、斜面を数mほど二回も滑落、更に顔を枝で突いてしまい、流血までしてしまった。幸い大したことはなかったが、このような散策、踏査中のハプニングは、遥か昔小学生のときに登った、五葉城跡でのケガ以来、稀なことであった。
緩やかな道を探し、麓へ降りると、そこに住むお婆さんに出会った。そこでこの辺りのことをお聞きしてみた。
私が先程登った山は、昔は全て田畑で、千枚田を成すようなものであったそうである。階段状の地形はその名残のようである。然し、農業に従事する者が減ったことと、近年猪や猿が頻繁に現れ作物を荒らすため、農作物をつくることを誰もしなくなったそうである。
中山にあった鎧掛けの松に白蛇が現れること、山を触ると障りがあるなどの言い伝えがあったことや、東名建設のこと、これからの乗本、今の乗本などお話しいただいた。このお婆さんは、伊藤さんとおっしゃる、90歳の方であることがわかった。
昔を知る方々に、今のうちに後世に伝えるべくお話しを聞いておかなくてはならない。
正面彼方に雁峯山、篠原野、眼下に豊川、左手には舟着山、風当たりは強い場所だが、眺めの良いこの地も道路高架により変わろうとしている。
ふと地面を見ると、板状石斧が目に入った。この地が縄文前期の遺跡である「舟津遺跡」の場所だからである。
また夕刻を迎えた。幼い頃に訪れた筈の五砦を、思い出しながら全て訪れられるのは、まだ先になりそうである。